2006年12月アーカイブ

男女の相性

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男女の相性っていうのがありますが、結婚関係のように、長期にわたる対人関係では、結構大切なものと思えます。男女カップルの相性がよいとき、二人は仲がよいですし、喧嘩が少なくて、お付き合いが簡単です。その一方、相性が悪いと、不満が多くて、喧嘩も多いことでしょう。

結婚関係がうまくいくかどうかを、相性を通して理解するということは、一つの方法であります。相性を作り上げる要素(無意識心理、性格、感情的成長、etc.)は、いろいろありますが、一つ一つ何らかの貢献をして、結婚関係のよしあしが、決まってくるのでしょう。

今回は、相性の要素となる一つ、性格に含まれる男性度、女性度について考えてみたいと思います。先ず、男性度とは、男女に関わらず、その人が持っている男っぽさということです。その反対に、女性度とは、その人が持っている女っぽさということになります。

男性度とは、その人が物事に対して見せる興味の内容の度合いで、競争や攻撃的、機械的、独立的、冒険的な傾向です。これに含まれる例といえば、スポーツ、喧嘩、コンピューター、車、飛行機、単独行動、冒険旅行、などです。

女性度は、対人関係の興味、美術、芸術、家庭、子育て、保育、料理、庭などに現れる興味の傾向です。

男性だから、男性度が高いということではなく、男女に関わらず、男性度がどのくらい存在し、女性度がどのくらい存在するかによって、その人の性格を位置付けます。すなわち女性でも、競争心が強かったり、仕事にもくもくと取り組む男っぽい人はいますし、男性でも人間関係に敏感であったり、子育てに興味がある女っぽい人もいます。それで、4種類の性格のタイプを考えてみましょう。1.男っぽい男、2.女っぽい男、3.男っぽい女、4.女っぽい女の4つです。

さて、今度は問題となる相性ですが、人間関係の発生する場面で、相性が変わってくるので、ここでは、結婚関係の範囲内での状態を調べてみたいと思います。結婚関係で一番相性のいいのは、女っぽい女と女っぽい男の関係でしょう。すなわち、男女でありながら、両方とも人間関係に興味があり、家庭や子育てに目を向けられる人たちの関係です。

次に相性のよい組み合わせは、女っぽい男性と男っぽい女性との結婚でしょう。男っぽい女性は、女性でありながら、人間関係や家庭に興味を持ち、外での独立的行動も好き好んでやります。女っぽい男性は、妻のおおざっぱさを補うかのように、敏感に動いてくれる、家庭を大切にする人物です。

そして次の相性のよさは、男っぽい男性と女っぽい女性の組み合わせだと思います。多分このタイプのカップルが一般的にロマン化されて、理想と思われているかもしれません。確かに結婚以前で、デートをしている時期は、お互いに自分の持ってないところを求めることができ、エキサイティングだと思います。しかし、結婚後は、夫は外で働き、外のことに興味を持ち、家庭に対してあまり目を向けないようになってしまいます。妻は、家庭的ですから、夫の趣味には付いていけず、同時に人間関係を欲しがりますから、寂しい結婚になってしまうでしょう。

さらに相性が悪くなりそうな組み合わせが、男っぽい男性と男っぽい女性の結婚だと思います。この場合、二人ともあまり人間関係に興味がありません。二人で仲良くしようとするより、二人で争ったり、各々別の興味で外に目を向けて、単独行動をしそうです。このカップルは、感情的な距離がありすぎる、冷たい関係になっていきそうです。そして二人とも、子育てなどには興味をしめさず、経済的な理由がなくとも、共働きになる可能性が高いです。

このように、おおざっぱに結婚相手との相性をみることができますが、一人の人格のタイプは、述べたほどはっきりしていないときもあります。女っぽい男性といっても、その女っぽさがどの程度なのか、人によって差があります。少しの時もありますし、極端に女っぽくて、性同一性障害の部類に入り、他の問題が出てきそうなときもあります。また、男女の男っぽさ、女っぽさも、人の成長と年齢によっても変化があります。一般的に中年期を越しますと、男は女っぽさを増しますし、女は男っぽさを増していきます。

ストレスと健康

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私たちは皆、あるときにストレスを感じます。交通渋滞に巻き込まれたときの様に、一時的のもありますし、毎晩晩くまで働かねばならない職場の状態のように、長期間継続するストレスもあります。ストレスが続いて、普段の生活ができなくなると、ストレスが危険なレベルに達したことになります。そのようなとき、セルフコントロールがなくなってしまったり、集中力が低下したり、ちょっとしたことで、いらいらしたりするようになります。

ストレスに対する体の反応は、自然の反応で、人類の進化と共に、身に付いたものです。ですから、仕事の面接の前に、心臓がどきどきするのは皆、よくありますし、100メートル競走の前に、冷や汗をかいても不思議ではありません。

しかし、もう少しストレスが強くなりますと、体の健康までにも、影響がでてきます。たとえば、大事な試験前には、学生の顔のにきびが、増えたりすることもあります。その学生がよく寝て、よく食べても、あまり変わりはありません。そして、試験の後には、にきびが減ったりします。何か学校で問題がある小学生が月曜日の朝、お腹が痛くなるという話は、よく聞きます。

さらに、慢性的なストレスを被ると、健康にかなり大きな打撃を与えます。何年もの長期にわたって、病人である家族のケアーをしていた女性は、普通より速く年をとるという報告があります。体の抵抗が衰え、血液細胞を新しく再生する力が衰えて、普通より10年も早く老化したということです。

その他に、ストレスによって体の抵抗が落ち、機能低下、心臓病、糖尿病や癌につながったりすることもあります。アルツァイマー病なども、ストレスの結果、脳がある種の毒や、危険な分子を妨げる力が落ちるからではないかと疑われています。

急なストレスが心臓に影響を及ぼすことは、普段から心臓に問題がない健康な人にでもあります。サイコセラピーに訪れる患者さんの中にも、心臓にこれといって問題がないにかかわらず、心臓がどきどきしたり、脈が時々とんだと感じる人がいます。最近よく聞くパニック障害なども、ストレスの結果、自律神経が乱れ、心臓がどきどきしたのをきっかけに、発病をしてしまった、というのはよくあります。

ストレスが直接、心臓病に至るかどうかは、確かではありませんが、すでに高血圧やコレステロールが高い人が、ストレスによって、心臓病になるリスクが更に上がると考えられています。また、ストレスのレベルが高い人に多い、いつも怒りやすい傾向や、敵意をしばしば出す人などは、心臓病になる確率が高いです。また、不倫、アル中、配偶者の病気などの結婚問題がある人は、心臓発作になってしまった後、回復が遅いですし、逆に、ストレスマネージメントのトレーニングなどを受けると、回復が早くなったりします。

ですから、ストレスマネージメントを習うことは、いろいろな意味で大切です。その一つに、ストレスの原因を突き止める、というのがあります。ただ、いらいらしたり、怒ったりする代わりに、いったい自分は何が気になっているのか、考えてみることがいいでしょう。ちょっとの工夫でストレス避けることができるかもしれません。

また、週に数回、抗ストレスタイムといって、ストレスに対抗するような時間を設けたらよいかもしれません。そのときには、瞑想をしてみたり、好きな本を読んで見たり、音楽を聴いたり、運動をしてみたりします。怒った時には、すぐ衝動的に反応をしない様にしましょう。その代わり、ちょっと待って、もう少しクールな考えが浮かぶまで待ちましょう。時間を置くことによって、心が事態をもっと客観的につかみ、自分にとってよい反応ができます。

自分のスケジュールを見直し、何から何までこなさないで、大切なところだけ、気を配りましょう。残りは、とりあえずそのままにしておいたり、他に時間があるときにしたり、できるものなら、他の人に頼みましょう。そして、最後ですが、自分や人に高い期待を持たず、やらなければと思う70%位でよしとしておきましょう。悪いストレスをなるべく避けて、心身共に健康に生活しましょう。

男女の相性

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男女の相性っていうのがありますが、結婚関係のように、長期にわたる対人関係では、結構大切なものと思えます。男女カップルの相性がよいとき、二人は仲がよいですし、喧嘩が少なくて、お付き合いが簡単です。その一方、相性が悪いと、不満が多くて、喧嘩も多いことでしょう。

結婚関係がうまくいくかどうかを、相性を通して理解するということは、一つの方法であります。相性を作り上げる要素(無意識心理、性格、感情的成長、etc.)は、いろいろありますが、一つ一つ何らかの貢献をして、結婚関係のよしあしが、決まってくるのでしょう。

今回は、相性の要素となる一つ、性格に含まれる男性度、女性度について考えてみたいと思います。先ず、男性度とは、男女に関わらず、その人が持っている男っぽさということです。その反対に、女性度とは、その人が持っている女っぽさということになります。

男性度とは、その人が物事に対して見せる興味の内容の度合いで、競争や攻撃的、機械的、独立的、冒険的な傾向です。これに含まれる例といえば、スポーツ、喧嘩、コンピューター、車、飛行機、単独行動、冒険旅行、などです。

女性度は、対人関係の興味、美術、芸術、家庭、子育て、保育、料理、庭などに現れる興味の傾向です。

男性だから、男性度が高いということではなく、男女に関わらず、男性度がどのくらい存在し、女性度がどのくらい存在するかによって、その人の性格を位置付けます。すなわち女性でも、競争心が強かったり、仕事にもくもくと取り組む男っぽい人はいますし、男性でも人間関係に敏感であったり、子育てに興味がある女っぽい人もいます。それで、4種類の性格のタイプを考えてみましょう。1.男っぽい男、2.女っぽい男、3.男っぽい女、4.女っぽい女の4つです。

さて、今度は問題となる相性ですが、人間関係の発生する場面で、相性が変わってくるので、ここでは、結婚関係の範囲内での状態を調べてみたいと思います。結婚関係で一番相性のいいのは、女っぽい女と女っぽい男の関係でしょう。すなわち、男女でありながら、両方とも人間関係に興味があり、家庭や子育てに目を向けられる人たちの関係です。

次に相性のよい組み合わせは、女っぽい男性と男っぽい女性との結婚でしょう。男っぽい女性は、女性でありながら、人間関係や家庭に興味を持ち、外での独立的行動も好き好んでやります。女っぽい男性は、妻のおおざっぱさを補うかのように、敏感に動いてくれる、家庭を大切にする人物です。

そして次の相性のよさは、男っぽい男性と女っぽい女性の組み合わせだと思います。多分このタイプのカップルが一般的にロマン化されて、理想と思われているかもしれません。確かに結婚以前で、デートをしている時期は、お互いに自分の持ってないところを求めることができ、エキサイティングだと思います。しかし、結婚後は、夫は外で働き、外のことに興味を持ち、家庭に対してあまり目を向けないようになってしまいます。妻は、家庭的ですから、夫の趣味には付いていけず、同時に人間関係を欲しがりますから、寂しい結婚になってしまうでしょう。

さらに相性が悪くなりそうな組み合わせが、男っぽい男性と男っぽい女性の結婚だと思います。この場合、二人ともあまり人間関係に興味がありません。二人で仲良くしようとするより、二人で争ったり、各々別の興味で外に目を向けて、単独行動をしそうです。このカップルは、感情的な距離がありすぎる、冷たい関係になっていきそうです。そして二人とも、子育てなどには興味をしめさず、経済的な理由がなくとも、共働きになる可能性が高いです。

このように、おおざっぱに結婚相手との相性をみることができますが、一人の人格のタイプは、述べたほどはっきりしていないときもあります。女っぽい男性といっても、その女っぽさがどの程度なのか、人によって差があります。少しの時もありますし、極端に女っぽくて、性同一性障害の部類に入り、他の問題が出てきそうなときもあります。また、男女の男っぽさ、女っぽさも、人の成長と年齢によっても変化があります。一般的に中年期を越しますと、男は女っぽさを増しますし、女は男っぽさを増していきます。

自分て何?

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いつまで経っても、答えがないような質問なのですが、いったい「自分」て何なのでしょう。もう一度自分を振り返ってみて、考えてみようと思います。

以前(2005年1月)に、「無意識の自叙伝」と題しまして、自分というものの側面を書きました。そのとき、「私たちは、知らずのうちに、自分に関する記録を残しておき、それが重なって自分というものの歴史に成っている。」という考えを述べました。

この種の自分というのは、「振り返って見る自分」という意味で、いわば自分を客観視している状態です。自分がそこに住んだとか、自分が怒ったとか、自分がそれをやり遂げたとか、などの事実的なものから始まって、自分が幸せであるとか、罪人であるとか、仕事がうまいだとか、主観的なものを、もう一度振り返ってみたものも含まれています。

この種の自分は、よく考えてみますと、ただの概念であります。この自分は実際に存在しませんが、頭の中に考えとして存在するものです。自分についてのいろいろな記憶として存在する考えの集合物であります。実際に触ったり、扱ったりすることはできません。ですから、記憶喪失になった人が、自分のことを忘れて、それまでに存在していた自分が、消え去ってしまったということもありえます。

しかしながら、私たちは通常それが存在するかの様に、感じますし、扱っています。ですから、自分を大切にしたり、自分を嫌ったりすることができます。ある意味この架空の自分に価値を付けて、自尊心(セルフエスティーム)とよぶこともします。そしてある人は、ほどよい自尊心をもち、人間関係において、自信を持って活動しますし、また、この自尊心を守るために、喧嘩をしたり、殺人や自殺までする人もいます。

また、他の種類の自分も存在します。それは、ここまでお話してきた、「振り返って見る自分」の振り返りをしている自分です。これは主観である自分で、自分という意識はありますが、無形で見ることも触ることもできません。たとえてみますと、目は物を見る事ができますが、その目がそれ自体を見ることはできません。ですから、主観は物を意識することはできますが、主観自体を意識することはできません。主観を意識した瞬間、それは主観でなくなり、主観の中の意識されたものと化してしまいます。

主観は常に現在進行形です。主観は過去でなく、未来でなく、今存在します。寝てしまうと主観は消えてしまいますし、夢を見ているときには、主観を感じとることができます。また、主観は感情によって影響されますし、精神状態、薬、麻薬などによって左右されてしまいます。面白いことに、主観は人が生まれてから発生しますから、私たちは生まれることを経験できませんし、急にある日から、自分の存在が始まったかのように思えます。同じく、人の死が起こる前に主観は消えてしまいますから、死を主観によって経験することはできません。

また、主観があるために、「振り返って見る自分」を意識できますし、自分の過去や将来を考えることができます。そして主観があるために、もう一つの自分、すなわち「意志としての自分」を経験できるのです。

意志とは、自分が何かをしたい時に出る一種の力です。Will Powerといいまして、よく考えてみると、その力はどこから来るのか解らないのですが、ふとそういう気持ちや気力を感じます。それを感じて、自分の存在を感じるわけです。ある事が、意志によって起こると、自分がしたといいますし、ある事が意志とは関係なく起こると、自分でないといいます。

意志となって、そしてそれを自分として感じる前に、欲求や衝動というのが起こります。でも、欲求や衝動は自分として意識しないものもあります。例えば、残虐的衝動や同性愛的欲求などは、自らの自分の定義と異なるため、人によっては、自分としてとらえないこともあります。そのために、これらの衝動を抑圧し、意識にも含めない状態となることがあります。ですから、意志は自分となっても、欲求や衝動全体は自分とはなりえないということです。

私たちの身の回りの現象のなかで、あるものを自分としてとらえ、他は自分でないとしているわけですが、自分て、かなり曖昧ですね。

日本でもアメリカでも大体の人々は、食べ物に困っていないです。そして多くの人々は住居に困ってもいません。世界中を見渡せば、必ずしもそのような境遇にない人達がいることは確かです。

しかしながら、私達の社会は、食べ物が豊富です。そのうえ、作り方や、食べ方などをいろいろ工夫して、本当にアーティスティクになっています。

住居を見ても同じことがいえます。ただ屋根と壁があって住む空間を作っているだけでなく、住みやすさと便利さをたくさん盛り込んでいます。

食物と住居は、人間にとって、最も基本的な欲求であります。その最低限の条件を確保することによって、安全に存続していけるようになります。この部分だけに、焦点を置きますと、私たちの豊富な衣食住はユートピアに住んでいるかのようです。

でも、それだけでは私たちは幸せになりません。回りを見渡せば、犯罪もあり、争い、虐待、ハラスメント、いじめ等、私たちを不幸にする事柄がたくさんあります。幸せになるには、私たちの次のレベルの欲求、すなわち社会的満足感がないと成り立ちません。

社会的満足感とは、人間関係において、安全に感じ、人から認められ、その中で自尊心を保てていき、さらに精神的成長の土台があるということです。そのような条件が存在する環境を作ることはできないのでしょうか。つまり、衣食住だけでなく、社会的に満足のできるユートピアとは、いかにして可能になるのでしょう。

このユートピアでは、人間関係が健康でなければなりません。すなわち、人々がお互いに尊敬をし、相手の立場を尊重しながらやり取りをし、お互いの話をよく聞き、自ら正直であることを、勤めていかなければなりません。

それと同時に、相手を故意に傷つけることを避け、罰を与えたり、仕返しをしたりすることを止めなければなりません。

そのような人間関係を、作っていくための出発点は、やはり子供の教育から始まると思います。でも、通常の学科を教えることではなくて、精神的成長を促す学校が、必要になるでしょう。

そこでは子供が、道徳や倫理を学んだり、人間関係の話を聞いたり、知能面の代わりに、感情面の発達の話を聞いたりします。その他に、結婚生活の科学とか、子育ての科学とか、仕事の倫理とか、老後生活の科学とかを学ぶのもよいでしょう。実際の体験をするために、子供が社会のいろいろな面に、実習生として出て行くのも、面白そうです。

知能をのばし、精神面ものばす教育システムを作りあげるには、それなりの法律の設定が必要になるでしょう。その法律は、現存する教育システムと同じように、精神面においての学習と実習の義務的年数を定めます。

それに加えて、将来の精神学の先生や、社会でその分野においてのリーダーや研究者を育成していくために、今の大学に匹敵するような教育の場が、必要になってくると思われます。人間関係や感情面の勉強をしていく教育の場ですから、単にその分野の知識を得るだけの教育でなく、実際の経験を重視しながら、自分の成長を研究していくプロセスを促す、教育体験の場となっていったらよいでしょう。

もう一つ関連する法律を設置することで大切なことは、日常の人間関係のやり取りの最低限の基準を作ることです。それによって、すでに違法行為である、傷害、虐待、ハラスメント等を抑制するだけでなく、人間関係のあり方の水準をやや上げ、私たちの安全感や自尊心を保ちやすい環境を作ることができるようにしたらよいと思います。

はたして、このようなユートピアを作ることはできるのでしょうか。それはもちろん不可能です。ユートピアという言葉自体、想像された理想の社会ということです。そして、それが私にとって心理的にいかに理屈が合うからといって、社会がそのように動くはずがありません。今までにも、いろいろな人がユートピアを考えだしましたが、それが実現したという歴史は一つもありません。

しかしながら、誰かの文句を言ったら、チケットをきられたなんていう社会を想像するだけで、面白いです。

 最近ふとしたことから、ロマンスのことが頭に浮かび、いつものようにその複雑さに圧倒されてしむのですが、ロマンスを心理的に理解することは、確かに難しいです。でも、また見直してみようと思いました。

ロマンスといいますと、何か楽しい事を想像してしまうのですが、ロマンス中には、楽しい事だけではありません。何か私的には、日本語の恋愛と言ったほうが、ちょっとその難しさの感覚があるのですが、今回は恋愛の楽しい面でなくて、苦しい面のお話です。

その前にちょっとだけ楽しい面をまとめてみますと、人を好きになっているときは、心がハイになっています。心うきうき、夢のようっていうものですね。相手の人(女性ですと)が、きれいに見えますし、いっしょにいてうれしいですし、自分の自尊心も上がり、なんと幸せなことでしょう。

でも、これだけでしたら、恋愛にドラマがありません。すなわち、相手の人に会えないときの苦しさも述べなければなりません。何かのことで、恋愛相手に会えないとき、たとえそれが明日の話でも、心が落ち込みます。まるでうつになったかのようです。特にこの状態は、自分が未だ相手に気持ちを告白できてないときに多いように感じます。いわゆる「報われてない愛」ということでしょうか、非常に寂しくて、切ないと感じ、心が重く感じられます。心は刺激され興奮したいのですが、それができずにいるといった感じです。

では、報われたと思われた恋愛ではどうでしょう。相手を目の前にして、もっと近づきたい、溶け込みたいという気持ちの反面、何をしたらそうできるのか解らず、自分をどう表現したら、もっと接近できて満足するのか解らず、じれったくて悲しいです。

その上、相手が自分に近寄りたいことを知りたい。でも、それをなかなか確認できない。相手のそれなりのジェスチャーを待って、見守っているのですが、なかなかそれが見つからない。フラストでもあります。

もう一つ、恋愛について厳しい事実があります。それは、どんなに相手に近づきたくても、どんなに相手と溶け合いたくても、そのプロセスで知らされることは、自分と相手は別の個人なのであるということです。これは単に物理的に、人は自分の肌を超えて、相手に近づけないというだけでなく、二つの心が完全に解け合うことが不可能であるということでもあります。

私たちの心は、やはり自分の過去からの経験で出来上がっています。それゆえ、自分と違った経験をしてきた相手の心と、同じになれるはずがありません。すなわち、二人の愛人が、同じ感情を持って同じようなことを考えることなどないでしょう。でも、二人の心が一つと錯覚する人は、少ないとは思えません。その錯覚のために、ハネムーンの後、相手に対して失望する症候群があるわけですから。

そして多くの人は、この融合不可を認めたがりません。そのために、相手との時間が他の人に奪われたりすると、嫉妬心になってしまったり、相手を自分と融合させるために、無理なコントロールを相手に向けてしまったりします。また、ちょっと行き過ぎたところで、相手との融合を求め続ける症候群、すなわち恋愛中毒なども現れてきます。

相手との融合を求めながら、それが不可能な状態でいることがロマンスですから、ロマンスとはある意味、報われない恋と言うことができるでしょう。そして報われたときには、ロマンスが終わりをとげ、たとえば、結婚というような、違った人間関係に移り変わっていくのでしょう。

子供の成長の過程で、ちょっとかたよった形になりますと、性格の中にしこりが残ります。そのしこりは、恥やわがままやプライドといった気持ちで感じ取られろことがあります。このような気持ちは誰にでもありますが、それが多いときに、性格的な問題になります。これらは、いったいどのような親子のやり取りから、成っていくのか考えてみましょう。

先ず、親からの子供のケアーが、十分になされているとき、つまり子供の方は、ある程度満足しているときには、その子なりの個性のある性格の形成があり、それ自体問題となりません。でも十分なケアーがないとき、子供は一生懸命に親のケアーを自ら得ようとします。

その方法の一つとして、「親の言うとおりにする」があります。親の言うとおりしていれば、よい子と思われ、親は注目をしてくれるだろうと考えます。でも、親の言うとおりにしていては、自分を試すことができず、自信のない子に育ってしまいます。

自信のない子は、恥が多く、恥ずかしがりやの子です。劣等感があり自発性がありません。先に立って何かをするより、他の子のあとに付いていくほうが、居心地がよさそうです。

やはり、恥の多い子っていうのは、その子の親も恥に関して敏感であると思われます。子供が何かをしたときに、親の方がその行為について恥に感じたり、そのままにしておいたら、後で恥になると予想されるときに、「そんなことしちゃ、だめ!」とか「みっともないわね。」とか言いながらとがめます。子供のほうとしては、やはり自信を失ってしまうでしょう。

親子のこのようなやり取りを避けるためには、親が自分の基準を使って子供のことを判断しないことが大切です。子供はまだ若いですから、親と同じにできないのは当然ですし、子供も一人一人違った個性や能力があります。子供は自分の観点に基づいて行動をしますから、必ずしも親の思うようにはしてくれません。逆に子供の見方をよく理解し、そこから出てくる行動を理解してあげる必要があるということです。

親のケアーに満足してない子が、親の注目を得るためのもう一つの方法は、自分の力を諦めて、もっと小さい子のように行動することです。すなわちわがままな子になることです。

わがままな子は自我が強いです。自分の主張を強くします。それで他の人の言うことを、簡単に受け入れてくれません。その上、自分でできることをしません。親に甘えて、してもらうことが多いです。ですから、年相応に行動しないで、もっと小さい子のように行動をします。

もちろん親の方もそれを促すような反応をしています。たとえば、子供の要求を簡単に受け入れてしまいます。子供ができることでもそれをしてあげます。そうしながら、子供のもっている向上心、能力、そして独立心を無視していまうのです。

やはり、子供のもっている能力や独立心を受け入れることは大事です。わがままな子には、その子のもっと上の行動を期待することは必要です。でも、たくさんの期待をしてしまったら、わがままな子はますますわがままになります。ほんの少し、しいて言うならば、今のレベルの5%上を目指すくらいがいいです。

最後に、親のケアーに満足していない子は、親と同じ様にすればよいと考えます。自分が親の様に立派な人であると思い込みます。そうすれば親も注目してくれると思うのです。でも、その結果子供はプライドの高い子になってしまいます。

プライドの高い子は、他の子との活動に参加しなかったり、協力をしません。自慢をしたり他の子をけなしたりしてしまいます。もちろんそのように自分も親から扱われたのでしょう。

親の方は、子供に対して絶対的な態度をとりながら、子供をののしったり、強い罰を与えたり、時には虐待などもあります。その上、人前では、自分の子を異常にほめたりします。子供のほうは親に対する怒りを抱えながら、同時に親と同一化をして自分を守ろうとします。

プライドの高い子を育てないように、子供を強くしかることは止めなければなりません。また、自尊心を育てるために、子供の実際の力、そしてその結果を認めてほめてやりましょう。

私たちは、日常心配事が多いです。いろいろなことについて心配をします。でも、心配することは、決していい気分ではありません。不安だから心配をします。今後どうなるか判らないから心配をします。この未確定な気持ちは、いいものではありません。

どうして、心配をするのでしょう。赤ちゃんは心配をすることを最初から知りません。でも、小さい子に、心配をすることを教えるのは、簡単です。おいしそうなお菓子を用意し、子供のそばに置きます。そして、子供が手を伸ばして、お菓子を取ろうとする瞬間に、大きな爆発音を起こします。子供は脅えて、泣きながら逃げます。そして次回、同じように、子供のそばにお菓子を置きますと、それをほしい子供は、手を伸ばそうかどうか心配を始めます。お菓子を諦めれば、それで心配は終わるのですが、お菓子ほしさに、手を伸ばそうとすると、また、爆発音がするのではないかと、心配をします。

この風景は、想像だけにして、実際にお家でやらないでください。幼児虐待になります。心理学の実験では、ねずみを使ってやったことがあります。

このイラストから解るように、心配は欲求とそれがかなわないときに起きる罰の板ばさみの状態の時に発生します。そして、そのような状態は日常茶飯事ですから、心配も毎日起きて、不思議ではありません。その上、毎日起きますから、たいへんよく、練習を重ねてきている行動であるといえます。そのうちに心配をしないと、欲求がかなわないという理屈もでてきます。なぜか、心配を事前にすることによって、悪い事を防げるような気にもなります。

しかし、何かを欲しい時に、解決策があるのでしたら、それをすることによって物を得られ、心配はしません。解決策はなくて、未知の状態なので心配をします。未知なことについて、いくら心配しても、未知ですから、心配しても得になりません。すなわち、心配は必要でないことになります。物を欲しかったり、欲求をかなえるのに、心配は必要条件ではないのです。

本当にそうなのでしょうか。心配ですから、試しに実験をしてみようと思いました。

実験1:何が何であろうとも、心配をしないで暮らしてみる。

結果1:昼間、心配をしないでいたら、結構、楽に感じる。でも、夜、怖い夢を見て、それを分析すると、心配を夢の中でしていたことに気が付く。やはり心配を抑圧するのは、無理なのだろうか。

実験2:さらに続けて、何が何であろうとも、心配をしないで暮らしてみる。

結果2:次第に、怖い夢も止まり、普通の生活に戻る。しかし、心配をしないので、確かに生活が楽である。心配をしないからといって、悪い事が起こるわけでもなく、生活はいつもの通り進む。

実験3:さらに、心配をしないで続けてみる。

結果3:心配をしないことによって自分のエゴが減り、利己的な考えが縮小し、自分がかなり自由である。心配とは、自分のエゴを保つためにしていたのだと気付く。

実験4:心配をしないで続ける。

結果4:エゴが減るのが手伝ってか、怒りも減りだした。そして、多くの場合、人が怒るのは、心配を避けるため、またはそれを隠すためであると理解ができる。その上、怒りに限らず、罪悪感、恥、嫉妬など、いろいろな経験や感情を避けるために心配をするのだとも解ってくる。すなわち、怒りは、心配の防衛に使われるが、心配は他の感情の防衛行動として、捉えることもできると、解ってくる。

心配をしないでいると、確かに得るものは大きいと思います。自分のエネルギーを無駄にしないだけでなく、生活が楽にもなります。自分のエゴが完全になくなったら、心配も完全になくなるのでしょう。しかしながら、未だ、時折よく眠れない夜があります。そういうとき、何故かと自分の日々を分析してみますと、自分にとって気になる事柄の存在が確認できます。そのようなときに自分のエゴの存在を見せ付けられるわけですが、これは、修業不十分ということで、さらに心配をしないで続けなければなりません。

この世の幻覚

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幻覚というものがあります。それは、明らかに現実にないものを、見たり聞いたりすることです。精神病の中で幻覚が多く経験されるのは、分裂病(統合失調症)です。分裂病の人は、そこにいない人の声を聞いたり、ないものを見たりします。そばにいる人には、何も聞こえないですし、何も見えませんから、分裂病患者に何もないことを説得しようとします。でも、分裂病患者は納得しません。

セラピーでも、分裂病患者にセラピストが幻覚が現実でないことを説得することはありますが、あまり効果はありません。私もセラピストとして説得した経験があります。やはり無理でした。

ある日、面白いことに気が付きました。分裂病患者は、実際に聞こえてないものを、聞くのですから、その聞くことは脳の中で起こっていても、耳の中の鼓膜は振動していないはずです。実際の音が鼓膜を振動させて、それが神経的メッセージとして脳に伝えられ、音を経験するのと違って、幻覚では、鼓膜の振動も、耳からの神経的伝達もないはずです。ただ脳の中で活動が起こっているだけです。

これを分裂病患者に説明して、実際に鼓膜が振動してないことを科学的に見せたら、説得できるかな、と思いました。その志を分裂病患者に説明してみましたが、やはり納得してくれませんでした。

しかしながら、鼓膜や網膜が刺激をされないにもかかわらず、物を聞いたり見たりするのが幻覚であるということは、私にとって、たいへん納得のいくものでした。つまり、感覚と幻覚の違いがそこにあると思ったのです。自分なりの納得で2,3年が過ぎました。

そしてある日、変なことに気が付いたのです。私たちの知覚は、外界を理解することですが、実際に鼓膜や網膜が刺激されてないものを感じとっているのです。例えば、時計を見て、今3時だと解ったとします。目から入った感覚的情報は、時計の形やら数字の形やら、色やら大きさやら、いろいろとありますが、今3時だという情報はどこにもありません。その代わり感覚的情報に基づいて3時だと、頭の中で意味をつけたのでした。これって、幻覚と同じなのでしょうか。私の脳の中で起こった情報は、分裂病患者が経験する幻覚と本質的に違いがありません。なぜなら、私は外にないものを見ているからです。

セラピーの分野での専門語で転移と言うのがあります。これは患者が、以前の人間関係で感じたことを、セラピー中にセラピストに対して経験することをいいます。例えば、過去に父親に対してたいへん怒りがあった人が、セラピストに対して同じような怒りを経験して、それを信じ込んでセラピストに怒りをぶつけます。患者が無意識のうちにそれをやっていることを理解させることが、セラピストのたいへん大切な役割になります。

この転移というものも、患者が実際にないものをセラピストの人に見てしまうわけですから、目や耳から入ってきた感覚的情報とは別に、脳の中である知覚をしていることになります。すなわち、これは幻覚と同じであるといって言い過ぎではないでしょう。

こうして考えてみますと、私たちは、幻覚の中で明け暮れしているのでしょうか。私たちが理解していたはずの現実とは、実は脳の中で作られた幻覚といっていいのでしょう。その上、私の幻覚とあなたの幻覚はよく似ています。私が今3時といいますと、あなたがそれを解ってくれて、3時であると感じます。私たちは皆で都合のよい幻覚を共有しているのです。ということは、人類が破滅したときに、私たちの知っている現実が消え去るということです。赤ちゃんが生まれてきたら、私たちは共有された幻覚を教え込まなければなりません。そうしないと子供は私たちが共有している幻覚の世界の中で、やり取りができなくなるからです。

分裂病患者が経験する幻覚とは、私たちと共有できない幻覚を経験しているといえます。私たちは自分の現実=幻覚を諦められないのと同じように、分裂病患者も彼らの幻覚を諦めないでしょう。

私が信じ込んでいた現実とは幻覚、すなわち夢みたいなものだったのです。あいにく私はこれまでいい夢を見てきました。それとも悪夢だったのかな。それとも、、、?

