そう見ればそうある現実

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日本人は英語を学ぶことに熱心ですが、お気づきのように、外国語として習う英語は、聞き取れるようになるまでに結構苦労します。

言葉を聞き取るということは、耳から入った音声を脳の中で認知する、と考えるのは簡単ですが、その認知するということは、結構積極的なプロセスのようです。ただ、受動的に入って来た言葉を解るというより、自分がすでに持っている言葉の意味と音を、入って来た音声の中に探すと言ったほうが、正確かもしれません。

すなわち、脳の方で、この言葉かな、あの言葉かなと、入って来た音声と比べて、よいマッチを探しているかのようです。ですから、言葉を聞き取れるには、それ以前に、その言葉の音声が脳の中に存在しなければなりません。

錯覚という現象が、まさにこの言葉を聞き取るというプロセスとそっくりです。

先ず、何かが見えるのですが、すぐにはなんだか解りません。脳の中で、いろいろな仮説を出します。これかな、あれかな、と試しているうちに、なんだか合いそうなものがでてきます。「あ、これはサボテンかも。」とその認知を試してみます。すると、結構合いそうなので、「サボテンだ。」と認知します。

ところが、よく見てみますと、サボテンとは違うようです。脳の中の説と視覚情報がマッチしていません。今度は、「きのこかな。」と案を出します。それでマッチがうまくいきました。「サボテンは、錯覚でした。」といいます。

人間関係の状態を認知するには、言葉や自然現象を認知するより、もっと難しいところがあります。それは、人間関係の複雑さと、曖昧さにあると思います。人間関係にはいろいろなパターンがありますし、二つのパターンが重なり合ったりしているときがあるからです。「私たちは恋人なの、それとも友達なの?」から解るように、二つの人間関係の境界線がはっきりせず、どうとったらよいか解らないときもあります。

複雑な人間関係を理解するには、さぞ様々な仮説が頭の中をよぎることでしょう。こうとったらよいのか、ああとったらよいのか、検討が付かないこともあるでしょう。

言葉や自然現象の認知と違って、人間関係は、間違った説でそれを理解しても、すなわちそれが錯覚であっても、気が付かないことが多いです。錯覚であっても、そのまま現実であると信じ込めるということがあります。人間関係は「こうとればこう取れるし、ああとれば、ああ取れるし」といった具合で、脳の中の説が、そのまま現実化してしまうことが多いです。

ある人が、「私は、他の人に嫌われている。」という説を持っていますと、人とやり取りをするごとに、この説を使い、嫌われているサインを探します。人間関係の曖昧さと複雑さから、探しているサインを見つけ出すことは、あまり難しくありません。結果として、「やはり、私は嫌われているんだ。」と認知します。

私達の生活の中で一番大切な認知分野は、人間関係を正確に掴むということです。しかしながら、そのプロセスが一番難しいことも確かです。正に、人間関係においては、「そう見れば、そうある現実」なのです。人間関係の理解は永遠とチャレンジです。

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