momson.png何かの調査によりますと、結婚関係内でのセックスの回数は、先進国の間では、日本人が一番少ないとか聞いたことがあります。この統計が正しいかどうかは別にして、結婚してまもなくセックスの回数がかなり減ったり、セックスレスになってしまうカップルのことを聞くことは、少なくありません。性生活の減少やセックスレスの状態は、通常カップルのどちらかから始まると思いますが、今回は男性がセックスに対して興味を失ってしまう現状について考えて見たいと思います。

先ず、知っておきたいことは、「性の感覚と言うものは、生まれたときから存在する」ということです。一般的に性欲とそれに伴う性行為は、思春期から始まるものと考えられています。確かに男子はそのころから、射精が可能になります。しかし、性の感覚と興奮はそれ以前から経験できます。男子としては、それを性欲とは認識していませんが。

男の子に限るわけではありませんが、母親と子供との関係は密接なものがあります。言葉でのやりとりが可能になり始めるまで、1歳半位までかかるので、親子関係は、特に体の触れあいや、言葉を伴わないコミューニケーションが多いです。つまり、気持ちレベルの付き合いが盛んに起こり、それと同時に、子供にとっては、母親は大きく、力強く、頼りになる存在です。この大きな母親との気持ちレベルの関係には、自然と性的感情が含まれています。子供は知らない間に、母親と性的な感情を含む関係を経験しているのです。そしてこのような親子関係は子供の心にしっかりと残っていきます。


男子が成長して思春期以降、異性を求め、性的な関係が起こり始めますが、小さいときの母親との人間関係がパターンとして大きな影響を及ぼすことは、違いありません。それと同時に、男子は男性としての性的行為と役割を身に付けなければなりません。男性性的行為と役割は、社会の中で文化の一部として伝え続けられており、男子が成長するにしたがって徐々に身に付けていくものです。

先進国日本で、徐々に変化しつつあるものの、男性の性に関する役割には、女性をリードし、支配し、服従させるというものがあります。それは、力のバランスからいいますと、男性が女性より強いという形です。

ところが、男性の乳児期に学んだ、居心地のよい性的関係は、力強く偉大な母親との関係で、社会から要求される力強く上位の役割とは逆のものになるのです。すなわち、男性は自分が求めている性的関係とは違ったものを、楽しむべきであるという立場になり、この二つのあい反する役割をうまく調整していくか、中には問題を抱えてしまう男性があるということになります。

男女の間に性的関係が起こり、はじめのうちは、社会の規定通り、女性を導いていきます。それと同時に、心の中では、ある日それとは違った、母親と経験した性的関係が生まれると期待しながら進みます。その希望のために性欲は満々である状態が結婚初期に存在します。そうしているうちに男性は母親との性的関係を妻と実現しようと時々試みるのですが、うまくいかないところも多分にでてきます。そして次第に母親になれなかった妻に対する性的興味がなくなってしまうのです。

その結果、男性の本来の性欲は、結婚関係内から追放された形になってしまいます。でも性欲はそれで消滅されるわけにはいきませんから、どこかで存在し続けます。その性欲の表現は俗にいう、性癖、性的変態、痴漢などという、やはり公では受け入れられない場で、行われてしまいます。
interjection.gif先月は、よい離婚、悪い離婚について書きました。それに変わりまして、今回は結婚についてです。結婚の良し悪しを決めるには、いろいろな基準がありますが、今回は心理的に見た夫婦関係のありかたに基づいて結婚についての判断をしてみます。

先ずは次の夫婦間の会話を読んでください。

夫:「この週末は、友達と会う予定なのか。」

妻:「そうよ、土曜日にモールで会ってちょっと買い物をし、それから家に夕飯に連れて来たいわ。」

夫:「えっ、夕飯に連れて来るの。それってちょっといやだなぁ。」

妻:「もう、ずいぶん長い間誰も招待したことないし。私だってたまには遊びたいわ。」

夫:「例えば、僕が出かける時なんかにしてくれないかな。」

妻:「そんな時に、私の友達が暇なわけないでしょう。会う都合を合わせるだけでも、たいへんなのに。嫌なら、挨拶だけでもして、自分の部屋へ行ったらいいわ。」

夫:「何で、こっちが迷惑しなければならないだ。」

というわけで、よくありそうな会話です。夫婦の間で自由に意見交換をし、お互いに理解できているような感じです。では、次の会話を読んでみてください。

夫:「この週末は、友達と会う予定なのか。」
妻:「そうよ。あなたに迷惑でなかったら、土曜日にモールで会ってちょっと買い物をしたいわ。それから家に夕飯に連れて来たいけれど、どう思う。」

