靴下のあな

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私が朝エキササイズをしようとして、腕立て伏せを始めると、目の前の床にあなが丸く開いている靴下があるではないか。それを見て昨夜私の妻が言っていたことを思い出した。「足が冷たいので、靴下が濡れているのかと思ったら、かかとの部分にあなが開いていた。」そこで、私は不思議に思ってしまった。「なぜ、そんなことを私に伝えなければならないのか。」

あらためて考えてみると、その理由としては、新しい靴下を買うという宣言なのか、、、それとも、自分の経験を分かち合うという意味での報告なのか、、。朝食の時に彼女があなの開いてない靴下をはいているのを見ながら聞いてみた。彼女によると、「洗面所で私がまた水を散らし、それで靴下が濡れてしまったと思った。足が冷たいのであれば、どうしていつも同じところが冷たいのかと不思議に思っていたので見たところ、かかとにあなが開いていたので、その発見が面白かった。」ということである。

「その面白いのは解るけれど、なぜ私にそれを言ったの?」「さぁね。」

自分に当てはめて考えてみれば、自らの経験を相手に伝えておきたいという欲求がないわけではない。自分の身の回りの出来事を身近な相手に報告しておいて、自分に今何が起こっているか、どう感じているか、軽快なのか、困難と闘っているのか知っておいてほしいものである。相手の心の箱にちょっと置いておくような気分でもある。そして、何か2人でしなければならないことがあれば、自分のことを理解してもらっているので、コーディネートしやすいということもあるだろう。

心理的にもう少し考えてみると、人間の経験って相手なしで考え、感じることができないようである。誰かと一緒にあることをして、経験を分かちあうことから始まって、一人で何かをしても、あの人はどう思うかな、あの人に言ったらどう反応するかななどと考え、たとえ完全に一人でいるとか、プライベートなことをしていても、その内容に必ずといっていいほど誰かのイメージが入ってくる。すなわち自分の経験の中には、いつも誰かとか、相手がいると言うわけである。

セラピーをしていてよく観察することは、どんなに自分のプライバシーを守りたい人でも、最終的には自分の経験を、気持ちを相手に話して受け入れてもらいたいということである。そうすることによって、自分の存在を認めえもらい、心が安らぐという結果につながる。逆に、一人で孤独な生活をしていて、自分の気持ちを他の人に伝える機会のない人は、自分だけの経験はつまらないものになってしまい、そこに価値を見出せず、ひどい時には落ち込んでしまったりする。

人は相手がいて存在をするのであろう。自分の存在は相手が支えているのであろう。簡単な事でありそうだが、なかなか気がつかない事である。私が靴下のあなについていろいろと考えをめぐらして、結論としてはそのことを私に伝えることが妻にとって大切なのであろうと言うと、彼女はなんだか非常に元気になって幸せそうである。やはり靴下のあなっていうのはそういうことだったのだろう。

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