負の関係

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「おやつを作っておいたわよ。一生懸命勉強してね。お前が良い学校へ入れることが、お母さん、一番うれしいのだから。」

母親からこのような言葉が、子供に対して出ても、そんなに珍しい事だとは思わないでしょう。でも、母親の中には、この言葉の裏に、もっと秘密が隠れている時もあります。それは、子供がよい学校に入ると言う希望であるかのように表現されたりしますが、実は、それが子供のためと言うより、自分のためだったりすることがあります。子供のためなのか、自分のためなのか、紙一重くらいの場合もありますから、よく自分を振り返って見ないと解らないかもしれません。自分のためだけなのなら、実は自分がよい学校へ入ることが夢だったのでしょうけれど、それは、かなわなかった。そして今度は、自分の子供にその夢をたくして、子供を自分のエージェントであるかのように操りながら、子供に勉強させます。簡単に心理学的に言えば、自己愛を満足させるために子供をコントロールしているかのようです。子供がよい学校に入るかどうかは別にして、この場合、子供の心にとって良いはずがありません。子供は誤解されたかのように思ったり、気持ちを理解されてないまま、母親を満足させるためにがんばります。こうしながら、子供の心は破壊されていきます。

表面的には愛情を表しているかのようですが、それが自己中心的な愛のために、本当の意味で相手のためにならず、かえって傷つけてしまう関係を負の愛といいます。負の愛は、見かけは明らかに愛情表現で、それをする本人もそう思っています。でも、それによって隠されているものが真実で、それが力を持って結果に導きます。その隠されているものとは何か。それは攻撃で破壊を求める心です。それが気持ちとなった時に、憎しみとなります。これらの本当の心を表したらいけない状態を理解しているのでしょう。その時に、負の愛情を使うのです。または、自らこの心に気が付いていない状態、そして気が付いてはいけない状態がある時に、負の愛情が出てきます。前例のように、母親が子供を攻撃、破壊するなんて、いけないことですし、考えてもいけないことだと通常は思います。この心に気が付かず、子供と接して表面的には世話をしているのですが、実は、隠れた攻撃がものを言っていると理解できます。子供に対する虐待が日ごろ報道されているのを聞くと、明らかな虐待とは違ったところで起こる負の愛が少ないとは言えません。

もう一つの負の関係について考えて見ましょう。「お前、そんなことでこの役務まるとでも思っているのか。これじゃあ、明日は休みないぞ。なに、明日はだめだと。そんなのこっちの問題じゃない。」

これは明らかに攻撃的な発言です。仕事場でこき使われているかのようです。実際にそういう時もありますが、場合によっては、その表面下に本人のためを思って、厳しくしなければならないと言う心が隠れているかもしれません。実は、本人に対して、愛情を持って接していると言うことになるでしょう。このように、表面的には攻撃が見えますが、その後ろに愛情が隠れている関係を負の攻撃と言います。何年か前に、アメリカでtough love という言葉が聴かれました。これは、不良になりそうなティーンエイジャーに向かって、厳しくタフでなければならない。本当にその子を愛しているのなら、タフな接し方が適切でしょう、というやり方でした。これも、丁度負の攻撃に匹敵するものだと思います。

ちなみに、SMという関係が性的関係に存在しますが、これこそ、負の攻撃を使い、それをファンタジー化させたものにあたります。

夫婦の連合

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夫婦は、カップルが結婚をして、一緒になった時に連合を作るわけなのです。ところが、実はこの連合と言うのが結構難しく、それをむしろ壊す言動をお互いにしてしまうことが多く見られます。簡単に言えば、お互いに冷え切ってしまったり、喧嘩が多過ぎたりして、連合どころではなくなってしまうのです。

夫婦の連合とは、文字通り一緒になっていろいろな問題を解決し、外の敵となるものと戦っていくことです。夫婦関係の中に、不満や違いはいつも起こることですが、それを解決して処理していかなければなりません。問題解決をすると言うことは、ある程度の冷静さと大人の態度が必要です。誰でもそのような部分はあると思いますが、それを使わなくなってしまうのが一つの問題でしょう。なぜ、大の大人二人が子供のようになって喧嘩をしてしまうのか。それは一つに夫婦間の気持ちの近さにあると思います。二人は近ければ近いほど良いと考えがちです。でも、感情的親近感は、依存や怒りを増やします。なぜなら、距離が近いほど、原始心性が現れやすいからです。原始心性とは、子供のときに見られる心の状態です。因果関係を無視したり、心の中の出来事と外で起きる出来事の混同をしたりすることです。欲求や要求が素朴のまま出てきて、それを受け入れてくれる相手がいませんから(相手も同じく子供化しているので)不満や喧嘩が結果となります。