夫:「君がそうしたいのなら、どうぞ。何かやってほしいことでもあるか。」

妻:「せっかくの土曜日だから、あなたもゆっくりして、好きなことをしてていいわ。私は前もって夕飯を用意しておくから。よかったら一緒にどうぞ。」

夫:「家にいるんだから、挨拶程度に一緒に夕飯もするよ。彼女の方もそれで問題ないでしょう。」

妻:「そうしてくれると私もうれしいわ。彼女もあなたに会いたがっていたようだから。」

夫:「へー。ということは、ワインの一つくらいは買っておこうか。」

 こちらの会話の方が、夫婦の仲がよい感じがします。お互いの意見を自由に言っているだけではなく、相手に対する気づかいが会話の中に含まれています。それに代わって、最初の会話は、自分の表現はよくしているものの、相手の気持ちを掴んでいません。二番目の会話をもう少しよく見てみましょう。

妻:「あなたに迷惑でなかったら、モールで会って、、、」夫も土曜日に予定があるかもしれない、私が出かけることによって、不都合が起こるかもしれない、という気持ちがあって、「迷惑でなかったら」といい始めました。

夫:「君がそうしたいのなら、どうぞ。何かやってほしいことでもあるか。」妻の気持ちを大切にしたいという夫の気持ちが出てきます。その上、何かお手伝いをして、もっと楽しんでほしいと気持ちが回っていきます。

相手の気持ちを察して、自分の気持ちであるかのように、取り入れて扱うことを、投入introjection と言います。相手を信頼しているので、投入が起こりやすいです。その反面、自分の気持ちを相手に押し付けることを投影projection と言います。相手に対して不安が多いと、自分の押し付けが多くなりがちです。そして、投入と投影のバランスを見るときに、投入の方が投影より多いという夫婦関係のほうがよりよい結婚である、と言うことができそうです。
rikon.JPG つい最近までは、離婚とは悪いものだ、結婚の失敗だったなどと当たり前に考えられていました。でも、今は離婚が必ずしも悪いものだと考えることは少なくなってきています。明らかに悪いと思われる、結婚をなんとしてでも続けること自体、問われるようになりました。夫婦間で喧嘩が絶えなかったり、家庭内暴力が続いたりしているところでは、夫婦にとっても子供にとっても、一個の家族を続けることは、心身の健康によいことではないでしょう。現在、問われる問題は、何かの理由で結婚がうまく続かない状態のとき、離婚がよいことなのか、それとも悪いことなのかを考えることが、より重要になってきています。

そこで今回は、何をもってよい離婚と言えるのか、どんなときに悪い離婚となるのかを、夫婦関係の心理面から観察して一つの指針を生み出してみたいと思います。もちろん離婚に関する問題は、金銭的、社会的、職業的、親戚的など他にもいろいろな要素が含まれてしますから、心理面だけで離婚の良し悪しが単純に決まらないことを承知しておいてください。

先ず、離婚が起こりそうな悪い結婚関係の状態を調べてみましょう。夫であるA氏は年々妻に対してのコントロールが激しくなってきました。コントロールが激しいというのは、妻に対して細かな指示をして、それを強制させる。妻が従わなければ、激怒となるし、子供に当り散らしたりする。そうすることによって、妻の心理的地位をいつも自分より下に置いておこうとすることです。

A氏の性格は、二つの部分から成り立っていると見ることができます。一つは上位な性格部分で自分の気持ちをよくコントロールしておこうという部分です。もう一つは、もともとA氏がコントロール性格になった理由で、不安、存在的不安、自己破壊的不安です。これが心の奥に存在していたために、これを何とかコントロールしていかなければならなかったのです。

心理的必然なものが次に起こります。結婚相手に自分の不安を投影して自分から排除し、相手にその部分を保ってもらいます。それをするために、相手を厳しくコントロールし彼女がへまをしないで、自分の思う通り行動させることで、自分の不安をコントロールするという動きです。ある意味、自分の不安が結婚相手の性格に乗り移りました。

この状態で結婚を続けるということは、A氏にとって非常に有効です。自分の結婚以前の不安の解決になったわけですから。もちろんA氏としては、離婚は考えに浮かばないでしょう。ところが、妻の立場としてはどうでしょう。主観的に不安を感じるだけでなく、それが起こるごとに、夫に細かく支持されたり、怒鳴られたりします。毎日息も満足にできない状態になり、できるのなら離婚をしたいと考えることでしょう。