相互関係

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一般的に、私達が誰かに何かよいことをしてあげますと、感謝やお礼が返ってきます。逆に何かをしてもらったら、それなりのお返しをしようという気持ちがあります。同じく、誰かに悪いことを故意にしたら、それなりの見返りがあるのではないかと心配をするでしょう。

このようなやり取りは、小さな子どもの時から少しずつ習いきます。小さい子が大人におもちゃを手渡し、そして大人がそれをすぐ手渡して戻しますと、喜んだりします。このようなやり取りが先立って、いずれ子どもが友達同士で、やったりやり返したりできるようになります。でも、それは簡単なことではないのもよく解ります。自分のおもちゃを友達に貸せるようになるには、結構大変な試練が付き添います。

私達は日常のやり取りで期待をしていたお返しが戻ってこなくて困惑したりすることがあります。特にそのやり取りの内容が約束事ですとか、してやったことが沢山あったりしますと、たいへんいやな気分になります。小さい時に習ったはずのルールなのにこれはいったいどうしたことでしょう。

たいていお返しのルールは誰でも理解できると思いますが、それを守らなくなる、すなわちしなくなることは、大人にしてもありえます。例えば、それまで互恵主義にのっとって行動してきた人が、立て続けにそうでない人のやり方にさらされた時、自分からがっかりして、自己防衛的にもうお返しをしなくなってしまいます。

他人には何をしてあげても戻ってこないから、それは止め、もらえるものはもらっておくが、それに対してお返しもしないといったような自己中心的な立場を取る人がいます。ある意味でサバイバルに適した人生の原理ではあります。「自分の勝ちは人の負け、人の勝ちは自分の負け。」といった具合です。

いつか天国と地獄の違いを明確にしていた漫画を見たことがあります。天国でも地獄でも器に食べ物が入っていて、食べるのは自由なのです。そして両方とも食べるためのスプーンもついています。でも、そのスプーンが6フィートもあるのです。そんなに長いスプーンを使って自分の目の前にある器から食べ物をすくって食べるのはたいへんです。地獄では人々が皆自分勝手なので、他の人にかまわず、一人でその長いスプーンで四苦八苦しながら食べています。一方、天国では、皆協力しあって、一人の人が、6フィート離れた隣の人に、スプーンを使って食べ物を口に入れてあげています。隣の人も、スプーンを使って食べ物をこちらの口に入れてくれます。お互いに助け合うので食事が簡単にできます。

先ほど述べました自己中心的な原理で生きることは可能なのでしょうが、地獄のイラストのように、苦労と限度がでてきそうです。自己中心の人は、人との協力がないので、結局、自分でできる範囲内のことで止まってしまいます。その自己中心の人が、相手に何かをしてあげることによって、その結果お返しをいただくことができ、それが自分のできる範囲内を超して自分の満足に達することなのだと解った時、相手との協力が大切になることでしょう。

「私が勝つにはあなたを勝たせ、あなたを勝たせると自分が勝つ。」このような人生の原理が生まれてきます。言い換えますと、自分は勝ちたいのですが、相手をどのように勝たせたら、自分の勝ちにもつながるのでしょう。この答えを生活のいろいろな場面で見つけていったら、自分の世界が天国になるのでしょうか。試してみる価値(勝ち?)くらいはありそうです。

性格不一致

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これはいい言葉です。相手を責めるのでなく、自分を責めるわけでもなく、お互いに合ってないという意味です。また、性格不一致で離婚になってしまうこともありますから、悪い響きを持つ言葉でもあります。

2001年の12月に「結婚の10条+1」を書きましたが、その1条に「結婚相手の今嫌いな部分は、結婚前には気に入るところであった。」とあります。自分の性格と違う部分は、それで相手が自分を補ってくれると言う意味で、最初は大切にしていたものです。しかし、結婚してしばらく経ちますと、相手を自分と同じくなるように、変えようとしたりします。そんなに違うことが問題なのでしょうか。

先月の記事で、自分を表現していくことが、大切であると述べました。それは大切なだけでなく、自分の価値を誰かに認めてもらいたいという精神発達の段階から、一歩成長した自分の位置でもあります。でも、自分の表現や主張をしていくと、誰かと、そして結婚相手とぶつかってしまいます。すなわち不一致が起こってしまいます。成長が結婚の問題に発展しては困ります。

結婚は、夫婦二人各々を部分とした組織systemと考えることができます。子供ができたら、これが部分として組織に加わります。結婚の目的は、その部員、夫婦や子供の幸福の追求であると見ることができます。そのために、各々が仕事、結婚関係、娯楽などの活動をしていきます。ただ複数の人が参加するだけでなく、一人一人が違った貢献をしていくので組織の生存価値が上がります。違う性格の男女や子供が違う貢献をしながら、共通の目的の達成に向かって活動していくものが、結婚や家族であると考えることができます。

このような組織で、性格の違い自体は問題ではありません。むしろ違いがなければ、組織を作る、すなわち、結婚をする理由もありません。自分と相手との違いを尊重し、楽しんでいくことの方が、相手との違いを嘆くことより大切なことでしょう。

それでは、いったい性格不一致とは、どのような問題なのでしょう。やはり、結婚という組織の活動を妨げるような動きや力が働いているときに、組織は負担を感じます。組織の部員が貢献をするのではなく、目的を達するのを妨害したりすることでしょうか。例えば、何かの理由で貯金をしようとしているときに、誰かが沢山お金を浪費してしまうと、組織としては困ります。たまたま、その人はお金を使うのが楽しい性格であるかもしれません。でも、その人は組織全体の目的を見ることができません。その人が組織を考えながら、お金を使えるようになるためにチャレンジをしていかなければなりません。

また、よくある話ですが、夫婦の片方がセックスをするのを好みません。組織としては、セックスは娯楽や生存のために必要な活動なのですが。それが起こらないとなると、組織としては、何かの工夫をする動きが出てくると思います。

夫婦は組織を保つための工夫をいろいろとしていくと思いますが、それができなくなると諦めていくでしょう。貯金ができなくて、セックスができなくなると、組織としては生存価値が下がります。いろいろな負担が重なり、生存価値が著しく下がってしまった場合、その結婚を保つ理由がなくなってしまいます。そのようなときに、性格不一致で離婚をするというわけなのでしょう。けれど、実際には性格不一致そのものより、組織全体の目的に貢献できない「無秩序」の存在が、誰かにあるときに問題であるわけです。

明らかに自分にとっていやなのに、人前ではそう言わない人がいます。誰かに何かを頼まれた時、その時はすすんでしてあげる気持ちがないのに、引き受けてしまう時があります。また、明らかに自分のためにならないと理解できることでも、それをしたがることがあります。例えば、ある学生が自分のためになる授業を休んでまでも、友達の世話をしたりします。その上、その友達はそれほど助けを必要としていないことが解っていても、世話をしたがるから不思議なものです。

このような行動をいかに理解したらよいのでしょう。この行動は、表面的にみますと、明らかに自分のことより相手の利益を考えています。この行動をする人に、なぜ自分にとって苦労なことを、自分のためでなく、相手のためにするのか聞いてみますと、「相手に嫌われるのが嫌だ」というような答えが返ってきます。相手に拒絶されたり、無視されたりするのが怖いのでしょう。もちろん、相手に嫌われるのは、通常よいことではありません。でも、自分の欲求、要求を通さないでいても、不満になります。

ここでちょっと思い出すのが、小さい子で自分の欲求が沢山あるのにかかわらず、母親にいい子であると思われたいがために、母親の言うことをよく聞いて、とてもいい子にしている子のことです。子供はほとんど100パーセント親に頼っていますから、親に見離されたらたいへんなことになります。それゆえ、親に認められることが、非常に大切になるわけです。もちろん、母親が子供にはっきりと愛情の確信を伝えられている親子では、子供はそんなことを気にしないことでしょう。ところが不安な子は、親に嫌われまいと頑張るわけです。こういう親子関係では、子供が自分の欲求や要求を満足されることより、親の満足の方が大切になってしまいます。

小さい時できた癖っていうのはなかなかとれないものです。この癖をそのまま大人になってからも使い続ければ、親の代わりに、現在、関係のある相手に同じような期待をします。そして、その人に見放されないように、自分の欲求や要求を飲み殺して、相手の要求に答えるようになってしまいます。

一方、母親から安心感を与えられ、自分に自信がつきながら育った子は、自分の欲求を正確に受け取れ、自分の満足のいけるように、成長の過程を歩んでいきます。人に認められたり、好かれたりすることは大切でしょうが、自分の欲求と相手の要求がぶつかってしまう時には、自分の欲求をいかに相手を最小限困らせないで、現実化するかを工夫していきます。

他人の拒絶や無視を気にする人、すなわち自分の欲求をこらえてしまう人でも、成長をしながらいつか自分の欲求が無視できなくなる日が来ることでしょう。その時には、自分の欲求と相手の要求が、ぶつかり合って心の葛藤になります。そしてこの葛藤はその人にさまざまな精神的痛みを感じさせます。ある人はそこで後退して、自分の欲求を押しやってしまいます。また、ある人は自分の欲求の大切さを自覚し、最初は無理しながらも、自分の主張を通すようになります。

人の精神の発達上、このような自己の発達の順序に必然的なものがあります。自分を確立した後は、相手の要求の心配や不安は少なくなります。そして、相手の要求の心配が減ってきたことじたい、自分の確立が進んでいる証拠です。自分の確立ができた時に、再び相手との調和を考えるようになるのですが、そのことについては、また次の機会に考えてみましょう。

自分っていますよね。自分が存在します。なぜ自分が存在するのですか。デカルトDescartesが、「I think, so I exist.」すなわち「考えるから自分が存在するんだ。」と言ったのを思い出します。私もそうは思います。でも、心理学的にはどのように理解したらいいんでしょうか。

その前に、自己、自分が何であるか解らないとそれが存在しているのかどうか解りません。ですから自分が何であるか考えてみましょう。先ず、自分て他の人がいるから、自分の存在を感じる部分があります。相手を意識するので自分がいます。その相手が、その上、自分がどうだこうだと特徴を言ってくれます。それで自分がはっきりしてきます。これを対人関係の自分Interpersonal selfと言いますが、この自分は生まれてから今までの対人関係の歴史から成り立っています。いろいろな人がいろいろな反応を自分に対してしてきて、それによって自分が何であるか解ってきたわけです。解ってきたということは、自分について考えができたというわけで、自分が考えという形で存在していると言うことです。

その他に、相手がいなくても自分の存在が解ります。退屈の時に何か面白いことをしようと思ったりする自分がいます。コンピューターをよく使えるようにトレーニングしようとする自分がいます。英語を上達しようと頑張る自分がいます。このような自分を個人的な自分Personal selfと言って、人前でないところで、自分が自分の経験をして自分について考えができた結果存在します。他にも細かく見ると、いろいろな自分が存在するのですが、今回ここでは自分の種類の勉強ではないので、対人的と個人的な自分が出たところでよしとしましょう。

これらの自分が考えとして存在するわけですが、自分と言うのは概念Conceptの領域に入り、まさに考えを除くと存在が消えてしまうものなのです。これもふと考えると不思議なもんで、人前でひょっとした時に自意識が消えている時があります。何かに夢中でいて、自分のことも相手のことも忘れている時の感じです。そして次の瞬間自意識が起こり、同時に相手のことも意識をし始めます。でも、振り返ってみると、ちょっと前自分の存在自体を忘れていたことに気が付きます。自分も相手もいない存在の仕方ってあるんだなと知ることができます。

自分という物の存在なしの存在とは、追求してみますと結構面白いものです。どのようにして自分のいない存在の状態を経験できるでしょうか。日常の簡単な例は、寝付くことです。睡眠に入ることって、自分ですることではありません。ベッドに横になって「寝ようか」と言うまでは自分がすることなのですが、睡眠に陥る瞬間は自分でできません。何か自分以外のものがしてくれます。逆に、自分で寝付こうとすると、かえって寝ることはできません。自分が存在するうちは、寝付けないのです。この矛盾にはまってしまうと不眠症になることもあります。不眠症の人は寝よう、寝ようと頑張るので寝られなくなります。自分で寝ることを止めた時に寝られるようになります。このような時は自分が邪魔になります。

自分の存在しない存在の仕方を追及していきますと、案外私たちはそれにお世話になっていることに気付きます。例えば、寝るのがそうでしたら、目覚めることもそうです。目覚める瞬間は自分の意志でできません。いろいろな学習も私達は知らない間にしています。あるところへ行って、何かを覚えようとはしていませんが、その経験は知らない間に脳に記録されているではないですか。そういえば、忘れることも、自分でそう思ってできませんね。

ふと思うことは(これも自分がやっていません)、もし、そんなに肝心なことが自分なしで行われているのであれば、自分の存在って必要なのかな、ということです。案外自分なしの方が健全に生きられるかもしれません。例えば、私たちの経験するノイローゼ、精神病、人格障害は皆、自分が存在するために起こる自分の問題なのです。もし、自分の存在が必要でなければ、そして自分を無くしてしまえば、私たちの心の悩みはほとんど消えてしまうことでしょう。自分って結構、邪魔者かも知れません。

Kill yourself, and you will live better!

性格判断

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今月は性格判断の仕方を一つ紹介したいと思います。性格を判断するのにいろいろな方法があるのですが、今回お話したいのは、比較的簡単で心理テストなど必要のないやり方です。

先ず、性格のある特色を程度を使って考えてみましょう。人はいろいろな特色を持っていますが、人によってその程度が違うという考えです。ある人は親切ですが、もう一人の人はもっと親切だとか、またある人は冷たいだとか、ある特色を使って人をいろいろと区別することができます。この場合、親切なことが人格の特色で、その程度を次元dimensionで表すということになります。

心理学でよく使われる次元で内向性-外向性があります。内向性の強い人は内気な人で他の人とあまり交わりたがりません。一人での活動が好きな人です。外向性が強いと他の人と関わるとこが楽しい人です。一人でいると退屈になり、人とのコンタクトを取りたくなります。

内向性と外向性の境を0として、外向性の程度を+1、+2、+3、+4、+5と判断するとしましょう。内向性の方は、−1、−2、−3、−4、−5とその程度を表します。+5は自分の知っている範囲内の人で最も外交的な人です。逆に、−5は最も内向的な人です。この次元をX軸としましょう。

今度は縦のY軸ですが、それにはもう一つの人の特色を選びます。ここでちょうどよいのが愛情―憎しみlove/hateの次元だと思います。Y軸の0を愛情と憎しみの境界線とし、+5が自分の知っている人達の中で一番愛情たっぷりで、−5が憎しみに満ちた性格の人としましょう。

さあ、自分の性格判断をしてみましょう。例えば、あなたは人と交わることが好きなのでX=+3とします。そして人好きで人に対する愛情も高いので、Y=+4としましょう。あなたの性格は、+3、+4でたいへん好かれるタイプということになります。今度は、あなたがちょっと内向的なのでX=-2とします。あなたはたいへん愛情深い人なので、Y=+4としましょう。あなたの性格は、−2、+4で静かながら魅力のありそうな性格です。

同じようにして、+4、−5の性格は、人に向かっていきますが相手を嫌っていますので反社会性の人になりますし、−2、−3位の人ですと、人を避けかつ人を嫌いなので、疑い深い閉じこもった人のように写ります。

自分の性格判断だけでなく、相手の性格も判断してみましょう。自分が −3、+2で内気気味の人は、+4、+2くらいの明るく外交的な人が好きであるかもしれません。また、同じく、−3、+2で内気気味なあなたは、+3、−2くらいの積極的、でもちょっと意地悪な相手が好きであるかもしれません。

また、+5、−3のすごく人当たりのよい、でも反社会的な男性が、−1、+3のちょっと引っ込み思案の依存性のある女性と一緒になって、虐待的な人間関係を結ぶことがあるかもしれません。男性の方は、Y=−3で、人に対する憎しみを相手の彼女に表現し、アビューシブabusiveな行動をします。女性の方は、Y=+3ですから、彼の意地悪を寛容し受け入れ気味です。彼女のX=−1は彼女を人から遠ざけるので、彼女は彼の虐待を他の人に告白しません。ですから、他人の介入なく虐待関係が続いてしまいます。

このようにして、簡単な性格判断法を使っても、人格の理解や人間関係を詳しく知ることができます。付け加えとして、ここに述べました性格判断法に第3の次元Zである自己防衛の発達度を加えたり、第4次元Aである年齢などを含めますと、ますます複雑でかつ正確な性格判断ができるようになります。しかしながら、そこまで追求しますと、人が頭で人格を想像するのが難しくなりコンピューターでのシミュレーションなどが必要になることでしょう。

 トラフィックティケットを切られてしまうことは、誰にとっても面白いお話してはなく、時にはさまざまな感情が伴うものです。

患者:「先生、もう心がへこんでしょうがないです。まだ4ヶ月もしないのにまたもやティケットももらってしまいました。」

私:「えー、またー!」

患者:「しかも、昨日は夫の誕生日で出かける予定もしてあったんです。ガレージセールへ行く途中に、スピーディングでつかまってしまいました。」

私:「うぅぅぅ。」

患者:「前回は友達の誕生日でその時もガレージセールへ行ったときでした。

私:「まーぁ。」

患者:「これは、何かあると思って先生の所へ電話をしようと思ったくらいでした。でも、朝、早かったから。」

私:「そうだね。」

患者:「今週の私の夢を聞いてください。私の夫が俳優の天海祐希とキスをしていたんです。」

私:「あのラストプレゼントに出ていた人ね。」

患者:「それで、私が夫の胸をナイフで刺して、穴に放り込んじゃったんです。」

私:「意味深そうだね。」

患者:「この間、先生が夫は仕事と結婚しているから私がやっぱり寂しかったり怒ったりしていると言っていたでしょう。やはり今の状況から見ると、夫は私の方を向いていてくれないと思うんです。やはり夢は夫に対する怒りかな。」

私:「私もそう思った。」

患者:「その次の夢はね、、私がバタンと前に倒れ落ちて怪我をし、お腹がどんどんはれ上がって、手術をしていたんです。

私:「妊娠の話かな。」

患者:「手術台の上で横になっていると、周りで皆が忙しそうにうるさくしていて、どういうわけか、私を救うある液体が作れなくって困っていました。そのうちに私の心臓の音がだんだん小さくなっていったんです。」

私:「死んじゃうの?」

患者:「その前に目がさめました。」

私:「やはり、これは私があなたをいまだ救ってないということかな。過去一ヶ月、あなたの旦那さんは忙しくて、あなたと有意義な時間を過ごしていない。そのために、あなたはお酒の量も増えてきたし、先週からはえたいも知れないかゆみで悩まされている。かゆみに関して私は、あなたがある感情を圧迫したからではないかと言っていたくらいだ。それで、私がある液体を作り出すことが出来て、あなたに与えられたら、あなたを救うことが出来たのだろうけれど、それがなかなか出来ない。そうこうしている内に、あなたの心臓、つまりハートは弱っていってしまったのだ。」

患者:「そうですかね。」

私:「私はまだあきらめてないけれど、、まだ、これからだ。」

患者:「ここにいると、少しはかゆみの我慢を出来てますけれど。」

私:「トラフィックティケットに関しては複雑な気持ちが込められているようだね。たとえ旦那さんが忙しいと言っても、彼に対しての殺気は、特に誕生日なんかは罪意識を増やすだろうね。でも面白いコントラストだね。誕生と死か。ティケットの罰則も公からの罰という意味でそれ自体意味がありそうだけれど、その結果彼にティケットを払わせながら、謝らなければならないのは、彼に対する殺気の衝動について申し訳ないという気持ちも入るわけかな。でも、それと同時に、彼にティケットを払わせることも、あなたの彼に対する怒りの気持ちが出ていそうだ。どっちが強いのかね。」

患者:「先生、いつティケットのことを夫にうちあければいいの?」

私:「旦那さんが生き返る夢を見てからかな。」

見つめる自分

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今年の1月に「語られた自分」のことについて書きました。私たちは知らないうちに自分の歴史を書いているという話でした。今回はその歴史を書くにあたって、自分の行動や反応を「観察する自分」について考えてみようと思います。

私達が何かを夢中にしている時に、「ふと気が付くと」といって自分を見返すことがあります。そのふと気がつく人のことです。人というか、自分の中の一部です。自分の行動を反省するときもこの自分を使います。ですからこの自分というものは、「自分について見つめる自分」であると理解してよいでしょう。

考えてみればあたりまえで、私たちはよく自分のことを振り返ってみます。そうすることによって、自分の言動を見つめ、それが適当であったか改善の余地があったのか判断をします。こういう自分がいないと、私たちは自分を改善することが難しくなってしまいます。動物のように、ほとんど学ぶことが条件反射的になってしまうでしょう。

自分を改善するために行われるサイコセラピーでも、この見つめる自分をよく使います。患者さんがセションで自分について話します。最近あったこと、昔あったこと、家庭での出来事、職場での出来事、愛人との出来事、そして自分で苦しんでいること、といろいろお話をします。それは普通だったら見逃してしまう事柄でしょう。私たちは日常ふと自分を振り返ることはあっても、わざわざ時間を設けて誰かと自分の言動を振り返ることまではしません。

自分を見つめることによって、新しい発見があることでしょうが、もう一人の人、つまりセラピストが一緒になって自分の言動を振り返ると、またまた新しい発見があると思います。それは普段の自分を振り返ることに客観性与えるだけでなく、セラピストが患者さんの成長や健康を頭に置きながら、その人の言動を振り返るからなのでしょう。

もちろんセションでは自分について振り返ることだけをするわけではありません。多くの患者さんは、自分で悩んでいることを話します。自分の悩みを話すと、悩みについて話し出しますが、そのうちに悩みじたいをセション内で経験することもあります。悩みについてセラピストに話していたら、本気で悩み始めてしまったというわけですね。

悩んでいる人は、悩みに夢中でそれに入り込んでいますから、自分を見つめることを忘れています。悩む自分について新しい発見は難しいです。でも、そんな時にセラピストが自分を見つめていてくれます。そして悩む自分についてセラピストが発見したことを伝えてくれます。セラピストが患者さんの「見つめる自分」を代行してくれているんです。

患者さんももう少しうまくなると、悩みながら自分を見つめることが出来るようになりますし、悩みながらそれをある程度客観的にセラピストに伝えることが出来るようになります。そうすると興味深いことが起こりだすのです。先月の課題で自分の注意が問題から他の行動にそれることによって、問題が減ってくるという話をしましたが、正にそれが起こりだすのです。つまり、悩みを感じながら、セラピストに客観的にお話をする、注意が悩みからセラピストへ、そして悩みへ、そして客観的な言葉へ、そしてセラピストへと移動しているではないですか。その結果、悩みの力がだんだん減っていきます。面白いですね。

昔、私が学生だったころ、そのころ熟練セラピストであり私の先生が、セションで泣き出した患者さんへ言っていました。「泣きながら話なさい」と。なるほど

 もうすでに30年以上も使われている恐怖症を治すための心理セラピーのテクニックがあるんです。それは、恐怖症のある人にリラックスする方法を教えて、その状態を保ったまま恐怖の場面を頭に描くのです。最初は少しだけ怖い場面を想像し、それからだんだんと、もっと怖いことを想像していきます。これを何回か繰り返しているうちに、恐怖症が減っていきます。これは「リラックスしている間は不安を感じることがでにない」という原理を利用して不安を取り除こうとするテクニックなのです。

 ここで気が付いてほしい事は、私たちが二つの行動を同時に行う時、注意はそれぞれの行動に行ったり来たりし、各々の行動自体は、それに100 %集中している時に比べて、力が弱まります。エネルギーの分散もあることですから、それはしかたないでしょう。先に述べた恐怖症を治すテクニックもそのようなことが起こっているように思えます。リラックスをし、そして恐怖を感じ、そしてすぐまたリラックスをします。そうしていると、恐怖の強さも減るといったかたちです。

 同じく何十年も病院などで使われている作業療法というのがあります。精神病院での総合的治療の一部として用いられているわけですが、患者さんに工作をさせます。陶器を作らせたり、模型を作ってみたり、籠なども編んだりします。実際にやってみると、随分気が落ち着く作業だと思います。心の心配事が薄れていきます。こんなことでという印象が最初はあるのですが、結構効果があるので驚きます。

 この作業療法も二つの行動を同時にしていることが見えます。一つは悩みの心、すなわち思考や感情です。もう一つは手を主に使う作業です。でも、作業にある程度心が集中しないとよく出来ません。作業に気を配り、そして心で心配をし、また作業に気を配ります。そうしているうちに心の悩みの強さが減っていきます。私の患者さんの中にも、毛糸の編物をしながら心を落ち着けた人がいました。

 最近開発された心理セラピーテクニックで、さまざまなトラウマを治す方法があります。これは患者さんがトラウマの再体験をしている時、セラピストが患者さんの目の前で細い棒を、ちょうど自動車のウィンドウのワイパーのように右左、そして左右と行ったり来たり動かします。そうすることによってトラウマの痛みが減っていきます。いかにしてこんなことでトラウマが治るのか不思議に思いますが、これも考えて見れば、患者さんの注意がセラピストの棒からトラウマへ、そしてまたセラピストの棒へと移動していきます。そうしているうちにトラウマの力が減っていくのでしょうか。

 この他にも、これらに似たことでためになりそうなことが沢山あります。例えば、心が悩んでいる時に、それと同時に楽器を引くことや、そして悩みながらそのことについて作文や日記を書いてみること、または悩みながらもある本のテキストを自筆で写すことなどもいいです。悩み事について書くことは悩んでいるのと同じようには見えますが、実際に書く作業は随分悩み以外の心の注意が必要です。そうしているうちに心が休まっていきます。

  私の患者さんの一人で、悩み事があるとドライブに出かけてしまう人がいるんです。確かに心の注意が、ドライブから悩みへ、そしてドライブへと動きますから、効果があるのでしょう。でも、悩みながらの運転は危険でもありますから、皆さんは止めておいたほうがよでしょう。

結婚相手の誤用

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そのために結婚をするわけではないのですが、知らないうちに結婚相手の誤用をしてしまいます。ここで言う誤用とは、自分の問題を相手を使って責めるということです。自分がいらいらしている時に、相手に当たり散らす。相手がのこのこしていると、自分がフラストを感じ、今度は相手がのろいことを責める。子供がうるさいと相手のしつけが悪いと相手を戒める。相手が人前で大声で話すと、自分が見られているような感じがして、相手をとがめる。自分が物にぶつかって痛い思いをしたら、相手が物をそこに置いたことを注意する。日常の中から例をあげればきりがないですね。

人というのは、自分の心を安定させるために、自分の中にある不純物を排除します。その不純物というものは、自分の怒りであったり、短所であったり、自分の醜い姿であったり、劣等感であったり、恥であったり、罪であったり、いろいろです。それらを自分の中に保っておくのは大変ですから、それを相手に投げかけて、自分はさっぱりとしたいわけです。ちょうど自分の悪い部分を相手の中に入れておいてもらっているようです。相手は自分の悪い面の貯金袋みたいです。沢山そのような貯金をして、相手が随分醜くなったら、それじたい自分のそばに置くのは耐えられなくなり、そんな相手を悪用したり虐待したり、そして離婚を考えたりします。

おかしなことに、自分が相手を責めている一方、相手も自分の心の安定を図るために夢中で、相手の悪いところやフラストをこちらに投げかけているではないですか。こちらも知らない間に相手の悪い面の貯金袋になっているのです。貯金袋の中身はこちらにとっても嫌なもので、我慢をするのは大変ですからそれも相手にまた投げかけます。お返しをします。そうこうしているうちに、お互いの貯金袋の中身が、いったいどっちから来たのか解らなくなってしまいます。私の怒りは最初は私のだったのか、それともあなたが最初に怒っていたのか。

セラピー

案の定、カップルのセラピーは必ずといっていいほど、相手の悪口から始まります。自分に何かが悪いために結婚問題が起こっていて、それを何とかしようとしてセラピーに来る人は、少数の例外でしょう。でも、そこまでいっていたら、問題の半分は解決したことにもなるでしょう。でも、現実はそう簡単ではありません。何回も何時間もお互いに相手を責め続ける悪循環が続きます。今まで相手が悪いと思って頑張ってきたのに、その悪い点が自分から来てるだなんて、そんなこと理解できません。そんなことを受け入れていいのでしょうか。自分の存在の問題にも至りかねません。セラピストが一生懸命になって相手を責めることをやめさせてもあまり効果がでません。

この時点で考え方の飛躍をしなければなりません。二人の人物がお互いに責め合ってるという考えから、一つの組織が悪い循環をしているのだと。もう誰が誰を責めているというのは、問題ではありません。非難が回転しています。誰が誰を悪用しているのではなく、悪用が回転しています。誰かの責任ではなく、同時に二人の責任ですし、誰の責任でもありません。この状態をカップルの一人の目から見ると、自分の怒りは相手から来て、相手の怒りは自分から来て、そしてまた自分のは、、となります。それと同時に、自分が責めるのをやめれば、相手がやめて、相手が責めるのをやめるのは自分が責めるのをやめるので、、となります。結婚問題の原因は相手にあり、その原因は自分にあり、そしてその原因は、、

原因の話

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小さい子供にとって、周りの出来事は勝手に発生し、それに理由がある、すなわち、何かが起こる時にはそれに原因があるなんて知らないでしょう。原因があって事が起きるという概念は、精神発達上の達成であります。そしてこれは社会で生きていくうえで、かなり大切な概念であると思います。なぜなら、この原因の概念が人の責任というものに繋がっていくからです。誰かさんの意思によって事が起きる。そしてその事が他の人に影響を及ぼすとき、責任を問われることになります。原因の概念が人間関係の中では責任の概念になります。こう考えてみますと、原因の概念は物理的であると同時に、文化的社会的でもあるわけです。

しかしながら、原因の概念を見直してみますと随分いいかげんで不正確な考えです。といいますと、ある原因、例えば、木が倒れる原因は強い風が吹いたからだと考えましょう。でも、その強い風は何が原因だったんでしょう。強い風は近くに竜巻が起こったからだとしましょう。では、竜巻は何が原因で起こったのでしょう。近くで温度差の激しい空気の接触があったのでしょう。というようにきりなく原因をさかのぼることになり、いったい何が原因なのか解らなくなってしまいます。

それだけではありません。木が倒れるには、風だけでなく他の原因もあるでしょう。例えば、木が立っていた土が軟らかかったとか、虫が木の内部を食べてしまったとか、いろいろありそうです。こうして考えてみますと、何かが起こるには複数の原因があることが解ります。この多重原因の概念は、最初に述べた一次元的な原因の概念よりもっと洗練された考えです。もう少し正確な見方と考えることもできるでしょう。科学では、現象の説明をするのに多重原因の概念をよく使いますし、心理学では、人の行動をある一つの原因から起こるというより、さまざまの原因が関連してある行動が起こるという見方が当たり前のようです。

でも、もう少し原因と結果の行程を見直して見ますと、たとえある行動がさまざまな原因で起こったとしても、人の行動は起こって終わってしまうだけではありません。人が誰かさんを押したら、押された人は飛んでしまいますが、そこでその人は我慢をしておらず、押し返すこともあるでしょう。そうすると、最初に押した人が飛ばされてしまいます。今度はその人が2倍の力で再度押してきます。そもそも最初に押したのが原因だとしますと、その結果が原因の人に戻ってきて、原因に変化が起こりました。つまり2倍になりました。面白いことに結果が原因を変えてしまったのです。

このような循環的な原因の概念は人間関係のやり取りを心理学的に観察するのに便利です。例えば、Aさんが仕事でストレスを感じ、Bさんに怒りを出して八つ当たりをしました。BさんはAさんの怒りの態度を見て、Aさんの無謀さを非難しました。すると、AさんはBさんの理解のなさを取って、再びBさんに怒りを出しました。と言うように、原因が結果を起こし、結果が原因となって最初の原因を変化させ、それが結果となりました。その結果は再び原因となって次を起こします。ぐるぐる回って、そのうちに誰が何をしたの解らなくなってしまいます。

本当に原因と結果というものはあるのでしょうか。確かに、物事の現象を理解するのに便利ではあります。そしてその理解はいろいろな問題の解決に至るので、原因の概念は大切なものでしょう。でも、ここでも見ましたように、原因の種類がいくつもあるということは、原因の概念はいい道具ではあるものの、物事に本質的に存在するものではなさそうです。

自発性の開発

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子供に何回もあれこれしろと言うのに、言うことを聞かないという、苦情を親からよく聞きます。言われたら直ぐに子供が動いてくれたら気分がよいですし、自分から進んで物事をやってくれたら、もっといいですね。自分から物事をしだすことを自発性と言いまが、それはいろいろな場面で大切なことは確かです。しかしながら、これはいったいどうしたら子供にうえつけられるのでしょう。親子のやり取りの中で、自発性を増やす方法はあるのでしょうか。

それよりも先に、親がわざわざ特別なことをしなくても、子供はよく自分から自発性を伸ばす行動に出ています。でも、それを親が無視していたら、子供もだんだんその行動をしなくなってしまいます。ここで肝心なことは、親の方が子供の自発的行為を見逃さないことです。

よく子供が親の目を引きながら、「見て!見て!こんなことできるよ。」と言います。これは子供の中に、自分を認めてほしい、自分の能力を見てほしい、自分は価値ある子であることを知ってほしいという気持ちがあるからです。まさにこの自然に起きる行為に反応してやることによって、子供の自発性が成長していくのです。親としてはそんなに難しいことではありません。子供の要求に「ほんとだ、なるほど、、面白いね、、よくできたね」などとたのもしく見ていれば、自然に自発性がついていくものです。

例えば、勉強が嫌いな子に、勉強を好きになってもらい、自発的に勉強をするようにしてもらうには、その子が「ほら、出来たよ、見て!」と言えるように状態をセットしてあげるとよいでしょう。そのためには、子供を勉強に誘い、その子が簡単に出来る勉強内容よりほんの少し難しい課題に挑戦させ、子供の「出来た。」という表情みて、微笑みなり声をかけて認めてやるといいわけです。これを次々と繰り返すことによって自発性がでてきます。もちろん、難しい問題をさせて、失敗を経験させるのはよくありません。

逆に自発性を殺すやり方はどんなふうに行われるでしょう。よくあることなので、それだとして気が付いているとためになるかもしれません。やりなさいを命令をすること、やらないと怒るよと脅すこと、子供が自発的に何かをしたときに怒って罰を与えることなどがあります。

命令などをして子供に無理やりに何かをさせますと、子供は確かにそれをしますが、その行動の理由が子供の心の中にあらず、親にあることになってしまいます。すなわち行動の動機が、自分の中でなく外になってしまうわけで、自発性は消えてしまいます。また、自発性を発揮したときに、その行動に罰を与えますと、自発性が弱まってしまうことも確かです。

このようなときに、自発性が失われるだけでなく、強制や罰は、それに対して防御行為も出てきます。強制や罰は、受ける側にとって決して居心地よいものではありません。子供の方は、不安や怒りを感じてしまいます。そしてこの経験は、悪い自分として定義された自分の分野に吸収、保管されていきます。そして、この部分の自分を何かの拍子、つまり再度強制されるような経験をしたときに、再び不安や怒りを感じてしまいます。この感情はいやなものですから、それを避けようとするために、2次的な行動にいたります。例えば、嘘をつく、言い訳をする、話題をずらしたり変えたりする、仮病になったり、実際に体の病気になったりする、強い反抗をする、

他動になる、酒や麻薬に走る、等があります。自発性を殺すだけでなく、それ以上にあまりよくないですね。

無意識の自叙伝

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サイコセラピーでは患者さんがこれまでに起こったことをいろいろと述べることがあります。自分を振り返って、してきたこと、あった事なかった事をセラピストに語ります。また、セラピーに限らず、自分の歴史を誰かに語ることはあります。私たちには自分と言うものが存在するものの、それとは別に、私達は語って述べて、描く自分と言うものも存在します。

 この語られる自分とは、実際に自分が生きながらやってきた自分とは違うみたいです。自分の身にいろいろと起こった中から、良かれ悪かれ自分に意味があるものが記憶に残って、それが材料となって自分が語られます。実際に起こったことでも自分にあまり意味がなく、忘れられているものもあるでしょうし、虐待の経験のように、自分に対する意味は重大ですが、その記憶に痛みも伴うため、抑圧されて忘れられ、語られる自分に含まれていない事柄も少なくないでしょう。

 語られる自分の歴史内容を見てみますと、成功したことが誇りを持って描かれていることもありますし、失敗や嫌な経験が恥を含めて描かれている部分もあります。嫌な過去の内容が多いと思う人は、それを挽回するかのように、自分にとって良い経験を求めて、自分の歴史の展開などを試みます。また、よい経験が沢山入った自分の話を見られる人は、それを満足しながら振り返ることでしょう。

 このようにして見ますと、語られる自分とは、単に自分に起こった歴史を綴ったものではありません。それだけでなく、語られる自分を振り返りながら、この先どのような話の展開がよいか、積極的に描いていく作用もあるようです。子供の時に虐待を受けた人が、自分の子供には虐待をしまいと一生懸命頑張ることは、語られる自分が良い話として終われるように、精一杯頑張っているかのようです。

 それと同時に、語られる自分もこれからの生き方に作用をしていきます。語られる自分は、自分に起こった事柄の記憶であり記録であるのですが、それ自体自分の将来に影響を及ばす力があるということです。良い成績を挙げた学生が、自分は出来るんだと信じて、それまでの自分の歴史を守ろうとします。また、過去に失敗や拒絶を経験した人が、自分は敗者だと言い張って、次々の起こる挑戦に自分から負けていきます。ちょうど、それまでの自分の歴史を守るかのようです。

 私達は知らない間に語られる自分を描き続け、それを自分であるかのように大切にし、その展開に参加して影響を及ぼし、影響されて生きています。ところで、セラピーでセラピストに向かって語りながら描かれる自分は、自分を理解してもらおうとしているわけですが、人前で、語られる自分を理解してもらえるように細かく語る、おそらく初めての経験ではないでしょうか。その上、それまで自分の歴史内で意味のつけられないような出来事や理解できなかったことが明らかになっていくと言うことは、それ自体語られた自分を書き直す機会が出来るといってよいでしょう。ある大切な事項の語り方が変わることによって、それに関連する事柄の意味や語り方が変わっていきます。それまで自分の過去としか見られなかった歴史が変わっていきます。そしてそのような変化は、これから語っていく自分に影響を及ぼしていくことでしょう。

脳の衰え、発展?

