クリスマスの本当の由来は?

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≪質問≫

いつも楽しく拝見させていただいています。 さて、今回クリスマスに向けて子供に今までは何の疑問も持たずにイエスキリストの生誕を祝う日と教えてきました。でも、果たして本当にそうなのだろうか?と調べているところです。今のところ分かったのはクリスマスは異教徒の冬の祭りでイエスの生誕とは関係なかった。そして、アメリカに持ち込んで今のようなクリスマスのお祝い事は19世紀半ばのオランダのプロテスタントの移民が持ち込んだそうです。 できればもっといろいろ知りたいのですがお勧めのサイトがありましたら教えてください。あと、他の国でのクリスマスについて実はこうなのよ。というのがあれば教えてください。

≪アドバイス≫

http://www.google.co.jp/search?q=cache:5POd1iQpFh4J:www.animal-sweet.com/xmas/xmas.html+%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5&hl=ja http://e87.bellne.com/flower/sp_xmas/colum_01.html

検索してみました。こちらのサイトはいかがでしょうか?イエス様と関係ないということはないですが、その日が生まれた日かどうかは定かではないというところみたいですね。

≪アドバイス≫

なんか納得です。↓

 http://gogen-allguide.com/ku/christmas.html http://www.human.tsukuba.ac.jp/~akirtaka/essey/chiristmas.html

≪アドバイス≫

トピ主さんの意図からは ずれてしまうのかもしれませんがイエス様のお生まれになった日のことを 少し書かせていただきたいと思います。その日が12月25日なのかどうかは別として・・・ およそ2000年前 ユダヤでのお話。当時その地を支配していたローマの総督が 人口調査を行うようにとの勅令を出します。人々はそれに従って それぞれ自分の先祖の故郷に帰りました。それはみな 先祖の故郷で登録することになっていたからです。 イエスの父ヨセフも 先祖(ダビデ王)の出身地であるベツレヘムに身重の妻マリアを伴って帰りました。しかしベツレヘムの町は旅人達でごったがえしていて 彼らが泊まれる場所がありませんでした。そこで彼らはしかたなく馬小屋に泊まりました。その晩マリアはイエスを産みました。二人はイエスを飼葉桶(馬のえさを入れる桶)に寝かせました。 その頃 野原で羊飼い達が野宿をしていました。そこに天使がたくさん現れて 救い主イエスがベツレヘムの馬小屋で生まれたことを告げました。羊飼い達はベツレヘムに行き イエスを見つけました。 また同じ頃 東の国の3人の博士達が 救い主が生まれることを告げる星を見つけその星を頼りに旅をしてユダヤに向かっていました。そしてユダヤの王ヘロデの所に行き 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか?」と聞きました。それを聞いたヘロデ王は 自分の王位がおびやかされると思い博士達に「その子が見つかったら教えてほしい」と言って送り出しました。それはイエスを見つけて殺すつもりだったからです。 博士達はその後 星に先導され イエスを見つけました。そして当時とても高価だとされた 黄金・乳香・もつ薬を捧げました。でも夢でヘロデのところには帰るなと知らされたので別の道を通って 自分達の国に帰りました。 ヘロデは博士達にだまされたと思い ベツレヘム一帯の二歳以下の男の子を 皆殺しにしました。ただイエスの父ヨセフは 夢で「エジプトに逃げなさい」 とお告げを受けたので 間一髪イエスとマリアを連れて逃げ延びました。 これが世界で最初のクリスマスのいきさつです。クリスマスは 恋人同士が高級ホテルに泊まる日でもサンタクロースが子供達にプレゼントを持ってきてくれるだけの日でもバカ騒ぎするイベントでもありません。「宗教を強制する」などという意図はありませんが一人でも多くの方に 本当のクリスマスを知っていただきたいと思います。

≪アドバイス≫

Date: 04/12/29 05:50 なぜローマ帝国に支配されているユダヤに 王(ヘロデ)がいるのか疑問に思われる方がおられるかもしれないので少し説明を・・・ 当時ユダヤはローマ帝国の植民地でした。ヘロデはいわばローマにゴマをすって 「ユダヤの王」にしてもらっている人でした。ですから猜疑心が強く いつも自分が王位から追放されるかも知れないと思って暮らしていました。 このお話は新約聖書に書かれています。興味のある方は 読んでみてください。 それから子供さんにクリスマスのお話をする時にブルーナの「クリスマスってなあに?」という本が私的にはオススメです。子供にわかりやすくイエス様の誕生のお話が書かれています。 ちなみにユダヤとは 今のイスラエル・パレスチナのあたりを指します。