この場あり、妻にとっては、離婚はよいことです。離婚をすることによって、A氏から投影された、不安を結婚以前の自分の状態に戻すことができます。ところがA氏にとってこれは悪い離婚となってしまいます。自分の不安を投影する相手を失い、自分自身で不安を再度抱え込まなければなりません。うまくいけば、また投影できる結婚相手を探すことができるかもしれませんが。

一方、妻の方からしてみれば、結婚以前A氏のことを、リーダーシップのある立派な人物だと思ったのでしょう。まさかそれが、細かなコントロールとなるとは夢にも思ってみなかったことでしょう。彼女の夫に対して投影したリーダーシップイメージは、また、次の人間関係で起こるかも知れません。そのイメージの人を発見できないと結婚相手と思えないというのであれば、彼女自身深い父親コンプレクスがあるということで、自分を深く見つめなければなりません。期待するところは、最初の結婚で父親コンプレックスを諦められたかどうか。それが彼女にとってよい離婚となるか悪い離婚となるかの決定点となるでしょう。

父の法

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chichi.gifある父親が、すっかり大人になった息子がたびたび家にお金を借りに来るので嘆いていました。彼は、息子のためにも下手な助け方をしないで、もっと息子が独立できるような長期的な援助を考えていました。でも、母親が息子のことを哀れんで、お金を出してしまいます。母親は息子が困っているのをそばで見ていられません。そのために、両親の喧嘩が事あるごとに起こってしまいます。彼はいったいどうしたらよいかと悩んでしまいます。

このような家庭の風景をみることは、少なくないと思います。それが金銭的な問題でなくても、父親と母親の子供に対するアプローチが違い、親夫婦の間で葛藤が起こってしまいます。

母親は、子供を赤ちゃんの時から育て上げてきて、子供が楽になるように、気持ちよくなるように、そして幸せになるように子供と接触をします。赤ちゃんがお腹を減らして泣いたら、乳をあげます。オムツが汚れて子供が泣いたら、それを取りかえてあげます。母親のルールは、子供と毎日接触する中で生まれてきます。子供が辛いと、母親自身も辛くなります。それで、子供の面倒を見ることによって、自分の心の痛みをぬぐいさろうとします。母親のルールは、子供との人間関係の中のルールです。

一方、父親は子供が社会で立派にやっていけるように、家庭と社会との架け橋の役目をしようとします。子供を外に連れ出して、遊んだりして教えながら、家庭より大きな世界を見せようとします。その世界でうまくやっていけるように、社会のルールを子供に教えようとします。

社会のルールは3点のルールと言って、自分-(1) と相手-(2) がもう一つの限られた資源-(3) を求めて競争や戦いをしていくことです。自分と相手がうまく協力して、限られた資源を分かち合うということも含まれているでしょう。

母親との付き合いとは違って、頼りながら何かをしてもらうこととは随分異なります。独立性を持って、相手と公平に対処し、相手とルールを作りながら共存することを目的とします。これがいわゆる世間でのルールで、「父の法」と言うべきものでしょう。共存そして存続を目的としていますから、そのつど起こる痛みや苦しみは、母親の対処と違って、我慢をしていくことが多くあります。例え、助けを求めてきた人がいたとしても、その人にとって今すぐ助けないほうがよいと判断をしたときには、助けを拒みます。そうすることによって、その人の力を補うことをしようといます。

先ほどの父親の話に戻りますが、母親のルール、そして父親のルールの話を聞き、最初は母親のルールについて、疑問を感じはしましたが、次第に両方の大切さを理解することができました。すなわち、自分の息子の独立を促すことは大切であり、それが最終的な目的であろうものの、息子が困っていたり悩んでいたりする時に、それを癒してやることも大切であることが理解できました。それどころか、息子の心を癒すことができるが故に、息子のほうも父親の話に耳を傾けることができるようになりました。

その結果、家族のフォーカスが両親の夫婦喧嘩から、いかにして息子を助けるか、又は、どうして息子が自己独立に関して問題を抱えているのかを見ることができ、援助の仕方がもっと賢くなりました。その過程で発見されたことは、息子自身、social learning disorder (社会的学習障害)と言って、人間関係の理解、そして維持に大変苦心していることが解ったのです。それで普通より社会デビューに時間がかかるということだったのです。

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 ロマンスドラマは、タイトルのごとく終わってしまうわけですが、その後はどうなるのでしょう。結婚もゴールインとして呼ばれて、一件落着と言うわけですが、同時にその時点がスタートラインとなり、それまで2人で語ってきた夢を実現していくことになります。そしてそれまでの夢が将来のゴールとなって、努力をしながら、2人で歩んでいくものになります。