夫婦間で冷静さや成熟を保つためには、二人の間に適度な感情的距離が必要です。これは、決してお互いに無関心になったり、愛さなくなったりすることではありません。ちなみにそうなった時には、距離をとり過ぎたことになります。この丁度良い距離とは、自分の思っていることが相手が思っていることと自動的に考えない、つまり自分と相手の違いをよく知っていることです。また、自分の要求が受け入れられると思う代わりに、相互的依存や協力をすると言うこと。そして、夫婦の間で慣れっこになる代わりに、礼儀があったり、尊敬があったりすることです。

このようにして夫婦の関係を適当な距離に保つことによって、必ずしも発生する夫婦間の摩擦、不満や相違を解決していくわけです。でも、これだけで、夫婦連合が成り立つともいえません。やはり、連合と言うからには、その外にそれを脅かす何かが存在するわけです。夫婦となったからには、外からの誘惑もあることでしょう。それは男性の方にも女性の方にも振りかかってきます。むしろ、外から誘惑が押し寄せて来ると言うより、連合を組んだ二人が個々に誘惑を見つけ出すといった方が、良いかもしれません。連合を組みながら、自分の相手と外の誰かを比べたり、想像で置き換えたりするといった具合です。でも、このような危険性を外に見ながら、そして使いながら、連合の良さや強さを築き上げていきます。

他にも連合をうまく使って、戦わなければならない問題は、その夫婦ごとに沢山あると思います。金銭的な問題も、二人で一緒にそれと戦うことができますが、それが二人の夫婦内の問題とならないように外に位置づけなければなりません。病気もそれを連合の外に位置づけることによって、二人で戦うことができます。一緒に医療の工夫をしたり、食物や環境の調整をしたりしながら戦います。問題がなかったら、挑戦を作り上げることも、連合の一つのあり方でしょう。夫婦で何かの課題を作りあげます。それが、バケーションであったり、家を買うことであったり、養子をとることであったりします。それを外のものと考え、二人で解決に励みます。

夫婦連合はそれが破壊されないために、夫婦間の適当な距離を保つことが大切です。その上、夫婦間のエネルギーを外に出す必要があります。そのために、外のチャレンジが必要で、それと戦うことによって、連合が保たれ、強化していくのです。 

欲求の秘密

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ある人がこぼしていました。「何かやろうと感じる時はあるのですが、その気持ちが直ぐに消えてしまって、結局何もせずに終わってしまう」と。また、ある女性が「家の旦那は、私の気持ちを全然大切にしてくれない。私に何もしてくれません」と嘆きました。

これらの例は、欲求が起こらないことで、問題となっています。その逆に欲求があり過ぎて困ることもあります。「タバコを吸う欲求が消えない」、「過食する欲求が消えない」、または「ゲームをする欲求が消えない」がその例です。

今回は欲求に関してちょっと深く調べてみようと思います。

上の例を考えてみますと、単に欲求が強いとか弱いとかでは、完全に欲求のことを説明できません。もう一つの次元で、欲求が自分の内部にあるか外部にあるかの位置を考えに入れることによって、その理解が進みます。

誰かに何かを頼まれた時、それをしようと思って、欲求が沸いてくるとします。そして、相手が「もう、いいです。用がすみました。」と言うと、欲求がなくなってしまいます。この場合、欲求は最初から自分のものではなく、自分の外に存在して、一時的なものであると考えられます。

こんどは、何かに刺激されて、ちょっとしたくなったとしましょう。映画の予告を見て、見てみようかなと思ったときなどがそれにあたります。でも、そのうちに忘れてしまって、どうでもよくなってしまいます。これは自分の欲求で、内部から出てきたものですが、まだ、自分の真から出てきたものではないので、自分の表面的な部分に位置しています。

次に、自然にこれをしたいと欲求が出てくる場合をみてみましょう。別にこれと言って刺激があったわけではありません。ただ自然に自分の中から沸いてきたように感じます。この欲求は自分のもっと内部に位置するもので、通常欲求として、扱われているものだと思います。この種の欲求は簡単に変化が起こりません。ある程度一定していて、継続するものです。長期のゴールに向かって進むような時に、このように内在化された欲求が必要になります。

私達の欲求は、ほとんどの場合外から来たもので、それが次第に性格の一部として、確立されていると考えられます。外と言いますと、それは私達が生まれる前から存在し社会に深くしみ込んでいるもので、ある意味社会の性格とか存在目的とか言うものから始まり、親や教育を通して、子供である私達に伝えられてきます。最終的には、欲求は私達の性格の一部として存在し、その性格を守るかのように、そして存続を保証するかのように働きます。

例をあげてもう少しよく見てみましょう。ある人が航空宇宙技師になりたいとしましょう。このような技師は、先進国では貴重な存在で、高収入でもあると同時に、社会でも認められた地位を持っています。