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 どこかで読んだか聞いたかしれませんけれど、目でずーっとある一点を見つづけますと、それが消えて見えなくなってしまいます。目がものを見るには、目が動いていないと見えません。実は私たちがものを見ている時に、目は速い振動のように動き続けているのです。ちょうど、目がある位置でものの写真を撮り、また位置を変えて写真を撮り、次から次へと画像を脳へ送って、視覚と認知の処理をします。脳では幾つもの画像を総合してあたかも一つのものであるかのように、私たちに見させて、または思わせてしまいます。

 この一こま一こまの脳内の画像の連続が、視覚だけに限らず、聴覚、嗅覚、味覚を含む他の感覚にあります。ちょうど、私たちは映画を見ているかのようです。映画の実際のフィルムは一こま一こまイメージをスクリーンに描き出します。でも、それを見ている私たちは、不動のイメージを一つ一つ見る代わりに、動画を見ます。脳が画像を処理する過程で動作を作ってしまったようです。主観しか解らない私達は、外の世界とは違ったものを見せられて、脳に嘘をつかれているかのようです。

 年をとるといろいろな体の機能が衰えてきます。脳の機能の働きが衰えるのも例外ではありません。それはIQテストをしても発見できます。特に、非言語性知能が年と共に低下していきます。非言語性知能とは、言語を使わないで、主に視覚と動作を使って問題を解決する力です。この分野のテストは時間を計り、時間制限もありますから、速く問題を解決しなければなりません。お年寄りでも同じ問題をじっくり考える時間があったら解けるかもしれませんが、短時間でするにはそれなりのスキルを要するわけです。

 そこで思うのですが、脳がスローになったということは、先ほど述べました脳内の画像の処理速度が減ったということで、同じ時間内に若い人と比べると小数の画像を処理しているのかもしれません。もしそうだとしたら、これは面白い結果を想像できます。

 例えば、車の運転のスピードが年をとるにつれて下がってきます。老人がゆっくり運転をしていて、その車の後は渋滞ができたりすることは、極端な例ですが関連していることだと思います。しかし若い時には、ゆっくりな運転はつまらなくてたまりません。高速道路で制限時速を超えるスピードで走ってちょうどよいように感じられます。若者は短時間にそれだけ多くの脳内画像を処理してしまうので、スピードを出してもっと刺激を増やさないと居心地がよくないことでしょう。逆に老人は画像処理が遅いですから、ゆっくり運転をしないと、情報処理をしきれず危ないことになってしまいます。

 また、年をとればとるほど一日が過ぎるのは速いと感じます。子供の時には早く大人にないたいと思うのですが、なかなか時間が過ぎてくれません。年寄りになりますと、早死にはしたくないですからもっとゆっくり時間が過ぎてほしいのに、どんどんと消えていってしまいます。これはひょっとして処理する脳内画像数と関係があるのでしょうか。例えば、若い時に一時間にX数の画像を処理できたのに、年をとってからそのX数の半分しか処理できなかったら、X数を全部処理するには2時間かかってしまいます。一時間と思っていたのに気が付いたら2時間ですよ。道理で時間の進行が速いわけです。

 しかし、画像処理数が少なくなったとして、悪いことばかりではなさそうです。画像数が少ないということは、ある意味刺激が少ないという意味で、興奮しずらくなるというわけです。この状態は瞑想などの心を落ち着ける行動に役立ちそうです。例えば、瞑想をしていて脳の騒がしさが減り、画像処理数が減っていきます。そしてそれがゼロになった時、禅で唱える「無」の世界に入れるのかもしれません。若くて多くの刺激を求める時代より、年を重ねて心が落ち着ける時に瞑想をし「無」の意味、すなわち「生死」の意味をつかんだほうが意味がありそうです。

 私達は、人前で自分が本当に思っていることと違うことを言うことがあります。「このケーキ、私が一生懸命作ったんです。美味しいですか。」「ええ、とても美味しいです。」本当は美味しいとは思っていなくても「いえ、まずいです。」とは言いません。まずいと言って、相手を傷つけるのはいやですし、また、そう言って相手に嫌われるのも怖いです。

 私達は人間関係の中で拒絶されることなく、安全性を保ちたいですし、自尊心も同じく保ちたいものです。この種の安全性や自尊心を保つ動機は人間として本性的なもので、幼児のころから母親との関係で身につけます。母親に拒絶されたり、無視されるのは、子供にとって生死にかかることですから、母親に気に入られること自体が、生きていくための基本的機能と言うわけです。

 母親に認められて、人間関係の安全性を図るのは大切ですが、それ自体自分の欲求と一致しないことは多分にあります。子供がお菓子を欲しい時に、母親は後で食べなさいと言い、それを待てない子は、叱られてしまいます。母親に対してよい子で入るには自分の欲求を抑えて、我慢しなければなりません。すなわち、母に好かれるために自分の本当の気持ちを言えないときが出てくるわけです。

 このようにして身に付き、自分の思っていることと違うことを言う自分を仮の自分と言います。簡単に言えば、自分の気持ちに嘘をつく自分のことです。人間関係の中で生きていく上で、ある程度の「仮の自分」の存在は必要でしょう。なぜなら、どこで誰とでも、自分の本心を言っていたら、とんでもないことになってしまうからです。「こんにちは。あなたは今日は醜いですね。」と言った結果を想像してみてください。

 仮の自分の必要性は認められるものの、その一方、使いすぎは問題になります。多分、過去の人間関係で拒絶の経験がひどかった人に起こるのでしょうけれど、他人に嫌われたくないという気持ちが強く、自分の言うことが全て相手を満足させることにだけになってしまいます。その代わり、自分の気持ちはこれっぽっちも出てきません。それどころか、自分の気持ちを使うことがあまりにも少ないため、自分の気持ちが何なのか、判らなくなってしまいます。つまり、人前では完全に仮の自分だけになってしまうのです。

 その仮の自分の対象である自分の本当の気持ちを「本当の自分」と言います。本当の自分も幼児の時に、母親との関係の中で作られ、母親から否定されたり、嫌われたりしていない時の自分の姿や態度がイメージとして脳に記憶されたものです。そして、そのような初期の本当の自分が、成長の過程で広がったり、ある程度の変化を経験したりして、大人の本当の自分と言うものが出来上がります。

 人間関係において、仮の自分の使いすぎは、欲求不満になります。また、本当の自分の使いすぎは、自分勝手に見えて、人から嫌われます。本当の自分を見失わずに、仮の自分を適度に使うことによって、バランスのとれた自分のあり方を、人間関係の中で作り発見していくことで、心の安定と満足が得られるようになります。不思議なことに、人間関係を除いた、本当の自分や仮の自分は存在しません。人間関係から抜け出したときに、人は疎外感、孤独感、そして不安を感じますが、自分の存在が時とともにますます消えてってしまうことを経験するでしょう。

心理情況

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私達は毎日他の人達とコミューニケーションをとりながら生活をしていますが、気がついてみますと誤解がかなり多いですね。たとえ、うまく伝わったと思っていても、実は違う意味にとられていたことなどは少なくありません。

よく考えてみますと、私たちの表現する意味は、そのときの情況によってかなり変わってきます。「私は海へ行きます。」は、真夏のバケーションとして聞くこともできますが、その言っている人が過去一ヶ月間落ち込んでいたとしますと、ひょっとしたら海に身を投げて自殺でもするのかなと心配になったりもします。この言語の意味を変えてしまう情況とは、いったいどんなもなのでしょう。

心理情況のことを心理学英語ではcontextと言って、私達のコミューニケーションの意味を調整する枠や背景のことを言います。心理情況はいろいろな要素を含んでいます。身近なものから見てみますと、話し相手との人間関係やその時の気持ちから始まって、二人の間に起こった過去の出来事、家庭や職場、または遊び場などの環境的な要素、そして私達が育った生い立ちの様子やそれが起こった文化的環境などまで広がっていきます。

こんなにいろいろな要素があるにもかかわらず、コミューニケーションをとる二人の心理情況が一致したときだけ正確に理解をし合えるのですから、かなり難しいと思いませんか。日本人同士で同じ生い立ちを経た二人が何年も結婚生活をしてやっと心理情況が一致したとき、以心伝心などと言うものが成立するようになります。アメリカ社会の様に、いろいろな人種がいて、人々の背景に多くの違った文化や言語環境が存在しることを考えますと、以心伝心などもちろん不可能であるだけでなく、お互いに理解しあうだけでも難しいのは当たり前のこととなります。

ここで関心が向くのは、アメリカ人と国際結婚をした日本人たちです。二人を結ぶ恋愛感情はさて置いて、結婚初期は言語の壁のために相手の言っていることが解らないことが多いだけでなく、相手の性格や思想、文化の違いで心理情況の一致が起こることはほとんどないことでしょう。その上、毎日の心理的問題が理解されずに歩んでいくのですから、かなり困難な生活を乗り越えて行くわけですね。まあ、日本人同士で結婚したからと言って、簡単にすまされるわけでもありませが。

暴言や暴力をふるう結婚相手の心理情況は、その人にしてみれば、しかたなく当たり前の事です。それに対抗する相手の立場は、暴力を許される心理情況を受け入れて同じく立ち向かうか、またはそれを拒否して相手の暴力的心理情況を止めさせるか、離婚をするかなどの心理情況に追いやられてしまいます。

もちろん現在のアメリカ社会で、家庭内での暴力的心理情況は、法律的に受け入れられていません。でも、その心理情況が存在するのは確かですし、少なくないと思われます。家庭内の殺人事件は結構耳にします。また、飛躍した話では、平和を主張する国が、敵国の兵隊を殺してもよいとする心理情況を受け入れるまで、さまざまな条件によって信じられない心理情況が存在するわけです。

私達のコミューニケーションギャップが心理情況のぶつかり合いによって起こります。自分の心理情況、そして相手の心理情況を理解することによって、コミューニケーションがうまくいきます。手っ取りばやい話、私達の表現の中に、自分の心理情況を含んで相手に説明し、その上に本来のメッセージを伝えたらよいかもしれません。「おーぃ、お茶!」の代わりに、「子供が、お茶を部屋に置いておくと、ハエがそこに落ちるようになると言うのを本でよんだそうだから、今から二人でそれを試してみようと思うので、お茶と作っておくれ。」と言ったらもっとよく通じるかも知れません。

性格の防衛

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 先月の課題で、性格の盲目をとり上げ、自分の性格を知ることの難しさについて書きました。自分の性格は、それが自己の基準で、そのためにそこから物事を見るので、それ自体(自分の性格)を見るのは難しいと言うお話でした。でも、自分の性格が見えない理由にもう一つあります。それは自分の性格を自分には見えなくする動機があるのです。自分の性格を見まいとする力が働いていると言うことです。

なぜ、自分の性格を見まいと努めるのでしょうか。それは自己を見る不安にあるのです。そもそも性格というもの自体、不安を避けるために出来上がったという考えがあります。私達は、性格に基づいて行動することによって不安を最小限に保つことが出切るのです。

例えば、怒りやすいタイプの性格の人は、他の人の間違いなどに関して怒ることによって、自分の間違いからくる不安を避けることができます。また、依存性人格の人は、他の人に頼って、自分の責任を逃れることによって、自分の無力からくる不安を避けることができます。そしてプライドがあり、優越感の所持者は、人の劣等を見ることによって、自分の劣等の恥を認識させられる不安を避けることができるのです。

性格とは、幼児の時からの様々な経験からくる不安を避けるための動きがパターン化され、成長の過程に防衛機制として固まってきたものしてみることができます。それではここで3種類のパターンを見てみましょう。

第1のパターンは、他人に対して立ち向かう性格です。このタイプは怒りっぽかったり、プライドがあったり、自信が強くて、自分に不安が起こった時、それが相手の責任だと見ます。その結果、不安を消滅するために相手をコントロールしたり、攻撃したり、破壊しようと思います。喧嘩速くて怖い性格ですね。でも、怖くないタイプもあります。相手に対して自分のことを説得しようとするおしゃべりな人もこのグループに属します。相手を変えることによって自分の不安をかたずけるところが同じです。

第2のパターンは、不安を誰かに消してもらおうと依頼する人です。このタイプの人は自分の力を信じられません。一人でいることも不安になります。問題が起こったら直ぐに誰かに相談に行き、問題を解決してもらおうと思います。一人になるのが不安ですから、ひつも誰かといようとしてくっついていることが多いです。他人に依存が多い反面、自分の欲求を犠牲にして不満が多かったりもします。

第3のパターンは、人間関係自体が不安の原因であると感じ、人付き合いを裂け、引きこもりがちな性格です。このタイプは、幼児期から人間関係が難しいと経験してきました。そして人間関係に入ると不安を感じてきた人です。解決策として、人間関係をあきらめ、自分の世界だけで楽しもうとしています。比較的無口で、感情の表現が少なく、他人の言動に無関心です。一人でできる趣味や興味を選び、一人の時間が多い人です。

この3つのタイプによくはまってしまう人は、結構パターンが決まっていて頑固なところがありそうです。でも、多くの人は、一つのパターンにはまりきらず二つのパターンをミックスした状態に入っているとも考えられます。皆さんは心当たりありますか。

性格の盲目

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私達は性格と言うものを持っています。明るい性格を持っているとか、やさしい性格をしているとか言います。性格は私達の一定した特徴のことです。人のある面がどんどん変わっていったら、それは性格とは言いません。ある人が外交的な性格だと言った時、その人がいろいろな場面で外交的であり、また、今月も来月も外交的であることを期待します。それゆえ、性格と言うわけです。

人の性格は観察していてよく解りますが、自分の性格はそれほどよく見えません。ちょうど目(視覚)は物を見ますが、目自体を見ることができないかのようです。自分の性格を理解するには、他の人と比べて見たりすればよいのですが、何せ主観はバイアスが多くて、自ら他の人と比べて自分を正確にはつかめません。結局、長期間に渡って少しずつ得られる他の人の自分についてのコメントに頼りながら自分の性格を知っていきます。まあ、それも他の人の自分についての意見ですから、客観的そうでありながら、結構いいかげんなところもありそうです。

自分の性格を知るのに一番難しいと思われる点は、各々の性格は自分の性格ついて見えなくしてしまうと言うことでしょう。私達は自分の性格に付いて盲目であるということです。その代わりに、私達の性格を原点に置いて、それと比較された他の人の特徴が見えてきます。

例えば、他の人をコントロールし自分の思うとおりに行動させようとしたり、自分の考えを通そうとするような性格の人がいるとしましょう。自分にとってしていることは極普通に見え、たいしたことではありません。そして、自分にとって他の人は、何をしているのか解っていないように見えますし、何が正しいのかもよく見えていないように思えます。ほっておいたらいい加減なことをして物事をだいなしにするようにみえます。ですから、自分は他の人をガイドしていかなければならないと考えます。他人が自分を勝手で、プライドの高い人などと見ているなんで考えることは少ないことでしょう。

また、依存心が強くて、物事をする時に他の人の助けを求めたい人がいるとしましょう。自分の方から見えることは、物事が難しい、自分だけでは決してやりこなせないように見え、それを手伝ってくれる人はやさしくてリーダーシップのある尊敬できる人であると思います。その逆に、よく手伝ってくれない人は、冷たくて人情がなく見え、そのような人に怒りも感じてきます。人助けはお互いに必要なものとして見ます。ところが、他の人の中にはそのような自分を恥知らずの弱者と見る人がいることを知ったら、ショックを受けることでしょう。まさか自分がそんなふうに見られるなんて、考えもしていなかったことでしょう。

この例は少々大げさかも知れませんが、要するに私達は自らの性格について盲目なところがあるということです。私たちの性格はそれが自分の基準になってしまいますから、それ自体を直接見ることができません。

これを書きながら私が思うことは、皆さんに見える私の盲目な点はいったい何なのでしょうね。

時計の破壊

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時計は時の流れを教えてくれます。時計のチックタックを聞いていますと、時がたっていくのを感じます。時間は私達の生活の中に完全に浸透していて、私達は毎日それと関わっています。

時間は世の中に存在するものだと思っています。科学の理論によりますと、一説は、宇宙の始まりはブラックホールの爆発で起こり、その後空間が広がり、その中から時間が出てきたのだと言っています。その上、空間の密度はそれがどのくらいブラックホールに近いかによって違い、その違いで時間のスピードも違うというわけです。すなわち速い時間もありますし、遅い時間もあるというわけです。速い時間の空間に存在する人が、遅い時間の空間に旅をして、しばらくしてから元の速い時間の空間に戻ると、自分はあまり年を取っていないが、他の人は年をもっと取っているので、未来の世界を見ているのと同じになります。これがタイムマシーンの原理になるのですが、ここではそれを作る話をしているわけではありません。

私達は体に時計が備わっていませんから、別に時計が必要になります。時計は時間を計る機械です。でも時間と直接関係はありません。といいますと、時計とはただ一定のスピードで動く仕組みのある機械だということです。振り子であろうが、時計の針であろうが一定して動きます。何回往復したかとか何回回ったとかと実際には距離を測るものです。長距離の運動は時間が長くかかったことになりますし、短距離の運動は時間が短いといいます。

ここで気が付く事は、時間の流れと時計の運動の距離は同じ事を言っているということです。時間=距離。そして距離は空間の広がりを意味していますから、時間=距離=空間と言うことになり、空間から時間が生まれてきたのだと言う理論が成り立つわけです。実際に時間が空間から生まれて来たのでしょうか。時間=空間ですから、時間が空間から生まれたというより、空間の動きを見て時間と言う概念を考えたと言えるかもしれません。いわゆる、時間が存在するというより、時間を人が考え付いた、そして距離を計る都合のよい単位であると言ってもよいでしょう。

時間は存在しません。人が考えついたいい考えだと思います。考えだすと経験もできます。経験をすると存在をしていると思えます。私達の周りには実際に存在しないものが沢山あります。実はすべてのものが存在してなくて、人が考えついたものなのですが、それを言うと私が発狂したと思われると思いますので、すべてといわず多くのものとしておきましょう。私達の周りの多くのものは存在しませんが、考えられるので存在するようになるのです。ちょうど赤ちゃんは時間と言うものを知りませんから、その子にとっては時間は存在しません。赤ちゃんが触る机も、それを知りませんから机は存在しないのです。

この世が存在するのかどうか、自分が存在するのかどうか、非常に大切な問題であると思うのですが、自分が存在するとしたら、その考えを支え合う人々、そして社会全体が、あの映画「MATRIX」で現していたように随分巧みな想像ですね。

年をとる意識

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私達は毎年、年をとり、成長をしていったり、老化をしていったりしますが、自分の主観から見る年の感覚にはあまり変化のないように感じます。20歳の時の自分と30歳や40歳になった時の自分を比べて見ますと、年をとったという認識はありますが、中から感じる自分というものはいつも同じです。にも関わらず、意識のどこかで年をとったという事も解っています。どちらかというと、年を取るという理解は、自己の客観視からくるもので、自分の主観と異なるような気がします。すなわち、年をとるということは、自己に関する知識であり、直接経験をすることではなさそうです。

年齢を数えて自分の成長や老化を意識できますが他にはどんな経験が年をとることを告げるのでしょうか。

成長している時には体がますます強くなっていくのですが、ある日、体が前ほど機敏に動かなくなったり、ちょっとの無理で怪我をしたりすることがあります。最初は一時的なものと思って片づけたりするのですが、何回かそれを繰り返している間に、自分の体が自分が思っているほどついていってくれないのに気が付きます。そのような時に年をとることを認識します。その結果セルフイメージを幾分調整しなければなりません。もう少し年をとったイメージを自分にたいして描くのです。

このような老化の認識は、自分の知能力に関しても起こります。気が付くことは記憶力の低下です。ある日、勉強をしていて若い時と比べると、勉強内容の取得があまりよくありません。若い時に簡単に覚えられた量をこなすのに何度もの繰り返しが必要になります。この経験をして、また年をとった事を確認し、セルフイメージを調整します。

また、年をとった事を周りの人から知らされる事もあります。ある日、若い患者さんの治療をしていた時のことでした。

患者:「天井のところから、何かぶら下がっていますよ。僕よりおじさんの方が背が高いから手がとどくんじゃないんですか。」えーっ、おじさんだって、、初めてそのように呼ばれた。非常にショック。もう、そんな年になったのかな。結局相手が自分をそう見るから、いやながら、セルフイメージを調整することになります。

英語環境の中でも、他の人によって自分の年を告げられます。ある日、

「......, sir.」と呼ばれて、自分ていつから、Sirなんて呼ばれるようになったんだろう、と思いました。ついこの間まで、「Hey, you there (boy)!」が当たり前だったのに、知らない間に人は自分を違うように見ていました。

このように他の人から、自分で意識しているより年上に扱われたり、自ら年をとることをある経験を通して認識したりして、しだいにそのイメージの受入ができてきます。すなわち、セルフイメージの調整が起こったわけです。その結果、自分から新しい年のイメージに合うような言動をし始めます。

このように考えてみますと、セルフイメージって案外簡単に変わるように思えませんか。まあ、年をとることに関して抵抗がない人にとっては、セルフイメージの調整も簡単かもしれません。そうでない人もいるでしょう。私がここで年をとる内容を取り上げて書くこと自体、自らの老けを見つめつつ、受け入れつつと言うことでしょうか。

秘密のメッセージ

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私たちは言葉を使って他の人とコミューニケーションをしますが、お気付きのようにコミュニケーションの内容は、言葉の意味だけではありません。言葉の意味は言い方によって意味が変わってきます。例えば、「桜が咲いています。」をイントネーションや気持ちの入れ方を変えることによって、「だから幸せです。」と意味したり、「だから困ってます。」と意味したりもできます。試してみてください。

ここまでは、毎日言葉を使っている私達には、当たり前のことなのですが、もう一つ隠されたメッセージがあるのです。それは、コミューニケーションの中に相手についてのコメントがついているということなのです。同じ「桜が咲いています。」の例を使いますと、今度は相手との人間関係や自分の動作を使って、「それにも関わらず、ここに座って花見もしないあなたはだめな人。」とメッセージを伝えたり、「花見をいっしょにできるあなたは楽しい人」というメッセージを伝えたりします。まあ、以心伝心をできる日本人?にとってこのようなメッセージが読めることもあまり不思議ではないかもしれません。

しかしながら、言葉で表している意味と、隠されたメッセージとが矛盾しているとき、相手が困ることはよくあります。例えば、「もう、あなたは大嫌いだ、消え失せてくれ。」と言いながら動作は、「でも、あなたは私にとって大切な人。」と伝えたら、相手はどちらをとったらよいか解りません。動きがとれなくなってしまいます。また、「どうぞ、私のをご自由にお使いください。」と言いながら、動作が「でも、これを使うあなたは人でなし。」と表したら、相手が困ってしまいます。

何年か前に、分裂病(当時の名前)を育てる親は、このような矛盾のあるメッセージを子どもに与えると言われた事がありました。確かに、矛盾のあるメッセージを毎日聞いていたら、心がわれてしまうような気がします。でも、今となってはそれほど珍しいことではなくて、日常見られるコミューニケーションの例であることが解っています。それにしても、このような矛盾がいつも伝わってきたら、安心できないのは確かです。結果として、心の不安定を導くことでしょう。

よくあることで、親が「おまえはいい子なんだからね。」と言いながら、年中叱っていたらどうでしょう。子どもとしては、「もし、お母さんの言うように、僕がいい子なのなら、どうしてそんなに叱るのよ。」と言いたくなってしまいます。結局お母さんの動作、すなわち叱りを通して伝えるメッセージは、「おまえは悪い子なんだ。」ということです。

しかしながら、母親も本当は自分の子のことを悪い子とは思っていないかもしれません。でも、子どもに足りないことがあるので、ついつい叱ってしまうのでしょう。それもその子のためを思ってです。でも、子どもの足りないところに目を向けて叱ってしまうということは、やはり子どもがいけないと思っているということなのでしょうか。

ここで気付くべき大切なことは、私達の複雑な気持ちは、言葉を通し、動作を通して相手に伝わってしまうということです。その結果、相手はあと味の悪い気持ちを経験します。もし、言葉と動作に矛盾がなく、それらがハーモニーとなって伝わったとき、メッセージははっきりしていて、理解しやすく不安もへります。ちなみに、私達の感じる不安は、コミューニケーションの曖昧から発生するという考えもあります。私達が矛盾のない本当のメッセージを伝えられるとき、私達は本物ですが、それは一見簡単そうで、案外難しいかもしれません。

嘘と建前と装い

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4月はエイプリルフールの月ですね。4月1日には、さまざまの嘘が飛び回りますが、冗談として許されます。

しかし、嘘って言うのは真実とは違うことを言うことです。一般的に嘘をついてはいけないことになっています。嘘は自分をまもるために使われたり、相手をだますために使われます。どちらにしても相手はよい気分をしないでしょうし、ダメージを受けることもあります。

日本人の使う建前って言うのは、本音とコントラストして使われますし、本音が本当のことであるならば、建前はやはり真実でなくなってしまいます。嘘と違って、建前は社会でいけないことになっていません。建前が真実と違うことがわかっていても、誰もそれをとがめませんし、誰かが害を被ることもないようです。むしろ建前と言いますと、社会の流れをスムーズに保つための潤滑油のようです。

アメリカ社会では、日本語の建前に匹敵するような英語が見つかりませんから、それはないとして、その代わりに装いを使います。Pretenseと言いまして、本音を心の奥に隠して、表面的には違うことを現します。この場合、相手に害が及ぶこともありますし、自分を守るために装うこともあります。真実を現さないのですから嘘と似ていますが、一般的にもっと受け入れられていて、とがめられることも少ないです。

心理学分野では、防衛機構と言いまして、自分の本音を隠し、それと違った言動をすることがあると解っています。この自己防衛言動は、それをする本人も意識して解っていないことが多いですし、相手がそれを見破るのも難しいことでしょう。防衛機構は誰でも持っているものですし、むしろそれがないと心理的生存が難しいでしょう。しかしながら、これも真実を隠し相手は本人の言動に惑わされるでしょうし、害が及ぶこともあるでしょう。その上防衛機構は、それをしている本人も気が付いていないことが多いので扱いが大変難しくなります。

このようにして私達の言動を見てみますと、私達は毎日偽りの環境で生活しているかのようです。確かにテレビニュースを見ても解りますように、社会は詐欺と嘘と無責任な行動でいっぱいです。いつも信じ込んでいた正直と真実の価値はどこへ行ってしまったのでしょう。実は、正直であること、そして真実をいつも言うことは、非常に、非常に難しいことであると思います。なぜかと言いますと、嘘や装いは人間の社会内での生存上不可欠なものであるからです。

人は自分の立場から離れることができません。自分の身体と心は自分の生存を守るために働きます。たとえ、客観的な見かたをしようとして、相手の立場に立ったとしても、それは自分を通しての客観性で本当に相手になったわけではありません。そうしますと、必ずしも自分の現実があり、そして相手の現実があるということになってしまいます。自分の生存のために相手に合わせることが必要であることを前提に置きますと、自分の現実をまげて隠したり、装ったり、嘘をついたりするのがやむおえなくなります。

正直であることは、相手に合わせる必要がない状態にいるということで、自分の存在を肯定し、相手が自分と違うということを受け入れ、客観的なお互いの公平を守るために契約心を持ち、相手の批判に耐えるだけの自信がなければなりません。これは人間の精神発達上で獲得する固体化の理想であるのとちがいありません。私たちはそのような理想に向かう努力はできても、そこに到達することはほとんど不可能といってよいでしょう。ですから、現実的には嘘を言い、装いをしながら、真実を語る努力をしていく毎日であると思います。ちなみに、子どもに嘘をつかないように教えて、それを期待するのは無理でしょう。でも、真実を語るように努力をするように教えるていくことは、大切であると思います。

ここに書いたことで、私は嘘を申しません。、、、、、、??「うそ!」

無意識の分析

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 皆さんもご存知かと思いますが、精神分析で何を分析するかと言いますと、無意識の分析をするということです。もちろんこれは、患者さんの無意識の世界を分析するという意味ですが、それをするにあたって、セラピストは自分自身の無意識の分析を行わなければなりません。自分の無意識を理解することによって、患者さんの無意識を理解できるようになるのです。この考えの根底には、患者さんとセラピストの無意識はどこかでつながっているということがあるからでしょう。

 無意識というものは私達にとって見えないものです。その見えないものをどのように理解するのでしょう。確かに私達の考え、感情や行動の多くは、私達の意識できないところで起こっています。ですから、それらについて私達は知りません。でも、その存在を告げるものがあります。それは無意識のサインなのです。そのメッセージも考えや感情や行動という形をとって伝えられてくるのです。でも、そのメッセージはすぐ意識できるようなものではなく、変装されて送られてきます。ですから、その変装を暴くまでメッセージの意味がつかめません。そのような無意識からのメッセージは日常、無視したり見逃したりしてしまいます。しかし、セラピーのセションではそれに焦点を当てて、理解をしようと試みることが興味深いところであると思います。

 患者:「私は父親から虐待を受け、その結果非常に怒りやすい性格になってしまった。そのために自分の子供に対して激怒してしまうことが過去によくあった。でも、セラピーをしてそれが解ってきたので、そのような怒りを子供には植え付けないようにしようと思っている、、、」

 セラピスト:話をよく聞いているつもりなのだが、どういうわけか、先日会ったもう一人の患者の事を思い浮かべてしまう。そうすると、目の前の患者の話に集中ができない。ふと、われに返って、いったい自分に何が起こっているのかと考える。(独り言:そういえばあの先日の患者さんは、自分のことを表現できないで困っていたな。それと今の虐待の話と何か関係があるのかな。あーっ、今の人は自分の子供に怒りを植え付けないようにと言っていたけれど、実はもう随分そうしてしまっていて、今となってはもう遅いかなと感じる。でも、それをこの人に面と向かっていえないな。自分の表現をできないもう一人の先日の患者さんのイメージは、実は自分(セラピスト)が目前の患者さんに今の自分の気持ちを言えないことを物語っていたのか。ということは、自分の壁をのりこえてこの人に気持ちを伝えた方がいいのかな、、、)

 患者:「私を虐待した父親に面と向かって、いかに私を苦しめたかを言おうと何度も思った。でも、今となって、彼も年をとり、よぼよぼ爺さんになってしまった。虐待のことなど出したら、ショックで死んでしまうかもしれない。そう思うと、父親をもうそおっとしておいてあげたいという気持ちになった、、、」

 セラピスト:(独り言:この患者さんは、父親に対して伝えたいことがあるのだけれど、父親の年も考えてそおっとしてやりたいのか。おーっ、このメッセージは、何と私に向けられているのかもしれない。彼が自分の子供に対して虐待じみたことをしてしまったことについて、私から直撃して欲しくないということなのかな。とりあえず、彼の虐待に関して触れることは、次の機会を待つことにしよう。)

 というように、セラピストの心の中で、自問自答が行われ、患者さんの無意識の理解が進んでいきます。例のこの患者さんが、自分の子供に対する虐待について、私に触れて欲しい時には、それなりの無意識のメッセージが届くことでしょう。

自己の調整

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 私達は身の回りのさまざまな事に関して、向上したいという思いがあります。例えば、マラソンのことでも考えますと、トレーニングによっていかに速く走れるようになるか、もしくは、いかにしてゴールに達するまでの時間を短縮できるのかと考えます。また、仕事である品を売ろうとしているならば、いかにして多くの品を売ることができるのだろうかと工夫をします。沢山売れたり、速く走れるようになったら、自分がマラソンや仕事で向上したと思います。

 ところが、皆さんも気が付いているとは思いますが、様々な分野の向上において、単にうまくなるように頑張っただけでは、あまり良い結果はでてきません。スキーをはいてきれいに格好よくゲレンデを滑り降りるには、何回も練習することによって上達はしてくるものの、限界に至ってしまいます。その限界を突き破るには、どうしてももう一つの要素、すなわち、自己というものと対決をしなければならないでしょう。

 いったいここで言う自己とは何のことなのでしょう。それは、私達が何かに携わっている時の自分の調整のことなのです。マラソンのトレーニングが進み、心臓も肺も筋肉も強くなってきたとします。しかし、その能力を最大に発揮するには、先ず、弱気や気が散ることを避けなければなりません。走ることに集中し自分の体力の分散を計画的に行わなければなりません。そのためにちょうど良いスピードや走るリズムを保たなければなりません。そして、競争ということについて、自分にとって適当な受け取り方を考え出さなければなりません。競争を相手に勝つこととして受け止めるのか、ただゴールに達すること、終わらせることとしてとればよいのか、または、自分の体の痛みに絶えることとして受け止めるのか、捉えかたによって能力の発揮度が違ってきます。これらの要素はみな内的環境、つまり心の中で起こっているものでして、これらをうまく操ることが自己の調整の向上というものにあたるのです。

 自己の調整の内容として主に3つの分野を考えてみました。先ず一番肝心なものと思えるものは、物事、ここでは向上の対象となる事柄の捉え方、見かた、理解の仕方です。物事はただそこに存在するのではなくて、私達の理解によって存在の形が変わってきます。例えば、現在普及したコンピューターと言う機械を様々な見かたをすることによって、その使い方が変わってきます。この機械を通信メディアとして見るのか、情報提供なのか、テレビの進化なのか、お金儲けの道具なのか、脳の研究に使うシミュレーションモデルなのか、サイバーワールドと言う新しい次元の違う世界なのか、性的道具なのか、友達なのか、ゲーム機なのか、エトセトラ。その理解によって私達の行動は変わっていきます。ですから、何かにおいて向上をしたい時、その何かをいかに理解するかと言うことが大切になるわけです。

 2番目の自己調整分野は、活動や向上対象と自分との感情的距離であります。感情的距離というのは、自分がどのくらい、入り込んでいるか、夢中になっているか、エネルギーを使っているかということです。あまり夢中になり過ぎても良くありませんし、無関心でもよくありません。ちょうど良い刺激のレベルを探さなければなりません。例えば、体操の宙返りを習おうとしましょう。興味や気力がなくては上達は遅くなってしまうでしょう。でも、あまり夢中になって一日中練習をしていても、疲れて限界に達してしまいます。ある程度したら体を休め、練習中の経験を振り返って見て、次の練習の課題を練った方がうまくいくかもしれません。