結婚直後描いている将来のゴールは、結構理解しやすいです。2人でなにを一緒にしようかとか、どんな雰囲気の家庭を作りたいとか、いつ家を購入しようかとか、子供は何人作ろうとか、どんな仕事を2人でしたいかとか、いろいろあるでしょう。そして、事はその通り進めば何の苦労もなく、今回のタイトルのごとく、その後はずっと幸せに暮らしました、となるわけです。でも、実際にはスムーズに行くことは少なく、何か個人的なものがじわじわと出てきます。

例えば、A君は1日の仕事を終えた後は、1人でゆっくりとリラックスをしたいと感じます。帰宅したとき、たまに夕飯が用意されてないと、不思議に思って憤慨します。なぜ、妻は家にいて時間があるのに夕飯の準備ができていないのかと。そして、仕事の余韻が残っている頭を静めながら食事をしたいのに、妻は彼にとってどうでもよいことを、なんだかんだと話しかけてきます。うるさいし放っておいてほしいと感じます。

彼のストレス発散は、コンピューターを使ってインターネットで好きなサイトをチェックすることです。寝るまでの時間は少しかないので、大切な時間を有効に使いたいのですが、彼の妻はどういうわけか放っておかれて怒っているようです。たまにそれが爆発して大喧嘩になることもあります。週末はたまには結婚以前から知っている友達を誘ってゲームへでかけたり、飲みにいきたいのですが、それに関しても妻は文句を言いますし、やっと説得して出かけたとしても、帰ってくると機嫌が悪いので困ります。

そして、B子さんはいろいろ考えてせっかく作った夕飯について何も言わずにただもくもくと食べる夫を見てがっかりします。夫がおいしそうな食べ物を見て、驚きと興味を表し、うまいうまいと言いながら、食べることを想像していたのに、無視されたような気がして、怒りも覚えます。楽しい食卓は、家を明るくしますし、2人の関係を楽しむ数少ない夫婦活動です。それなのに、話しかけても反応がないし、彼女の関心などに興味をもって聞いてくれません。あげくの果ては、夕飯後、さっさと自分の部屋へ去ってしまい、コンピューターに熱中してしまいます。1日の中でたった少しの2人の時間を有意義に過ごしたいのですが、これでは憤りも隠せません。

週末はたまには結婚以前2人でデートをしたように、外出して食事でもしたいです。少しはきれいにして、夫にそれを認めてもらいたいです。主婦にはなったものの、いつまでも女性としての自分を見失わないようにしたいです。でも、夫は「釣った魚にはえさを与えない」感覚で、いまさら彼女とデートだなんて考えてもみません。そんな夫を見て、彼女は自分の結婚が正しかったのかどうか考えることも少なくありません。

何か個人的なものとは、普段意識して考えない心の欲求です。2人で意識して結婚以前に語ることができるゴールとは違って、相手を省みない自分の欲求です。ですから、相手に理解してもらうのが難しいのです。にもかかわらず、それが結婚の進行を妨げることもできるし、離婚の原因ともなりうる重要なものなのです。

何か個人的なもの

この意識しないうちにもじわじわと出てくる何か個人的なものとは、確かに意識をして、理解をするのが難しいです。食事の時に、今日の仕事のことでちょっと悩んでいるので、それを消化するのに続けて考えなければならないから、少しの間話しかけないで欲しい、などと言う人が沢山いるとは思えません。そして、そう言われた妻が、今日1日考えてあなたに楽しんでもらおうとして作った食事なので、それについて満足がいけるようなあなたの発言を待っているのです、と表現するのは普通多くないと思います。

何か個人的なものとは、普段自分でも意識していない心の欲求で、それは相手を通して満足できるものです。2人で話し合える結婚内でのゴール等とは裏腹に、言葉にも出さない隠れた個人的な課題ともいえるでしょう。例えば、(上記の)夫婦のやり取りから察することができる、母親任せの夫の欲求、そしてそうかと思ったら、自由に出かけられることを妻から期待する放任主義。それにハーモニーとして存在し難い妻のロマンティックな欲求や、主婦業を通して自己の自尊心の確立を図ろうとする心の動きは、なかなか通常気が付くようなものではありません。

