嘘と建前と装い

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4月はエイプリルフールの月ですね。4月1日には、さまざまの嘘が飛び回りますが、冗談として許されます。

しかし、嘘って言うのは真実とは違うことを言うことです。一般的に嘘をついてはいけないことになっています。嘘は自分をまもるために使われたり、相手をだますために使われます。どちらにしても相手はよい気分をしないでしょうし、ダメージを受けることもあります。

日本人の使う建前って言うのは、本音とコントラストして使われますし、本音が本当のことであるならば、建前はやはり真実でなくなってしまいます。嘘と違って、建前は社会でいけないことになっていません。建前が真実と違うことがわかっていても、誰もそれをとがめませんし、誰かが害を被ることもないようです。むしろ建前と言いますと、社会の流れをスムーズに保つための潤滑油のようです。

アメリカ社会では、日本語の建前に匹敵するような英語が見つかりませんから、それはないとして、その代わりに装いを使います。Pretenseと言いまして、本音を心の奥に隠して、表面的には違うことを現します。この場合、相手に害が及ぶこともありますし、自分を守るために装うこともあります。真実を現さないのですから嘘と似ていますが、一般的にもっと受け入れられていて、とがめられることも少ないです。

心理学分野では、防衛機構と言いまして、自分の本音を隠し、それと違った言動をすることがあると解っています。この自己防衛言動は、それをする本人も意識して解っていないことが多いですし、相手がそれを見破るのも難しいことでしょう。防衛機構は誰でも持っているものですし、むしろそれがないと心理的生存が難しいでしょう。しかしながら、これも真実を隠し相手は本人の言動に惑わされるでしょうし、害が及ぶこともあるでしょう。その上防衛機構は、それをしている本人も気が付いていないことが多いので扱いが大変難しくなります。

このようにして私達の言動を見てみますと、私達は毎日偽りの環境で生活しているかのようです。確かにテレビニュースを見ても解りますように、社会は詐欺と嘘と無責任な行動でいっぱいです。いつも信じ込んでいた正直と真実の価値はどこへ行ってしまったのでしょう。実は、正直であること、そして真実をいつも言うことは、非常に、非常に難しいことであると思います。なぜかと言いますと、嘘や装いは人間の社会内での生存上不可欠なものであるからです。

人は自分の立場から離れることができません。自分の身体と心は自分の生存を守るために働きます。たとえ、客観的な見かたをしようとして、相手の立場に立ったとしても、それは自分を通しての客観性で本当に相手になったわけではありません。そうしますと、必ずしも自分の現実があり、そして相手の現実があるということになってしまいます。自分の生存のために相手に合わせることが必要であることを前提に置きますと、自分の現実をまげて隠したり、装ったり、嘘をついたりするのがやむおえなくなります。

正直であることは、相手に合わせる必要がない状態にいるということで、自分の存在を肯定し、相手が自分と違うということを受け入れ、客観的なお互いの公平を守るために契約心を持ち、相手の批判に耐えるだけの自信がなければなりません。これは人間の精神発達上で獲得する固体化の理想であるのとちがいありません。私たちはそのような理想に向かう努力はできても、そこに到達することはほとんど不可能といってよいでしょう。ですから、現実的には嘘を言い、装いをしながら、真実を語る努力をしていく毎日であると思います。ちなみに、子どもに嘘をつかないように教えて、それを期待するのは無理でしょう。でも、真実を語るように努力をするように教えるていくことは、大切であると思います。

ここに書いたことで、私は嘘を申しません。、、、、、、??「うそ!」

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