 最後の分野は集中力です。これは誰でも体験するように、あることにおいて向上するにはそこにエネルギーを集中する必要があります。トレーニング中に気が散って、他の事を考えていたりしては、やはり向上は望めないでしょう。集中力は自然と誰にでもあるものではありません。これ自体トレーニングをして向上していくものです。いかにして関係のない考えの誘惑と戦い、エネルギーの分散を避けるかは、鍛えた結果できるようになるのです。

 私達は、何かを上手にしたい時に、どちらかと言うと外的要素に気が行ってしまい、自己の向上を忘れがちです。外的技術と同様、自己の向上も忘れないでとりくみましょう。

知能指数と学歴

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今回はIQのことについて考えてみようと思います。IQとは、日本語で知能指数と言っています。知能指数とは知能全体を表す数値のことです。一般的には、知能指数が高いと頭がよいですとか、勉強がよくできるとか言います。確かに知能指数と学校の成績は関係があります。そして知能指数が高いほど、学校での成功率が高くなるのも確かです。また、学歴が上がれば上がるほど、知能指数もおおざっぱに上がっていきます。

 ここで考えてしまうことは、いったい知能指数と学歴とどう違うのでしょうね。両方とも比例して、同じように上がり下がりしてしまうのでしたら、同じものの違った側面を見ているだけなのでしょうか。もしそうだとしたら、知能指数とあえて言うだけの価値がありません。知能指数と言うからには、単に学校で何かを習っただけで変化をするようなものだけでなく、もっと本質的な根本的な人の能力を指したいものであります。

 人の本質的な能力とは、いったい何を指したらよいのでしょう。そのような能力は、日常いろいろな場面で発揮されなければなりません。日常生活、仕事、勉強、人間関係、いろいろなところでそれが表現されていくのでしょうね。いわゆる毎日生活していく上で必要で、さまざまな場面においての問題理解と解決をしていくための能力であるような気がします。

 そのためには、ただ学校で習ったものの知識だけでは足りません。それより新しい問題を解決していかなければなりません。知識を使うのはもちろんのこと、それを使いながら新しい問題に対して、新しい構成をし、新しい解決策を生み出すことが、知能の本質であるかのように思えます。

 学校へ行きますと知識が増えます。その知識の殆どが脳の後頭部に記憶として保管されていきます。その保管された知識をどのように使うかは、前頭葉の方にプログラムされます。どのようなプログラムがそこに構築されるのかは未知ですが、多分いろいろな応用知識のパターンが入っているのでしょう。だからといって、その応用パターンを使うだけが前頭葉かというとそうではなく、完全に新しい問題解決パターンも生み出すわけですから、それ自体どんなプログラムなのかは、不思議なことです。学校が知識を単に増やすだけでなく、前頭葉のプログラミングもよくできましたら、本当の意味でよい教育と言うことがでォます。

 さて、現実的な話、現存のIQテストでは、どちらかといいますと、脳の後頭部の力、すなわち保存された知識の測定に力を入れています。といいますか、前頭葉に構築された応用力は、測定が難しくてよくできません。その結果、IQと学歴が比例してしまい、本当の意味での知能と言うものを測定していないと思われます。そのために、たとえIQが高いと言われている人で、学力がありそうなのですが、ある場面で問題解決をできなかったり、おっちょこちょいやばかげた行動をとることがよくあります。その反面、学校へもろくに行かなかった人、すなわちIQが低い人でも、実社会で結構うまくやっている人も少なくありません。IQの不正確さというものがこのようなところに現れているのでしょう。

 このIQの不正確なところに目を付けて、それを補いながらもより正確な予言をしようと試みたのが、もう日常語になりつつあるEQです。Emotional Quotientの略で、主に人間関係内で起こりうる、さまざまな問題の解決能力指数を指しています。そのためにテストのフォーカスは、自己管理や感情の調整、対人関係のマネージメントやスキルなどになっており、まさにIQテストが見逃した、でも、日常生活上大切な問題解決能力を測定するようになっています。本当は、IQテストが最初から、EQテストの内容を含んでいたら、後々ややっこしいことにはならなかったでしょうけれど、IQテストを最初に考え付いたころには、IQに関してそれほど知識がなかったわけです。今となっては、IQテストとEQテストを両方含んだテストを作らなければならないでしょう。そんなテストができましたら、どう呼んだらいいでしょうね。GQ=Global Quotientでも呼びましょうか。

知能指数の不思議

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 知能指数について不思議なことがあるんです。どこの国でもそうなんですが、年々、人々の知能指数が上がっているのです。その上がり具合と言うものが、一世代について5点から25点ほどになります。IQと言うものは平均が100ですから、ある子の知能指数が100だったとすると、その子が大人になるころには、最大125位まで上がってしまうことになります。

 人口全体の知能指数が上がっているのですから、自分だけが利口になっていて得すると言うことはないのです。しかし、その得点の内容を調べてみますと、面白いことがあります。言語性知能指数より非言語性、すなわち視覚的、動作的な知能の方が上昇しているということです。これはコンピューターゲームのやりすぎなのでしょうか。

 そういうわけでもなさそうです。つまり、コンピューターやテレビゲームが盛んになった現代社会以前にも知能指数上昇の事実がありましたから。でも、昔からみると、現代の人はもっと複雑な形や絵や空間を理解し、もっと素早く手を動かしているというような気がします。

 まあ、皆さんそろって頭がよくなっているのですから、よいニュースと言えるかもしれませんが、困ったこともあるのです。それは、年々、精神遅滞(知恵遅れ)に属する子供が少なくなってしまうことです。知能指数が上がることによって、例えばこれまで精神遅滞の子が20人いたとすれば、それが10人になってしまいます。

 なぜこれが問題かと言いますと、精神遅滞のグループからはずれた、すなわち頭のよくなった子は、それまで学校で特別教育を受けていたのですが、それが受けられなくなってしまうのです。なぜなら、精神遅滞はIQが70以下と定義されており、ある子が71以上のIQをとってしまいますと、精神遅滞でなくなってしまいます。その子達の周りの子も、知能知数が上がっていますので、精神遅滞からはずれた子は、以前と同じようにクラスで学習問題がありますし、それゆえ以前と同じように特別教育が必要なのです。

 この問題を解決するために、20年位に一度IQテストを難しくします。すなわち一世代かかって何点か上がった知能指数をテストを難しくすることによって下げ、平均点がまた100になるようにセットするのです。何か損をした感じです。実際にはIQが増えて賢くなったかもしれませんが、人口全体が賢くなりましたので、変わりはないように見えるわけです。そうしますと、枠から外れた精神遅滞の子供は、また精神遅滞の枠に入り、学校で子供にあった特別教育が受けられるようになります。もちろんこれはアメリカに住む子供のことで、特別教育のない国では、これが当てはまりません。

 私達は前世代より賢くなっているのでしょうか。確かに子供とそのおじいさんをコンピューターゲームなどを使って比べてみたら、子供の方が賢く見えるでしょう。しかしながら、人間としての道徳や知恵の部分を比べて見ますと、年をとっている親や祖父母の方が賢そうです。ですから、子供も大人も賢くなっていそうです。200年前に生きていた人が現在のIQテストを受けたとしたら、点をとるのが大変であると思います。でも、200年前にIQテストが存在し、それを私達が受けようとするならば、歴史に詳しい人でも簡単であるとは思えません。それは、その時代、その場に相応した知識を持ち、そこでの問題をこなすのは難しいからです。と言うことは、私達は現代社会が提供する環境には、ますます生き慣れてきているように見えますが、人類としてはそれほど賢くなっていないかもしれません。少なくとも一世代で増える知能指数が示すほどではなさそうです。

遊びの心理

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今回は遊びについて考えてみようと思います。遊びの面白さは、人の個性にアピールするものでして、何が面白いかは人によって異なると思います。でも、よい遊びに共通していると思われるものは、遊びの内容がまったくの空想と日常の現実の間に挟まれていることであると言うことです。

遊びがすべて空想の世界だけで終わってしまいますと、現実的な関連性やチャレンジがなくて面白くありません。しかし、遊びがあまりにも現実的ですと、夢がなく、結果が怖くなったりして、これもまた面白くありません。

他によい遊びの要素として、技術や能力、知識の開発度や、内容の深さ、そして人間関係、セルフコントロールなどがあると思います。これらを含めて例を使ってちょっと考えてみましょう。

たまたま私の詳しいフライト シミュレーションと言うコンピューターを使った遊びがあります。このゲームは、勝ち負けを競うというより、飛行機を操ることが面白い遊びです。マイクロソフトのフライト シミュレーターの宣伝というわけではありませんが、ボーイング747の操縦桿を握ってあの大きな飛行機を操ってみたいとか、ファイタージェットF14で宙返りをしてみたいなどと思う男の子は少なくないと思います。それを家庭のPCコンピューターを使って、遊びとして体験させてくれるのが、フライト シミュレーターです。

このシミュレーション遊びはバーチャルな世界での飛行ですから、実際には空想でしかありません。コンピューターの中で起こっていること、そしてプレイヤーの頭の中で起こっているだけです。しかしながら、その操縦の難しいこと、そして奥の深いこと。操縦桿を握ってとりあえず滑走、離陸、飛行、着陸とぎこちないながらもやってのけて、興奮と達成感を味わった後すぐやってくるのが次次のチャレンジ。

ジェット機を飛ばすには、スピードをセットしなければなりません。そして、高度、方向、気圧。フラップを上げ下げしたり、管制塔とやり取りしたり、フライトプランを作ってその登録をしたり、着陸時の滑走路の方向角度や着陸システムの周波数まで調べなければなりません。

これらの活動の目的は一体なんであろうか。実際に飛行機に乗りたい人は、そうすればいいですし、レッスンをとることもできます。ところがこの遊びはフライト シミュレーションですから、バーチャルな飛行を現実により近くすることが目的なのです。空想でありながら現実にますます近寄っていくのが面白いわけであります。ですから次の飛行には、乗客を何人乗せて、目的地までの燃料は何ポンド必要で、、、、、興味のない人には、時間と労力の無駄に見えるだけかもしれませんが、それがどの遊びでも共通する性質です。

フライト シミュレーションでの一つの楽しみは、世界中のいろいろな風景を空から楽しめることです。自分が操っている飛行機を第三者的に離れて見ることもコンピューターのトリックで可能ですし、また、その飛行機が地上の背景とよくマッチした風景などを自分で作り出したりして、心が躍ることもあります。そしてシミュレーションをしていくうちに気が付くことは、世界中の様々な地区の地理、地形にくわしくなるということです。町の位置や山の高さ、そして川の流れの方向などの知識が知らないうちに増えていってしまいます。

右脳の開発というわけではありませんが、飛行機をコントロールすると言うことは、3次元の空間の理解と把握に大変役立ちます。地面と機体との関係を常に頭に置きながら、傾いたり、上昇したり、下降したり。正に空間の理解のトレーニングと言え、知能にも良い影響があることでしょう。頭のボケにもいいかも知れませんね。

そのうちに気が付くことは、飛行機の操縦と言うものは、無理をしてはいけないと言うことです。車の運転も無理をしてはいけないのはご存知の通りと思いますが、飛行機に関してはもっとそうでしょう。ちょっと無理をしたりいい加減なことをしてしまいますと、惨事に至ってしまいます。規則を守って、他の飛行機の位置を確認し、天候や風向きなどを気にしながら、安全に着陸するには、かなりのセルフコントロールを要します。これはゲームでありながら、実際の感情のコントロールの練習になるようなことです。

実際のジェット機に乗って旅に出る時には、自分がパイロットになったかのように、実のパイロットの今しているであろうことを想像してしまいます。長い単調な飛行時間を遊び感覚で過ごせるようになるもの、悪いことではありません。ひょっとしたら、飛行機恐怖症なんかが治ってしまうかもしれません。

心理的に遊びと言うものは、楽しいだけでなく、自分の向上と周りの環境とのやり取りの熟達につながるものであり、そうであってほしいです。いつまでも遊び心を忘れないことも大切だと言うことですね。

親業と車の運転

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今回は車の運転の仕方を例えに使って、子育てのことを考えてみましょう。皆様もご存じのように、人それぞれいろいろな運転の仕方をします。丁寧な運転をする人もいれば、雑な運転をする人もいますし、危険な運転をする人もいます。ちなみに、運転の仕方はその人の性格の一部を現しているとは思いますが、運転の仕方だけでは、その人の性格は判断できません。

運転手の性格の話はさておいて、あまり思わしくない運転の様子を探ってみましょう。ある人は急に加速したり、急ブレーキをかけたりします。カーブの曲がり方も減速を十分しないで行ったり、急に気が付いて曲がったりします。いらいらしてくると、他のドライバーに対して怒ったり、声を出して叫んだりします。 

だいたい様子が分かったと思います。では、その車の中に子供が座っていると想像してみてください。そして、子供がどのような気持ちをしているかを、考えてみてください。子供は背が低くて周りが見えませんから、運転手が次に何をするだろうかを、予想できません。車が急にでたり、止まったり、曲がったり、その上に運転手が怒ったり叫んだりで、いい気分ではないと思います。気の弱い子でしたら、恐がったり、不安になったりするでしょう。中には怒る子供もあるかもしれません。

今度は、優しくて安全運転をする人の車の中に座っている子供を想像してみてください。車がスムーズに走り始め、止まるときにもゆるやか。運転手も落ち着いていて、運転を楽しんでもいます。子供も安心して乗っていられます。驚くこともなく、恐くもなく、運転手に話しかけられて、楽しくもあります。

ここまでの説明が長くなりましたが、今回の話は、あなたの運転の仕方がどうのように子供に影響するか、と言うことではないのです。何がポイントかと言いますと、運転手をあなたとみてください。乗っている子供は、あなたの子供です。そして、車をあなたと子供を含む親子関係と例えます。車を運転するあなたは、親子関係のリーダーです。あなたが運転する車=親子関係は、あなたの運転によって、安全感を子供に与えたり、恐がらせたりします。そして、あなたの運転の仕方が急に変わらずパターン化されているように、親子関係のやり取りも急には変わりません。子供は車の外があまりよく見えないように、親子関係以外の様子も余りよく見えません。すなわち、親子関係内の経験が、子供の世界のほとんどをしめています。こうしてできた世界観は後に子供と他の人達との付き合いの中に運び出されていきます。

不安、恐怖、怒りの多い親子関係の中で育った子供は、これらの感情を他の人とも感じやすいです。また、安全感や優しさの多い親子関係で育った子供は、その感情を他の人との関係でよく使えるようになるでしょう。

一般的に忘れると言うことは、マイナスにとられがちです。忘れ物をしてしまって面倒になったとか、不注意、忘れで事故になってしまったとか、大事な人の名前を忘れて恥をかいただとか、鍵を車の中に入れたままドアをロックしてしまっただとか、勉強した内容を忘れてテストがよくできなかっただとか、様々なことがあります。

しかしながら、物事には良し悪しがありまして、忘れることによって助かることも少なくありません。不安症が起こった時に鎮静剤を使うことがあります。ある種の鎮静剤を使いますと、頭がボーっとしてきて記憶や集中がおっくうになります。そして、薬が体から無くなった頃に解ることは、薬を使っていた間に起こった出来事の記憶が余りありません。ストレスがあった結果の不安症ですから、この記憶喪失はストレスや心配を忘れるという意味で便利であると言うわけです。また、手術のために全身麻酔をする時に、このような鎮静剤を共用しますと、手術中の出来事を覚えていないので便利であることもあります。

もっと自然に起こる忘れはどうでしょう。どんな内容の情報でも、頭に入った瞬間から時間と共に少しずつ消滅していきます。そのために一般的に言う忘れが発生し、私達は困るわけなのですが、時には忘れたほうが良いこと、忘れたいことがあります。例えば、ある人間関係で問題が起こり、その解決が簡単にはできずにそのままになってしまったとしましょう。こういうのは心のストレスとなって精神や身体に影響を及ぼすわけですが、いつまでも悩んでいるより忘れたほうが自分の健康によい時もあります。私達の生活にはいろいろな問題が起こり、前に進むために解決法を探そうとしますが、時には今のところ、どうこうできない問題も沢山あります。後になって時間と共に解決したり、新しい見方で解決に至ったりすることもあります。それまでは、毎日問題を抱えながら悩むより、忘れていたほうがよいかもしれません。

忘れることが大切であることの一つに、ゆるすというのがあります。誰かがあなたに悪いことをしたとしましょう。あなたは怒り、失望し、仕返しをしたくなります。このような気持ちを抱えて毎日暮らすのはあなたにとって大変負担になります。そうは言うものの数日が過ぎ、数週間が過ぎ、ふと考えてみますと、怒りがそんなに感じられません。時間と共に怒りがじょじょにおさまってきたではないですか。最初に経験した強い感情はどこかに消えてしまっています。そこであなたに以前考えられなかった選択が生まれてきます。もうあまり感情的に悩んでいないので、誰かさんのした不公平なことは、忘れることができそうです。忘れることによって、あなたが抱えている心の負担はなくなりますし、それがあなたの健康によいことは確かです。

忘れることが、仕事の効率につながることがしばしばあります。現代は生活内容が複雑になり、私達は様々な仕事を同時にしなければならない時が増えました。一つの事柄をしているうちに、もう一つの事柄の計画を頭で練っていたり、同時に二つや三つの事柄をいったりきたりしながら進めていたりして忙しいです。でも、質の良い仕事をするためには、そのことに集中することが大切です。気を配ってしないとだめになってしまう事柄も少なくありません。そのような時に大切なことは、集中するべき物意外の事柄を一時的にも忘れることです。そうすることによって全力を肝心なことに注ぎ、良い結果をもたらすことができます。

また、無意識の作用で都合のよい、そしてある意味では必要な忘れをすることもあります。命にも関わるようなトラウマを経験した人は、そのトラウマの内容を全部又は所々忘れていることがあります。そのような時、トラウマの内容を思い出すということは、その人の精神的生存に大きな害を及ぼすことになるのです。時間を置き少しずつトラウマの内容を失い、そして感情的に落ち着いた頃、記憶が受け入れられる形で戻ってきます。それまでは、必要な記憶喪失なのです。

ときには、精神的に悩んでいる人が、自分のことをすべて忘れてしまう記憶喪失障害が起こります。そのような人がある日、知人や親戚の人に発見されます。本人も他の人の名前(実は本名)で呼ばれてびっくりです。他の町でまったく新しいアイデンティティーを持ち、毎日何気なく仕事をしています。自分の過去のことを思い出せないこと自体あまり不思議には思いません。きっと思い出したくない過去があるんでしょうね。

大人の成長

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この間、思春期に至る女の子が、「お母さんと喧嘩ばかりして、時間を無駄にしている。......私には自分の人生があるのでそんなことをしている時間はない。」と大人のように言うので、つい吹出してしまいました。興味をそそう発言なので、「あなたの人生とは一体なんですか。」と聞いてみたら、「車を買って、アパートを見つけて、かっこいい服を買って、面白いCDを買って聞くこと。」とかえってきたので、またまた笑ってしまいました。ティーネイジャーは丁度大人と子供の間にあるので、一方大人めいたことを言ったと思ったら、その現実離れした思考で、まだ子供であることを知らされます。

大人であるというその本質には、言動が現実的であるということがあります。自分の欲求や空想を現実の限度を理解した上で、満足させたり、表現をしたりします。大人の欲求や発想は根本的には子供のとあまり変わりませんが、それを現実と合うように、創造力を使ったり、調整をしたりして実現することで子供から差をつけます。

でも、一言に現実的な表現と言ってもいろいろな段階があって、子供の表現に気を持たせた程度のものから、創造的または芸術的と言うまでの表現まであります。この現実とのやり取りの「うまさ」というものは、生れた時から始まって一生磨き上げられていくのです。このように人間は大人になった時に成長が止まるのではありません。大人になっても成長をし続けるのが普通なのです。でも、いろいろな精神的な問題からこの成長が止まってしまった人も少なくありません。そういう人は自分の気持ちや考えと回りとのギャップを感じながら、不満をあまり解消できずに生活をしていかなければなりません。そういう時に自分の実態を掴むことが成長を回復する第一歩となるのです。

30才後半の男性に、「あなたはいつも何をやりたいと思っていますか。」と聞いたら、「日本に帰って、お母さんにおいしいごはんを作ってもらって、夜遅くまでおきて、ファミコンをすること。」えー?

セックスの心理

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性的関係とは誰かとセックスをする人間関係にある、という意味を一般的に言いますが、もう一つの意味でも使えます。それは性的関係の内容を伝えるもので、どのような関係を持っているかという意味でもあります。

性的関係とは、必ずしもスクリプトが含まれています。スクリプトとは映画や劇などで使うスクリプトと似ていて、人の役割があり話の展開があります。カップルがセックスをする時、それが単なる肉体的な関係を結ぶだけでなく、お互いの心がスクリプトを通して役割を演じるわけです。

セックスは95%頭で5%肉体的であると言われるくらいですから、スクリプトに値する部分がいかに大きいかが解ります。そのスクリプトの内容は、性的というよりは、まさに人間関係のダイナミックスを描いています。そこには単なる愛情の表現に限られているだけではなく、攻撃心、破壊、征服、恥辱、競争、などの気持ちを含めたドラマが展開されます。

例えば、彼が王子様であり、美しい彼女を熱愛するシーン。彼が彼女を競争相手から奪い勝利を祝うセックスシーン。魅惑する彼女に拒絶されそのフラストを楽しむ彼。自分のコントロールを奪われる強引のシーンを楽しむ彼女。理想の相手に受け入れられた一体感を楽しむシーン。自分の性的魅力を発揮し自身を高めるシーン。

セックスのスクリプトは人それぞれきりなくあると思います。はたしてスクリプトの無いセックスは存在するのでしょうか。肉体の欲求だけの排出で、それについて意味もつけない、話も無いセックスはありえるのでしょうか。あったとしたらそれはずいぶんドライのものでしょうね。それより、多くの場合、スクリプトは無意識のうちに演出されていると思われます。それは、ぜんぜん意識していないレベルのものから、うすうすと考えるものもあり、はっきりとそのシーンを描きながら起こる場合もあるでしょうし、そして相手と相談の上スクリプトを協力しながら演出するレベルまであると思います。

セックスに興味のない結婚カップルの悩みをよく耳にします。特に、子供の出産後にセックスが減少したり、セックスレスになってしまったりします。小数の身体的問題や一時的疲労の問題を省きますと、やはりほとんどの性的問題は心理の部分にあると思われます。そこで、性のスクリプトの要素を入れて考えてみますと、スクリプトの展開をうまくできないカップルに性の問題が起きていると思われます。

そこには、日常の結婚関係の質やお互いの性格から始まって、相手との性的スクリプトが矛盾しており、セックス中にそのスクリプトの演出が難しかったりします。普段やさしい人にセックス中だけ狼になって、と言ってもそう簡単にできない人もいることでしょう。また、自分が楽しめそうなスクリプトを相手に話した結果、冗談じゃないと拒絶されることもあるでしょう。また、セックスに対してそれまで興味を寄せなかった人は、スクリプトと言っても一体何を考えたらよいのか解らないかもしれません。育てられた環境が、性について抑圧的であったりしたならば、スクリプトを考えること自体罪悪感を抱くことになってしまいます。

ところで、後々セックスレスになるカップルでも、恋愛中には多かれ少なかれセックスをすると思います。その時のスクリプトは一体何だったんでしょうね。恋愛中のスクリプトはある程度周りの社会が作り上げてしまうような気がします。例えば、理想の人との幸福感に満ちた一体感シーンだとか。自分にとって面白いスクリプトはその後に表現されたり、作り上げられたりするわけですが、それが自分の相手と愛称がいいかどうかは、その時になってみないと解らないというわけです。

血液型と性格

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日本人の患者さんからよく聞かれる質問に、「血液型で性格がわかるのですか。」があります。日本ではよく血液型で相性を調べたり、占いをしたりします。でも、心理学には血液型と性格の関係を説いた理論は残念ながらありません。私の知る限り、そのような研究はアメリカでは見あたりません。でも、あまりにもよく聞かれる質問なので、自分ながら興味を持ちはじめたのも事実です。そこで、ちょっと調査をしてみることにしました。

実は、私のオフィスに相談に来られるほとんどの人は性格テストをしています。ですから、性格はもう解っているわけです。そこで、日本からの関係書物を使って、A型を「組織的、完璧主義的、真面目型」、B型を「個性的、独立的、リーダー的」、AB型を「哲学的、内面的」、O型を「社会的、演技的、適応型」と定義しました。それから、最近来ている人達に血液型を聞き、それとテストから得られた性格とをてらし合わせてみたのです。

結果は、血液型から予言する性格は30%位しかあたりませんでした。すなわち、「血液型と性格はあてになるほどの関係はない。」ということです。でも、それではどうして多くの日本人が血液型に興味があるのでしょう。ただの遊びと言ってしまえばそれまでですが、もう少し考えてみましょう。

人の性格というのは、一つの型に、はめ得ないものがあります。現在アメリカで使われている臨床診断書には10種類の人格があげられていますが、一般に、個人を見ると少なくとも2種類以上の人格から形成されています。すなわち、人には色々な面があるということです。であれば、例えば、A型の人はB型の性格を含んでいても不思議ではないですし、A型として性格が当たらなかった人でも、その性格をよく見るとA型らしきものが見つかっても変ではありません。この考えにもとずいて血液型と性格の関係を再検討してみると、今度は、80%ほどあたりました。実験的に正確に見ると、存在しない関係でも、日常よくなれたある程度「不正確」な考え方を使いますとそこに関係が現れるわけです。実際に、「ある」、「ない」、は別として、考えるから存在するもの、「そう信じるから起こるもの」は沢山あるように思えます。いかがですか。

恋愛とは

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私たち多くは恋愛をする時があります。誰かを好きになって、その人がすばらしく思えて、その人といることが自分の欲求のすべてとなり、恋愛をしているといいます。その人と時を過ごすことが、たいへん充実していて、その人を自分だけのものにしたいと感じたりし、適齢期ですと結婚をしたいなんて考えたりします。

この恋愛って、心理的にはいったいどういうことなんでしょうか。どのように理解したらよいのでしょう。ちょっと恋愛の状態をもう少し細かく観察してみましょう。

先ず、恋愛中に相手に会えないとものすごく寂しくなります。早く相手と再会したいと思います。でも、会うことができなかった時には、その人のことを考えます。他の事に集中できないほど夢中で思います。その人と会えた時には大変うれしくなります。心も体も興奮してしまいます。その人を触りたいし抱きたいし、そしてその人がこちらに注目してくれることが、この上なく幸せです。その人といるといつまでも安心です。

お別れは辛いです。なかなか区切りがつきません。相手のいない一時を想像するだけで寂しさが押し寄せてきます。でも、お別れした後には、その人といてどんなに幸せであったかを思い出します。また、早く会いたいと感情が高まります。その反面、一人でいてうつ状態にもなりえます。

さて、恋愛相手に対するこれらの感情の変化を、小さい赤ちゃんのお母さんに対する気持ちとして読み返してみてください。自分の小さい時の母親に対する気持ちを思い出してみたら理解が簡単になるかもしれません。また、子育ての経験のある人は、自分の子が母親に対してどんな気持ちでいるかを、想像してもよいかもしれません。

赤ちゃんはお母さんといないとものすごく寂しいです。お母さんと会えた時にはうれしくて興奮します。そしてお母さんに抱きついて安心します。お母さんと離れると辛くて泣いたりします。

つまり、赤ちゃんの母親に対する気持ちと、大人になって恋愛相手に対する気持ちとは、よく似ていることが解ると思います。と言うことは、恋愛の気持ちというものは、自分が赤ちゃんの時に母親に対して経験した、この世で最初の人間関係において発生した感情であるということが解ります。

人は、生まれて最初に経験した気持ちを忘れずに、その後一生その気持ちを再現させようとしているが如く、恋愛を求めているわけです。いわば、恋愛とは母親の再発見であり、そしてまた、再々、、発見であると言うことができます。よっぽどお母さんが恋しいかのように。

これは、男性にとっても女性にとっても同じです。ある人と出会い、その人が自分のケアをしてくれたり、してくれていると思えた時に、自分がこれまで抱えてきた母に対する感情を、その人に投影します。その後その人と離れがたい状態になってしまうのです。

でも、恋愛をする大人としては、相手が自分の母でないことはよく解っています。恋愛の感情を抱くと同時に、あるところで冷静に相手を見ているところもあります。付き合いが長く続けば続くほど、大人の冷静な見方が上手を取り、恋愛感情が縮んでいくのは免れられないでしょう。こう見ますと恋愛関係は悲劇になってしまいそうですけれど、そんなことはありません。恋愛感情が徐々に薄れていくと同時に、自分が大人として、相手を客観的に掴んで得た知識に基づいた成熟した愛情が育っていくからです。

親のチャレンジ

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実際の数は少ないにしても、数パーセントの子供には発達上何らかの障害があります。例えばそれが軽度の言葉の遅れであったり、社会性・協調性の遅れ、そして注意欠陥多動性障害、学習障害、自閉症であるなど様々な形で現れます。親の方は子供が重傷な時には気が付いている時もありますし、子供が幼稚園や学校に上がるまで問題が分からない時もあります。いずれにせよ、親が自分の子供の障害を発見したり知らされたりした時は、大きなショックを受けるでしょう。

子供の障害に対して親はいろいろな反応をします。よい適応が出来た時には、子供の障害を正確に受け入れ、それに対して子供の成長のために最善を尽くします。それは専門家から適切なアドバイスをもらったり、子供にあった教育現場を探したり、家で親ができるだけのトレーニングを子供にしてあげたりすることです。

でも親の中には、子供の障害を受け入れることができない人もいます。自分の子供には問題がないと信じ込み、子供について助言する人たちを避けるようになります。でも、実際に問題があるので、遅かれ早かれ何らかの対処をすることにはなるのですが、その間に起こる子供のダメージは少なくありません。

その他、子供の障害は認めるものの、それに対する希望が非現実的である親もいます。例えば、アメリカに滞在していることが問題だと思い、日本に帰って親戚や日本人の社会で育てれば治ると思うことです。また、特別なものを食べさせたり、旅行に出かけたりします。このようなことはある意味で助けにはなると思いますが、問題対処の的を突いていないかもしれません。

もう一つ大きなチャレンジが障害児の親に待っています。それは世間の反応です。回りの人達は必ずしも障害の理解をしてくれなかったり、誤解をしたりします。その結果、厳しいコメントをしたり、冷たい態度をとって、子供や親に接するかもしれません。それを乗り越えるためには、障害児だけでなく両親までも、前向きな姿勢で歩んで行かなければなりません。大変な努力を必要としますが、親が子供の問題と直面することによって、人間として人並み以上の成長を成し遂げる結果にもなるのです。

Shall We Dance?