≪アドバイス≫

ちょっと難かしい話になってしまいますが キリスト教信仰の基本的考え方を書いてみます。 人間は エデンの園で悪魔の誘惑に負けて罪を犯して以来 罪にしばられて生きています。罪とは法律に触れるかどうか というものではなく 心の中の問題です。だからどんなに 偉い人でも 人間である以上 罪を犯したことのない人はいません。 旧約聖書の時代では モーセが神から十戒というものを 与えられてから それをベースにした律法という法律が出来上がりました。 それによって何が罪なのかが明確化されましたが 時と共に  律法さえ守っていれば罪びとではないという 間違った考え方が 広がっていきました。 罪を犯した者の行き着くところは死です。これは肉体の死だけを 指すのではなく 魂が永遠になくなってしまうことを言います。 神様はこのような人間の状態を憐れみ 人間を救うことを 決めました。ただし神様は完全に清いお方です。 罪のある人間を 「まあいいじゃないか」で許してしまうことは できないのです。それでは正義がなくなってしまいます。 そこで神様は自分の息子(これは人間にわかりやすくするために 擬人化して表現した言葉です。神の分身・からだの一部と考えた ほうがわかりやすいかもしれません)を人間の形にしてこの世に 送られました。それがイエスです。 イエスは人間でありながら 完全に罪のない人でした。 そのイエスが 当時のもっとも残酷な刑罰である十字架刑に つけられ 殺されました。つまり文字通り「罪人」として 殺されたのです。これは当時の指導者たちがしたことではありますが 実はこれこそが神様のご計画だったのです。 つまり全く罪のない人が すべての人の罪を一身に背負って 身代わりとして 最も罪のある人間のように扱われて はりつけにされたのです。これによって イエスを神の子と信じる人は 神様からその罪を帳消しにされました。 そしてイエスは 「罪の報酬」である「死」を打ち破り 3日目に墓から甦りました。これを祝うのが復活祭(イースター)です。 長々書いてしまいましたが 新約聖書の4つの「福音書」と呼ばれるものの 中に イエスの生涯が書かれています。なかなか一部分だけを抜粋して お話するのは難かしいので 要約してご説明しました。 先に付けたレスの「クリスマスのいきさつ」も それぞれの福音書から 取りまとめて書きました。 旧約聖書の中には イエスの誕生を予言した言葉が あちこちに出てきます。救世主がダビデ王の子孫として ベツレヘムで生まれることも書いてあります。 (すみません。勉強不足で どこに書いてあるかはちょっと忘れました。) クリスマスはもちろん クリスチャンにとって祝うべき日です。 ただ私が言いたいのは クリスマスがイエス・キリストそっちのけで 楽しむだけの日になってしまっているのが残念だということです。

≪アドバイス≫

クリスマスの由来は・・・ 12月25日は”太陽神の誕生日”それを祝う日がほんとうです。 それに付け加えてイエスキリストがでてきたわけです。 ほんとうは生まれたのは冬ではなく夏という研究報告があります。 それにご生誕よりも大事なのは、十字架の死です。 クリスチャンにとって、最も大切にしなければいけないのは イエス様の十字架の死なのです。死によって救いがあるわけですから…。 聖書には生誕を祝えなんていうのは書いてないのですよね。ほんとうは 生誕のことについては書いてあるけれど…。 それと、ツリーは北欧のもみの木の精のお祭りから そして、サンタ伝説がいろいろ組み合わさって今のクリスマスになって いるわけです…。 なので、クリスチャンが太陽神の誕生日にもみの木の精をまつる ツリーを飾り、人間のつくったサンタのプレゼントを喜ぶというのは まるで日本人が年末は寺で除夜の鐘を聞き、年明けに神社へ行くというのと そんなに変わらない…私はそんな風に思います。

≪アドバイス≫

Date: 04/12/29 05:52 すみません。おせっかいさんの >聖書には生誕を祝えなんていうのは書いてないのですよね。ほんとうは >生誕のことについては書いてあるけれど…。 の部分について、補足みたいな感じなのですが・・・ 確かに生誕をお祝いしなさいとは書かれていませんが、もし自分なら、 家族なら誕生日をお祝いしますよね。だとしたらイエス様の誕生日を お祝いすることはごく自然なことだな・・と思いました。