これらの心の欲求は、表面的な2人のゴールの立場からみると障害にあたります。なぜなら、隠れた心の欲求が満たされ、または解決しないと、宣言されたゴールに向かえないのです。ですから、何とか2人の個人的な欲求を処理しなければなりません。逆に、解決することができないときには、2人の仲が悪くなります。デートをしたい妻が、放っておかれたら、幸せではないですし、そこから出てくる怒りや失望は、暖かい家庭に貢献しません。そして、仕事のストレス解消をできない夫は、不機嫌ですし、妻に八つ当たりもしますし、決して安定した家庭に貢献できるものではありません。これが長く続けば、2人の間は冷めていき、結婚生活が終わってしまいます。

解決法step 1: 何か個人的なものは自分でも意識していないので、知らずのうちに問題になりやすいです。先ず、不満なときには、どのような欲求が満たされていないのか、自分を振り帰り、明らかにしましょう。

解決法step 2: 夫婦の間で話し合う時間を作り、自分の気持ちを伝えてみましょう。夫婦の間でも予約を取ることは大切です。そうでないとまた無視されます。この時点では、相手に自分の気持ちを伝えるだけで、相手に何も依頼などしていません。

解決法step 3: 自分のできる範囲内で、相手の欲求をかなえてあげましょう。それまでは自分の欲求をかなえようとして、喧嘩になったりがっかりしましたが、今度は相手にフォーカスを当てて、その満足をゴールとします。これを続けると、不思議に相手も自分の欲求を満たすことに気を回し始めます。自分から進んですると、いいものが戻ってきます。

解決法step 4: 夫婦間で最上の達成は、相手の欲求を自分の欲求として共有することです。相手の欲求が自分の欲求となるので、相手の満足は自分の満足となり、相手の幸せは自分の幸せとなります。

このようにして何か個人的なものの解決に至るわけですが、そうしたら、明記された結婚のゴールへ向かえるでしょうか。それとも、すでにゴールに到達したのでは、ないですか。

ひきこもって解決

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今年の1月にひきこもりについて書きました。そのときは、ひきこもりを治すために、「波長の合った接し方」と言うのが、有効であると述べました。今回はひきこもりの原因となる心の動きをもう少し追求すると同時に、ひきこもりがその人にとって、どのように心の問題を助けているかを考えてみたいとおもいます。

前置き:赤ちゃんは1歳を越しますと、運動能力が増え、それに伴って母親からの心理的分離が起こりだします。これは、母親と自分は別の人で、別々に存在し、体も心も離れることが可能であると理解することです。この分離は少しずつ起こり、3歳位までかかって確立をします。子供の中には、その分離が困難で、母親から離れはしたものの、それがいつまでもトラウマとなってしまったり、そのために離れていることをいつまでも否定したりします。急速な分離や子離れが困難な母親などが理由となって、分離困難が起こったりします。

アレスト:分離が困難であると、それを解決するまで、その発達過程をいつまでもうろうろする傾向があります。大人になってからも、人との別れが大変な人は少なくありません。人と別れるたびに、母親から離れた時の、トラウマ的感情を思い出したかのように、ショックを受けます。

ひきこもりの心理:分離のトラウマがある人は、仲良くできそうな人と出会うと、親近感を普通異常に早くそして強く感じます。昔あった母親との融合感を再現したいからです。それと同時に、もし親近感を覚えたら、その後また分離があるのではないか、別れなければならないのではないかと不安にもなります。結果として、人に近づこうとする吸引力と別れを恐れる反発力の葛藤の中に置かれてしまいます。不思議なことに、本人は気が付いていないかも知れませんが、人間関係内では、親近感と不安を同時に、行動、態度、言葉などを通して表現してしまいます。

親近感を表現した結果、他の人が近づこうとしますが、それと同時に、本人は大変不安を感じるようになります。本人の主観としては、人間関係が発生する場面に遭遇するごとに、不安が起こり、それを繰り返すことによって、人間関係の難しさと危険性を感じるようになります。たまたま、身近に友達などできると、大変不安に感じて、それを避けるようになり、失敗感も手伝って、ますます他の人から離れるようになります。

人から離れた状態、すなわちひきこもりの状態に入ると、不安は直接感じなくなりますが、それは外の世界に投影され、家の外自体が不安な世界に変化していきます。よって、外出自体が困難になってきます。

この外の世界から離れた状態、他の人から離れた状態は、元をたどると、母親からの分離の状態を表しているわけですが、不思議に人間関係の状態に戻れないと言うところが、最初の分離の激しさを物語っていて、トラウマである証拠にもなるわけです。

それでは、本人の心に潜んでいる、融合を求める気持ちはどこへ行ってしまったのでしょう。それは主に空想の中で満たされていきます。自分の心の中には、テレビドラマ、ラジオ、インターネットや読書などから刺激され、作り上げられた空想の人物が住み着きます。そういった人物は、自分に不安をかきたてないので、自由にやり取りができ、ある種の親近感を得ることができるようになります。