昔ですとか、発達途上国社会では無い職なので、そこではこのタイプの技師になる欲求は生まれてこないでしょう。でも、先進国では、子供がそれを知る前から、社会でこの職の重要性を認めています。

親が子供をそれになるように願いながら育てることもあるでしょう。でも、大体の親はそこまでの欲求は無いにしても、子供が将来いろいろな可能性を持てるように、勉強を一生懸命させようとします。この欲求は親のものですが、子供がうまく導かれれば、勉強自体が子供の欲求になることはあるでしょう。

このようにして勉強し、いろいろな経験をつんでいく間に、子供が航空宇宙分野に興味を見せるかもしれません。でも、その興味を実現するには、社会の欲求を飲んでいかなければなりません。それは、ある種の学校へ行き、ある種の勉強をし、ある工学に専念しなければなりません。それがかなった頃には、社会の欲求や親の欲求が子供の性格の一部となり、内在化するようになります。

こうしてみますと、欲求は外から存在するものが性格の一部になっただけでなく、性格自体が欲求を満たすためや、欲求を保つために作られていると見ても不思議ではありません。外からの欲求が性格の一部となり、それが欲求を保ち、欲求を表現することによって性格がますます強化されていきます。

ちょっと変った話で、人を愛することや、セックスを楽しむこと、そして子供を作る欲求も、先天的に存在しているものではなく、周りの社会がそれに価値を見出し、社会を守るかのように、子供にそれらの欲求を埋め込んでいくと見ることができます。セックスや子供を作ることは本能ではないですか、と疑問を抱く人もいるかもしれません。確かに、身体に具わった機能ではあります。しかし、私達がそれらを行動に移すとき、その欲求は人間関係内での意味に基づいて発生すると考えられます。

また、面白いところで、納豆を食べたい欲求は、日本人社会独特のものと見ることができます。他の国の社会では、納豆自体知らないのがほとんどですし、納豆を口の近くに持っていくだけで、吐き気がするのが自然の反応のようです。ところが、多くの日本人は納豆のにおいをかいで、おいしそうと思ったり、お腹がすいたりするのですから、面白いものです。正に、日本文化で教えられた、独特な欲求としてみることでできるでしょう。
小さい子が積み木を積んで塔を作ります。そしてそれを倒して遊びます。そしてまた作り、壊して繰り返します。創造と破壊の本能の練習をしていると言ってもよいでしょう。でも、作った塔をそのままとっておくことができるようになるまでにしばらくかかります。破壊するのは、簡単ですけれど、できたものを取っておけるようになるまで、かなりの成長が必要です。

同じく、新しい人間関係を作り、それを発展させていくにはかなりの努力が必要です。その代わりそれを壊してしまうのは、簡単なことでしょう。喧嘩、戦争、離婚、婚約解消といろいろな例があります。人間関係って放っておけば、破壊の道をたどります。

創造的な自分、破壊的な自分、今回はそれをもう少しよく見てみましょう。破壊的な自分は2種類あると考えられます。ものを破壊してしまう自分、相手を破壊してしまう自分が一種類の例です。人に対して暴言を吐いたり、乱暴をしたり、邪魔をしたり、征伐したりする自分がいます。そういう自分でない時には、忘れているかもしれませんが、あるきっかけで再現され、自覚をするのにそれほどの努力が要りません。

破壊的な自分がいる限り、遅かれ早かれ誰かの破壊的自己にまんまとやられ、破壊されてしまう自分もいます。泣き崩れた自分、恥に思う自分、恐怖に襲われた自分、罪な自分、馬鹿な自分、痛がる自分。破壊された自分もいろいろな形で表現されます。この種の自分も意識するのはいやですが、その存在を否定することはできません。

これら2種類の自分は、気が付くと既に私たちの中に存在し、きっかけがあるとほとんど自動的に現れてきます。ある嫌な刺激によって衝動的に現れ、通常の私たちを乗っ取ってしまいます。ストレスを感じていたり、疲れていたりすると出やすいです。ですから意識的には低いところに位置し、私たちが半分寝ているというような時であると表現することができるでしょう。逆に意識がはっきりしている時、警戒している時、油断なく気を配っている時は、そのような自分を避けることも可能です。

それで今度は、油断もなく意識がはっきりしている自分がいます。このような時に自分の能力がよく働き、新しい問題に対して、創造的な解決策を生み出していけます。これが創造的な自分の2種類の1つで、一番意識が高いところにあり、冷静で客観的な部分です。この自分は上記の破壊的な自分を観察でき、その衝動を制御することもできます。そのためにこの自分が他の破壊的な自分を統合することができ、破壊的な自分を弱めたり、それらを最終的には創造的に使ったりすることができます。