≪アドバイス≫

すみません。ひとりのクリスチャンさんに質問です。「(キリストが十字架にかけられることで)イエスを神の子と信じる人は 神様からその罪を帳消しにされました。」ということですが、ということは、イエスを神の子と信じていない人の罪は帳消しにされないということでしょうか?ということは、イエスを信じない人は肉体にも魂にも完全な死がもたらされる、という理解なのでしょうか?過激なキリスト教には「クリスチャンじゃない人は地獄に落ちる」と 言う人もいますが、これは別に過激ではなく、一般的に正しく新約聖書を解釈 すると、そういう意味になってしまうのでしょうか。 それから勉強不足で申し訳ないのですが、キリストはユダヤ人(ひとりのクリスチャンさんのご説明だと、正しく言えば「ユダヤ人として使わした神の一部」)ですよね。でもユダヤ人自体はキリストを信じていないのはなぜですか?考えてみるとキリスト教徒の白人たちはユダヤ人に対して、ちょっと斜に構えて見るところがあるのに、崇め奉っているキリストがユダヤ人って皮肉じゃないですか? それからプロテスタントの人は、聖書を信じてキリスト自体は認めていないのですか?本当に無知でごめんなさい。この際、すっきりと知りたいです。

≪アドバイス≫

知りたい> イエスを神の子と信じていない人の罪は帳消しにされないということでしょうか?

そういうことになります。キリストを通してしか救いの道はない、がキリスト教の基本です。人間はアダムとイブの時から原罪を持ち続けているので、キリストによる救いを受けないと(どんなに良い行いをしても)死に至ります。

知りたい> でもユダヤ人自体はキリストを信じていないのはなぜですか?

ユダヤ人はユダヤ教徒だからです。ユダヤ教徒は基本的に、旧約聖書が聖書です。旧約聖書には、いつの日か救い主が現れると予言されていますが ユダヤ教徒はイエスをその救い主と思ってないのです。だからユダヤ教徒の司祭など率先してキリストを迫害しました、神と偽る冒涜者として。 新約聖書はキリストが生まれてからの教典ですからユダヤ教はこれを認めません。 知りたい> キリスト教徒の白人たちはユダヤ人に対して、ちょっと斜に構えて見るところが 知りたい> あるのに、崇め奉っているキリストがユダヤ人って皮肉じゃないですか? 皮肉と言えばそうでしょうね。しかし神に選ばれた民であるユダヤ人から救い主は生まれると聖書に書いてありますから別に皮肉とは誰も思ってないと思います。 知りたい> それからプロテスタントの人は、聖書を信じてキリスト自体は認めていないのですか? 知りたい> 本当に無知でごめんなさい。この際、すっきりと知りたいです。 キリストを認めているのがカトリック(旧教)、プロテスタント(新教)で両方キリスト教徒です。全て聖書に基づいています。ユダヤ人のユダヤ教徒がいわゆる旧約聖書を基にしており、キリストは認めていません。 ユダヤ人の宗教がユダヤ教です。

≪アドバイス≫

「簡単に説明すると」さんが説明してくださったので 私は少しだけ追加説明させていただくだけにします。 イエスの時代 ユダヤはローマ帝国に支配されていました。 ですから当時ユダヤ人は 旧約聖書で預言された「救世主」を 待ち望んではいたのですが それはどちらかというと政治的 指導者 つまりローマを打ち破ってユダヤ人の国家としての 独立を勝ち取るためのリーダーだと思っていたのです。 それは今日のユダヤ人たちにもユダヤ教の中で引き継がれ ユダヤ人の安定した完全な国家を いつか現れる「救世主」が 成し遂げてくれると信じています。 それに「救世主」はダビデ王の血筋から生まれることが 預言されていますが イエスは貧しい大工の息子でした。 血統はダビデの血筋でしたが ダビデ王の時代から400年も 経っていて すっかり落ちぶれていたのです。 ただその点も ユダヤ人たちがイエスを認めない理由です。 「救世主」は 誰から見ても王と認められるような家に生まれないと いけないと思っているようです。

>>それからプロテスタントの人は、聖書を信じてキリスト自体は認めていないのですか?