ひきこもりとは、外界との接触から起きる不安を取り除き、内の世界の人物と融合を可能にする、合理的な解決法であったのです。

yoga.jpgサイコセラピーでは、患者さんの問題の原因を過去に探すことが多いです。現在の心理的問題は、ただ現在のストレスや事のなりゆきで発生したのではなく、その原因は過去の何らかのトラウマであると言う考えです。そのトラウマが心の中に潜み、現在のストレスによって病気として再発すると言うのがおおざっぱな考えです。そのために、過去の経験をよく調べて、問題となるものを探求します。過去のことをよく覚えていること、又は思い出すことができることが、大切になったりします。

ところで、未来は存在しません。私達は、未来について予想したり、想像したりできますが、それについてどうこう事実であるかのように、述べることはできません。ですから、サイコセラピーでも、未来の未だ起こっていない事件が、ストレスとなって現在の問題を引き起こす、などということはあまり言わないでしょう。しかしながら、未来についての想像が、現在のストレスとなることは、決して少なくありません。例えば、来週に大切な試験があるとすれば、それを想像するだけで、いろいろな感情反応が起こり、ストレスとなって夜も眠れなくなることがあるでしょう。

未来の存在感は、過去の存在感と比べると少ないですが、実際に過去はそのように言うほど存在しており、現在の問題にインパクトがあるのでしょうか。ここで、過去の存在がどのように生まれてくるか、見直してみようと思います。

一般的に、過去は私達の記憶として存在します。何年前にこういうことがあったと思い出して、過去の存在を感じます。完全に忘れてしまった事柄に関して、過去は存在しません。そのことはなかったことと同じです。では、過去は私達の記憶以外のところで存在をしないのでしょうか。

アルツァイマー病にかかった人は、病気の進行と共に、記憶をどんどん失っていきます。最初は身の回りの新しい情報を忘れてしまうことから始まります。でも、最終的には過去の記憶も消えてしまい、自分がどこで生まれたのか、誰と結婚したのか、自分と言う人物の過去も、どんどん忘れてしまい、自分の人生が消えていってしまいます。その人にとって、過去は存在しないのと同じです。

でも、その人には過去の写真があります。卒業式の写真がちゃんと残っているではないですか。誰が見ても、その人に過去がありました。にもかかわらず、その人が写真を見て自分を認識できなかったらどうでしょう。自分はそこにいなかったのです。その場合、その人にとって過去は存在しません。すなわち、過去が存在するには、過去に何かが起こったかが問題ではなく、現在本人が記憶や認識力を通して、事柄を頭の中に描けるかということです。その上、描いた物は実際に過去に起こったことと一致するかどうかは問題ではありません。実は、何かが過去に起こったと思うだけで、過去の存在が始まるのです。つまり過去は、それと言って独立して私達の外に存在するのでなく、私達が考えるごとに存在が起こると言ってよいでしょう。

もしそうだとすれば、過去のトラウマは現在の心の問題の原因となりうるのでしょうか。過去が脳の中で、何かの生理的変化を伴うと同時に作られるのであれば、その現在の生理的変化が心の問題を引き起こしますが、一般的に言う過去が問題の原因となるとは思えません。

したがってサイコセラピーで、過去の存在を前提とし、その中で問題の原因となる事柄を追及することは、意味がなくなってしまいます。その代わり、過去のことを話すのであれば、そう言われるものが現在どのように作り上げられているか、どのように認識されているかを調べることによって、心の問題の今に関連する原因を明らかにするができます。

歴史は、語われる前、書かれる前に存在はしません。そのとき何が起こったかは、誰かが認識して語るまで存在しないでしょう。その後、何事やらをどのように語るかによって、歴史がつくられ、過去の存在が発生します。人によっては、事柄の認識の差や、語り方の差が出てくるのもしかたがありません。ですから、何通りもの歴史があっても不思議ではありません。

恋愛についてもう一度

renai.gif他の科学と同じく心理学も発展を遂げて、今までよく理解できなかった事柄について新しい見方ができるようになります。恋愛については過去にも何回か触れましたが、事柄自体が簡単そうであり、でもよく見ると、非常に複雑なものでもあります。「どうして恋愛をするんでしょう」というような質問は、哲学的な答えしかなさそうですし、どうしてそんな質問をするかということじたい、問題になりそうです。