そして創造的な自分のもう一種類ですが、これは高い意識のある人に助けを求めながら、自分の創造性を保ち、破壊の自分に至らないようにする自分です。それなので、依存性があり協力性があり、従順なところがあります。よい親子関係で子供が導かれていく時のイメージを想像したらよいでしょう。この自分を継続し保つことによって、次第に意識の高い創造的な主体性のある自分が育ちます。
子供のしつけの基本ルールの中に、「親が自ら怒っている時には、子供を叱ってはいけない」というのがあります。よくあることですが、子供がいけないことをした時に、親がかっとなって怒り、その調子で怒りを子供にぶつけながら、子供を叱ってしまうことがあります。親の方は、子供のためだという理由で、自分の怒りを正当化しようとしますが、結果としては子供のためになっていません。多くの場合、子供の方は叱られた内容より、怒りをぶつけられたことにショックを受け、親が怖くなってしまったり、自分も怒りを心の中に溜めたりしてしまいます。

この親の怒りから来る子供に対する叱りは、子供の行動に刺激され怒りを感じてから、それを親本人我慢ができなくて、自分の心から除外する行為として見ることができます。よくあることではありますが、私達が嫌な気持ちをさせられた時、その原因となるものに当り散らすことをします。嫌なことは自分の外に出そうというわけです。それと同時に、その「嫌なこと」をした子供は否定されます。自分の子供はそんなことをする子ではない、またはそうなってほしくないという信念から子供の実際の行動を否定してしまいます。

次に、もう少し親の心に余裕がでてくると、自分の怒りを子供にぶつけたりはしませんが、問題となる子供の行動を改善しなければならないと考えます。それで、子供の至らない言動を見ると、それについて注意をしたり、とがめたりして、子供を変えようとします。この方法での焦点は、子供の悪い行動で、それが直れば親の満足が得られるという、言わばコントロールの状態が親から子供に対して起こります。

このメカニズムを見てみると、子供の悪いとする行動を定めるのが親で、それが知らずのうちに親自身の短所であったりすることが多いです。私たちは、自分の嫌な部分は見ないようにする動機があります。そのためにその部分が無意識の領域に入り、今度はそれが他人の中に見えるようになります。「相手は自分の鏡」とは、そのメカニズムをよく捉えた言い方で、言いかえると「子供は自分の鏡」と言うこともできるでしょう。すなわち自分の嫌な部分を子供に発見し、それを見えなくなるまでコントロールしようとすることが、「躾」となってしまいます。結果として、子供の方は、親の自ら嫌な部分を自分に投影させられ、それを信じることによって、自分がいけない子であるという自己認識から逃れるのが、たいへんになってしまうのです。最初に述べた方法による「否定」はされなかったものの、これでは結果として悪い子になってしまいました。

よって、親の方は、怒りを吐き出してはいけないし、自分の嫌な部分を子供に見出してもいけなくて、どのように子供を扱ったらよいか、解らなくなってしまいます。それでも親が、自分の嫌な部分を見つめることができ、それを自ら抱えることができると、それを外に除外する必要がなくなります。自分の短所は、それを冷静に受け入れられると、他人へ投影することがなくなるのです。その状態で子供と接したとき、子供の行動の良し悪しは、もっとはっきり掴めるようになります。それは、自分の気持ちで子供の理解をゆがめてしまうことが少なくなるからです。

子供の行動が気になったら、先ずはそれに対してすぐ反応し叱り始めるのは止めましょう。次に、自分がどのような行動をとったら、一番子供に良いことを伝えることができるかを考えましょう。悪い行動を止めさせるより、良い行動を教えながら導くほうが、文字通り「躾」となるでしょう。
momson.png何かの調査によりますと、結婚関係内でのセックスの回数は、先進国の間では、日本人が一番少ないとか聞いたことがあります。この統計が正しいかどうかは別にして、結婚してまもなくセックスの回数がかなり減ったり、セックスレスになってしまうカップルのことを聞くことは、少なくありません。性生活の減少やセックスレスの状態は、通常カップルのどちらかから始まると思いますが、今回は男性がセックスに対して興味を失ってしまう現状について考えて見たいと思います。

先ず、知っておきたいことは、「性の感覚と言うものは、生まれたときから存在する」ということです。一般的に性欲とそれに伴う性行為は、思春期から始まるものと考えられています。確かに男子はそのころから、射精が可能になります。しかし、性の感覚と興奮はそれ以前から経験できます。男子としては、それを性欲とは認識していませんが。

