心配するのをやめるにあたって

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私たちは、日常心配事が多いです。いろいろなことについて心配をします。でも、心配することは、決していい気分ではありません。不安だから心配をします。今後どうなるか判らないから心配をします。この未確定な気持ちは、いいものではありません。

どうして、心配をするのでしょう。赤ちゃんは心配をすることを最初から知りません。でも、小さい子に、心配をすることを教えるのは、簡単です。おいしそうなお菓子を用意し、子供のそばに置きます。そして、子供が手を伸ばして、お菓子を取ろうとする瞬間に、大きな爆発音を起こします。子供は脅えて、泣きながら逃げます。そして次回、同じように、子供のそばにお菓子を置きますと、それをほしい子供は、手を伸ばそうかどうか心配を始めます。お菓子を諦めれば、それで心配は終わるのですが、お菓子ほしさに、手を伸ばそうとすると、また、爆発音がするのではないかと、心配をします。

この風景は、想像だけにして、実際にお家でやらないでください。幼児虐待になります。心理学の実験では、ねずみを使ってやったことがあります。

このイラストから解るように、心配は欲求とそれがかなわないときに起きる罰の板ばさみの状態の時に発生します。そして、そのような状態は日常茶飯事ですから、心配も毎日起きて、不思議ではありません。その上、毎日起きますから、たいへんよく、練習を重ねてきている行動であるといえます。そのうちに心配をしないと、欲求がかなわないという理屈もでてきます。なぜか、心配を事前にすることによって、悪い事を防げるような気にもなります。

しかし、何かを欲しい時に、解決策があるのでしたら、それをすることによって物を得られ、心配はしません。解決策はなくて、未知の状態なので心配をします。未知なことについて、いくら心配しても、未知ですから、心配しても得になりません。すなわち、心配は必要でないことになります。物を欲しかったり、欲求をかなえるのに、心配は必要条件ではないのです。

本当にそうなのでしょうか。心配ですから、試しに実験をしてみようと思いました。

実験1:何が何であろうとも、心配をしないで暮らしてみる。

結果1:昼間、心配をしないでいたら、結構、楽に感じる。でも、夜、怖い夢を見て、それを分析すると、心配を夢の中でしていたことに気が付く。やはり心配を抑圧するのは、無理なのだろうか。

実験2:さらに続けて、何が何であろうとも、心配をしないで暮らしてみる。

結果2:次第に、怖い夢も止まり、普通の生活に戻る。しかし、心配をしないので、確かに生活が楽である。心配をしないからといって、悪い事が起こるわけでもなく、生活はいつもの通り進む。

実験3:さらに、心配をしないで続けてみる。

結果3:心配をしないことによって自分のエゴが減り、利己的な考えが縮小し、自分がかなり自由である。心配とは、自分のエゴを保つためにしていたのだと気付く。

実験4:心配をしないで続ける。

結果4:エゴが減るのが手伝ってか、怒りも減りだした。そして、多くの場合、人が怒るのは、心配を避けるため、またはそれを隠すためであると理解ができる。その上、怒りに限らず、罪悪感、恥、嫉妬など、いろいろな経験や感情を避けるために心配をするのだとも解ってくる。すなわち、怒りは、心配の防衛に使われるが、心配は他の感情の防衛行動として、捉えることもできると、解ってくる。

心配をしないでいると、確かに得るものは大きいと思います。自分のエネルギーを無駄にしないだけでなく、生活が楽にもなります。自分のエゴが完全になくなったら、心配も完全になくなるのでしょう。しかしながら、未だ、時折よく眠れない夜があります。そういうとき、何故かと自分の日々を分析してみますと、自分にとって気になる事柄の存在が確認できます。そのようなときに自分のエゴの存在を見せ付けられるわけですが、これは、修業不十分ということで、さらに心配をしないで続けなければなりません。

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