ちょっとこの意味がわからないのですが 「キリスト」とはイエスの苗字ではありません。 「キリスト」はギリシャ語で へブル語の「メシヤ」という意味の翻訳です。 「神の使命をおびて民を導くために天から使わされた方」という意味です。 簡単に言うと「救世主」ですね。つまりイエス・キリストとは 「救世主イエス」 という意味になります。 キリスト教は イエスの弟子達により広まっていきました。 ただ月日とともに時の指導者達に利用され 権力を保つための道具に なっていったのです。その中で弟子や母マリアを神聖化したり 法王を頂点としたピラミッド型の階級制度ができました。 そして中世の時代「それは間違っている」とルターやカルビンなどが声をあげ 宗教改革が起こりました。そしてそれまで一般人は読むことを禁止されていた 聖書を 人々が自由に読むことが出来るようになりました。 (もちろんこの影には 多くの人達の血の犠牲がありました。) 前者をカトリック 後者をプロテスタントといいます。

>>自宅周辺にも多数の教会がありますか、

>>宗派の違いを見分けるには何処を見ればわかりますか?/

簡単に見分けるには まずカトリックは豪華な教会堂があって 中には聖人やマリア などの像がたくさんあります。司祭もだいたいガウンのような服を着ています。 プロテスタントの教会は たいていあまり飾りがありません。牧師は普通の背広姿が 多いです。 イエス様の 誕生・死・復活 すべて重要です。これは私達を救うために神様が なさった一連の流れなのです。一度聖書を手にとって読んでみてください。 きっとみなさんの疑問が解けると思います。

≪アドバイス≫

このご質問にお答えするのは 実はとても難かしいのです。 私のような未熟なクリスチャンには 少し荷が重いですが 出来る限りご説明します。 まずイエス様は 罪を犯さなかった以外すべてにおいて 私達とおなじ人間でした。ですから血も流したし 痛みも感じました。 決してスーパーマンではなかったのです。 また十字架刑は極刑であるだけでなく 大変な屈辱でした。 屈辱的な十字架で殺された人間を 自分は神としてあがめていると 告白することは 実はすごいことなんです。 ではなぜ神様はご自分の息子を そのような目にあわせたのか? それはひとつは人間がとても罪深く その罪をあがなう代価としては そこまでするしかなかったということ。またこのような聖書の言葉があります。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」                ヨハネの福音書 3章16節 またイエス様を自分の救い主として受け入れる(信仰を持つ)ということは 古い自分をイエス様と一緒に十字架につけることで 新しい自分へと 生まれ変わるということです。 さらに「イエス様を十字架につけたのは 実は罪びとである私自身であり イエス様は私のために死んでくださったのだ。」ということを いつも忘れないでいるために 十字架は重要なのです。

>>ここで聞いてしまえば簡単だから・・なんて思っていませんからね。

いえいえ。どうぞなんでも聞いてください。 私もわからないことはわからないと正直に申し上げます。 なにぶん未熟者ですので・・・ 上記の説明で 少しキリスト教に対するご理解が深まりましたら幸いです。

≪アドバイス≫

少しだけ追加ですが 十字架についているイエス様の姿が リアルに表現されているのはカトリックの教会です。 プロテスタントでは十字架はシンプルに形だけで表されます。 カトリックでは昔 聖書を一般人が読むことが 出来ませんでしたし 聖書に触れる機会があったとしても 識字率が低かったので ほとんどの人はわからなかったと思われます。 リアルなイエス像や絵画などは 現代のTVや映画と同じで 「映像効果」で人々に信仰を広めるために作られました。 私はプロテスタントですので 現在のカトリックの真意はわからないですが マリアをあがめる信仰は理解できません。聖書にはどこにも マリアが神格化されるような記述はないからです。 思うに「神を産んだ母なので偉大」ということでしょうか。 しかしこれだとイエスの人間としての特性だけに目を向け 神としての特性を無視することになると思うのです。 神はすべての始まりから存在するお方だからです。 ・・・ですがこれは私の考えです。多くの信者がおられるのですから 何か深い意味があるのかもしれませんね。  

≪アドバイス≫

はじめまして。 私もずーと昔からの疑問があるので便乗させて頂いてよろしいでしょうか? キリスト教では「神様を信じない者は救われない」と言われますが 私がどうしても理解出来ないのは神様がA君、きみは私を信じているので 助けてあげよう。 ただB君、君は私を信じていないので助けない。 というのは神様の言う事というよりは実に人間的な考えのようがして しまうのですが、どうでしょうか? 現在キリスト教が身近にあり私も信じれるものなら是非信じたいのですが この基礎の部分がどうしてもひっかかってしまうんです。 よろしくお願いします