男の子に限るわけではありませんが、母親と子供との関係は密接なものがあります。言葉でのやりとりが可能になり始めるまで、1歳半位までかかるので、親子関係は、特に体の触れあいや、言葉を伴わないコミューニケーションが多いです。つまり、気持ちレベルの付き合いが盛んに起こり、それと同時に、子供にとっては、母親は大きく、力強く、頼りになる存在です。この大きな母親との気持ちレベルの関係には、自然と性的感情が含まれています。子供は知らない間に、母親と性的な感情を含む関係を経験しているのです。そしてこのような親子関係は子供の心にしっかりと残っていきます。


男子が成長して思春期以降、異性を求め、性的な関係が起こり始めますが、小さいときの母親との人間関係がパターンとして大きな影響を及ぼすことは、違いありません。それと同時に、男子は男性としての性的行為と役割を身に付けなければなりません。男性性的行為と役割は、社会の中で文化の一部として伝え続けられており、男子が成長するにしたがって徐々に身に付けていくものです。

先進国日本で、徐々に変化しつつあるものの、男性の性に関する役割には、女性をリードし、支配し、服従させるというものがあります。それは、力のバランスからいいますと、男性が女性より強いという形です。

ところが、男性の乳児期に学んだ、居心地のよい性的関係は、力強く偉大な母親との関係で、社会から要求される力強く上位の役割とは逆のものになるのです。すなわち、男性は自分が求めている性的関係とは違ったものを、楽しむべきであるという立場になり、この二つのあい反する役割をうまく調整していくか、中には問題を抱えてしまう男性があるということになります。

男女の間に性的関係が起こり、はじめのうちは、社会の規定通り、女性を導いていきます。それと同時に、心の中では、ある日それとは違った、母親と経験した性的関係が生まれると期待しながら進みます。その希望のために性欲は満々である状態が結婚初期に存在します。そうしているうちに男性は母親との性的関係を妻と実現しようと時々試みるのですが、うまくいかないところも多分にでてきます。そして次第に母親になれなかった妻に対する性的興味がなくなってしまうのです。

その結果、男性の本来の性欲は、結婚関係内から追放された形になってしまいます。でも性欲はそれで消滅されるわけにはいきませんから、どこかで存在し続けます。その性欲の表現は俗にいう、性癖、性的変態、痴漢などという、やはり公では受け入れられない場で、行われてしまいます。
interjection.gif先月は、よい離婚、悪い離婚について書きました。それに変わりまして、今回は結婚についてです。結婚の良し悪しを決めるには、いろいろな基準がありますが、今回は心理的に見た夫婦関係のありかたに基づいて結婚についての判断をしてみます。

先ずは次の夫婦間の会話を読んでください。

夫:「この週末は、友達と会う予定なのか。」

妻:「そうよ、土曜日にモールで会ってちょっと買い物をし、それから家に夕飯に連れて来たいわ。」

夫:「えっ、夕飯に連れて来るの。それってちょっといやだなぁ。」

妻:「もう、ずいぶん長い間誰も招待したことないし。私だってたまには遊びたいわ。」

夫:「例えば、僕が出かける時なんかにしてくれないかな。」

妻:「そんな時に、私の友達が暇なわけないでしょう。会う都合を合わせるだけでも、たいへんなのに。嫌なら、挨拶だけでもして、自分の部屋へ行ったらいいわ。」

夫:「何で、こっちが迷惑しなければならないだ。」

というわけで、よくありそうな会話です。夫婦の間で自由に意見交換をし、お互いに理解できているような感じです。では、次の会話を読んでみてください。

夫:「この週末は、友達と会う予定なのか。」
妻:「そうよ。あなたに迷惑でなかったら、土曜日にモールで会ってちょっと買い物をしたいわ。それから家に夕飯に連れて来たいけれど、どう思う。」

夫:「君がそうしたいのなら、どうぞ。何かやってほしいことでもあるか。」

妻:「せっかくの土曜日だから、あなたもゆっくりして、好きなことをしてていいわ。私は前もって夕飯を用意しておくから。よかったら一緒にどうぞ。」

夫:「家にいるんだから、挨拶程度に一緒に夕飯もするよ。彼女の方もそれで問題ないでしょう。」

妻:「そうしてくれると私もうれしいわ。彼女もあなたに会いたがっていたようだから。」

夫:「へー。ということは、ワインの一つくらいは買っておこうか。」

 こちらの会話の方が、夫婦の仲がよい感じがします。お互いの意見を自由に言っているだけではなく、相手に対する気づかいが会話の中に含まれています。それに代わって、最初の会話は、自分の表現はよくしているものの、相手の気持ちを掴んでいません。二番目の会話をもう少しよく見てみましょう。

妻:「あなたに迷惑でなかったら、モールで会って、、、」夫も土曜日に予定があるかもしれない、私が出かけることによって、不都合が起こるかもしれない、という気持ちがあって、「迷惑でなかったら」といい始めました。