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少し前の話しになりますが、アメリカで話題になった日本の映画で、"Shall We ダンス?"というのがありました。真剣、努力、笑い、悲しみなどを盛り込んだ楽しいドラマでした。日本人にとって、手をつないだり、ダンスをすることは恥ずかしいことですと、コメントをしながら映画は始まりました。

映画が始まって数分しますと、ある日本人が立ち上がって、シアターを出てしまいました。その人は、日本人として恥ずかしいと感じて、席を立ったのだと、私は想像しました。シアターの観客は、90%アメリカ人だったと思います。日本人同士だけでこの映画を見るならば、滑稽なところは大声で笑って済むでしょう。ところが、アメリカ人と見ますと、自分の恥を見られているような気がして、居心地悪くなる人がいるかもしれません。これは、人目を気にしがちな日本人が、映画の人物と同一化してしまい、いかにも自分が見られているかのように思えるからです。

 数年前、日本人の知人が、アメリカへ来て映画を見た時のことでした。その映画には、日本人がギャングとなって登場したのですが、彼は映画の中の日本人人物が格好悪いと思い、シアターにいて恥ずかしいと思ったのです。映画が終わった後、その恥ずかしさで、席を立つことが出来ず、アメリカ人が皆帰った後、素早く退場しました。「他に緊急出口があれば、それを使わさせてもらいたかったのですが、、、」と、大変恥をかいたそうです。別に彼が映画の中のギャングであるという事ではないのに、いかにもそれであるかのように、同一化しアメリカ人に笑われているように感じたのでしょう。

 日本ではこの同一化現象が、社会問題につながった例も見受けられます。例えば、ある中学生がいじめを苦にして自殺をすると、他のいじめられている中学生も、自殺した子と同一化し、自殺を真剣に考えてしまう事があります。中学生の自殺が、日本全国で続いた時には、偶然と言うこともありますが、心理の奥で、同一化現象が起こっていたのかもしれません。

結婚の難点

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結婚をする時には、夢と希望に満ちあふれ、以後どのような困難が起こるであろうか、と言うような問いかけは、あまりしないかもしれません。特に恋愛中に結婚をする人は、これに当てはまるでしょう。でも、結婚生活に必然的と言ってよいほど、よく起こることがあります。それは、一方、結婚生活を満足させる要素であり、また、結婚を破壊してしまう要素でもあるのです。

一緒に生活をするようになり、結婚パートナーが身近になりますと、次第に甘えというものが出てきます。甘えがかなえられると満足感があり、それを受け入れられないとがっかりし、怒りや失望などに変わっていきます。甘えは結婚生活の中で、様々な形で表現されます。例えば、おいしい食べ物を作ってもらう、欲しい物を買ってもらう、何かで手伝ってもらう、スキンシップを楽しむ、わがままを通す、性欲を満たしてもらう、等々。これらは結婚以前から存在した心の欲求ですが、身近な人に対して無意識に表現されます。これらがかなえられたり、かなえられなかったりして、結婚生活に満足感が出てきたり、満足感が減ったりします。

もう一つの欲求は、相手に対する嫉妬、恨み、怒り、そして裏切りに対する恐怖を表し、相手を傷つけるということです。これらの感情も結婚以前に存在するもので、甘えと同様子供が親とのやりとりで体験し、そして、育つ上で様々な人との関係で体験して、心の中に潜むようになったわけです。通常これらの感情は、意識したり、無意識でありながらもコントロールしたりして、表面化しません。でも、結婚生活のような身近な関係では、時折ストレス時などに吐き出され夫婦喧嘩になったりします。もちろんこれはしばしば起こり、結婚関係に重荷になるようであれば結婚の満足度を減らしてしまい、結婚関係の破壊に至っていきます。

これらの悪性の感情が夫婦間にしばしば起こったり、甘えの満足感が極めて少なかったりすると、結婚関係は悪い方に進化していってしまいます。例えば、何かについて言い合いをする、文句が耐えない、お互いに冷たくなる、気持ち的な離婚をする、浮気をする、相手を利己的に利用する、結婚を失敗と思い結婚生活に努力をしない、等です。また、たまに夫婦が結婚初期からお互いに近寄れず、甘えることに発展しないこともあります。甘えられないほど夫婦間に距離がありますと、それに比例して、悪性の感情も表現されません。この場合は、夫婦でありながら他人のようですから、結婚生活の満足感は最初からありません。

いったいどうしたらよいのでしょう。自分を幸せにするには相手に近づかなければなりません。でも、近づいたら不幸になるかもしれません。この矛盾が結婚生活の中に含まれているのです。

一つ出来ることは、悪性の感情がどの人の心の中にも存在していることを認めることです。人は誰でも身近な人に対して、怒りや、恨みや嫉妬を経験したことがあると思います。そういう気持ちをたまには持ってしまう自分に気付くことが大切なのです。そしてそれが自分の一部であることを受け入れなければなりません。それが出来るようになると、自分の相手の心の中に潜んでいる悪性の感情も受け入られるようになるのです。結婚したパートナー同士がこのような状態にありますと、悪性の感情が相手に対して出てきた時、それをお互いに耐えることが出来るようになるのです。そうすることによって、結婚関係の悪化を防ぐことが出来るのです。

結婚パートナー同士の悪性感情を受け入られると言うことは、その感情が表現されたときに、それに対して距離を置いて見つめることが出来るようになるということです。悪性感情と一体になって、本気で相手と戦う変わりに、それをいわば通り過ぎる景色であるかのように見られ、客観的な態度をとることが出来ます。そして、結婚関係に悪影響を与えないで済むのです。

私達が精神的に成長することによって、悪性感情を感じたり、表現したりすることは次第に減っていきますが、それを完全にぬぐい取ることは不可能でしょう。でもその存在を認め、それに対して適当な処置を取ることによって、結婚生活をより善いものに作り上げていけると思います。

靴下のあな

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私が朝エキササイズをしようとして、腕立て伏せを始めると、目の前の床にあなが丸く開いている靴下があるではないか。それを見て昨夜私の妻が言っていたことを思い出した。「足が冷たいので、靴下が濡れているのかと思ったら、かかとの部分にあなが開いていた。」そこで、私は不思議に思ってしまった。「なぜ、そんなことを私に伝えなければならないのか。」

あらためて考えてみると、その理由としては、新しい靴下を買うという宣言なのか、、、それとも、自分の経験を分かち合うという意味での報告なのか、、。朝食の時に彼女があなの開いてない靴下をはいているのを見ながら聞いてみた。彼女によると、「洗面所で私がまた水を散らし、それで靴下が濡れてしまったと思った。足が冷たいのであれば、どうしていつも同じところが冷たいのかと不思議に思っていたので見たところ、かかとにあなが開いていたので、その発見が面白かった。」ということである。

「その面白いのは解るけれど、なぜ私にそれを言ったの?」「さぁね。」

自分に当てはめて考えてみれば、自らの経験を相手に伝えておきたいという欲求がないわけではない。自分の身の回りの出来事を身近な相手に報告しておいて、自分に今何が起こっているか、どう感じているか、軽快なのか、困難と闘っているのか知っておいてほしいものである。相手の心の箱にちょっと置いておくような気分でもある。そして、何か2人でしなければならないことがあれば、自分のことを理解してもらっているので、コーディネートしやすいということもあるだろう。

心理的にもう少し考えてみると、人間の経験って相手なしで考え、感じることができないようである。誰かと一緒にあることをして、経験を分かちあうことから始まって、一人で何かをしても、あの人はどう思うかな、あの人に言ったらどう反応するかななどと考え、たとえ完全に一人でいるとか、プライベートなことをしていても、その内容に必ずといっていいほど誰かのイメージが入ってくる。すなわち自分の経験の中には、いつも誰かとか、相手がいると言うわけである。

セラピーをしていてよく観察することは、どんなに自分のプライバシーを守りたい人でも、最終的には自分の経験を、気持ちを相手に話して受け入れてもらいたいということである。そうすることによって、自分の存在を認めえもらい、心が安らぐという結果につながる。逆に、一人で孤独な生活をしていて、自分の気持ちを他の人に伝える機会のない人は、自分だけの経験はつまらないものになってしまい、そこに価値を見出せず、ひどい時には落ち込んでしまったりする。

人は相手がいて存在をするのであろう。自分の存在は相手が支えているのであろう。簡単な事でありそうだが、なかなか気がつかない事である。私が靴下のあなについていろいろと考えをめぐらして、結論としてはそのことを私に伝えることが妻にとって大切なのであろうと言うと、彼女はなんだか非常に元気になって幸せそうである。やはり靴下のあなっていうのはそういうことだったのだろう。

食べ物の心理

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皆さんはどのような食生活をお過ごしのことでしょうか。私達は食べることによって生きることができますが、食べ物は私達にとってそれだけではありません。食べ物を楽しみながら食べることもありますし、食べ物を理由に人に会ったり、デートをしたり、また食べ物をほうびとして使ったり、芸術として楽しんだりします。それだけ食べ物というものが、私達によい気持ちを与えてくれるからでしょう。

この「食べ物の効果」をねらって、良かれ悪かれ自分の心理状態を変えようとする人がいます。例えば、気持ちが落ち込んでいる人が食べることによって、それを治そうとします。食べ物は私達のムードを上げる作用があります。あまり喋る気がしない時に、たまたま食べたりすると、気分がよくなってよく喋るようになることを皆さんも経験したことがあるかもしれません。特に、落ち込んでいる人などは空腹を余分に感じ、食べる量が多くなるときがあります。よって、落ち込んだときに体重が増えるのもそのためです。

また、食べ物は不安を取り除く効果もあります。大きな食事をした後、眠くなることがあることを皆ご存じでしょう。心も体もリラックスした状態になるからです。私の知人にアゴラフォービア(外に出るのを恐れ、コントロールを失う状態にいると非常に不安になる障害)を持っている人がいます。外出する時にはいつもチョコレートキャンディーを持参するそうです。もし、どこかで不安が起こった時にはそれを食べることによって、気が治まるそうです。

このような食べ物の効果は生理的な理由もありますが、それだけではありません。例えば、赤ちゃんが泣いた時にお母さんが乳をやりますと泣きやみます。赤ちゃんはお腹が空いたから乳を飲みますが、それと同時にお母さんに抱かれて、そのスキンシップの中で愛情と安心感と心地好さを経験します。乳を飲むときに起こるよい精神状態は、その後体で覚えた記憶として残るものです。その後、食べ物は赤ちゃんの時に経験した身体的な記憶をよみ返えさせる力があると言ってもよいでしょう。

あなたは食べ物をどのような意味で捉えているでしょうか。

不眠症

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一般的に言われている不眠症とは、臨床分野では睡眠障害の一つとして扱われています。不眠症とは、寝付くのに長時間を要したり、寝ている時にちょくちょく目が覚めてしまったり、朝早く目が覚めてしまったりすることを言います。不眠症がそれだけの問題として起きることもありますし、他の病気、例えばうつ病や不安症の症状の一つであるときもあります。

不眠はただ翌日眠いと言うだけでなく、他のさまざまな問題につながります。例えば、集中力の低下、記憶力の低下、知能の働きの鈍り、気力の低下、落ち込み気分、感情の鈍り等、心理的に結構影響があります。すなわち、毎日の簡単な仕事、いつもの繰り返しの仕事などには少々の不眠は影響をしませんが、新しい適応を求められる活動だとか、工夫や創造性が必要な仕事などには、不眠の影響が現れます。また、非常に短時間の睡眠しか取れなかった日は、体の病気に対する抵抗も半減すると言われています。そのような時に、風邪をひいてしまったり、他の病気の発病のきっかけになったりするかもしれません。単なる不眠として片付けられなくなってしまいますね。

さて、不眠症の治療には大きく分けて2つあります。一つは薬物療法、もう一つはサイコセラピーです。睡眠薬の使用は、急性的ストレスで不眠が起こり、それに対して速い措置をとりたい時には便利です。でも、不眠が慢性になってしまった時の、長期間の睡眠薬の使用はよくありません。これは睡眠薬に依存性があり、長期間使うとそれを止めるのに困難になるためです。また、耐性といって同じ効果を出すために薬の量を増やしていかなければならないという性質もあります。ですから、睡眠薬はそのときだけのストレス関係の不眠で短期間の効果を狙っているときだけには有効ですが、長期の不眠の長期の治療には適していません。また、不眠が他の病気から来ているときにはその病気の方を治療するほうが睡眠薬をとることよりも大切です。

不眠に適したサイコセラピーはいくつかあります。心配を減らすmental relaxationや体の緊張を を減らすmuscle relaxationは一つの方法です。また、刺激コントロール(stimulus control)、

睡眠制限(sleep restriction)、認知療法(cognitive therapy)などの方法があります。

私の好きな不眠対応策は、毎晩床に入る時刻と毎朝起床する時刻を決めてそれを守るということです。例えば、夜12時に床に入り朝7時に起きる。その間最初のころは、寝ようが寝まいが横になっていなければなりません。眠れなくても7時になったら起きます。そして、眠くても昼寝をしません。夜12時まで待って床に入ります。これを繰り返しますと、体が、そして心がリズムに慣れまして、1〜3週間くらいで不眠が治ります。

睡眠薬と比べますと、サイコセラピーはやり始めてすぐ効き目がありません。サイコセラピーを始めたその日に不眠がとれないかもしれません。でも、続けているうちにだんだん効果が現れます。慢性化された不眠でも対応できますし、睡眠薬と違って、治療を止めた後も効果が続きます。睡眠薬の場合、使用を止めたときに不眠が戻ることが多くあります。サイコセラピーはトレーニングの結果自分で得たものですから、治療終了後も効果が続くと言うわけです。

不眠治療の話で面白いのも読んだことがあります。ある国の王子が不眠で悩んでいました。そして、有名なセラピストに治療を依頼しました。セラピストは事情をよく理解した末、ある治療法を考えました。王子のベッドのわきに座って一晩中静かに本を読んだのです。王子は母に守られたかのように安心して寝ることができました。セラピストは何日も同じことを繰り返しました。そのうちに、王子はセラピストなしでも眠ることができるようになったのです。

この女性(S.E.)は結婚問題のことで、相談にやって来た。結婚して14年になるが、過去数年全く性交渉がないという。夫の方は、仕事は安定していて、時間にも金銭的にも余裕はあるのだが、彼女と時を一緒にすることはないという。過去には浮気らしき時期はあったが、彼はそれを認めなかったし、彼女も過去のこととして忘れようとし、今となっては取り上げて問題と考えていない。でも、彼女は不幸せである。このまま独りぼっちで暮らしていくのは、耐えられない。二人には子供がいないから、離婚の考えもたまには起こるが、もう40歳にもなるし、今さら再婚にも希望がないと感じている。

彼女は落ち込んでいた。日常何かに興味がわくことはないと言う。家に閉じこもりがちで、友達は2、3人いるが、付き合いは限られている。痩せてはいないが、食べ物は美味しくないし、食欲は余りない。最低限の家事をこなしているだけである。最初のセションの結果、彼女の状態を中度のうつ病と診断し、一週間に一度のセラピーをすすめた。彼女はそれに簡単に合意した。

S.E.のセラピーが始まって、最初の3セション位までは、今までの結婚に対する不満をぶちまけた。一通り彼女の考えられる不満を言い終わると、S.E.は急に静かになってしまった。「もう、言えることはなくなった。」と言いだした。彼女の抵抗(resistance)が始まったのである。そこで何度か抵抗の話しをして、それを取り除こうとした。抵抗をしていることを指摘されると、S.E.は夫に対する不満を言い始めるのである。自分のことは余り話したがらない。又そのことを指摘して、彼女自身のことに焦点を当てようとしても、話しは途切れてしまうのである。このような状態で、セションからセションへと余り彼女自身変化なく過ぎ去っていった。たまに彼女もセラピーに対して弱気を吐いたことはあった。ただセラピーが途絶えなかった理由は、彼女の夫に対する不満に対して、私が実用的なアドバイスをしていた事くらいであろう。それが少しは効果があり、二人の結婚関係に多少よい影響があった。たまに二人で話したり、食事に出かけることが出始めたのである。でも、根本的に彼女は変わらなかった。抵抗も解けなかった。そして20セションが過ぎてしまったのである。

この20セション目は私にとっても辛かった。彼女に、自分自身変わらなければ、根本的なところから結婚の向上は見られないことを、私は説明した。それに対して、彼女は、彼女がどう変わっても、何をしても、夫は頑固で何の動きも見られないと主張した。私は彼女との間に大きなギャップを見、セラピーが上手く進んでいないことを感じた。フラストと怒りと失望を感じたのである。多分彼女も同じ様な気持ちをしていただろう。このセションが終わってからも、数日忘れることが出来なかった。いったいどうしたらよいのかと考えたり、投げやりの気持ちが起こったりして、悩んでいたのである。

もう一度根本的なところから、セラピーとは何かを考え直してみた。セラピーは先ず患者のためにあって、セラピストのたまたま起こる何らかの欲求を満たすためにあるものではない。確かに私の観察する彼女の抵抗を解くことが出来たら、自分の技術の効果を見て、面白く満足もできるであろう。でも、それは私の満足であって、必ずしも彼女が喜び招くものではないかもしれない。彼女にとっては、何かを無理にされたように気がして、かえって警戒心や不信感が増えてしまうかもしれないのだ。逆に彼女の抵抗に対して何もせずにいるのは、彼女にとって楽かもしれないが、セラピーにはならない。セラピストの介入に抵抗し、自分を守るために必死になっている患者でも、あるところで自分が向上し、自分の負担となる問題の解決を願っているはずである。その問題解決が起こらない限り、最終的に患者もセラピストも、セラピーをしている意味がないのである。

S.E.の抵抗とはいったい何の意味があるのだろうか。抵抗とは、患者が無意識にでも、自分のためによくなくとも、今の状態を保つという、一連の動作である。いわば、自分が変わるという事に対しての恐怖のようなものだ。では、いったいどうしてその様な恐怖が起きるのだろか。患者の立場になって考えてみよう。患者は問題解決を願ってセラピーに来るわけだが、セションでは何が起こるかは未知で、セラピストに頼るざるを得ない。でも肝心なセラピストは、初めは赤の他人である。信頼も何もない。少しずつ信頼は出来てくるものの、完全に信頼は出来ず、セラピストに頼りながらも自分を未知の危険から守らなければならないのである。その危険とはいったい何なのであろう。それは最終的には自己破壊であろう。人間として、生物として、破壊されることは最終的な恐怖であると思われる。その破壊から、そしてそれが精神的な、心理的な、破壊であっても、誰もがそれを恐れ、自分をそれから守っていこうとするのであろう。セラピストの未知の介入に対して、自分を一生懸命守ろうとしている、その姿が、抵抗となって現れているのである。考えて見れば、患者を守るのもセラピストの仕事である。いかに患者のためだと言っても、介入の結果、患者が傷つき、自己破壊に至ってはセラピーの意味がない。セラピストは患者を十分守り、患者と同じ立場に立って感じ、考え、患者が受け入れる用意が出来ただけの介入をするべきである。

一週間がたち、S.E.の予約の入っている日が来た。何となく気分がすっきりせず、心が落ち着かない状態である。彼女に対して怒ってしまう恐怖がわずかにあり、それに対してセラピストとして適当に処置をし、セラピーに悪影響を与えないことを自分に言い聞かせる。

私:「どうしてますか。」

S.E.「別に何も起こってないですよ。」

私:「旦那さんと何かあったかな。」

S.E.「同じですね。当たりさわりのない生活をしていますよ。」

私:「そう。じゃあ、自分にフォーカスをしてちょっと考えてみたら。」

(相変わらず抵抗があるなぁ。)

S.E.「、、、、、、ちょっと聞いていいですか。」

私:「いいですよ。」

S.E.「私の友達で、もう10年も結婚している人がいるんです。でも彼女はご主人とあまり幸せではないんですね。彼女はいろいろと彼に話を聞いてもらいたいんですけれど、彼の方はそれにあまり興味がないんです。彼女は彼と一緒にいろいろしたいらしいですけれど、何もしてくれないそうです。彼女は不満ですけれど、彼はもうやるべきことはみなしてあげた、と言うんですって。こう言うときに先生だったらどうしますか。離婚をすべきだと思います? 私は彼女にどう言ったらよいと思いますか。」

私:(自分の話をしているみたいだ。)「まあ、今までのあなたを見てみると、保守的だから離婚しないでそのままいるほうがいい、と言うんじゃないかな。」

S.E.「でも、再婚したからって、必ずしも幸せになるとは限らないでしょう。」

私:「まあね。」彼女のチャレンジするような言い方に、ちょっといらだちを感じた。(私は彼女の立場に立って考えなければならない。)「もちろん、少しくらい悪い結婚でも、離婚してからの未知の状態と比べてみると、もう解かっている部分が多いからリスクが少なく、安全ではある。でも、最近のリサーチによると、2回目の結婚で結構幸せな人がいると言うことだ。2回目で、人も成長しているようだし、経験もあるので、うまくやる人もいるんじゃないの。」

S.E.「そうですか。私の友達は、一回不倫をしたことがあるんです。その時も今の旦那さんから去りませんでした。不倫の相手から、一緒に来てくれと頼まれたんです。でも、いざとなったら行けませんでした。私のような結婚をしていて、我慢をしている人はざらにいると思います。結婚ってそんなもんでしょう。」

私:(結婚について決めつけられたような気がする。言い合いをしたくなる気が起こる。でもこれはいったいどう言うことだ。彼女と私の関係は、彼女と夫との関係に似ているのだろうか。彼女の私に対する態度を、転移としてとらえてよいのだろうか。それを確かめてみよう。でも、彼女の立場に立って、どのような言い方をしたら、聞きやすいだろうか。とりあえず、彼女が私に対して転移をしていることを訳したら、強すぎて防御的になると思う。この際は、少し距離を置いて、彼女と夫とのこととして、言ってみた方が聞き易いであろう。)

「今ちょっと頭に浮かんだのだけれど、間違っていれば訂正してください。あなたと旦那さんが話しているとき、あなたが自分の意見を言い切っちゃたりして、彼が黙ったりしたことはないかな。例えば、彼の意見を採り入れて、それについてコメントせずに、ただ自分の意見を言いきったりすること。」

S.E.「そうですね。そう言うことありますよ。」

私:(おお、これは以外だ。まさか彼女がそう言い返すとは思わなかった。)「ひょっとしたら、そう言う風にあなたがしたとき、旦那さんは拒絶されたような気持ちがしたかもしれない。何か自分の言い分を閉ざされたかのように。」

S.E.「ああ、それはあるかもしれないですね。、、、んー、あります、あります。私は自分の意見を強く言ってしまうことがある。」

私:「そうだとしたら、そのパターンが長い間繰り返されたら、彼がだんだんと、あなたと話すのを諦めてしまうのでは。」

S.E.「正にそのとおりですね。どうしてそれがお解りですか。」

私:「あなたと話していると、あなたがあるところで意見を言って、事を決めつけてしまうような気がしたから。そして、多分その様なことが、旦那さんとも起こっているのではないかと思ったから。もし、そうであれば、それが旦那さんとのコミューニケーションをさえぎって、次第に、結婚関係が悪くなってしまう可能性がある。それが正しければ、あなたは、その部分は自分がもたらしたこととして、変えていかなければならないかもしれない。」

S.E.「主人がよく言ってましたねぇ。彼のサポートをしてくれないって。いつか彼が、サイドビジネスをしたいって、言っていたことがあるんです。自分の今している仕事以外に、あいている時間を使って何か始めたいって言っていました。勿論週末や夜の時間を使って、出来ないことはないんですよ。何か日本に物を送って売りたいって言うんです。その時も、私は最初っから、頭ごなしにそんなこと出来るわけがない、って言ってしまいました。仕事で疲れて帰ってきて、私とろくに話しもできないのに、もう一つ仕事だなんてとんでもない。私は多分彼が全部時間を使ってしまうのを、恐れていたんでしょうね。彼が仕事にもっと夢中になって、私が寂しくなるのを恐れていたんでしょう。彼を馬鹿にしたかのように、戒めました。それ以来そのことについては彼から一度も聞いたことがありません。」

私:「まあ、そう言うことだね。あなたの寂しい気持ちは解るけれど、彼を否定するような言い方をしては、その時自分の言うなりになっても、結果として、彼を遠ざけてしまう。そしてますますコミューニケーションが減り、自分も寂しくなる。」

このようにして彼女の抵抗は解け始めた。振り返ってみると、夫との関係において、自分がどのように問題の原因を作ってしまっているかを見つめ、考えるのを避けていたようだ。そのために起こった転移、すなわち自分を主張し、相手をコントロールしようとする欲求を訳すことによって、抵抗が消え始めた。ここで肝心なことは、訳がどうであったと言うより、私が、彼女の抵抗する立場を考慮に入れた、と言うことだろう。私が彼女の抵抗を理解しようとしたために、彼女も私の訳に耳を傾けることが出来たのだろうと思えるのだ。

S.E.「今考えてみると、よく解ります。他にもありましたね。彼が何かを言おうとすると、でもあなたはこうでしょう、と言い付けてしまう。自分としては、それなりにアドバイスをして、彼を良い方に導いていこうとしているんですよ。彼の自信をなくなそうとして、言っているんではないんです。」

私:(どうやら彼女は、私に話していると同時に、自分に言い聞かせているかのようだ。)転移を訳して、それが上手く受け入れられたとき、来談者が自由連想を始めることがよくある。そしてその内容は、来談者がどの程度セラピストの訳を理解したか示すものでもある。 (彼女をこのまま連想させておこう。)

S.E.「私が友達にしていることは、無責任かもしれないですね。うちの人にどうこう言っていることが、彼の言いたいことをさえぎっているように、親切と思って友達にアドバイスをあげても、実は、余計なお世話になっているかもしれないですね。」

私:「うん、うん。」

S.E.:「それに先生の場合は、私の話を何時間も聞いて、私のことや結婚生活のことをよく解っているでしょう。私の主人のことも、私が言ったことに基づいて、推理し、ある程度解った上でアドバイスをしてくれるでしょう。私の場合は、友達からちょっと話を聞いただけで、自分の思ったことを言ってしまう。それも、先生が指摘なすったように、随分確信を持っていってしまうんですよね。でも、実際、彼女の旦那さんを知っているわけでもないし、結婚の様子も、私の想像だけでしかない。やっぱりちょっと無責任ですよね。先生にこうして話を聞いてもらって、私のことをよく理解してくれて、ありがたいと思いますよ。それを私が、自分の主人や、友達にしてあげられればいいですけれどね。逆に悪いことをしてしまったかもしれないですね。」

私:(彼女はよく解ったようだ。よく考えをそこまで進ませた。)

ここで注目することは、S.E.が私の訳を理解しただけではなく、それが、彼女と友達との関係にも当てはまることを、理解したことである。つまり、自分が友達にしていることに対して罪を感じ、その対策としてどのような可能性があるかを考えたことである。そして、私とS.E.とのセラピーの関係を例に使って、それが彼女と友達との関係に当てはまるか、と考えた。確かに状況はよく似ている。私はS.E.を通して彼女の結婚問題を夫を考慮に入れながら解決しようとしていた。そしてS.E.は、友達の結婚問題を友達の夫を含めて、アドバイスをしようとしていたのである。彼女はそこまで考えた上で、自分の強い口調に気付き、私が彼女に接する仕方との差に、気がついたのである。

S.E.「どうしたらいいんでしょうね。どうしたら自分の考えだけを押し通さないで、相手のことをよく聞けるようになるんでしょうね。」

私:「やぁー、今日、あたなはよく色々なことを理解したと思うな。非常によいと思った。自分が成長するって言うことは、先ず、自己理解から始まるんだ。自分を色々な面からよく理解することが、自分を変えていくことにつながる。自分の理解が十分なときには、自分からこれって特別な努力をしなくても、無意識のうちに自然に変わっていく。今日あなたが自分についてある理解ができたこと事態、ある変化であると思うし、それよりもっと大切なことは、私達の関係も変わったという事だ。今までどちらかというと、あなたは自己防御的で、私に自分のことを打ち明けなかった。でも、今日、あなたは初めて自分のドアーを開けて、私に内面を見せてくれた。勿論あなたはもっと深い部分があると思うから、今日はほんの少し教えてくれただけだと思うけれど、今までの経過を見ると大きな一歩を歩んだと思うよ。」

S.E.「そう思いますか。私って、自分のことを言うのが苦手なんですよね。」

私:「でも、今日の調子で頑張れば、問題ないと思うよ。」

セションを終わりながら、私は気分が良好であるのに気がついた。セションを始める前とは比べものにならないほど気分が変わっていた。彼女を見送りながら、ほほえみが自然に出た。彼女も元気で嬉しそうであった。

このようにして、第21セションが終わった。このセションを転機にS.E.は自由に話すようになった。そして、夫のことや友達のことには触れはしたが、自分のことをよく話すようになった。後に彼女がよく繰り返して言う口調は、「私のことですよね。自分がどうするかを考えなければならないんですよね。」であった。私としても、その後のセションは楽しいと感じられた。「Working Phase」と言って、セラピストと患者の間に信頼が出来、お互いの性格の問題を乗り越えて、患者の問題に取り組む時期が始まったのである。S.E.の防御的な面が減り、理性が彼女の行動を支配しだした。次々のセションで、彼女は自分の問題を、テーブルの上に置くかのように出し、それを二人の理性で見つめ、考えて解決をしていった。

彼女は最初、夫の頑固さを、どうにか変えようと思いながらも、その可能性がないことに失望していた。たが、セラピーが続くにつれて、彼をそのまま受け入れるようになった。その代わり、彼に対する依存が減り、自分の生活を作り上げていった。趣味が見つかった。友達と過ごす時間が増えた。たまに私が聞くと、かなり忙しい毎日を送っているという。私が信じられないと言うと、毎日が結構楽しくて、いろいろとやることがあるのだそうだ。

このセラピーは数ヶ月後終わったが、その時点で、S.E.は結婚問題や離婚の可能性を、気にしていなかった。考えれば勿論問題はあった。でも、彼女にとって、それより自分の生活を充実にしていくことがもっと大切になった。与えられた環境を、良かれ悪かれそのまま受け取り、その中で有意義に楽しくしていくことが彼女の結論となったのである。

何だかんだ言いましても、心身の健康によいのはエクササイズですね。健康維持に関して何か一つを選びなさいと言うのであれば、やはりエクササイズですね。人間の体は動くようにできていますから、現代社会のように体を使うことが少なくなってしまったら、それなりに運動を作らなければならないのでしょう。

エクササイズが体の健康によいのは、皆さんもよくご存知のことと思います。筋肉を発達させるためにも、また、単に保つためにもエクササイズが必要です。ぜい肉が付かないようにカロリーを燃やしながらエクササイズをします。心臓の調子や肺活量を保つためにエクササイズはいいです。普段動かしきっていない関節をやわらかくするのにも最適です。血液中の脂肪分やコレステロールを燃やすのにもいいですね。

心の方面を考えますと、ずいぶん前からうつ病にはエクササイズがよいと言われてきました。うつ病にかかった人は、どちらかと言うと動かないで運動不足です。エネルギーを使わないとそれだけなくなってしまうかのように感じます。エネルギーを使えば使うほど出てきて元気になります。

エクササイズをするとアドレナリンと言うホルモンが体にでます。これは、自立神経中の交感神経を刺激し、その作用はうつの状態の反対を作り上げます。ですから、たとえうつ病で精神療法をしていても、それと併用にエクササイズをしている人は早く治ります。その上、治療が終わってからも、エクササイズを続ける人は、うつ病の再発が少ないと解っています。

不安症の人がエクササイズで効果を上げることもよくあります。エクササイズをしたあとはリラックスして不安が減ると言うことです。リラックスをする方法の一つで、筋肉をわざと一時的に緊張させ、それを放すことによってリラックスすると言うのがあります(Progressive Relaxation Technique)。これと同じ原理で、わざわざ意識的に筋肉を緊張させる代わりに、運動をすればよいわけです。運動後は筋肉が疲れてリラックスしますから、心もリラックスします。体をリラックスさせて心をリラックスさせる仕方もありますし、瞑想のように心をリラックスさせて不安を取り除く仕方もあります。エクササイズのあとは、不思議に心配事が減ったり、細かいことに気を使わなくなることに気が付くことでしょう。

エクササイズによって効果を上げるのに大切なことは習慣性です。たまにたくさんエクササイズをしたからと言ってよい効果は見られません。一週間に何回とか毎日とか、自分で一定の時間を決めて習慣付けるとよいでしょう。最初は大変かも知れませんが、習慣になれば毎日当たり前のこととなり、かえってエクササイズをしなかった時の方が気分がへんになります。

過去は現在に属す

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≪過去のトラウマからノイローゼに≫

心理的問題、特にノイローゼと言われるものは、過去に起こったトラウマ(精神的外傷)が原因となって発病するものだと言われてきました。これは一般的によく受け入れられている説だと思います。例えば、幼児期に親から無理に離されて異常反応をし、それがトラウマとなって心に残ったとします。その後、何年も経て、本人はもうそのことを忘れてはいますが、何かのきっかけでトラウマがよみがえり、不安症におちいったりすることは、決してまれなことではありません。

ここで私がよく質問をされることは、「もし、原因が過去にあるのだとしたら、過去はもう過ぎ去ってしまったのだから、いかにしてそれを治すことができるのだろう?」ということです。この議論は日常よく聞くアドバイスにも展開します。すなわち、「もう過ぎたことなのだから、くよくよしないで忘れてしまい、前を向いて歩みなさい。」と。

≪性格と外からのストレスの相互作用≫

でも、もっと新しい考え方ですと、ノイローゼは、人の性格と外からのストレスの相互作用によって発病するとされているのです。私たちは環境内で起こる事柄に個人的でユニークな反応をします。それが私たちに性格として、現在、存在するものです。ストレスも環境からの刺激ですから、現在に存在してます。いったい過去のトラウマは何処に行ってしまったのでしょう。

それは、性格の中に存在しているのです。トラウマが性格を形成する一つの材料となっていたのです。もちろんあまり喜ばしい材料ではないかもしれません。でも、それが性格を特徴づける一因となっていたのです。そして、現在の性格を通して表現されていたのです。過去のトラウマは、そのままの形では存在していませんが、性格の中に変形して存在し、今でもその力を発揮しているのです。それが、たまたま起こった環境からのストレスと相互作用し、ノイローゼとして発病するのです。

とするならば、もう過去のトラウマを治す必要はありません。すなわち、現在この場で性格の一部として変形したトラウマを発見して確認し、それを治すことによって、ノイローゼを治すことが可能になるわけです。


≪急にパニックになったある男性の場合≫

ある男性が職場で急にパニックになり、緊急病院に運ばれました。彼自身は、心臓病で死ぬかのかと思って、パニックの上にまたパニックになっていたのですが、幸い心臓には異常なく、鎮静剤だけを投薬されて落ち着き、数時間後には家に帰ることができました。この人は過去数週間働きづめで過労していました。その上、上司とうまくいっておらず怒りをためていたこともありました。この男性の父親はたいへん厳しい人で、小さい時から彼をよく働かせました。反抗するものなら、子どもを勘当するほど怒ったのでした。

それに対して小さな彼は、怒りを押さえながら大きくなったのです。大人となった彼の性格は、少年時代の不安定な環境を反映したびくびくの臆病者であると同時に、父親の怒りやすい性格を受け継いで、少しでも自分に都合が悪いことが起こるとすぐ挑戦的に怒る面も持っていました。

彼の場合、環境からのストレスは次から次へと仕事を与えた上司でした。昔の父親を思い出したかのように怒りをためていったのはこの人特有の性格でした。過労と怒りが頂点に達したところでパニックになり、疲れと怒りのエスカレーションを止める結果になったのです。もちろん治療に当たっての焦点は、過去の父親との関係ではなく、現在存在する対立的になりやすく、他人を恐れたり怒ったりする彼の性格の部分でした。

憎しみ

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誰でも憎しみを経験することはあります。憎しみとは、愛情の反対のような感情です。愛情が「好き」と言う気持ちよりもっと強い感情のように、憎しみは「嫌い」というのよりもっと強い感情です。

私たちは人を憎むことがあります。憎む人のことを考えると憎しみの気持ちが湧いてきます。自分にされた不正なことを考え、怒ってどのように仕返しをしようか、どのように相手を懲らしめるか必死に考えます。

私たちは自分を憎しむこともあります。Self-hatredと言って自分に対して非常に破壊的な感情です。自分に憎しみを向ける時には、性格や言動の一部に焦点をあて、自分を痛み付けるかのように扱います。また、わざと危ない行動をして、自分の身を危険にさらしたり、他の人に意地悪をして、自分を嫌わせたり、直接、自分を切ったり、転んだりして、痛い目を味わせたりします。

他に、ある集団に対して憎しみが向けられることもあります。その集団の特徴、例えば、人種、宗教、国籍、ライフスタイル等で特定できる集団を憎しみます。自らの経験でその人なりの理由はあるのでしょうけれど、憎しみが表現される時には、不特定人物が相手となります。Hate Crimeといってある集団の人に危害を与えたり、嫌がらせをしたりする例がありますし、差別として憎しみを表すこともあります。

憎しみの要因は、自分の中の不快感から始まります。不快感は遺伝的に心身に先天的な形で存在するのでしょう。私たちは不快感を感じるとそれを取り除きたいと思います。簡単に取り除けて忘れてしまうこともありますし、なかなか取り除けなくていやな気持ちが続く時もあります。

不快感を経験した時、私たちの周りの環境にそれと関係がありそなことを探します。そしてそれを不快感の原因であると考えます。実際に原因であるかどうかはどうでもよいのですが、肝心なことは、その要因を取り除くことによって、不快感が消えると思うのです。それで不快感が消えてしまえば、憎しみにはなりません。もし、不快感が取り除かれなくて、周りの原因と思われる物も取り除けない時、それに対して憎しみを感じるようになります。

不快感は自分の気持ちで、誰によって与えられたものではないと考えると、不快感は意外と簡単に消えてしまうのですが、誰かによって与えらされたのだと思うと、その人を破壊するまで憎しみは消えませんから、かなり頑固な感情となってしまいます。

愛と憎しみは裏返しのようでもあります。愛されるべき人から愛されないと、その人に対する憎しみに変わります。愛する相手は自分の不快感を取り除いてくれると信じがちです。それを訴えても相手が自分を不快から救ってくれなかったら、徐々に憎しみに変わるでしょう。

憎しみは相手を懲らしめたり破壊したいという気持ちです。その気持ちにしたがっていろいろな意地悪をします。でも、自分の憎しみの根底にはまだ相手に対する愛情が残っているかもしれません。その愛する相手を懲らしめるのですから、相手が本当に傷ついた時、自分は罪に陥ってしまいます。愛していれば愛しているほど、傷つければ傷つけるほどその罪悪感は強いでしょう。

そのようにして生まれた罪悪感は自分を破壊してしまいます。憎しみによる他人の破壊は、自分の破壊にもなるのです。なぜなら、もともと憎しみは自分の不快感に対して当てられた物だったからです。その自分に対する憎しみを抱えているのは耐え難いです。それを自分から取り除き誰かに投影して、その人を憎んだほうが、楽なのは確かなのですが。

ラブマップという言葉を聞いたことがありますか。

ラブマップとは、結婚相手に関する様々な知識です。相手の生い立ちから始まって、どのような生活をし、どのように勉強、遊び、仕事、そして付き合いをしてきたかという知識です。また、相手の親戚や友達、そしてこれまでに至る健康状態や、日常の癖なども含んでよいと思います。