≪アドバイス≫

このご質問も お答えするのは実に難かしいですが また出来る限りご説明させていただきます。 まず「神様を信じない者は救われない」という内容を 3つのパートに分けてみます。そしてそれぞれの意味を 考えてみると・・・ 「神様」とは日本的な感覚で言うと やおよろずの神々という 表現があるように どんな物にも霊が宿るとか つまり妖精のような 感覚を日本人は持ってしまいがちです。しかし聖書が教える「神」は 「創造主」であり 万物を作り 世の初めから終わりまで存在する 唯一絶対の存在です。そして私達人間は 被造物にすぎません。 「信じない者」とは 神なんか居ないと思う人の事ではありません。

 しかし日本人的にはそうとらえがちですね。しかし聖書の世界では 「神が存在しない」という概念はありません。キリスト教は 「新約聖書」と「旧約聖書」の両方が教える神を信じる宗教です。 さらに「新約聖書」に出てくるイエスが神であると信じる宗教なのです。 「救われない」という意味を考えるには 「救われる」とはどういうことか という点から まず考える必要があります。「救われる」とは3つの段階から なります。人は自分の中の罪を認め 自分が罪人であると神の前に告白し 悔い改めた時 神から義と認められ 神と正しい関係に入ります。これが 第一段階。そして第二段階は 神から清くされることです。

これは魂に 聖霊を注いでいただいて 古い自分から新しい自分へと生まれ変わることです。 そして最後に「栄光を受ける」という段階があります。これはイエスがふたたび 来られた時 永遠のいのちを得て 天にあげられたイエスと同じ体をもって 復活することです。ですから「救われない」ということは 肉体も魂も永遠に 滅びてしまう状態です。 以上から考えて u神様を信じない者は救われない」という言葉を 言い換えると「イエスを唯一絶対の創造主ということを信じない者は 肉体も魂も永遠に滅びてしまう。」というふうになりますね? これはとても冷たい表現(B君、君は私を信じていないので助けない。) と聞こえてしまうかもしれませんが 前回私が書いたレスのなかでも 言いましたが 神は人間の罪を 目をつぶってやって許すということは 出来ない方なのです。

完全に善である存在の方が まあいいかで罪を 許したとしたら 善が善でなくなってしまいます。ですから私達の罪を 一身に引き受けてくださるイエスの存在が必要なわけで そのイエスを 通してしか 救いはないのです。 もう少し書きたいこともありますが 今日は時間がないので すみませんがまた次にします。 できるだけ簡単にお話したかったのですが どうしても 難かしい表現になってしまって わかりにくかったらごめんなさい。

≪アドバイス≫

昔(旧約聖書の時代)罪をあがなう為に 傷の無い子羊が奉げられました。 この子羊の代わりとなったのが主イエスです。 それはイスラエルという選民だけでなく、全世界の人が等しく神のみ救いを 受けるためでありました。(神様のご計画は壮大です) ekko> イエスを一人の人間としてみてしまう私には、十字架の貼り付けを教会で ekko> みるたびに 苦しかっただろうな、悔しかっただろうな という思いでいたたまりません。 その思いが大切なのです。 その苦しみや痛みは本来は自分自身が受けるべきもの それを全世界の人々の変わりに…。主イエスが受けてくださった。 そして、それは人間として生まれ、この世で唯一罪の無い肉体を持った 主イエスのみができることでありました。 それを見て、私たちは自分の罪深さを認め、それを悔い改めることによって 真の救いが成就するのです。 私たちの罪とは何でしょうか。 神様を神と認めないこと、その道にしたがった人生をおくっていないことです。

イエスさまの十字架を見て、涙を流さない人がいたら それは自分のほんとうの罪にまだ気づいていないのかも知れません。 ekko> 復活後の姿でなく、一番辛い姿が象徴となっているのは何故ですか? 私たちに必要なのは、自分の罪を悔い改めること それによって永遠の命が与えられる準備が整うのです。 復活ばかり願っても、その悔い改めがなければすべてがむなしいものです。 ひとりのクリスチャンさんが聖書を読むのをすすめてくださっています。 けれど、神様の導きがなければ聖書は読むことはできても そこに書かれていることを理解し、受け入れ、悟ることはできません。 読むときには、自分で無理に

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