夫:「君がそうしたいのなら、どうぞ。何かやってほしいことでもあるか。」妻の気持ちを大切にしたいという夫の気持ちが出てきます。その上、何かお手伝いをして、もっと楽しんでほしいと気持ちが回っていきます。

相手の気持ちを察して、自分の気持ちであるかのように、取り入れて扱うことを、投入introjection と言います。相手を信頼しているので、投入が起こりやすいです。その反面、自分の気持ちを相手に押し付けることを投影projection と言います。相手に対して不安が多いと、自分の押し付けが多くなりがちです。そして、投入と投影のバランスを見るときに、投入の方が投影より多いという夫婦関係のほうがよりよい結婚である、と言うことができそうです。
rikon.JPG つい最近までは、離婚とは悪いものだ、結婚の失敗だったなどと当たり前に考えられていました。でも、今は離婚が必ずしも悪いものだと考えることは少なくなってきています。明らかに悪いと思われる、結婚をなんとしてでも続けること自体、問われるようになりました。夫婦間で喧嘩が絶えなかったり、家庭内暴力が続いたりしているところでは、夫婦にとっても子供にとっても、一個の家族を続けることは、心身の健康によいことではないでしょう。現在、問われる問題は、何かの理由で結婚がうまく続かない状態のとき、離婚がよいことなのか、それとも悪いことなのかを考えることが、より重要になってきています。

そこで今回は、何をもってよい離婚と言えるのか、どんなときに悪い離婚となるのかを、夫婦関係の心理面から観察して一つの指針を生み出してみたいと思います。もちろん離婚に関する問題は、金銭的、社会的、職業的、親戚的など他にもいろいろな要素が含まれてしますから、心理面だけで離婚の良し悪しが単純に決まらないことを承知しておいてください。

先ず、離婚が起こりそうな悪い結婚関係の状態を調べてみましょう。夫であるA氏は年々妻に対してのコントロールが激しくなってきました。コントロールが激しいというのは、妻に対して細かな指示をして、それを強制させる。妻が従わなければ、激怒となるし、子供に当り散らしたりする。そうすることによって、妻の心理的地位をいつも自分より下に置いておこうとすることです。

A氏の性格は、二つの部分から成り立っていると見ることができます。一つは上位な性格部分で自分の気持ちをよくコントロールしておこうという部分です。もう一つは、もともとA氏がコントロール性格になった理由で、不安、存在的不安、自己破壊的不安です。これが心の奥に存在していたために、これを何とかコントロールしていかなければならなかったのです。

心理的必然なものが次に起こります。結婚相手に自分の不安を投影して自分から排除し、相手にその部分を保ってもらいます。それをするために、相手を厳しくコントロールし彼女がへまをしないで、自分の思う通り行動させることで、自分の不安をコントロールするという動きです。ある意味、自分の不安が結婚相手の性格に乗り移りました。

この状態で結婚を続けるということは、A氏にとって非常に有効です。自分の結婚以前の不安の解決になったわけですから。もちろんA氏としては、離婚は考えに浮かばないでしょう。ところが、妻の立場としてはどうでしょう。主観的に不安を感じるだけでなく、それが起こるごとに、夫に細かく支持されたり、怒鳴られたりします。毎日息も満足にできない状態になり、できるのなら離婚をしたいと考えることでしょう。

この場あり、妻にとっては、離婚はよいことです。離婚をすることによって、A氏から投影された、不安を結婚以前の自分の状態に戻すことができます。ところがA氏にとってこれは悪い離婚となってしまいます。自分の不安を投影する相手を失い、自分自身で不安を再度抱え込まなければなりません。うまくいけば、また投影できる結婚相手を探すことができるかもしれませんが。

一方、妻の方からしてみれば、結婚以前A氏のことを、リーダーシップのある立派な人物だと思ったのでしょう。まさかそれが、細かなコントロールとなるとは夢にも思ってみなかったことでしょう。彼女の夫に対して投影したリーダーシップイメージは、また、次の人間関係で起こるかも知れません。そのイメージの人を発見できないと結婚相手と思えないというのであれば、彼女自身深い父親コンプレクスがあるということで、自分を深く見つめなければなりません。期待するところは、最初の結婚で父親コンプレックスを諦められたかどうか。それが彼女にとってよい離婚となるか悪い離婚となるかの決定点となるでしょう。

父の法

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chichi.gifある父親が、すっかり大人になった息子がたびたび家にお金を借りに来るので嘆いていました。彼は、息子のためにも下手な助け方をしないで、もっと息子が独立できるような長期的な援助を考えていました。でも、母親が息子のことを哀れんで、お金を出してしまいます。母親は息子が困っているのをそばで見ていられません。そのために、両親の喧嘩が事あるごとに起こってしまいます。彼はいったいどうしたらよいかと悩んでしまいます。