でも、一番肝心なラブマップの内容は、相手に関する現在の知識であると思います。あなたは今結婚相手の興味、趣味をご存じですか。相手は今何処でなにをしているのかご存じですか。また、相手は日頃何を考えているのでしょう。何を感じているのでしょう。何を楽しみ、何に苦しんでいるのでしょう。あなたのことをどう思っているのでしょう。あなたとの結婚についてどう思っているのでしょう。これらを皆含んで相手のラブマップといいます。

ラブマップの内容は多ければ多いほどよいですし、その上、あなたがそれに参加できれば、できるほどよいと思います。相手があなたに関するラブマップをよく知っていることも大切であることは、言うまでもありません。

デート中や婚約中は、二人とも関係を発展させることに興味がありますから、当然ラブマップに興味があります。特に、相手との共通点に興味があると思います。でも、結婚後は、次第に相違点に気が付きだします。自分に賛成してもらえなかったり、自分を理解してもらえなかったりすると、今まで、自分の夢をかなえてくれると思っていた相手が、次第に失望に変わったりすることもあります。その結果、相手のラブマップにも興味が薄れてくるでしょう。長い月日のうちに、相手がいったい何を考えているのか、全然判らなくなってしまいます。

また、相手に対する興味は薄れないものの、怒りの感情のコントロールがうまくできない時には、夫婦喧嘩が多くなり、相手の悪いことばかり気が付きだすこともあります。ラブマップがヘイト(嫌悪)マップに変わってしまうでしょう。

ラブマップを発展させるには、夫婦の間で語り合う時間を作らなければなりません。毎日、二人だけの時間をとって、その日の出来事、面白かったこと、辛かったことを語り合いましょう。そして、相手のことを自分のことであるかのように一生懸命理解しようと努めてみましょう。

精神的問題と体の病気とは、どのように違い、どこが同じなのでしょう。一般的な考えとしては、体の病気は具体的で、心の病気は抽象的であると言うことかもれません。けが等は明らかに目に見えるものが多いですし、病気は痛みや体の不調で病気の状態を知ることができます。でも、心の問題は直ちに痛みを感じることもなく、明らかに体が不調だと言うようなこともありません。それは一般的に言う悩みという形で出てきます。悩みは悩みで病気とは違うと見えてしまうでしょう。

でも、もう少し考えてみますと、体の病気は痛みや不調だけではないことに気が付きます。そこには精神的負担も含まれていることがよくあります。例えば、かぜをひきますと、頭痛や体のだるさ等を感じられます。でもその他にやる気も出ませんし、集中力や記憶力も下がります。そういう時には気分も落ちますし、気持ちの表現もなくなってしまいます。細かいことや、創造的なことは考えられなくなってしまいます。口数も減ります。知能力も下がるでしょう。よい睡眠はとれませんし、寝てもへんな夢を見るかもしれません。これは正にうつ病とそっくりです。かぜをひいただけで軽いうつ病にかかったような精神状態にもなるわけです。

では、反対にうつ病や不安症等の精神障害になったらどうでしょうか。落ち込み、心配、いらいら、不眠等が経験されますが、体もだるくなりますし、体力は低下し、頭痛、胃痛、便秘や下痢等を経験する人も少なくありません。不安症は高血圧や心臓病に至ることもあります。すなわち、精神障害は精神的症状に留まらず、さまざまな体の症状として現れるわけです。

こうして見ますと、体の病気であろうが、精神的な病気であろうが、症状は体にも精神にも両方に現れ、2種類の病気の区別が薄れてくるかのように感じます。その上、精神障害が長い間続きますと、実際の体の病気に発展することはよくあることです。また、重い体の病気をした人が実際のうつ病にかかってしまうことも不思議ではありません。

体と心は親密な関係があります。体の状態は心に現れ、心の状態は体に現れます。ある病気をしますと、それがいっぺんに体と心に症状として現れます。体と心は正に一体です。一つのものが違った形で表現されただけです。病気はその一つのものがよく機能しなくなった時に起きています。そしてそれが体を通して表現されたり、精神面を通して表現されたりします。人間の機能の面から見ますと、いずれの種類の病気も機能が衰えるというところで共通しています。

軽いかぜをひいたらホーム治療で治すでしょう。でも、かぜがこじれて一週間とか二週間とか続きますと医者に相談に行きます。それと同じく、軽い心の悩みは自分で解決するでしょう。でも、それが難しい問題で、一週間とか二週間とか続いた時には、心理カウンセラーに相談しても決しておかしくないと思えます。何の病気であれ、毎日の機能低下には違いがありません。そこでは、体も心も区別はないのです。

コンピューターの機能の仕方を見てみますと、人の脳も同じように動いているのかなと、思う点があります。たとえば、RAM (Random Access Memory)は、コンピューターが今すぐ必要なデータやプログラムを維持する所ですが、ちょうど脳の短期記憶(short-term memory) にあたります。私達も今すぐ必要な内容を記憶しておき、目の前の事柄に対処していきます。仕事が終わりますと、その内容は忘れられてしまいます。

CPU (Central Processing Unit) は、コンピューターがデータを処理するところですが、それがどれくらい速いかによって、コンピューターのスピードが異なります。脳も体の内部、外部から来る情報を処理していきます。人によってそのスピードが違いますし、睡眠などよくとれなかった日には、そのスピードが下がったりします。

コンピューターは、処理されたデータを、ディスクに書きこみます。その結果、後にそのデータが必要になるときに備えます。脳も長期記憶(long-term memory) に情報を記憶しておいて、後、必要なときに、それを引き出します。情報を引き出すにあたって、コンピューターも脳も同じように、インデックスが必要です。つまり、どの情報がどこに入っているかをよく整理して置かなければなりません。コンピューターはインデックスをなくしてしまうと、それにつながるデータもなくしてしまいます。脳も何かを思い出すきっかけをなくしてしまうと、事柄を思い出せません。その代わりに、mnemonic と言って記憶した内容を簡単に引き出せるように、頭文字を並べて、それをヒントとし、思い出せるような努力もします。

コンピューターの発達と共に、それを使って人間の脳のシミュレーションをし、脳をもっとよく理解しようとする試みが起こっています。

最近、目についたのは、コンピューターに人の顔を覚えされるという実験です。コンピューターに人の顔を判断するためのいろいろなルールを教え込み、新しい人物が現れたら、その人の顔が分かるようになるまで、記憶をさせます。そのうちにコンピューターもその人を認識できるようになります。

5分位でコンピューターが新しい顔を覚えるというのですから、結構捨てたものではありません。ロボットに近寄ったら、「小林さん、こんにちは。」なんて挨拶されたら、不思議ですね。

また、この実験によると、白人を記憶させるプログラムを先に書くと、白人の認識はよくできますが、それ以外の人種、たとえばアジア人の顔は間違いが多いというのですから驚きです。人でも、白人の間で生活をしている人が、急にアジア人を見ますと、よく覚えられないということもありますから、コンピューターも人とそっくりです。

その上、これから、アジア人と白人の差を認識するためのルールを、コンピューター自ら書き込んでいくというのですから、たいしたものです。ちょうど人が、人種が変わっても、慣れで顔の認識をできるようになるのと同じです。ここで一番画期的なのは、コンピューターが自らプログラムを書き込んでいくことでしょう。こうすることによって、コンピューターがその環境の変化に適応していくことができます。新しいことを学習できるコンピューターということです。

更に、驚くべき考えは、学習のできるコンピューターの一部のプログラムを壊して、それについてコンピューターがどのように行動し、また、新しい学習をするかということです。これってちょうど人間に何らかの障害がおき、それに対して人がどのように防御したり、新しいことを習っていくかということと、似ています。このようなコンピューターのシミュレーションによって、子供の発達障害の理解を進めたり、いずれは、障害の治療のシミュレーションまで出来上がるかも知れません。

やはり、人間が考え出したコンピューターは人間の脳の働きと似てきても不思議ではありませんね。

母親の影響

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考えてみると非常に当たり前で、しかしながら、驚くべきことでもあるのですが、母親と幼児の関係は人生の中で一番身近で親密な関係ですね。子供が大きくなってからは、このような関係は一生2度とないでしょう。

一人の体が、出産によって2体になるのではありますが、心理的には一体であることがかなり長い間続きます。母から出る母乳で栄養をとります。母が直接食物を口に入れてくれます。母が排出物の面倒をみてくれます。そして、母が幼児の気持を察して遊んだり、助けたり、護ってくれます。この様な人間関係を幼児期以降、誰と結ぶことができるでしょうか。

幼児のこの経験と欲求は、心の深いところに忘れられたまま押しやられてしまいます。でも、これを忘れられずに、追求してしまう大人もいます。こんなにすばらしい人間関係だったんですから、やむおえないと言えばそうかもしれませんが。

たとえば、母親との一体感を忘れられないがために、恋愛に頻度高くおちいる人がいます。10代で発生する多食や拒食症は、母乳や食物を与える母との関係のもつれを現しているものでしょう。大人の性行為に排出物を取り入れて快感の増幅を試みることは、母親が排出物の面倒をみてくれたときの快感につながるのでしょう。また、頼りになる信頼を持てる人が自分の身を護ってくれたり、気持を気遣ってくれたりすると、母親が側にいるかのように安心するのは、誰でも同じでしょう。

このように、幼児の一生に影響を及ぼす親密ですばらしい母親との関係は、幼児が自己や周りの環境について習得する過程において大切な媒体となります。つまり、幼児は母との関係を通して物事を学んでいくわけです。

幼児は母親に対して夢中です。母のことをいつも観察しています。母親が機嫌のよい時、怒っている時、悲しい時、自分に対しての接し方が違うのに非常に敏感です。母親の気分によって自分の居心地が変わります。これが幼児にとって最初に学ぶ人間のことですから、母親に関する体験は、後に幼児が他の人達と接するための土台となる世界観を作り上げることは、忘れてはならない事実です。

幼児は周りにある物事を、直接観察して習いません。母親の物事に対しての反応を見て、その性質や良し悪しを習得します。たとえば、母がぬいぐるみを、安全でかわいいと扱いながら幼児に手渡します。それで幼児はぬいぐるみが安全であると習います。もし、母親が恐る恐るぬいぐるみを扱い、幼児が触った瞬間に悲鳴をあげたとしましょう。子供もぬいぐるみを何か危険な悪いものであると理解するでしょう。

さらに、幼児は母親が自分をどのように扱うかで、自分が何者であるか発見します。自分が大事に、大切に扱われれば、自分の貴重さを納得するでしょうし、雑に扱われたり虐待されれば、自分は価値のない、いやらしいものであると理解することでしょう。

日本人の恥の力

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テレビ番組で見たのですが、白人のコメディアンが東京の電車内で、無言の日本人(複数)「バナナがお好きな人は手を上げてください。」「ポテトを好きな人は手を上げましょう。」等と英語で問い掛けているシーンがありました。彼は何度も聞きますが、皆何も言わず振り向きもしません。たまたま次の駅で降りようとしている人が、棚に置いてあったカバンに手を伸ばした時、それを質問の答えとして取った白人が、「Oh, you like potatoes?」とか言うと、その日本人は「Be quiet.」と戒め、とっとと電車を降りてしまいました。そこで白人は「変な感じ。」ともらしたのでした。

もちろんこの白人は面白がってやったことですが、ここに日本人の社会心理がよく現れていると思います。場所は変わりますが、アメリカ人のいる前でお母さんの作ってくれたおむすびを食べるのを嫌がる子供がいます。大人でもアメリカ人におむすびを食べているのを見られるのが恥ずかしいと言う人がいるでしょう。日本人は人前で自分のことを出すのを極嫌がったり恥ずかしがったりします。東京の電車内での人々も内心面白がって白人を見た人も少なくないのではと思います。だからと言って、そこで自分の気持を出してしまうのは恥をかくと感じるのが日本人かもしれません。

一般的に日本人は集団意識が強いです。小さい時から集団に合わせるように、そして人目を気にするように育たされます。その一方自分の気持や考えは心の奥にしまってしまいます。そして、自分の考えが回りの人たちと一致したときだけ自分の表現が許されるかのように感じます。

そのような習慣を持つ日本人が、アメリカ人の他人に真っ向から反対する自己表現や主張を見て自分勝手だと感じるのは少なくありません。日本人から見たアメリカ人の個人主義は利己主義に写ってしまうのです。もちろんこれは日本人のバイアスで、アメリカ人からしてみれば、自己表現は自分の権利であり、義務でもあるわけです。自己表現が義務であるというのは、自分の考えをはっきり述べて、自分の位置づけをしないと相手に対して失礼であり迷惑をかけるという意味です。自己表現が相手に迷惑と思っている日本人とまるっきり反対の結論になってしまいますね。

日本人の間で自己表現を抑える社会的圧力が恥であると言うわけですが、社会の秩序を保つのに強い威力を持っています。でも、この力が個人に及ぼす影響は必ずしもよいと言うわけではありません。相手に合わせて自分を抑えるということは、ある程度どの人間関係でも必要と思われますが、それが行き過ぎると人の目を恐れるようになってしまします。

アメリカの精神病診断書に、日本人に特有な問題として取り上げられている対人恐怖症があります。まさに人の目が恐くなった状態を示しています。自分の姿、におい、動作が他人に与える影響を非常に心配して人を避けるようになってしまう状態です。これは、ありのままの自分を人目にさらすのが大変恥じであると思い、考えや気持を隠そうとしているのですが、それにもかかわらず自分が顔の表情やにおいを通して出てしまうのを恐れている状態です。

対人恐怖に似た症状で回避性人格と言うのがあります。すごく恥ずかしがりやで引っ込み思案で、劣等感の多い性格です。もちろんこの性格の人に対人恐怖の人が多いのはいうまでもありません。日本の社会ではこのタイプの人をしいて問題としないばかりでなく、静かで、でしゃばらず、従順で謙遜的であり社会に適応した人と見ることがあります。ところがアメリカでは、日本人のこのタイプを回避性人格障害と診断してしまうことがあり、本人が日本で問題を感じていなかった場合には、誤診となってしまうことがあります。この人格こそ日本人の恥の力が影響して出来上がった日本人に多いタイプであると考えられます。

一つここで考えなければならないのは、恥のため、恐怖のため、性格のためであろうが、人からの感情的な距離を多めに置くと、すなわち人から遠ざかれば遠ざかるほど、人が恐くなり、人間関係が面倒になり、人に興味をなくし、人に対して攻撃心も増えると言うことです。その結果被害妄想が増え、回りの社会環境が冷たくて阻害的で恐ろしく見えてくるのです。大変なことになってしまいますね。

では、その逆はどうなのでしょう。周りの人に対して感情的な距離を近くとったらどうなるのでしょう。すなわち自分の考えや気持をそのまま出し、素直になるということでうす。そうしますと、人に対する恐怖がなくなり、人に興味を持つことができ、友情や愛情が生まれ、周りの環境が居心地よいところになります。ちょうど磁石のNとSを合わせると起こるように近くなればなるほど引っ張りあう力が強くなるのです。皆さんも試して見たらと思います。

アメリカでも不登校は日本のようにあるが、日本ほど社会的に問題としてとらえられてはいない。多分それは、もっと深刻な問題が目に付くからであろう。例えば、麻薬の問題だとか、学校への武器の持ち込み、未成年女子の妊娠、児童虐待、学力低下等、社会的問題として、対処しなければならないことが沢山ある。不登校は、個人的問題として、その都度介入が行われるくらいである。

日本人生徒の不登校は、アメリカに存在するユニークな理由で発生する。日本国内のように、いじめが理由で不登校に至る例は少ない。むしろ、言語的、文化的、人種的問題をその裏に秘めている。学校に行っても、言葉が解らなくて、授業の内容もよくつかめないことが多いし、友達もなかなか出来ない。アメリカの生徒は、日本人と比べて、違った興味を持っているし、付き合い方も話の内容も違う。そうしたところに、日本人生徒が短い間にとけ込むのは難しい。学校に行ったとしても、孤立した状態でいるか、日本人同士で固まっていることが多い。不登校は、そのような日本人生徒のアメリカに於ける背景をもとにし、その上に個人的な問題がかさなって、起こっているのである。

K.H.は、9年生であり、日本では中学3年生に匹敵するが、ここでは高校1年生である。アメリカの高校は4年制であり、義務教育9年目から高校に入り、12年生を終えたところで卒業になる。K.H.は高校生になったばかりで、彼女にとっては新しい学校へ行き始めたところである。

K.H.の母から電話があったのは、9月に新学期が始まって直ぐのことであった。その時点では、彼女はまだ2日しか学校を休んでいなかった。話しによると、夏休みに入る以前に、学校で気持ちが悪くなり、吐き気がしたという。その当時は、体の病気だと思って、小児科に通っていた。小児科の先生も、ちょっとした風くらいだと思い普通の処置をしていた。でも夏休み中、家族旅行に行った時にも気持ちが悪くなり、次第に変であると家族は思いだした。9月になり新学期が始まって間もなく、体育の授業中に気持ちが悪くなったのである。それをきっかけとして、他のクラスでも気持ちが悪くなり出した。気持ちが悪い時には、保健室へ行って時間を過ごしたりしていたが、朝から学校へ行かない日が起こり始めたのだ。このころには小児科の医師も精神的な問題であると判断し、私のところでサイコセラピーを受けることを勧めた。

K.H.は礼儀正しい良い子であった。この年頃に見られる反抗は、私に対してはなかった。彼女の言う、夏休み中に仲のよい友達が日本へ帰ったから、学校へ行き辛くなったと言う理由は、納得がいった。どちらかというと、恥ずかしがりやの消極的な性格で、一人で新しい学校へ行くのは、ずいぶん勇気のいることだったのだろう。

考えてみると、夏休み以前に、中学生で学校へ行かなくなった男子がいた。その時には、彼をサポートをできる良い人間関係をセラピー内で作り、家庭で両親がどのように彼と対応するかを教えることによって、不登校を解決した。それで基本的にはこのアプローチを使って、K.H.を援助していこうと思ったのである。放課後行われた50分のセションの半分は、K.H.と個人セラピーをし、残りの時間を母とのセションに割り当てた。

セションの翌日は、K.H.は学校へ行ったようであるが、他の日は休むことが多くなってきた。少なくともセションの翌日は出席していたようであるから、セラピーの景況はあるようであった。でも、それはまだ限られていた。彼女の出席は一週間続かない。そのうちにセラピーの効果が出始めるであろうと、私自身に余裕を与えていた。

ティーンエイジャーとのセラピーは、かなり難しい。過去に、失敗した例は少なくない。ところが、子供や大人とのセラピーで、失敗したと言える例はまれである。子供は依存性が高いから、セラピストに対して依存が直ぐ起きる。それ故に、セラピストの影響は大きいものである。大人は自分から問題を認めてセラピーに来るので、ある程度の協力は得られる。上手くいかなかったセラピーでも、何らかの助けをすることが出来た。でも、ティーンエイジャーの場合には、何もできなかったと言える例があるのである。その理由は、彼らは大人に反抗するだけの意志はあるが、自分から問題を認めてセラピーに来ることは少ないからだ。自分はセラピーをしたくないのに、親から強制的に連れてこられる。連れてこられることに反抗が出来なかったら、せめて、セションでセラピストに反抗し、セラピーを無効にしてしまうことは出来るのである。

もう一つティーンエイジャーのセラピーで難しいことは、たとえ彼らが協力的であっても、セラピストがどの立場を取るかである。彼らの立場を取るならば、親を疎外してしまう可能性が強い。彼らの欲求と親との欲求は相反していることが多いからだ。反対に親の立場を取ってしまうと、ティーンエイジャーを抑圧気味になり、セラピー内での抵抗が増える。それで、セラピストとしては、ティーンエイジャーの立場を取ったり、親の立場を取ったり、しばしば立場を変えることによって、両方をサポートし、両方から信頼を失われないように、微妙な道を歩かなければならない。

K.H.とのセションでは、彼女をサポートし励ましていった。そして母とのセションでは、親として必要な厳しさを子供に対してとれるように、導いていった。私は、K.H.がクラスに行こうが行けまいが、学校には行くという線を守りたかったのである。学校を休み始めると、ますます学校に行きづらくなる。それが始まってしまったら、セラピーは長引くであろう。だから、K.H.がクラスにいようが、保健室にいようが、図書室にいようがかまわないが、とにかく学校へ行って欲しかった。K.H.の母にはこれを説明して、毎朝彼女を送り出すことを重視させた。

余り大きな進歩が見られない内に5週間が過ぎた。K.H.は殆ど毎日学校へは行っていたが、図書室や、保健室で過ごす時間が多かった。私としては、このままセラピーを続けていけば、彼女は徐々に良くなって、最終的にはクラスへ100パーセント復帰できると思っていた。しかし、学校としてはそれでは遅すぎたのである。スクールカウンセラーが父親を呼びだし、説得に入りだした。このカウンセラーはK.H.の出席率が少ないことを理由にして、家庭学習か代用学校を勧めたのである。家庭学習とは、文字どうり、家庭教師が週に何回か家を訪れて行われる学習法である。費用は学校の方で負担し、特に精神的、身体的な問題で学校に行けない生徒に対して適用される。代用学校とは、生徒が学校で何らかの言動問題を起こし、校則を破ったために普通校にいられなくなったり、成績がいかにも悪いので、退学させられたり、喧嘩、いじめ、性格的問題で普通校での適応が難しかった時などに適用する。

どう言うわけか、スクールカウンセラーは家庭学習を強く進めたようであった。父親は、もしK.H.が家庭学習を始めてしまったら、もう学校には戻れなくなってしまうと懸念した。でも、カウンセラーの勧めで、それに必要な書類を受け取ってしまった。この書類には小児科の医師の署名が必要であった。それで、父はK.H.の小児科の医師を訪れたのである。ところが、この医師はK.H.は学校へ行くべきだとして、署名を拒んだのだった。その後私の方へ電話をしてきた。

医師:「ドクター・コバヤシ?」彼は日系三世の先生で、日本語は少々話すが、私とはいつも英語でやり取りをしていた。

私:「やあ、先生どうしていますか?」急な電話だったので、少し緊張して用件を待った。

医師:「K.H.の事なんですけれど、彼女、学校で出席していないようですね。」

私:(ちょっと変だな、K.H.はいくらかは出席しているはずだが、、、)「全部のクラスには出ていないようですが、少しは出ていると思いましたが。」

医師:「でも、欠席が多いらしい。学校の方から家庭学習のための署名が要であると、書類を父親に持たせてきました。私は彼女は頑張って学校へ行くべきだと思いますがね。」

私:「私もそう思いますよ。そう言うわけでセラピーをしているんですから。今、家庭学習を始めたら、意味がなくなってしまします。いくら何でも早すぎますよ。」(どうやら私の意向を確かめたいらしい。私も家庭学習を勧めているのかどうかと。)

医師:「それならいいんですがね。私はその書類にサインをしませんでした。また何かあったら連絡します。」

私:「お電話有り難うございました。」

少なくとも医師がどういう意見でいるかは解った。そして、学校の意見も解った。すなわち、セラピーに対して余り協力的でないことだ。学校の立場がいつもこうであるというわけではない。学校によっては非常に協力的なところもある。過去には、不登校の日本人女子に対して、わざわざクラスを変えてくれた学校もあった。彼女の行きやすいクラスを工夫してくれたのである。その時の校長先生は、私もその件で話したことがあるが、日本に対して興味を持っていて、この日本人女子についてもよい理解を示してくれた。その協力もあって、セラピーも上手く行き、不登校を解決することが出来た。また、学校の多くは無関心でもある。生徒が学校へ行こうがいかまいが、不登校のためにセラピーをしているのだと私が手紙を書くと、学校へ行けるようになるまでほっといてくれるところもある。K.H.の行っている学校は、協力的ではなかった。スクールカウンセラー自身が、余りセラピーに期待していないようである。このカウンセラーにとって、K.H.が精神的問題を乗り越えて、不登校を解決するかどうかは、どうでもよいようである。それより、欠席の問題だけを片付けたいようであった。そしてまた2週間が過ぎた。

カウンセラー:「ドクター・コバヤシ、あなたが信頼があって協力できる医師がいますか。ご存じのように、K.H.の小児科の先生は、家庭学習のための書類をサインしてくれません。でも、K.H.は家庭学習をするべきです。クラスには来ていないんですから。誰か、あなたが知っている医師にサインをしてもらわなければなりません。」

私:「でも、私は小児科の先生の言っていることに賛成だし、K.H.は家庭学習をするべきではないと思います。それが始まったら、今でも嫌々学校へ行っているのに、全く行かなくなってしまう。私としては皆で頑張って、彼女が学校に行けるようになるまで、セラピーするべきだと思います。」

カウンセラー:「でも、実際問題 K.H.はクラスから欠席しているんですよ。この学校にはこういう状態では居られません。医師のサインが必要なんです。解りませんかね。」

私:「あなたの言っていることは解りますけれど、それでは K.H.の事を考えていないでしょう。家庭学習が問題ではなくて、K.H.の不登校が問題なんです。もし、これを治さなければ、彼女が日本に帰ってからも、同じ問題になりかねません。今のうちに、出来るだけのことをしてあげなければなりません。とりあえず、明日、両親と会いますから、このことを話し合ってみます。」

カウンセラー:「それでは、明後日また電話をしていいですか。話しの結果を聞きたいと思います。」

このカウンセラーは強い圧力をかけてきた。私は明後日までに K.H.に関して何らかの決心をしなければならないと思った。そして、彼女の両親に電話をして、両親、彼女の姉、そしてK.H.に翌日セションへ来てもらうことを頼んだ。この時点で私に解決方はなかった。K.H.の不登校は直ぐには治らない。家庭学習はよい解決方ではない。代用学校へ送るのは、まだぴんとこない。普通校に行けないのに、どうして代用学校へ行けるのだろうか。いったいどうしたらよいのだろうか。この日一日考えてはみたが、結論には達しなかった。

翌朝目が覚めたら、まだ午前5時であった。どうやら、寝ながらK.H.の事を考えていたらしい。目が覚めた瞬間に彼女のことが頭に浮かんだ。すると一つ考えが頭の中をさえぎった。

「どうして代用学校が悪いんだろ。彼女の行っている今の高校は、家に近い。そのために、クラスが嫌であれば、歩いて帰ってくることが出来る。でも、代用学校は遠いし、車で送り迎えしなければならない。一度学校へ行ったならば、終わるまでそこにいなければならないのである。その上、その学校は人クラスしかないから、K.H.は何処にも隠れることが出来ない。彼女にとっては少し酷であるかもしれないが、この際頑張ってもらって、大変な部分はセションで助けていけないだろうか。」

そう考えると、心の緊張が解け、今日のセションの用意が出来たような気がした。

母:「昨日も今日も学校には行ってないんです。もう好きにしなさいって、上の娘も私も、頭に来ちゃっているんです。」彼女がK.H.の方を睨む様にして言った。K.H.は落ち込んだ顔をして、今にも泣き出すようである。

姉:「もう、何を言っても、関係ないって言うんで、そんなんだったらどうして皆に迷惑をかけるのよって、言っているんですよ。」姉も怒ってあきれた顔をしている。

父:「昨日は、私も喧嘩をしました。ずいぶん怒ったんですよ。なぜ、もう少し我慢して学校へ行かないんだってね。」怒った顔で言った。K.H.はますます落ち込んでいる。

私:(このまま家族に責め続けさせておくと、彼女の立場がなくなって、良い結果には導けない。介入が必要である。)「昨日スクールカウンセラーから、電話があって、欠席の問題についてどうしたいか、決めて欲しいと言ってきました。明日までに返事をしなければなりません。」そして、K.H.に向かって言った。「自分ではどうしたいと思う?」

K.H.:「代用学校へ行こうと思う。」小さな声で言った。

私:「えっ、代用学校って言った?」(私は少々驚いたと同時に、ほっとした。私と同じ意見だ。)「皆はどう思います?」

父:「そこに本人が行くって言うんなら、それでいいですよ。先日その学校を見に行ってきたんですよ。海の方に近い小さなところです。小さいから、先生の目が届くんじゃないかと思います。」

姉:「それだったらちゃんと朝起きていけばいいんだよ。でも、ちゃんと自分で責任を持って、皆に迷惑をかけないように。」

母:「いいですよ。でも、これが最後のチャンスだから。自分で選んだんだから、ちゃんとしてもらわなくっちゃ。」

父:「お父さんの聞きたいのは、彼女が最善を尽くすって約束することだよ。そしてゴールとしては、今の学校に早く戻れるように頑張らなくっちゃ。」

母:「そんなに最初から期待したら、出来ないですよ。小林先生も圧力をかけないようにって言ってたでしょう。」

父:「皆がこうやって助けているんだから、彼女の方も頑張ってもらわなければ、、、」

私:「まあ、自分で言っているんだから、彼女には頑張ってもらって、、、学校へ行くことだけは、親の方もきちんと毎朝送って行ってください。そこはちゃんと厳しくやってください。」私は両親とK.H.に期待をかけた。それから、「家に帰ってきたら、優しくして甘えさせてください。前にも言ったように、K.H.は自分の欲求を心の中に閉じこめて、外に表現しないんです。だから、一見何も問題がなくて、良い子に見えますけれど、実はかなり不満があるんです。私は今回の不登校問題は、家で甘えないで、学校で甘えが出てきたんだと、思っています。彼女のクラスへ行かないでいるのは、ちょうど小さい子が甘えているかの様です。このまま甘えないで学校へ行ってしまったら、甘える時もなく大人になってしまう。その前に足りなかった甘えの分を、今表現しているんです。家で十分甘える機会を作ってやってください。そうすれば、学校では大人のように行動できるはずですから。」

母:「そうなんですよ。この子は全然自分の欲しいことを言わないんです。上の子は、何でもかんでも言うんですけれど、、、」

姉:「いろいろと誘うんだけれど、一人で家にいた方がいいって、全然出ないんです。」

私:K.H.の方に向かって、「何でも欲しいものを言ってみなって、言ったら、何が欲しい?」

K.H.:「、、、イタリアへ行きたい。」

姉:「そんなの出来るわけないじゃない。」

私:「イタリアは後で連れてってもらいなさい。でも、皆でイタリアレストランへ行きなさい。それから?」

K.H.:「ローラーブレード買って欲しい。」

父:「それなら買ってやるよ。」私に向かって、「この間、見に行ったんですけれどね、ちょうどいいのがなかったんで。また買いに行けばいい。」

私:「いいね。他にはあるの?」

K.H.:「日本に帰ったら、お姉ちゃんと同じ学校に行きたい。」

母:「まあ、そうかとは思ったんですよ。この間、上の子と話していたんですけれどね、同じ学校へ行けないのを、苦にしているんじゃないかって。」

私:「その学校は、どういうの?」

姉:「帰国子女を受け入れる学校なんです。私は日本に帰ったらそこに行くことになっているんですけれど。K.H.は普通校を受けるわけだったんです。」

父:「その学校は私立だから、高いので、両方やるのはちょっと大変かなと思って。でも、やっぱりそれだったのか。そのことを苦にしていたのか。それならいいや。お父さんも頑張るから、お前も行っていいよ。」

K.H.:「やったー。その学校の方がいいもん。」

というわけで、緊張して、深刻に始まったセションは、明るく和やかに終わった。翌日、父親が学校の転校の手続きをしに行ったので、スクールカウンセラーからは私の方に連絡はなかった。K.H.はこのセションの3日後から代用学校へ行き始めた。そして、次のセションの予約日に、彼女は気持ちが悪いと言って、朝から学校へ行くことを拒んだ。母親が心配して、私のところへ電話をしてきた。ちょうどセションのある日だったので、事実だけ聞いて、電話を切った。

私:「今日は学校へ行かなかったって聞いたけれど、どうしたの?」彼女を責めないように、ただ事実を聞き出すために言った。

K.H.:「朝、ちょっと気持ちが悪かったんです。」

母:「私が下の子を学校へ送って帰ってきたら、もう布団をかぶって寝ているんですよ。その前まで全然平気で学校へ行っていたのに、不思議ですよ。」

姉:「ただずる休みをしていたんじゃないの。」

私:「何か学校であったの?」

K.H.:「昨日まで、ちゃんと行っていたんで、一日くらい良いかなと思って。」

私:(余り彼女の症状に集中してても、話が進まないかもしれない。)「そう。ところでこの過去一週間は、家ではどうだった?」

K.H.:「ローラーブレードで遊んでいました。」

母:「結構夢中で遊んでるんですよ。」

私:「少しは甘えているかな?」母に向かって言った。

母:「そうしていると思いますよ。」

姉:「私と店に行って、色々買いました。前より、良く出かけています。」

私:「それは良いね。」(家の方の状態は良さそうだ。K.H.はある程度サポートを得ているので、学校へ行くことをもっと強く押しても良さそうだ。)「朝、お父さんは彼女を連れていくことは出来ないの?」父に向かって言った。

明らかに母親が K.H.を学校へ送って行っているが、それを父親にさせると言うことは、彼女を始め家族全体に、K.H.が学校へ行くことの大切さを強調することである。実際には母親が連れて行ってもよいが、もし、K.H.が行きたくない時には、父親の出番があると言うだけで、効果があるであろう。

父:「出来ますよ。今朝は、上の子を送って行ったので、時間がなかったですけど。」

私:「そうしてください。もしK.H.が朝行くのが大変そうだったら、あなたが連れて行ってください。学校へ行くことだけは、毎日ちゃんとやってもらわなければ。」

母:「そこまで厳しくやる方がいいんですか。私は本人の意思で行って欲しいと思いました。」

私:「そうなんです。本人の意思で行くのが一番です。でも、それがだめだったら、親が助けてあげなければ、、、学校にはきちんと行かせてください。それで家に帰ってきたら、沢山甘えさせて良いです。それをやってみてください。」

と言うわけで、この日の家族セションは終わった。私としては、K.H.が毎日学校に出席することに確信は持てなかったが、徐々にそこに達するであろうと言う期待はあった。一週間後のセションで、欠席を一度としてなかったことを聞いて、嬉しかった。父親もK.H.を連れて行く必要はなかったという。家族全体が明るくなった。

私:「それで、学校の様子はどう。毎日何をしているの。」

K.H.:「コンピューターに向かって勉強したり、たまに先生の話を聞いたりしています。比較的自由にしていていいの。」

母:「何かその学校へ来る人達は、麻薬をしていたりする人達で、K.H.もマリハナを勧められたりするんですってよ。恐いですよ。」

姉:「でも、私の学校だってやる人いるし、そんなに変わりはしないよ。」

私:「そう。やっぱりそういう人いるのか。どう思う?恐い?」

K.H.:「初めはちょっとね。でもいい人達ですよ。人数が少ないから、少しは話して誰だか知ることは出来るし。ちょっと話したりすると、そこに居やすくなる。」

母:「この間ビーチまでクラスを散歩に連れて行ったんですって。戻ってきたら、服の下にかにを入れて持ってきた人もいるんですって。万引きして。それなのに先生は何も言わないんですって。」

姉:「もう、解っているんじゃないの。ああ言う人達なんだから。」

母:「でもねえ、驚いちゃった。それから、コカインを注射器でうつなら、自分でコカインを育てた方がいい、なんて言う先生がいるんですって。」

姉:「だって、注射器を回したら危ないでしょう。エイズなんかあるんだから。」

私:「やぁ、面白そうな学校だね。アメリカの面白い思い出になって、いいんじゃない。それでは、K.H.は無事に学校へ行っているようだから、今度は2週間後に来てください。でも、もし、一日でも欠席したら、私のところに直ぐ電話をしてください。そして、家族のセションを直ぐにします。それでいいかな?」