今回、恋愛について付け加えたいことは、なぜ恋愛中に自尊心が上がるのか、という問題です。経験からお解りと思いますが、恋におちいると相手がすばらしい人として見えるだけでなく、その人とつながっていることによって、自分が最高に感じる事があります。それがどのようにして起こるのか考えてみようと思います。

人は大人になっても結構主観的な見方から離れなれないもので、他の人を自分と同じと見る傾向があります。例えば自分がある映画が好きだとすれば、他の人も自分と同じように楽しめるのではないかと思います。自分があることを気にしていれば、相手も同じことを気にしていると考えがちです。このようなプロセスを投影といいます。人は自分の何かを投影することによって、相手と一緒になります。つまり同一化します。

異性の理想のあり方と言うものについて意識したことはあるでしょうか。顔や姿、動き方、態度、性格、話し方などの自分にとってアピールするものは意識できるかもしれません。面白いことに異性の人がアピールするものを持っていて、その一つ見出すと、続けて自分のリストの他の部分も見つけ出せるときがあります。すなわち、一つをきっかけに他の特徴を投影しだすのです。相手にそれがあるかどうかは、解りません。でも、投影が始まると、自分の見たいものを相手に発見できるのです。というか、勝手にあると信じこみます。自分の理想を投影しましたから、相手が理想に見えてきます。この状態を恋に陥ると言ってよいでしょう。

相手が立派に見えて、輝いて見えて、最高に見えます。しかしながら、その要素は自分の所から出ていて、それが投影されたものですから、居心地がよいことは間違いありません。今度は、自分が相手の理想の部分と同一化します。その理想はもともと自分にあったものですから、それを自分と同じと思うのは難しいことではありません。そしてそれが次のステップと発展していきます。

投入と言って、相手のある特徴を自分の物にしてしまうプロセスです。恋する相手と同一化した後、その理想の内容を自分の物にしていきます。相手のすばらしい部分が自分の物になってしまうのです。その結果自分も素晴らしい人になります。結果として自尊心が上がるということになります。つまり、このプロセスをたどって見ますと、自分の理想が相手に投影され、それと自分が同一化し、そして今度はその理想を投入します。自分の物が相手に行って、また戻ってきました。不思議な話です。

このような面倒なプロセスを通して、何かよいことでもあるのでしょうか。実は、これは、赤ちゃんがお母さんに自分の気持ちを投影し、今度はそれを投入するのですが、ついでに、お母さんの何かをも含めて投入し自分の物にするのと同じなのです。そうすることによって、子供が母親の何かを吸収し学んで自分の物にしていきます。

恋する人の何かをも自分のものにしながら、自分がちょっと大きくなったという感じでしょうか。

結婚とままごと

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mamagoto.gifままごとと言えば、小さい子が炊事をして食べることをまねしたり、家の掃除をしたりしながら、家庭生活の様子を遊びを通して演じることです。一人遊びから始まって、少し大きくなると、友達と一緒に相手に役を与えながら、いつもの家族の状態を再現します。

家庭生活の遊びですから、必然的に女の子がすることが多いのですが、弟などがいると、お姉ちゃんにリクルートされ、ままごとの中での役割をさせられることもあるでしょう。

一見ただの遊びでしか見えないままごとなのですが、結構子供の成長に役立っていたりします。ままごとを通して、子供は母親や父親、そして子供の役割を象徴していきます。まさに、家庭内での家族のやり取り、行動の仕方、仕事や規則を表現したり学んでいったりするわけです。こういったままごとが将来結婚生活の充実に役立つだなんて、考えてもみないことです。

大人になって、ままごとでしていた様な内容が現実となっていきます。炊事のままごとは、遊びではなくなります。実際の日常の仕事となってしまいます。お片づけのままごとは、掃除としてたいへんな仕事になってしまいます。そうなると、もう遊びとして楽しんでいるわけにはいきません。結婚生活の中で、かつてのままごとは義務となり、それから離れること自体が遊びそして休暇となってしまいます。

でも、それでよいのでしょうか。毎日の時間の大半をすごして行う家事がただの義務であり、仕事であり、やむおえずしなければならないものとなっては、悲しいことです。子供の時に覚えたままごとの楽しみと興奮はいったいどこへ行ってしまったのでしょう。

そこで思うのが、家庭生活はやはりままごととしてやった方がよいという発想です。「誰が、皿洗いのままごとをするのか」ですって?ま、想像してみてください。実際には、正確に言うと、現実の必要性と遊びとしてのままごとのよい組み合わせと考えてみてください。

先ず、クッキングを楽しんでする人はいます。特に最近では、テレビのクッキングや食べ物番組が多いですから、それをまねてみたり、ヒントを得たりして、家庭でのクッキングを楽しむという態度がすでにできている人はいるとおもいます。これにもう一歩加えてままごと化し、夫婦で遊びの会話を楽みながらすると増してよいでしょう。

夫:今日は何ができるのかな。

妻:あなたの好きな魚ですよ。

夫:どんな魚?