このような家庭の風景をみることは、少なくないと思います。それが金銭的な問題でなくても、父親と母親の子供に対するアプローチが違い、親夫婦の間で葛藤が起こってしまいます。

母親は、子供を赤ちゃんの時から育て上げてきて、子供が楽になるように、気持ちよくなるように、そして幸せになるように子供と接触をします。赤ちゃんがお腹を減らして泣いたら、乳をあげます。オムツが汚れて子供が泣いたら、それを取りかえてあげます。母親のルールは、子供と毎日接触する中で生まれてきます。子供が辛いと、母親自身も辛くなります。それで、子供の面倒を見ることによって、自分の心の痛みをぬぐいさろうとします。母親のルールは、子供との人間関係の中のルールです。

一方、父親は子供が社会で立派にやっていけるように、家庭と社会との架け橋の役目をしようとします。子供を外に連れ出して、遊んだりして教えながら、家庭より大きな世界を見せようとします。その世界でうまくやっていけるように、社会のルールを子供に教えようとします。

社会のルールは3点のルールと言って、自分-(1) と相手-(2) がもう一つの限られた資源-(3) を求めて競争や戦いをしていくことです。自分と相手がうまく協力して、限られた資源を分かち合うということも含まれているでしょう。

母親との付き合いとは違って、頼りながら何かをしてもらうこととは随分異なります。独立性を持って、相手と公平に対処し、相手とルールを作りながら共存することを目的とします。これがいわゆる世間でのルールで、「父の法」と言うべきものでしょう。共存そして存続を目的としていますから、そのつど起こる痛みや苦しみは、母親の対処と違って、我慢をしていくことが多くあります。例え、助けを求めてきた人がいたとしても、その人にとって今すぐ助けないほうがよいと判断をしたときには、助けを拒みます。そうすることによって、その人の力を補うことをしようといます。

先ほどの父親の話に戻りますが、母親のルール、そして父親のルールの話を聞き、最初は母親のルールについて、疑問を感じはしましたが、次第に両方の大切さを理解することができました。すなわち、自分の息子の独立を促すことは大切であり、それが最終的な目的であろうものの、息子が困っていたり悩んでいたりする時に、それを癒してやることも大切であることが理解できました。それどころか、息子の心を癒すことができるが故に、息子のほうも父親の話に耳を傾けることができるようになりました。

その結果、家族のフォーカスが両親の夫婦喧嘩から、いかにして息子を助けるか、又は、どうして息子が自己独立に関して問題を抱えているのかを見ることができ、援助の仕方がもっと賢くなりました。その過程で発見されたことは、息子自身、social learning disorder (社会的学習障害)と言って、人間関係の理解、そして維持に大変苦心していることが解ったのです。それで普通より社会デビューに時間がかかるということだったのです。

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 ロマンスドラマは、タイトルのごとく終わってしまうわけですが、その後はどうなるのでしょう。結婚もゴールインとして呼ばれて、一件落着と言うわけですが、同時にその時点がスタートラインとなり、それまで2人で語ってきた夢を実現していくことになります。そしてそれまでの夢が将来のゴールとなって、努力をしながら、2人で歩んでいくものになります。

結婚直後描いている将来のゴールは、結構理解しやすいです。2人でなにを一緒にしようかとか、どんな雰囲気の家庭を作りたいとか、いつ家を購入しようかとか、子供は何人作ろうとか、どんな仕事を2人でしたいかとか、いろいろあるでしょう。そして、事はその通り進めば何の苦労もなく、今回のタイトルのごとく、その後はずっと幸せに暮らしました、となるわけです。でも、実際にはスムーズに行くことは少なく、何か個人的なものがじわじわと出てきます。

例えば、A君は1日の仕事を終えた後は、1人でゆっくりとリラックスをしたいと感じます。帰宅したとき、たまに夕飯が用意されてないと、不思議に思って憤慨します。なぜ、妻は家にいて時間があるのに夕飯の準備ができていないのかと。そして、仕事の余韻が残っている頭を静めながら食事をしたいのに、妻は彼にとってどうでもよいことを、なんだかんだと話しかけてきます。うるさいし放っておいてほしいと感じます。

彼のストレス発散は、コンピューターを使ってインターネットで好きなサイトをチェックすることです。寝るまでの時間は少しかないので、大切な時間を有効に使いたいのですが、彼の妻はどういうわけか放っておかれて怒っているようです。たまにそれが爆発して大喧嘩になることもあります。週末はたまには結婚以前から知っている友達を誘ってゲームへでかけたり、飲みにいきたいのですが、それに関しても妻は文句を言いますし、やっと説得して出かけたとしても、帰ってくると機嫌が悪いので困ります。