母:「今度は大丈夫な気がします。」

私:「それでは頑張ってやってください。ご苦労様。」

2週間、電話はなかった。その後のセションでは、良い報告を聞くことが出来た。K.H.は続けて学校へ行っているという。学校も好きになりつつあるという。母と姉が、K.H.は前の自分に戻った、と報告した。家では前のように、絵を描いたりゲームをして遊んでいるという。このセションをもって、K.H.のセラピーは終了した。

振り返ってみると、K.H.は夏休みの2週間くらい前から不登校の兆候を出しだした。彼女がアメリカに来たのは数年前で、その時には小学校に入ったのだが、不登校もなく、他にも問題もなく来ている。母親の説明によると、上の姉の方がいろいろと問題があって、最近までは母親に対する反抗など、大変であったという。K.H.が今になって問題になり、非常に不思議がっていた。

何も症状がないから問題が全然ないのではなくて、実は、問題は数年存在していたのだと思う。この問題というのは、彼女はアメリカに来て以来、よい子になりすぎていて、自分の欲求を出していないことだ。すなわち、子供らしく親に甘えることもしなかったのである。上の姉が明らかに問題を出していたので、ある意味で遠慮をしていたのであろう。その代わりに、家で得られないサポートを、学校で少ない友達から得ていた。中学校が終わりに近づき、たまたま彼女の友達は日本へ帰ってしまった。それで、コフート(Cohut)の言う双子関係(twinship)から得られる、サポートをなくしてしまった。その時くらいから、不登校の症状が出始めたと考えられよう。でも、もし、親からのサポートが強かったら、K.H.は友達の帰国を乗り越えられたであろうが、彼女は自ら親や姉に頼ることを、しなかったのである。新学期は始まったが、友達のサポートも親のサポートもない。K.H.の自我は弱いものであったはずだ。それが不登校につながってしまった。

セラピーが始まって時間が経つにつれて、私がサポートとなる可能性はあった。でも、このケースのように、それを待つだけの時間はなかったのである。そのために、家族セラピーを行い、家族にK.H.を甘やかせることをすすめて、サポートを早く作り上げた。結果として、それはうまく行った。

では、なぜ私は家族セラピーを初めからしなかったのだろうか。それは、もし、家族関係に難しい問題があって、家族がK.H.のサポートとなることができないことや、例えできても、多くの時間を必要とするかもしれないことを、懸念したからである。実際には、この家族はそのような問題はなく、幸いであった。もう一つの理由は、K.H.と個人セラピーをすることによって、私とのセラピー関係を経験してもらい、それを彼女の強みの一つとして、将来のために築き上げたかったからである。それを使うことによって、学校に戻ることができ、日本に帰ってからも、何かの役に立てば、幸いだと信じたからだ。

このレポートを書いた時点で、K.H.が日本に帰ってから、学校に関してどうなるかは解らない。元気で登校して勉強に励んでもらうことを望む。

心の健康

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心と言うものは、いかなる時でも何かの内容を考えとして含んでいなければならない性質があります。振り返って見れば解るように、私たちは朝から晩まで、考えを浮かべたり、想像したり、計画をねったり、心配したり、思い出したりしています。この心の性質から言って、悪い考えや心配事を含んでしまうことは少なくありません。実際に苦悩が含まれておらず、不安も心配もない清い心の状態と保てるのは極わずかな時間でしかないでしょう。

単なる苦悩の無い心の状態を健康と言えるかもしれませんが、健康が増すにつれて、心の高い機能を経験することができます。でも、これは決して簡単な事ではありません。なぜなら、そのためにいろいろな条件がそろわなければならないからです。

例えば、一番基本的な条件として体の健康があります。体に少しでも痛み、病気、不調などがありますと、それが心に影響して心の機能を乱します。また、仕事や対人関係からのストレスも心に悪い影響を与えます。これらがどうにか片付けられ、睡眠をよくとり疲労のない状態が得られたときに初めて清き心の健康の存在に気が付くことでしょう。

先ず、心が健康の時には、物事に対して集中力があり、記憶が高まります。本を読んでいても、誰かとお話をしていても、それにすっと心が入ります。関係ないことで気が散りません。また、内容をよく覚えます。記憶がいいので話の前後関係や他のことへの関連性がよく解るようになります。

次に、物事に対して気力や興味がわいてきます。この気力と興味があるので、何かをしていて楽しいと思え、やりがいを感じたり、達成感があったり、生きがいを感じたりすることができるのです。その逆は、やる気の無さと退屈です。時間の無駄を多く感じ、無意味な経験をします。

やはり心の健康を感じる時とは、心の状態が安定している時でしょう。そういう時には、ちょっとのことで心が乱れたり心配になったりはしません。物事をチャレンジとして受けとめることができ、ストレスとならないところがいいです。このような時には、自分の意志と気持ち、感情、そして行動が一体となり、自己のコントロールのよさを感じます。

意識の鮮明さも心の健康のサインです。ぼーっとして雲がかかったような意識から、快晴のはっきりしたどこまでも見えるような意識になることです。自分の体の境界線に限られた意識ではなく、体を超越した意識で、周りの自然との一体感を感じられます。

知能の高度機能を経験するのも心の健康と言えるでしょう。例えば、数学の公式をみようが、読書をしようが、環境の観察をしようが、それらの内容の意味が鮮明に伝わってきます。それだけでなく、今までに見なかった新しい意味や関連性を発見することができるようになります。すなわち、物事を深く理解できるようになると言うことです。そしてその理解と自分のそれまでの経験が融合してできる発見と発明。創造力の豊かさを経験するでしょう。

体の気持ちよさ、気力、意識の鮮明感、知能の高度機能、自然との一体感、意志と動作が一致する自己コントロールと安定感、これらが一つの完璧なる精密機械のように動く快適さを心の健康と言うのでしょう。そしてこれらの要素一つ一つが協力し合い、全体としてすばらしい統一感を経験させてくれるのです。このようにして私たちは心の健康から生きる楽しさと興奮を教えられるのです。

強迫行為

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石鹸をつけて何回も手を洗い、やっと終ったと思ったら、手がちょっとじゃぐちに触れ、それで手が完全にきれいでないような気持ちになり、また始めから石鹸をつけて何回も洗い直すといった行為を強迫行為といいます。

強迫行為は手を洗うだけに限られていません。例えば、電灯を一回消したのでは気がすまず、何度も点けては消すことを繰り返す人。ドアの鍵を何度もかけ直す人。運転中に人を跳ねた気がし、何度もその現場に戻ってチェックする人。家の入り方が決まっていて、それを間違ったと思い何度も入り直す人等、例は沢山あります。

今回は手を完璧に洗う強迫行為に関して心理学的に考えてみましょう。

手を洗うと言うことは、明らかに誰かから学んだことだと思います。小さい子どもを放って置いたら、手が汚れても洗わないでしょう。子どもにとって手が汚れていても、あまり気になりません。でも、そのうちに親や周りの人が手を拭いてあげますし、もう少し大きくなれば手を洗うことを教えてあげます。子どもの中には大人の真似をして手を洗いだす子もいるかも知れません。

教える側の親や周りの人が異常にきれいずきだったりすると、子どもに手を洗うことを何回も強制したり、きれいな手を保つことを厳しく教えたりします。このような親子のやり取りが続きますと、子どもは教えられた手のきれいさを保つようになります。

きれいずきであること自体あまり問題にはなりません。でも、あまりにも厳しい親や周りのある人に対して、反抗心を抱く子どももいます。この反抗心は厳しい親に対する反発、抵抗、自己主張、怒り等です。これらを行為に現して反抗できる子はいいですけれど、中には親の厳しさに圧倒され、反抗心を意識から圧迫してしまう子どももいるでしょう。

ここで人間心理の面白いところなのですが、圧迫して意識から消えた感情も何らかの形で表現されます。すなわち、圧迫された反抗心もどこかで表現されるのです。例えば、手がきれいであることを要求する親に対して、反抗心は手が汚いことであるかもしれません。

親の言うことに従って子どもは手を洗いますが、それをし終わった瞬間に反抗心が働いて手が汚くなるのです。もちろん実際には、手は汚くありません。子どもの心が働いて手が汚く思えるのです。今度は、手が汚いので親の言い分に従って手を洗います。ちょうど自分の反抗心に対しての罪を洗い落とすかのようです。でも、それが終った瞬間にまた反抗心が出て、手が汚く思えます。このようにして手洗いを繰り返すのです。

強迫行為は不安な時に出やすいです。不安の背後には親を殺そうと思う激怒や親に逆らう反抗心が潜んでいるかもしれません。このような怒りが出始めますと、手を一生懸命洗い、親の言った事をよく聞いているんだ、従っているんだと言い聞かせ、親との接点を保つのです。そうすることによって自らの怒りを再度圧迫し安定感を得ようとします。手は自分の怒りで汚れ、それを洗うことによって安心を感じるわけです。

幸せについて

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今回は、「幸せ」と言うものについて、考えてみましょう。これは解っているようで、解っていないような難しい言葉です。「幸せ」と言っても、いろいろな観点から、見ることが出来ます。宗教的に定義するときもありますし、哲学的に見ることもあります。また、人それぞれ個人的な意味もありましょう。ここでは、心理学的に、幸せについて何が言えるかを、考えてみます。

先ず、幸せとは気持ちであり、感じるものですから、一時的であり、はかないものであります。「幸せ」と言う瞬間があり、瞬く間に過ぎ去ってしまうこともありますし、「幸せ」という気分があり、暫くその気分でいられる時もあります。でも、そのうちに消え去ってしまうものです。

「幸せ」と言う気持ちは、ある欲求がかなえられた時に起きます。例えば、人に受け入られ、認められると幸せに感じます。競争などして勝ったり、物事で成功したりすると幸せに感じます。変わったところで、異性と誰にも言えない秘密を持つほどの信頼関係を経験しますと、幸せに感じます。また、理想化出来る人を見つけた時や、自分の能力をフルに発揮でき、人がそれを認めてくれた時、幸せに感じます。

ある人にとって、何が幸せに至る肝心な欲求であるかは、性格形成中に親との関係で決まり始めます。例えば、母との関係の中で、感情的親密感を味あえた子供は、大人になってからも、大切な人との親密を楽しみます。また、父親が、息子のスポーツの勝利に感動できれば、その子にとって、将来、勝利というものが、他人とは比べられないほど、大きな幸せを感じさせるかもしれません。

でも、幸せを感じるにはもう一つ心理的条件があります。それは、心の健康と、自分の欲求を肯定できる態度です。ちなみに、ノイローゼのある意味は、自分の欲求を満たそうとする時、その反対の気持ちが起こって葛藤を起こし、欲求を表現できない事でもあるのです。自分を満足させようとしますと、罪を感じ、幸せを感じることが出来なくなってしまうのです。すなわち、「幸せ」は、心の健康が土台となって感じられる気持ちなのです。

露出症

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沢山のケースはないと思いますが、たまに露出症と言って、男性が自分のペニスをパブリックで見せてしまう人がいます。大抵は女性一人に対して、勃起したペニスを急に露出し女性を驚かせます。女性がショックを受けながらもその場を去り事件が終ってしまいます。でも、女性の中にはそれを警察に通報し、その結果露出者が逮捕される時もあります。そのようななりゆきで日本人露出者が逮捕され、裁判の結果セラピーを義務づけられて訪れた人がいました。

彼の場合信じられないことをしてしまったのです。真っ昼間に車が多く通る大通りの歩道に立ち、たまたま女性が運転していた車が彼の前で停まった時、この女性に向けてペニスを公開してしまいました。もちろん女性は驚いて車を発車させ去りましたが、その後すぐに警官が現れご用となってしまいました。この件とはまったく別のことで、ある女性が車の多く通る歩道に立っていた時、車がすぐ前にとまったので覗いたら運転手の男性が露出していたと言っていました。つまり、結構にぎやかなところで、ましてや昼間に露出が起こり得ると言うことでしょうか。

露出症とはいったい何なのでしょう。女性やそのような性癖のない男性にとって露出行為は不思議であるかもしれません。露出症を心理的にはどのように説明したらよいのでしょう。

ある仮説は、子どもが母の性器を見た時、自分と同じようにあるべき母のペニスが見つからないのにショックを受けたところから始まると言います。それで自分もペニスをなくなしてしまうのかという不安にかられ、自分のペニスを見ること見せることが、不安を押しのける方法となったと言うことです。ある意味では、母と同一化している男の子が、ペニスをなくすことによって母と同じ女性になってしまうことを恐れ、男性のシンボルであるペニスを見せながら男であることを確信すると言ってもいいでしょう。その上、母の性器を見た時のショックから自分を守るために恐怖の感情が性的興奮に変わります。同時に自分の受けたショックを女性に転移し、女性のショックを見ることによって、男としての威力を経験します。

このような考えで露出行為を何とか説明できるのですが、もう一つ不思議なことがあります。それは、大の大人がなぜ法律を犯してまでも露出をするのかという道徳的な問題です。これを考えるにあたって大切な点は、露出者は自分の満足を考えているが、相手の気持ちは考えていないと言うことです。つまり、自分だけの世界、相手は自分の都合で存在するという状態です。このようなとらえかたは、小さい子どもと似ています。子どもが相手の存在に気が付いて、相手に合わせることができるようになる時は、3才から5才位です。と言うことは、露出者はそれ以前の年齢まで後退してしまったのでしょうか。

そう言えば、この年頃2、3才で子どもは男女の差を理解するようになります。そして、男女の差は男の子の場合、母の性器を見ることが、男女の差を理解する一つの出来事になるのでしょう。子どもの中にはそれがショックになる子がいるかもしれません。露出者はこんなに小さな子どもと同じように考え、相手の女性の気持ちもわからないまま、露出行為に走ってしまうみたいです。

セルフエスティームという言葉を聞いたことがありますか。セルフエスティーム(Self-esteem)とは、自尊心と言う意味です。自尊心とは、自分を尊重する、大事にするということですから、それがあるかないかで、毎日の自分の気持ちが随分違います。ちなみに、うつ病になりますと、セルフエスティームが下がり、自分のことを価値のない人間と思いこみますし、同時に、自分の長所を見つけることができなくなります。

ところで、私たちは人とのお付き合い中で、自分のことを話すのに、いろいろと工夫をします。例えば、こんなことを言ったら、変に思われるだとか、嫌われるから言わないでおこうとか、これを言ったら好かれるだろうとか、実際に自分がそうであってもなくても、自分の発言には工夫をします。もちろん誰でも「変に思われたくない、嫌われたくない」は、共通してあると思いますが、これはある一面でセルフエスティームと関係があるのです。すなわち、私たちは、根本的なところで、セルフエスティームを守るという動機があります。そして、セルフエスティームが、低ければ低いほど、それを守ろうとする動機が強いのです。例えば、セルフエスティームに自信のない人が、一生懸命親切にして、誰かに気にいられたがったり、ちょっとしたことで怒りだし、相手の悪い点を指摘する行為などは、セルフエスティームを守るため、または上げるためのものとしてみてもよいでしょう。先ほど述べたうつ病中に起きるセルフエスティームの低下は、自分のセルフエスティームを守ることができなくなってしまった状態を意味しているのです。

セルフエスティームの守り方は、人それぞれ違いますし、その人の持っているセルフエスティームの程度によっても違います。ある人は、何かに関してプライドを持ちます。また、ある人は、面白い話をして、自分に注目を浴びさせるように頑張ります。そしてある人にとっては、人を避けることが、セルフエスティームを守ることであるかもしれません。

こうして考えてみますと、セルフエスティームの守り方は、その人の性格と深い関係がありそうです。セルフエスティームの守り方が、人格形成に強い影響を与えているであろう言っても言い過ぎではないでしょう。またその逆に、人格とは、その人がいかにセルフエスティームを守るかという予言となるものであるとも考えられます。

自分ってなに?

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自分ってなに?

自分っていったい何って考えたことはありますか。自分というものはいったい何からできているのでしょう。そう聞かれてみて答える一つの方法は、自分の性格を述べることかも知れません。「私は外向的です」「私は恥ずかしがりやです」「私は人を引っ張るのがうまいです」「私は物事に対して消極的です」「私は対人恐怖です」と言うような事柄が出てきます。

これらは自分についての知識ですね。自分がこうであると言うことを知っていると言うことです。では、この自己知識と言うものはどのようにして生まれたのでしょう。

自己知識を得る一つの方法は、他の人が自分について言ってくれるフィードバックだと思います。「あなたは人あたりがいいね」「やさしいですね」「怒りっぽいね」「いつも真面目ですね」「いつも笑顔ですね」「大声で話すね」とか言われます。特に信じられる人から言われますと、「私ってそうなのかな」とか「私ってそう思われるのかな」とか考えて自分についての意見や知識として取り入れます。

それと同時によいことを言われたら、「やっぱりそうか、そうなのか」と思って自信を持てますし、悪いフィードバックを聞いた時には、それに気を付けなければ、などと思い自分を変える努力をしたりします。
自分を知るもう一つの方法は、自分を他人と比べることです。これは日常いろいろな場面で、自分の行動、感じ方、考え方、そして能力などを、他の人と比較し、その結果自分はこうだとか、ああだとかして自己知識になっていきます。

例えば、走るのが好きで、健康のためにと思い毎日走っていたとします。ある日、他の人と一緒に走る機会ができました。その結果、自分がずいぶん速くて耐久力があるのに気が付いた、とか言うことです。
こうして考えて見ますと、自分についての知識はずいぶん他の人との関係で生まれてくることに気が付きます。他の人に自分がどうであるかを教えてもらったり、自分を他の人と比較して自分のことを知るわけです。

それでは自分と言うものは他の人無しでは存在しないのでしょうか。仮に、おおかみ少年のように、ジャングルに住み、人と一切会わずに動物と自然を相手に生きたとしたら、どんな自分ができるのでしょう。想像するところ、私たちが住んでいる社会で人間として大切なさまざまな特徴はないでしょうし、自らそれがあるかないかも解らないでしょう。

でも、自分っていうものが、たとえそれが何であれ、存在するのでしょうか。私は「自分っていうものは、実際には本質はなく、独立して存在しない」と思います。自分と言うものは、相手があってはじめて生まれるもので、相手に何らかの主観があることを理解した上で、同時に自分の主観に気が付くのであると思います。

余談になるかもしれませんが、私たちに4、5、才以前の記憶がないのは、ひょっとしたらそれ以前、私たちは存在しなかったのかもしれません。つまり、私たちの母親の主観の存在に気が付いてなく、よって自分も存在しなかったのかも知れません。生後4年位経って、母の主観を知り、相手に気付いて自分の存在が生まれる。そうであれば、もちろん自分の人生は、すなわち自分というものの歴史は4、5才でなければ始まらないと言うことになります。

幸せについて

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今回は、「幸せ」と言うものについて、考えてみましょう。これは解っているようで、解っていないような難しい言葉です。「幸せ」と言っても、いろいろな観点から、見ることが出来ます。宗教的に定義するときもありますし、哲学的に見ることもあります。また、人それぞれ個人的な意味もありましょう。ここでは、心理学的に、幸せについて何が言えるかを、考えてみます。

先ず、幸せとは気持ちであり、感じるものですから、一時的であり、はかないものであります。「幸せ」と言う瞬間があり、瞬く間に過ぎ去ってしまうこともありますし、「幸せ」という気分があり、暫くその気分でいられる時もあります。でも、そのうちに消え去ってしまうものです。

「幸せ」と言う気持ちは、ある欲求がかなえられた時に起きます。例えば、人に受け入られ、認められると幸せに感じます。競争などして勝ったり、物事で成功したりすると幸せに感じます。変わったところで、異性と誰にも言えない秘密を持つほどの信頼関係を経験しますと、幸せに感じます。また、理想化出来る人を見つけた時や、自分の能力をフルに発揮でき、人がそれを認めてくれた時、幸せに感じます。

ある人にとって、何が幸せに至る肝心な欲求であるかは、性格形成中に親との関係で決まり始めます。例えば、母との関係の中で、感情的親密感を味あえた子供は、大人になってからも、大切な人との親密を楽しみます。また、父親が、息子のスポーツの勝利に感動できれば、その子にとって、将来、勝利というものが、他人とは比べられないほど、大きな幸せを感じさせるかもしれません。

でも、幸せを感じるにはもう一つ心理的条件があります。それは、心の健康と、自分の欲求を肯定できる態度です。ちなみに、ノイローゼのある意味は、自分の欲求を満たそうとする時、その反対の気持ちが起こって葛藤を起こし、欲求を表現できない事でもあるのです。自分を満足させようとしますと、罪を感じ、幸せを感じることが出来なくなってしまうのです。すなわち、「幸せ」は、心の健康が土台となって感じられる気持ちなのです。

露出症

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沢山のケースはないと思いますが、たまに露出症と言って、男性が自分のペニスをパブリックで見せてしまう人がいます。大抵は女性一人に対して、勃起したペニスを急に露出し女性を驚かせます。女性がショックを受けながらもその場を去り事件が終ってしまいます。でも、女性の中にはそれを警察に通報し、その結果露出者が逮捕される時もあります。そのようななりゆきで日本人露出者が逮捕され、裁判の結果セラピーを義務づけられて訪れた人がいました。

彼の場合信じられないことをしてしまったのです。真っ昼間に車が多く通る大通りの歩道に立ち、たまたま女性が運転していた車が彼の前で停まった時、この女性に向けてペニスを公開してしまいました。もちろん女性は驚いて車を発車させ去りましたが、その後すぐに警官が現れご用となってしまいました。この件とはまったく別のことで、ある女性が車の多く通る歩道に立っていた時、車がすぐ前にとまったので覗いたら運転手の男性が露出していたと言っていました。つまり、結構にぎやかなところで、ましてや昼間に露出が起こり得ると言うことでしょうか。

露出症とはいったい何なのでしょう。女性やそのような性癖のない男性にとって露出行為は不思議であるかもしれません。露出症を心理的にはどのように説明したらよいのでしょう。

ある仮説は、子どもが母の性器を見た時、自分と同じようにあるべき母のペニスが見つからないのにショックを受けたところから始まると言います。それで自分もペニスをなくなしてしまうのかという不安にかられ、自分のペニスを見ること見せることが、不安を押しのける方法となったと言うことです。ある意味では、母と同一化している男の子が、ペニスをなくすことによって母と同じ女性になってしまうことを恐れ、男性のシンボルであるペニスを見せながら男であることを確信すると言ってもいいでしょう。その上、母の性器を見た時のショックから自分を守るために恐怖の感情が性的興奮に変わります。同時に自分の受けたショックを女性に転移し、女性のショックを見ることによって、男としての威力を経験します。

このような考えで露出行為を何とか説明できるのですが、もう一つ不思議なことがあります。それは、大の大人がなぜ法律を犯してまでも露出をするのかという道徳的な問題です。これを考えるにあたって大切な点は、露出者は自分の満足を考えているが、相手の気持ちは考えていないと言うことです。つまり、自分だけの世界、相手は自分の都合で存在するという状態です。このようなとらえかたは、小さい子どもと似ています。子どもが相手の存在に気が付いて、相手に合わせることができるようになる時は、3才から5才位です。と言うことは、露出者はそれ以前の年齢まで後退してしまったのでしょうか。

そう言えば、この年頃2、3才で子どもは男女の差を理解するようになります。そして、男女の差は男の子の場合、母の性器を見ることが、男女の差を理解する一つの出来事になるのでしょう。子どもの中にはそれがショックになる子がいるかもしれません。露出者はこんなに小さな子どもと同じように考え、相手の女性の気持ちもわからないまま、露出行為に走ってしまうみたいです。

セルフエスティームという言葉を聞いたことがありますか。セルフエスティーム(Self-esteem)とは、自尊心と言う意味です。自尊心とは、自分を尊重する、大事にするということですから、それがあるかないかで、毎日の自分の気持ちが随分違います。ちなみに、うつ病になりますと、セルフエスティームが下がり、自分のことを価値のない人間と思いこみますし、同時に、自分の長所を見つけることができなくなります。

ところで、私たちは人とのお付き合い中で、自分のことを話すのに、いろいろと工夫をします。例えば、こんなことを言ったら、変に思われるだとか、嫌われるから言わないでおこうとか、これを言ったら好かれるだろうとか、実際に自分がそうであってもなくても、自分の発言には工夫をします。もちろん誰でも「変に思われたくない、嫌われたくない」は、共通してあると思いますが、これはある一面でセルフエスティームと関係があるのです。すなわち、私たちは、根本的なところで、セルフエスティームを守るという動機があります。そして、セルフエスティームが、低ければ低いほど、それを守ろうとする動機が強いのです。例えば、セルフエスティームに自信のない人が、一生懸命親切にして、誰かに気にいられたがったり、ちょっとしたことで怒りだし、相手の悪い点を指摘する行為などは、セルフエスティームを守るため、または上げるためのものとしてみてもよいでしょう。先ほど述べたうつ病中に起きるセルフエスティームの低下は、自分のセルフエスティームを守ることができなくなってしまった状態を意味しているのです。

セルフエスティームの守り方は、人それぞれ違いますし、その人の持っているセルフエスティームの程度によっても違います。ある人は、何かに関してプライドを持ちます。また、ある人は、面白い話をして、自分に注目を浴びさせるように頑張ります。そしてある人にとっては、人を避けることが、セルフエスティームを守ることであるかもしれません。

こうして考えてみますと、セルフエスティームの守り方は、その人の性格と深い関係がありそうです。セルフエスティームの守り方が、人格形成に強い影響を与えているであろう言っても言い過ぎではないでしょう。またその逆に、人格とは、その人がいかにセルフエスティームを守るかという予言となるものであるとも考えられます。

自分ってなに?

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自分っていったい何って考えたことはありますか。自分というものはいったい何からできているのでしょう。そう聞かれてみて答える一つの方法は、自分の性格を述べることかも知れません。「私は外向的です」「私は恥ずかしがりやです」「私は人を引っ張るのがうまいです」「私は物事に対して消極的です」「私は対人恐怖です」と言うような事柄が出てきます。

これらは自分についての知識ですね。自分がこうであると言うことを知っていると言うことです。では、この自己知識と言うものはどのようにして生まれたのでしょう。

自己知識を得る一つの方法は、他の人が自分について言ってくれるフィードバックだと思います。「あなたは人あたりがいいね」「やさしいですね」「怒りっぽいね」「いつも真面目ですね」「いつも笑顔ですね」「大声で話すね」とか言われます。特に信じられる人から言われますと、「私ってそうなのかな」とか「私ってそう思われるのかな」とか考えて自分についての意見や知識として取り入れます。

それと同時によいことを言われたら、「やっぱりそうか、そうなのか」と思って自信を持てますし、悪いフィードバックを聞いた時には、それに気を付けなければ、などと思い自分を変える努力をしたりします。
自分を知るもう一つの方法は、自分を他人と比べることです。これは日常いろいろな場面で、自分の行動、感じ方、考え方、そして能力などを、他の人と比較し、その結果自分はこうだとか、ああだとかして自己知識になっていきます。

例えば、走るのが好きで、健康のためにと思い毎日走っていたとします。ある日、他の人と一緒に走る機会ができました。その結果、自分がずいぶん速くて耐久力があるのに気が付いた、とか言うことです。
こうして考えて見ますと、自分についての知識はずいぶん他の人との関係で生まれてくることに気が付きます。他の人に自分がどうであるかを教えてもらったり、自分を他の人と比較して自分のことを知るわけです。
それでは自分と言うものは他の人無しでは存在しないのでしょうか。仮に、おおかみ少年のように、ジャングルに住み、人と一切会わずに動物と自然を相手に生きたとしたら、どんな自分ができるのでしょう。想像するところ、私たちが住んでいる社会で人間として大切なさまざまな特徴はないでしょうし、自らそれがあるかないかも解らないでしょう。

でも、自分っていうものが、たとえそれが何であれ、存在するのでしょうか。私は「自分っていうものは、実際には本質はなく、独立して存在しない」と思います。自分と言うものは、相手があってはじめて生まれるもので、相手に何らかの主観があることを理解した上で、同時に自分の主観に気が付くのであると思います。

余談になるかもしれませんが、私たちに4、5、才以前の記憶がないのは、ひょっとしたらそれ以前、私たちは存在しなかったのかもしれません。つまり、私たちの母親の主観の存在に気が付いてなく、よって自分も存在しなかったのかも知れません。生後4年位経って、母の主観を知り、相手に気付いて自分の存在が生まれる。そうであれば、もちろん自分の人生は、すなわち自分というものの歴史は4、5才でなければ始まらないと言うことになります。

注意欠陥・多動障害というのは幼児期や小児期に見られる注意不足、注意散漫、そして落ち着きのない行動の症状のことを言います。だいたい3パーセントから5パーセント位の子供にこのような症状がみられます。主な行動の例をあげて見ますと、「静かに座って入られない」、「容易に気が散る」、「順番を待てない」、「質問が終わらないうちに答える」、「勉強に注意を集中し続けることが困難」、「1つのことが未完成のまま、次へうつる」、「他人に邪魔をしたり介入したりする」等。一般的に小学校の時にこのような行動が教室で問題となり、診断されています。

子供のいる皆様はこの障害を耳にしたことがあると思いますが、一概に注意欠陥・多動障害と言っても、いろいろな原因から起こり得るもので、個人の原因をよく理解することと、それに合った対応の仕方、治療の選択が必要です。よく見られる原因の一つに、精神的・感情的な問題があります。これは子供がうつ病や、いかり、劣等感などを抱えており、それらの表現や反動が症状として出ている場合です。または、家庭でのルール不足が感情的不安定になり、注意欠陥や多動につながります。これらの場合には、子供個人の精神療法や家族療法が適当です。

もう一つは脳内の部分的な欠陥によって起こるもので、脳機能の刺激不足や、刺激のコントロール不足が原因となっているものがあります。この場合には医師によって処方される刺激剤が適当な対応策です。でも、個人に合った薬で症状のコントロールはできますが、その間に子供が自制することを習う必要があり、精神療法と併用する必要があります。

また、発達障害からくる注意欠陥・多動障害もあります。発達障害というのは、ただ発達が遅れると言うだけでなく、いろいろな機能の不均衡な発達も含まれています。例えば、運動神経がよく発達したのに、知能や感情面が発達しなくて、それによって多動になることです。また、知能の不均衡な発達、すなわち、言語能力が動作能力と比べて劣る時、多動が起こりやすいです。これらの場合、その問題を考慮に入れた精神療法や行動療法のプログラムを作ることが大切です。

注意欠陥・多動の問題があると思われるお子様は、専門家による細かな観察にもとづいた診断をされることをお薦めします。

魅力: 結婚前と後

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「相手の嫌いな部分は、あなたが結婚前、魅力的と思っていたことである。」

これは結婚に関する観察の一つなのですが、具体例をあげて少し考えてみましょう。

A子さんは結婚前彼のきちんとしているところが好きでした。彼はいつも新鮮な服を着ていましたし、デートの時間もきちんと守ってくれました。彼の部屋はよく整理、整頓されており、きれいにしてありました。お金の使い方にも無駄使いなく必要に応じて使い、貯金もある程度はしてありました。A子さん自身はその逆で、自分の周りのものにあまりコントロールがありません。それ故に、彼のきちんとしているところがよく見えたのでしょう。

でも、結婚して暫くすると、好きだった彼の性格に嫌気がさしてきたのです。彼は新鮮な服を着ていましたが、それは、彼女が前日アイロンをかけたものでした。彼は時間厳守なので、彼女が少しでも遅れたりすると、すぐ顔を赤くして怒ります。二人の住む部屋はきれいになっていますが、そうでなければ、彼が文句を言います。彼はけちで、必要なもの以外は彼女に何も買ってくれないのです。

B男さんは、結婚前彼女の優しさに魅力を感じ一緒になりました。彼女はB男さんにいろいろ気を使って、よく面倒をみてくれました。結婚して暫くすると、彼女の面倒みのよいところが迷惑のように思えてきたのです。彼は彼女の細かな干渉に対して頭に来て爆発してしまいました。

結婚以前と結婚後の気持ちの変化は相手と同一化しているかどうかで説明することができます。結婚前は相手に近づこうとしていますから、相手と同一化します。これは、自分が相手の人のようになると言うことです。相手の立場を理解し、相手の気持ちや見方を自分のものとして扱います。ですから、相手である恋人が几帳面であると、それが自分の事でもあるかのように大切になるのです。自分がそうでなくて、自分に無い物を求めるかのように、例えば相手の几帳面さを理想化してしまったりします。

結婚して暫くしますと、相手にそれ以上近づく必要性が減り、同一化した相手の立場より自分の立場の方が大切になります。すると、むとんちゃくになり、相手の几帳面さに比べればおおざっぱなやり方や、いいかげんなやり方がしょうに合います。その代わり、今まで理想化された相手のやり方、あり方が邪魔になってくるわけです。

相手の立場をとるか、自分の立場をとるかはよく私たちが直面する葛藤です。自分の立場を考えながら、相手と同一化していくことは、自己発達上の大きな課題です。これを解決し乗り越えることによって、自己の成長に伴う心の安定を得ることができるのです。

ある男性が仕事をばりばりとする女性と結婚をするのだと張り切っています。結婚すれば収入も多くなるし、彼女は頼り甲斐あるしこれ以上いい相手はいないと言うわけです。あなたはどう思われますか。

その日、ロサンゼルスは珍しく雨だった。オフィスから外を眺めながらの頭に浮かぶイメージは、「帰りの運転が大変だなぁ」と言ういやな感じ。ロサンゼルスのドライバーは雨に慣れていない。雨が降ると交通事故が2倍にも3倍にも増える。雨天では、特に、安全運転をしなければならない。そうこう思っているうちに、ふと、視線を電話に向けると、メッセージを表示する灯りが点滅していた。早速メッセージを聞いてみると、どうやらアメリカ人の男性らしく、英語で話していた。

SP:「サイモンと言いますが、夕べ、私の友達である日本人女性が、自殺未遂をしました。今は、病院から出てきて家にいますが、かなり落ち込んでいて大変心配です。彼女は、日本語を話すセラピストが必要と思うんですが、とりあえず至急こちらまで連絡してください。」と入っていて、自分の電話番号が残されていた。私は、次の患者の予約まで数分あったので、電話を返してみた。

SP:「先生、彼女はかなり落ち込んでいて、専門家が必要だと思います。放っておくと危険かもしれない。私がセラピストへ行くようにと進めているんですよ。」

私:「いったい彼女に何が起こったのですか。」

SP:「彼女の旦那と上手く入っていないんですよ。彼女は離婚しようとしているんです。昨日は、随分過酷なことを彼に言われたようで。」

私:「そう。では、とりあえず、彼女に電話するように言ってください。予約を直ぐ出しますから。」

2、3時間後、彼女、STから電話があった。その様子では、かなり落ち込んではいたものの、自殺の危険は通り過ぎたようであった。2日後に予約を取って、来て貰うことにした。