妻:当ててごらん?

夫:いるか?

妻:???

と言った感じで、ちょうど子供の会話に真似たような遊びです。

妻:今日はタイレストランへ行きます。

夫:それは楽しみだな、何が出るのかな。

妻:もちろんイナゴですよ。

夫:ミミズって食べないの?

家庭生活の中に遊びを含むことによって、毎日の生活の真面目さから来る重みを取り除けるだけでなく、遊びの態度は創造性と想像性を増やします。知らないうちに、それまで考えられなかったことが浮かんできて可能になります。これを続けることによって、ままごとの範囲が広がり、時には部屋に家具を買う時も、買い物ごっこになりますし、掃除は掃除ごっこ、性生活はドクターごっこ、お出かけは、デートごっこと言うように、いつまでも遊びで家庭生活ができるようになるでしょう。

肝心なことは、大人になっても心の中の遊びにふける子供の心を忘れないこと。これを続けていって来年の2月には、バレンタインごっことして遊べるようになりますかね。

kagami.gifセラピストとして、患者さんのこと、それは気持ちであろうが、考えであろうが、態度であろうが、それらを理解しようとすることは、日常のことであります。どのようにして、相手を理解しようとするかという問題は、セラピストとしてトレーニングをし始めるときから、終わりまで、そしてその後も永遠と続くことであると思います。それにも関わらず、ふと考えて見ますと、「いったい、どのようにして相手を理解しようとしているのか」不思議に思うのは止みません。

私達は、相手の心の中に入ることはできませんから、その人の気持ちを感じられませんし、その人の考えも考えられません。ですから、その人の心を理解するということは、こちらの想像でしかないのでしょう。つまり、相手の考えを理解したという時には、実は自分の考えをもとに、相手の考えもそうなんだと、想像しているだけなのでしょう。


もう少し心理学的に言いますと、相手の言っていることに刺激されて、自分の頭にいろいろな考えが浮かびます。その一部を相手に当てはめます。これを専門語で投影と言って、自分の考えや気持ちを相手が持っているものであると、錯覚すると言うことです。そして相手の理解をしたと思い込みます。

もう少し取り組んでいきますと、自分の欲求までも相手にあると想像し、錯覚をしてしまいます。例えば、ある人に自分のサポートをしてもらいたいと思っている時、その相手の人を能力があり、できる人と錯覚し、その人に能力があるかのように、行動してもらうことを期待したりします。相手も期待に応えるようにがんばってしまったりします。また、自分が怒っているときに、相手が自分と喧嘩をしたがっているかのように見え、悪い事を言ったりして、相手を怒らせたりします。その結果、相手が怒っていたのだと勝手に理解し、それが自分の錯覚であったことに気が付きません。

結局、自分の気持ちや、考えや、欲求が相手に存在すると思って、相手を理解したと言う言い方をしますから、相手の人は自分の一部であると言っても、言い過ぎではありません。すなわち、相手の心は知らざるを得ない。それで自分の心を代用し相手を理解したと考えます。相手を見ながら自分を見ていることになります。それでしたら、相手を最初から自分と思って、フレンドリーにしたら、人間関係がうまくいくかも知れません。これは余談ですが、試して見る価値がありそうです。

この「仕組み」は、身近な人間関係では、必然的に沢山起こります。例えば、親子関係や夫婦関係を見てください。自分の欲しいことを親にしてもらったり、夫や妻にやってもらいます。相手もやらざるを得なく動いたり、快く受け入れたりしてくれます。このお互い様のやり取りが、身近な人間関係を良くしていきます。逆にこのようなやり取りを拒むことで、理解をしめしてくれないと相手から文句が出たりします。

でも、この「仕組み」の危険性もあります。自分を相手に見ているのですから、気をつけていないと、相手が実は他の人物であるといくことを忘れてしまうのです。先ほどの「投影」というプロセスは、実は自分と相手の区別、境界線を薄めてしまうのです。その結果、自分と相手の区別がつかなくなってしまい、相手を尊敬する気持ちが無くなってしまったり、それと同時に相手を制御しようとする心が高まって、次第に虐待する方向に走ってしまったりします。

相手についての理解は、あくまでも自分の相手についての仮説であり、不正確でありながら、修正していくものであることを、お忘れなく。

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