そして、B子さんはいろいろ考えてせっかく作った夕飯について何も言わずにただもくもくと食べる夫を見てがっかりします。夫がおいしそうな食べ物を見て、驚きと興味を表し、うまいうまいと言いながら、食べることを想像していたのに、無視されたような気がして、怒りも覚えます。楽しい食卓は、家を明るくしますし、2人の関係を楽しむ数少ない夫婦活動です。それなのに、話しかけても反応がないし、彼女の関心などに興味をもって聞いてくれません。あげくの果ては、夕飯後、さっさと自分の部屋へ去ってしまい、コンピューターに熱中してしまいます。1日の中でたった少しの2人の時間を有意義に過ごしたいのですが、これでは憤りも隠せません。

週末はたまには結婚以前2人でデートをしたように、外出して食事でもしたいです。少しはきれいにして、夫にそれを認めてもらいたいです。主婦にはなったものの、いつまでも女性としての自分を見失わないようにしたいです。でも、夫は「釣った魚にはえさを与えない」感覚で、いまさら彼女とデートだなんて考えてもみません。そんな夫を見て、彼女は自分の結婚が正しかったのかどうか考えることも少なくありません。

何か個人的なものとは、普段意識して考えない心の欲求です。2人で意識して結婚以前に語ることができるゴールとは違って、相手を省みない自分の欲求です。ですから、相手に理解してもらうのが難しいのです。にもかかわらず、それが結婚の進行を妨げることもできるし、離婚の原因ともなりうる重要なものなのです。

何か個人的なもの

この意識しないうちにもじわじわと出てくる何か個人的なものとは、確かに意識をして、理解をするのが難しいです。食事の時に、今日の仕事のことでちょっと悩んでいるので、それを消化するのに続けて考えなければならないから、少しの間話しかけないで欲しい、などと言う人が沢山いるとは思えません。そして、そう言われた妻が、今日1日考えてあなたに楽しんでもらおうとして作った食事なので、それについて満足がいけるようなあなたの発言を待っているのです、と表現するのは普通多くないと思います。

何か個人的なものとは、普段自分でも意識していない心の欲求で、それは相手を通して満足できるものです。2人で話し合える結婚内でのゴール等とは裏腹に、言葉にも出さない隠れた個人的な課題ともいえるでしょう。例えば、(上記の)夫婦のやり取りから察することができる、母親任せの夫の欲求、そしてそうかと思ったら、自由に出かけられることを妻から期待する放任主義。それにハーモニーとして存在し難い妻のロマンティックな欲求や、主婦業を通して自己の自尊心の確立を図ろうとする心の動きは、なかなか通常気が付くようなものではありません。

これらの心の欲求は、表面的な2人のゴールの立場からみると障害にあたります。なぜなら、隠れた心の欲求が満たされ、または解決しないと、宣言されたゴールに向かえないのです。ですから、何とか2人の個人的な欲求を処理しなければなりません。逆に、解決することができないときには、2人の仲が悪くなります。デートをしたい妻が、放っておかれたら、幸せではないですし、そこから出てくる怒りや失望は、暖かい家庭に貢献しません。そして、仕事のストレス解消をできない夫は、不機嫌ですし、妻に八つ当たりもしますし、決して安定した家庭に貢献できるものではありません。これが長く続けば、2人の間は冷めていき、結婚生活が終わってしまいます。

解決法step 1: 何か個人的なものは自分でも意識していないので、知らずのうちに問題になりやすいです。先ず、不満なときには、どのような欲求が満たされていないのか、自分を振り帰り、明らかにしましょう。

解決法step 2: 夫婦の間で話し合う時間を作り、自分の気持ちを伝えてみましょう。夫婦の間でも予約を取ることは大切です。そうでないとまた無視されます。この時点では、相手に自分の気持ちを伝えるだけで、相手に何も依頼などしていません。

解決法step 3: 自分のできる範囲内で、相手の欲求をかなえてあげましょう。それまでは自分の欲求をかなえようとして、喧嘩になったりがっかりしましたが、今度は相手にフォーカスを当てて、その満足をゴールとします。これを続けると、不思議に相手も自分の欲求を満たすことに気を回し始めます。自分から進んですると、いいものが戻ってきます。

解決法step 4: 夫婦間で最上の達成は、相手の欲求を自分の欲求として共有することです。相手の欲求が自分の欲求となるので、相手の満足は自分の満足となり、相手の幸せは自分の幸せとなります。

このようにして何か個人的なものの解決に至るわけですが、そうしたら、明記された結婚のゴールへ向かえるでしょうか。それとも、すでにゴールに到達したのでは、ないですか。

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