STは、アメリカに駐在員の妻として来て、10年ほど暮らしていた。9歳と6歳の女の子がいた。何れもアメリカで生まれ育った子である。結婚する前、日本で、STは働きながら、今の亭主と付き合っていた。別に、深いつき合いではなかったのだが、彼のアメリカ赴任が決まって、結婚の話しが出始め、短期間で結婚が決まってしまった。彼女は、自らアメリカで一度、暮らしてみたいという気持ちがあったので、彼との結婚が、よいチャンスとも思ったのである。

ロサンゼルス近辺に住み着き、二人の生活が始まった。最初の頃は、思ったより大変であった。引っ越しから始まって、家の整理、そして、少ないながらも、他の駐在員の奥さんとのつき合い、また、ロサンゼルスに住むには必ず必要な、運転免許の取得。慣れない所で、これらをこなしていくのは、大変なストレスであった。ようやく落ち着いたと思ったら、夫は仕事ずくめで、夫婦生活などは、殆どない状態になっていた。友達がまだ少なく、出かけることもあまりできないし、夫は夜が遅く、彼女の独りぼっちの気持ちなどに、耳を傾ける時間もない。STは、楽しみにしていたアメリカ生活とは、全く違う自分の現実を目の前にして、落ち込んだ。

間もなくして妊娠し、最初の子供を産んだ。夫は相変わらず仕事ばかりで、子育てには無関心であった。STは、子供と二人だけの寂しい生活を耐えると同時に、夫に対する期待を、少しずつ減らしていかざるをえなかった。

夫は大変頑固で融通がきかないと、彼女は感じていた。自分の思うとおりにしないと、気が済まず、STの気持ちなどは余り理解をしようとしないように思えた。STは、夫の冷淡さに落胆し、自分の趣味や興味などを、分かち合う気にはなれなくなった。自分の気持ちをただ心の中に秘め、彼からの距離がますます増えていった。離婚をしようと思って、弁護士を訪ねたことも2、3回あったが、子供もいることでもあるし、難しいと思って我慢をし続けた。でもついに、その我慢にも疲れ果てて、夫に離婚の話しを持ちかけたところ、彼は、子供は渡さないし、慰謝料も一銭も払わないと怒った。その上、将来の仕事も妨害して、働けないようにしてやるとおどした。STは、将来の道を皆閉ざされたように思い、希望を失って、手首を切ったのであった。

セラピーが始まって、感情的なサポートをするだけで、自殺行為の再発は止めることができた。STは、セションに来る度に、夫の、彼女に対する過酷な扱いを、延々と語るのであった。自分は被害者で、夫は冷酷な加害者。彼女の辛い結婚生活を語る姿は、私の目の前で、今現在むちに叩かれているかのように、苦痛を訴えてきた。彼女は何年もの結婚生活の辛い気持ちを、次々に吐き出していった。そうこうしているうちに落ち込みは次第に軽くなり、STは、元気と前向きな態度を取り戻してきた。離婚の手続きには至ってはいないものの、次第にその決心は固くなっていった。そして、セラピーが始まって半年ほどたったときである。

ST:「子供は夫の所にいたので、週末は一人で過ごしたんです。」

私:「そう、何をしましたか。」

ST:「別にこれってしたことはないんですけれど、夜になって、大変寂しくなったんです。先生に電話でもしようかと思いました。誰か、私の気持ちを解ってくれる人が欲しくて。こんなこと言ったら、先生困りますか。」

私:(転移が起こりつつある、、、その動きを見守っていかなければならない。)「あなたが、そう言う気持ちがしたからと言って、困りはしないけれど、そう言うときに電話をかけてもらっても、あなたの必要に応じて答えられないかもしれない。それよりここに来て、話してもらった方がいい。」


セラピストはセション以外では、セラピーは出来ないし、セション外で個人的に付き合うわけにはいかない。もし、セション外でクライエントと付き合うと、セラピスト自身がクライエントの生活に入り込んでしまうので、客観性を失い転移を分析することが出来ない。それどころか、クライエントと一緒に転移を演じてしまい、気が付かないうちに、その人の問題を、繰り返してしまうのである。セション内でクライエントの転移を観察し、それをその人に解るように伝えてやって、クライエントが転移に操られないようになるのである。

ST:「そうですか。話しは変わるんですけれど、友達づたいで医者の受付の仕事を見つけたんです。この間の週末、書類整理の必要があると言って、呼ばれたんです。朝、行って働き、お昼近くになったときに先生が、昼食に行かないかと私を誘いました。私が振り向いたら、直ぐ私の後ろに立っていて、私を抱きしめキスをしようとしました。私驚いて、彼から離れ、イヤだと言ったんです。彼も、ちょっと魔がさしたと言って、謝りました。私、すきでもあるんですか。」

私:「やー、そうは思わないけれど、彼もあなたが離婚中だっていうのを知っているでしょう。」

ST:「そう言うわけで、仕事を探しているとは言いましたけれど。」

ここでの可能性は、STの私に対する性的転移が、まだ訳されていず、彼女が職場で、転移を演じてしまったということである。転移は訳されて、クライエントが意識するようになれば、セション外で演じることは少ない。転移がセション内で訳されない場合は、そこで転移が演じられるし、また、セション外でも演じられることがある。

:「あっそう。この事件は意味が深いかもしれないねぇ。ひょっとしたら、転移が起こっているかもしれない。」

ST:「いったいなんですか。」

私:「転移とは、あなたの過去の大切な人間関係が、今ここで再現されると言うことだ。そして、その中には、過去のあなたの欲求まで含まれているんだ。この場合、あなたとあなたの父との人間関係の側面が、私と再現されているみたいだ。その上、私に対する気持ち、すなわちあなたの父に対する気持ちが、職場まで移動してしまって、無意識のうちに医師の先生と演じられてしまった、と言うことだ。どう、私に電話をかけようとしたのは、いつのこと?」

ST:「確か金曜日の夜です。」

私:「そして、働きに言ったのは土曜日だっていうわけか。あなたの寂しい気持ちが、土曜日オフィスでどうにか現れたのではないかな。」

ST:「知らないうちに先生がそれを感じていて、彼が私に迫ってきたと言うことですか。」

私:「どう、何となく解りそう?」

ST:「はい、解ると思います。では、あの先生との仕事、どうすればよいのですか。」

私:「まだ、止めたくないでしょう。何もなかったように、仕事を続ければいいんじゃないかな。向こうだって悪く思っているだろうし、もう繰り返しはしないだろうから。そのまま、大人として付き合っていけばいいと思うよ。」

ST:「先生、この後、何か予定はあるんですか。」

私:「と、言うと?」

ST:「ちょっとワインでも飲みには行けないかと思って。」

私:「それは出来ないんだ。あなたがどんな気持ちを私に対して持っていても、又は、あなたの欲求を言ってくれても、私はそれを理解しようとする。そして、それをあなたに教えてあげる。それが私の役割なんだ。でも、それを二人でセションの外で演じてしまっては、セラピーがそこで終わってしまう。あなたにとって一番よいことは、私がセラピストとしてあなたの分析を続けることだと思うよ。もし、二人で外で楽しんでしまったら、あなたの転移を分析できなくなってしまい、その上、あなたの過去の問題、すなわち転移を繰り返してしまうことになる。それは最終的に、あなたのためにはならないと思うよ。」

ST:「でも、先生は私のことを本気で思ってくれているんですか。」

私:「一生懸命あなたを助けることが、あなたのことを思っている、と思うけれど。」

ST:「でも、私が本当に必要としていることは、先生が私を抱いてくれたり、外で時間を過ごしてくれることだと思いますが。そうしたら、私ももっと自信が持てるし、心も落ち着いて、精神的によくなると思います。」

私:「私がそうしたら、あなたは一時的に、よい気分になるかもしれない。でも、その後が大変だ。」

ST:「どういうことですか。」

私:「これは私の予言だけれど、あなたは一時的には満足するかもしれないが、そこで終わらないと思うんだ。私の時間をもっと必要になる。勿論、私にも限度があるから、断らなければならなくなる。そうすると、あなたはフラストを感じ、私に対して怒るようになる。」

ST:「そんなことないと思います。先生を本当に好きだと思うから。」

私:「ところが、あなたは私を本当は好きではないんですよ。これは、過去から転移された気持ちなんだ。そしてその転移は悪性のものもある。すなわち、あなたの父に対する怒りも、現在に再現されるんだ。現に、あなたの夫に対する気持ちは、父に対する怒りの再現であると言ってもいい。それを演じることによって、夫が悪者に見える。そしてそれは私にも転移されるものなのだ。それが起こったとき、セション内では客観的に観察ができ、あなたのために訳してやることが出来る。でも、セションの外では無理だ。遅かれ早かれあなたは、私をあなたの夫のように、悪者として見始めるだろう。その様にして、過去の父との悪い関係を繰り返してしまうのだ。それを止めるには、私がセション内で、転移を訳すしかない。解るかなぁ。」

ST:「では、私の先生に対する欲求は、満たされないんですねぇ。」

私:「満たされる欲求もあるし、満たされない欲求もある。どちらにしても、その欲求がいったい何であるか理解することは大切だよ。私に対して欲求がでてきたのは転移であり、その欲求が私と直接関係ないことを解ることは、大切なことなんだよ。あなたはセション内で、何でも思うことを言っていい。でも、それをセション外で私と実行することは出来ないのだ。」

STは完全に転移の意味が分からなくて、大分がっかりしてセションを去った。転移は、セラピストには直ぐ解っても、クライエントには簡単に理解できない。であるから、転移が続く間、その訳を何度も何度も機会を得て伝えなければならない。STも、このセションだけで私に対する要求を止めたわけではない。その後、2、3セション似たような内容が繰り返された。つまり、彼女の寂しさを満たすために、セション内又はセション外で、私が何かをしてやることを願ったのである。でも、私はそれをそのまま受け入れることはせず、ただ、彼女の欲求がどういうものであるか、理解と説明を続けた。そのうちに、彼女からの要求は止まり、また自分のことを話し出したのである。

3ヶ月ほど過ぎた。相変わらず夫に対する怒りと苦情は多く、その様な話を聞くだけで終わってしまうセションも少なくなかった。特に変わったことと言えば、STが働いているビル内で、男友達を作り、つきあい始めていたことである。

私:「どんな感じの人?」

ST:「そうですねぇ、彼は随分マイペースな人です。自分のことをよく解っていて、余り他人に左右されそうもない人。静かで、何を考えているのかよく解らない人です。でも、何か寂しそうなところがあって、面倒を見たくなってしまうんです。お料理をしてやったり、買い物をしてやったり、、、」

私:「へぇ。あなたは彼に対してどのような欲求があるの。」

ST:「別に何もしてもらわなくれもいいんです。彼の側にいて、いろいろしてやって、彼が幸せなら、私も満足なのです。」

私:「でも、自分の欲求だってあるでしょう。前に、私に対して欲求を向けていたことだってある。」

ST:「今度は、彼に対して何も要求をしてないんです。彼と一緒にいて、彼のためにいろいろしてあげるのが欲求なんです。」

私:「と言うことは、あなたは自分の寂しさを、彼の中に見ているのかもしれない。彼にいろいろしてあげるのは、実は自分にしてやっているようなものかもしれない。つまり、自分を彼の中に見て、その自分にいろいろしてあげて、満足をしているというわけだ。」

ST:「この人は、今日本に帰国しようかどうか、考えているんです。アメリカでも余り面白くは行ってないそうで、日本の親の面倒も見たいとも言っています。」

私:「もし、日本に帰ったらあなたはどうするの。一緒に行こうとでも思っているのかなぁ。」

ST:「いいえ、私はついては行けませんし、行きたくもありません。この人はいつ私を去ってもいいんです。私といたいだけいて、行きたかったらいつでも行っていいんです。彼の自由なんです。それを承知で愛しているんですから。」

私:「へぇー、随分寂しいような、さっぱりしているようなことを言うねぇ。」

STの態度は、大分変わってきていた。約3ヶ月前の私に対する転移の状態とは随分変わっている。あのときは、自分の欲求が強くて、それを満たすのが先立っていた。相手の気持ちより自分の気持ちを優先していたのである。あのとき私は、彼女にとって単なる手段であった。それは所有的な愛情で、小さな子供が親に対して求める人間関係である。でも、今回のは、所有的なところがない。彼と一緒にいることを楽しみ、彼を通して自分の欲求を満たし、彼がいつか去るかもしれないことを十分受け入れた態度をしている。

私:「なんだか急に大人になったみたいだね。数ヶ月前まで、私にこうしてくれ、ああしてくれとねだっていたのに、今は随分相手の自由を尊敬しているみたいだ。」

ST:「何を要求しても、だめなときはだめですからね。相手がしたければ、してくれます。私がどうこう言っても重荷になるだけです。それより、彼を自由に愛して、それを楽しんだ方がいいと思います。彼が私を愛返してくれるんだったら、それは嬉しいですけれど、必ずしもそうなるとは思いません。」

私:「あっそう。これは、前にあなたが私に対して欲求をぶつけたけれど、その時、私がそれを受け入れなかったことと関係があるのではないかなぁ。つまり、もしあのとき私があなたの欲求を満たしていたら、その時はよしにしても、再び欲求が戻ってきたと思うんだ。でも、私はそうしなくて、あなたもそれが理解できたようだった。そして次第に、私に対する欲求を止めていった。今度、ボーイフレンドが出来たわけだけれど、彼に対して、欲求を余りぶつけてない。彼にどうしてこうしてと頼んでいないわけだ。彼という人物を尊敬し、彼の気持ちを解った上で愛している。彼を束縛することもない。これは、彼に対して転移を起こさずに、彼そのままの人物を現実的に見て、人間関係を作りつつあるということだ。これはいいことだと思うよ。一つ成長したみたい。」

ST:「そうなんですか。そう言ってくれると嬉しいですけれど。確かに以前人を好きになったのと感じ方が違うと思います。自分の欲求もまだありますが、それを単に人に頼って満たそうとはする気がありません。たまたまそう言う人がいてくれれば、嬉しいとは思いますが、それなら運がよいと思います。」

私:「まあ、そう言うことかな。でも、そういう人間関係から始まって、それが長く続き、信頼関係が生まれてくれば、自分の欲求をかなえられることもある。それが結婚生活であろうが、男女交際であろうがだ。」

ST:「どういうことですか。」

私:「人間関係ができあがるときは、現実的な要素が必要だ。その関係が、ファンタジーであってはだめだというわけだ。自分も相手も現実的に見て、その上で、信頼のある関係を作らなければならない。でも、それがある程度まで出来たら、お互いに転移たる過去から流れ込んだ欲求をかなえることも出来るはずだ。ある欲求を転移であると認め、相手の許しを得た上で、その欲求をアクトアウト(実行)できるということだ。相手はその時、承知の上で、欲求を満たしてあげているというわけだ。ちょうど相手が、あなたの父を演じることを承諾して、あなたの欲求を満たすために、何かをしてあげてやるみたいだ。勿論、その代わり、あなたも相手のために何かをしてあげるだろう。例えば、彼のために、彼のお母さんのように振る舞い、彼の甘えん坊を満たしてやることだ。」

ST:「面白いですね。上手くできたら楽しいでしょうね。」

私:「そのためには、自分の欲求がいったい何であるか、よく解っていなければならない。意識して転移を実現させるのだから、その転移がいったい何であるか解っていなければならないと言うことだ。前に、あなたが私に対して転移を向けたとき、私はそれを満たさなかったけれど、あなたに説明をしたでしょう。そうすることによって、あなた自身の転移について理解が増え、それをコントロールするだけでなく、適当な人間関係の中では、演じて満たせることが可能になるからだ。」

ST:「そう言うことだったのですか。今思ってみると、先生が私と出かけてワインを飲まなかったことが、大切なことなのですね。」

この男性とのつき合いは、その後半年ほど続いた。それから彼は日本に帰った。STは、悲しみをこらえて、彼を空港まで送っていき、別れを告げたのである。

私:「これからも連絡をしあうんでしょう。」

ST:「いいえ、これでおしまいなんです。一応彼の連絡先はありますけれど、コンタクトを取ろうとは思いません。」

私:「やー、随分厳しいんだね。ちょっと自分にきついんじゃないかな。」

ST:「いいえ、最初からこういうつもりでしたから。」

私:「でも、相手の自由を尊敬するからって、彼が何かを言ってくるまで何もしないってことはないんだよ。確かに、今までの人間関係は終わった。でも、二人の人間関係が完全に終わったわけではない。これからも何かの形で、また違った形で続いてもいいんだ。そして、将来何かのきっかけで、深い関係が再発するかもしれない。それを期待していてはいけないけれど、その可能性を完全に省いてしまうのもおかしい。そう思わない。」

ST:「そうかもしれません。少し気が楽になりました。気が向いたら、クリスマスカードでも送ってみます。」

STはその後暫く落ち込んだ。やはり別れは辛かったようである。でも、別れを積極的に受け入れたせいか、立ち直りも早かった。暫くして、彼が日本でどうしているか、彼女に聞いたことがあるが、コンタクトはお互いになかったようである。

彼女と夫との離婚は成立した。セラピーが始まった頃の彼女は、自分に自信がなく、依存性も高くて、夫の代わりに誰か頼れる人を捜していたようであった。セラピー中、いろいろな人と出会い、恋愛もした。セラピーが終わる頃までには、一人の立派な女性として独立し、新しい職について、せっせと働いていた。ただ寂しいという気持ちだけで、男性との関係を探す気配は、全くと言ってよいほど見えなくなっていた。その様にして、2年ほど続いたセラピーが終わったのである。
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7-Year Itch

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アメリカでは "7-Year Itch" と言って、結婚してから7年ほどすると、結婚生活が浮気などによって脅かされることを強調します。実際に結婚関係の研究を見ますと、離婚をしてしまうカップルの半分は最初の7年間に起こっています。残りの半分はその後起こるわけですが、7年後は離婚率が減ります。そして、結婚16年から20年の間に離婚が急増するのです。

まあ、16-20年と言いますと、子供も大きくなり、カップルの間に愛情がないときには結婚生活に意味がなくなってしまうのでしょう。ちなみに、結婚7年間のうちに離婚してしまうカップルの特長としては、二人が喧嘩をしたときに、ネガティブな感情、すなわち、激しい怒りや相手を強く批判することなどがあげられます。

最近のデータでは、結婚してから40年間のうちに離婚してしまうカップルは67%にもなると言うことです。ということは、3組中2組は離婚をしてしまうと言うことです。これはアメリカでの統計ですけれど、この傾向は日本を含めた先進国では皆見られます。もはや、離婚は当たり前となったわけです。産業化後の先進国では、女性が独立するのが比較的簡単になったのが、一つの大きな原因です。

少数の継続する結婚とはいったいどういうものなのでしょうか。その特徴の一つに、「ポジティブな感情に包まれている」と言うことがあります。すなわち、親切、考慮、励まし、好感、感謝と言ったような言動が多いと言うことだと思います。たとえ、口論になっても、相手をののしったりすることはしないでしょし、喧嘩の後は修繕といって、早めにもとの人間関係に戻そうとすることだと思います。

妄想の分析

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ある女性が落ち込みと情緒不安定があると言うことでセラピーを始めました。話によると、彼女の通っているコンピューター教室で皆が彼女のことを悪く言っていると言うのです。特に、コンピューターの先生が彼女のことをいじわるしていて、教室に行くのが大変であるといいます。

続けて話を聞いていますと、彼女は夫の職場にいるある女性に対して大変嫉妬をしているのが解りました。彼女曰く、職場の女性は夫を好きで、彼女に対して冷たい扱いをしていると言うのです。

これらは真実味のある話で、ありうる話として私は聞いていました。ある日、ひょっとしたことから、彼女とコンピューターの先生は以前仲がよかったと言う様子をつかむことができました。彼女の夫の職場の女性に対する嫉妬の話もありましたので、ひょっとしたら、コンピューターの先生のいじわるは、他の学生との競争と言う意味を含めた嫉妬ではないかと私は考えたのでした。

「あなたは、コンピューターの先生が好きだけれどもそれを伝えられないんじゃないの。」すると彼女は興味深い表情を見せて、「どうしたらよいと思いますか。」と返答するのです。私もまったくは外れていないと思い、彼女の過去の話などを興味深く聞きました。

彼女には2歳下の妹がいました。その妹を父が大変可愛がっていたのです。父親は彼女に対しては興味を見せませんでした。無視された状態が多かった彼女は、妹がどこかに消え失せてしまったらよいと思っていたのです。

ここまで知るとだんだんパターンがでてきました。夫の職場の女性に対する嫉妬は、実は妹に向けられていた怒りと嫉妬だったのです。そして、彼女を無視した父に対する欲求が今は夫に向けられていたのです。

「あなたの旦那さんとの関係はどうですか。」「彼は忙しくて、最近はあまり一緒にすごさないです。」職場の女性に対する嫉妬は、実は夫についての心配ではないかと彼女に伝えてみました。それに付け加えて、父に対する過去の気持ちが現在夫を通して再現されているのではないかと、彼女に問ってみたのです。

後に、コンピューターの先生に結婚内での不満の解消を求めたものの、結果としてうまくいかず、その理由を教室内での他の女性達のせいであると考えたのも、妹に対する怒りの転移であることを伝えることができました。

妄想の分析は非常に難しいです。なぜなら、セラピストが妄想について疑問を投げかけたり、現実で持って直面をしようとすると、セラピスト自身が妄想の対象になってしまうからです。セラピストに疑いを持ちだし、結果としてセラピストも妄想の中の一員と化してしまうからです。

この女性はその点ちょっと違っていました。妄想についての話を、違った現実の観点からみることができたのです。自分を妄想の外に置くことができ、セラピストの考えを、ひょっとしたら、と言う観点から、自分を見つめるために使うことができました。ある時点で、自分の妄想を妄想と言えるようになったのです。それは自分を客観視できる証拠なのです。

もう一つ、この妄想の分析で大切な面がありました。先にも触れましたように、セラピストは妄想の中に入れられて、疑問の世界の一員になってしまいがちです。この女性も、私を「無視し得る父」と見たとしても不思議ではありません。でも、それは起こりませんでした。変わりに、私を逆の「よく見ていてくれる父」と見たのです。それは、彼女の過去では妹を見ていた父でした。そのような父のイメージを私に描き保つことができたのです。彼女に得られなかったものがある意味で得られました。そのために、妄想が必要でなくなったのかもしれません。

母親が泣いている子供を抱き上げて、「よし、よし。」と言ってなだめます。また、興奮している子供に絵本を見せて、気を引かせ、落ち着かせたりします。このようなことが、子供に感情の調整を教えていることに、お気づきですか。

子供は、最初は、感情の調整の仕方を知りませんから、親がそれをしてくれるのに頼ります。でも、少しずつ自分でも習い始め、悲しい時には、毛布にしがみついたり、怖い場面を避けたり、いじめっ子には近づかないようにしたりして、自分の感情を、調整するようになるのです。

感情の調整がよくできない子は、何かあると異常にフラストになったり、怒ったりします。また、不安になると引っ込んでしまったり、新しいおもちゃなどがあると異常に興奮したりもします。このような子供は、回りの友達、幼稚園や学校の先生、そして親自身とやり取りがうまくいかず、色々な行動や学習問題に発展していきます。

一方感情の調整がよくできる子は、注意力があり、衝動に流されず、行動を制御することが出来ます。その結果は、子供達の間の人気にもつながりますし、状況に適当な行動、学校での社会性、そして同情などにもつながっていきます。正しい親業をすることによって、子供が感情の調整を出来るようになるのは、間違いありません。それでは、どのようなことが、役に立つのでしょう。

子供が一歳半位になるまでは、子供が苦痛を覚えているとき、抱いたり、話しかけたり、注意を問題から引いたりして、なだめるようにします。子供が感情の調整を出来ない時期は、親がシールドとなって、子供を保護するわけです。2歳くらいになったら、子供を、少しくらいのストレスとなるような、なれていない場面や、新奇な刺激にさらします。でも母親は、子供の感情が高ぶりすぎたときのことを考えて、安全なところへ戻れるように、近くに待機します。子供が自分で感情を調整することを、習わせるのです。

また、悲しみや恐怖などのネガティブな感情の表現を、親が子供に対して押さえますと、社会性がのびないということもあります。逆に、親が感情の表現をすすんでし、気持ちの話を出来ますと、子供も感情の理解が出来、同情することや、協調することができるようになります。

二つの世界

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私たちは二つの世界に存在すると見ることができます。一つは他の人達と共有できる世界。もう一つは自分だけの世界です。私たちが誰かと話をしている時には、お互いに共通した世界にいると感じます。木が緑と言えば、相手はそれを解っていると思えますし、明日の5時と言えば、お互いにいつのことか解った気がするものです。この世界は、自分と相手とで、分かち合える世界で、これがないと毎日大変なことになってしまいます。

もう一つ、自分だけの世界があります。自分では経験する世界ですが、誰にもそれを言ったりすることがありません。起こった事、考え、感情、行動、イメージ等いろいろありますが、自分だけが知っていることです。その一部を誰かに伝えようとすれば、できないことではありません。誰かが聞いてくれたり、解ってくれたりしたら、その人と共有することが可能になるかもしれない世界でもあります。

他の人と共有する世界は勝手に変えることができません。赤信号で止まらなければならないのを、青信号で止まることに自分で決めたら、大変なことになってしまうでしょう。でも、自分の世界は、もっと融通がききます。寝る前におまじないとして寝床の回りを3周することにある日決めても、また、それをある日5周することにしても、他の人にとってはどうこうありません。

自分の世界の融通性は、徳でもありますし、悪でもあります。自由な世界ですので勝手にものを考えることができます。そしてそれを皆と分ち合える世界に出した時に、創造の豊かさを理解してもらえる時と、また、逆に、気狂いざたに扱われることもあるでしょう。自分で大切と思っていたものを誰かに伝えようとして、その結果、気狂い扱いされたり、無視されたり、怒られたりしたら、それを自分の中に永遠に秘めてしまうかもしれません。そしてそれは他の人が触れることのない未知の世界となってしまうでしょう。

このような他の人に受け入れられない世界は、自分でも受け入れられない世界に化していくかもしれません。そしてその世界の量が増えれば増えるほど、自分の存在が否定されていくようになります。なぜなら、たとえ自分の世界のある部分が誰かに否定されても、それは自分にとって現実であるからです。自分の現実を否定されるほど辛いこともないでしょう。

秘められた自分の世界。それはたとえ他の人に否定されたとしても、自分にとっては大切な世界です。なぜならそれが自分である証拠であり、それは自分を保つため、守るため、そして自分が粉々に破壊される不安から守ってくれる重要な現実だからです。私たちは自我の破壊を恐れます。自分がバラバラになるのが恐いのです。それは心理的なのもですが、根底には自分の死の恐さがあるのかもしれません。その自我破壊の不安から守るものが、自分特有の内の世界なのです。自分の秘めた世界は、破壊不安を制御するために工夫された組織だったのです。

この意味深々の自分の世界を他の人に解ってもらえたら、自分の存在はますます強化されるでしょう。逆に、それが大半否定されたら、破壊不安を制御することがうまくできず、自我が分裂されるかもしれません。分裂病と言われる状態は、破壊された自我のバラバラな世界が幻聴、幻視、そして妄想として表現されているものだと思われます。

ある男性の秘密

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 ここに書いたものは短期間セラピーの例である。最初の診断から最後のセショ ンまで、4セションしかなかった。それでも、来談者からしてみると、相談に来 た目的を達成して、満足のいくものであった。  さて、長期間にわたって行われるセラピーと、短期間で終わるのとは、どう違 うのであろうか。来談者にどのような差があるのだろうか。セラピストのテクニ ックとしては特別に差が見られるのだろうか。また、セラピストと来談者の人間 関係は、どうのように違うのであろうか。その様な点を頭に入れながら、このケ ースを見てみたいと思う。  電話が鳴った。 私:「もしもし、小林です。」 M.O.:「すごく困ったことがあって、カウンセリングを受けたいんですけれど。」 疲れ果てたような男性の声が言った。 私:「どのようなことですか。」 M.O.:「ストレスがすごくたまっているんです。実は性的なことで相談があるん ですけれど。先生の所でそう言うのはやっていますか。」 私:(性的な問題として、最初から相談を求めるのも珍しい。電話で話すことが 出来るだろうか。)「それについて、少し電話で説明できますか。」

 数多くある電話での問い合わせの中には、私がサイコセラピストとして、何も できない問題を持っている人もいる。電話をかける側としては、サイコセラピス トがいったい何をするか、よく知らない人もいる。診断に来てもらってから分野 が違っているのを知らされるのも、来談者にとっては不便である。そう言う問題 を避けるために、電話でざっと問題のことを知り、予約をしたり、適当でないと きには、他の分野の先生を紹介したりする。このことをトリアージ(Triage)と 言う。

M.O.:「やー、ちょっと難しいですね。」 私:(性的問題としても、肉体的なものから精神的なものまで色々あるから、私 のところへ来て適当かどうかちょっと気がかりである。でも、性的問題を、たと え相手がセラピストといえども、他人に初めから電話で話せないのもよく解る。) 「それでしたら、一度診断の意味で、こちらまでこられたらどうですか。」 M.O.:「はい、そうしたいと思います。なるべく早い予約がいいんですけれど。」 と言うわけで、かなり気の滅入った男性であった。

 第一回目のセションは次のように進んだ。 M.O.:「実は、職場で私のことをゲイだと噂しているんです。皆が変な目で見た り、嫌がらせに私の机の上に合点のいかない広告などを置いたりするんです。す ごく職場にいるのが大変なんです。私を追い出そうとしているのだとも思います。 ストレスがたまって、夜もよく眠れません。誰にも相談できないんです。まさか 妻にこんなこと言えないし、、、そう言うわけで今日ここへ来たんです。」 私:「あぁ、そうですか。それでどうしてこんな風になったんですか。」 M.O.:「事の発端は、5年前私の父が死んだ時、親戚の間で遺産相続のことでも めましてね。皆、汚い欲があって、、、その時私は大変困惑していました。うさ んばらしに、家の近所でゲイの売春を買って、オーラルセックスをしてしまった んです。そんなことをしたことはなかったんですよ。でも、その時は何をしてい るのか解らなかった。とっさに起こってしまったんです。そして運悪く、私がゲ イといるところを、私の妻の友達に見られちゃったんです。それから噂が回って、 職場で私のことを話し始めたんです。妻には自分から告白しました。うわさを聞 いて驚くよりは、私から言われた方がよいでしょう。勿論彼女はびっくりして、 怒りまくりましたよ。」 私:「そんなこと起こるんですねぇ。でも、本当に職場の人達は知っているんで すか。」 M.O.:「直接、私がゲイだなんて言わないですけれど、色々な言い回しをして、 私に言っていると思います。いじめみたいなもんですよ。私の会社での成績は随 分いいんです。トップとして、褒美をもらったこともあるんです。職場の人の中 には、私をねたむ人もいるんですよ。」 私:(でも、まだ確信持てないなぁ。本当にこんなことに関していじめをしてい るのだろうか。ひょっとしたら彼の想像であるかもしれない。)「結婚してから 何年くらいになりますか。」 M.O.:「もう、15年になります。」 私:「子供は?」 M.O.:「3人います。一番上の子が、15歳で、次が10歳、一番下が7歳です。」 私:「その後、結婚問題になったの?」 M.O.:「いえ。その時は彼女も怒っていましたけれど、時間がたつにつれて、い つものように戻りました。本当のことを言うと、一年前にもう一回あったんです。」 私:「と、言うと?」 M.O.:「もう一度ゲイとオーラルセックスをしちゃったんです。でもそれだけで す。私はゲイではないと思います。どう思いますか。妻とはセックスできますし、 結婚前だって女の人と付き合っていました。一年前のことは、ちょっと麻薬の影 響があったかもしれない。」 私:(え、麻薬の問題もあったのか。)「どんな麻薬を使っていたの?」 M.O.:「コカインと、、、スピードです。妻も一緒にやっていました。もう止め たんです。その後、何ヶ月もやっていません。」 私:「どの位の期間やっていたの?」 M.O.:「そうですねぇ、、、ずうっと続けていたわけではないですけれど、合わ せて、3年くらいかなぁ。」 私:「どういう風に止めることが出来た?」 M.O.:「あれはセックスの時にすごくいいんです。一夜に何回も出来るんです。 寝ることなくやります。でもその後、死んだかのように眠るんです。そして、妻 と一緒に寝ていましたから、子供の面倒を見なかったんです。暫くしたら、子供 の体重が減って、不健康に見えました。その時に、すごく罪に感じて、こんなこ とをしていてはいかんと、自分に言い聞かせたんです。」 私:「ああ、そう。まあ、止められてよかったね。」 M.O.:「そう、思います、、、。先生、一年前のゲイの話も、近所の人に見られ たんです。その後、噂が近所に流れて、隣の人も、塀に穴を掘ったりして、嫌が らせをするんです。」 私:「どう言うこと?」 M.O.:「私の家と隣の家の塀に小さなアナを作ったんです。多分、私が何をして いるか探っているんでしょうね。」

 このようにして第一セションが終わったが、後に感じられることは、妄想の雰 囲気がする事である。例えば、職場で皆がM.O.の事をゲイと言いながら話して いることとか、彼を職場から追い出そうとしているとか、隣近所の人が、塀に穴 を開けて彼の方を覗いているかもしれないとかである。このようなことは事実か もしれないが、ひょっとしたら彼の想像にしか過ぎないかもしれない。 その上、 彼はコカインとかスピードを使っていた。これらの麻薬は多量に使うと妄想を抱 かせる。特に被害妄想が多い。そして、これらの麻薬を止めてからも、妄想傾向 が続く、いわば後遺症もある。つまり、彼の被害的思考は、麻薬からの影響であ ると考えてもおかしくない。この考えでいくと、5年前の性的行為は、その後直 ぐ、彼の言う職場での噂に至らなかったかもしれない、と言うことである。むし ろ、その後、麻薬を使い始めてから、妄想に発展し、彼が5年前の性的行為に結 びつけたのである、とも考えられる。また、もし5年前に妄想なり、噂が起こっ ていたのであれば、彼はその時点で、セラピーを受けていたかもしれないのに、 実際には、今になってセラピーを受けている。すなわち、妄想は麻薬を使ってい たとき、又は、その後に起こったと考えられるのである。  もう一つ考えられることは、彼が同性愛行動をするときのタイミングである。 一回目は、彼の父が死んだ時で、彼がストレスを多く感じていたとしても過言で はない。ゲイとのオーラルセックスはこの時に起こったのである。二回目の行為 は、彼が麻薬を使っていたかもしれない時だ。何れにせよ、彼に心理的後退  (Regression)が起こったと仮設できる。この心理的後退の意味は、通常は正常 の性的行為をしている人でも、ストレスを多く受けた時には、精神発達上、正常 性行為以前の性的行為、例えば、思春期時に起こる相互オナニー等をしてしまう と言うことである。この相互オナニーとは、思春期時の青少年が、女性との性的 な付き合いをまだ知らない故に、少年同士でお互いを刺激する行為である。とす ると、M.O.は自ら言うようにゲイではなくて、ストレスの影響から来る同性愛 行為をした、と見ることが出来る。  一つM.O.について言えることがある。それは彼が第一セションから、非常に フランクであることである。彼は自分で気がついている問題を、最初から余り自 己防衛をしないで話してくれた。勿論、他にも問題はあるだろうし、彼が気がつ いていない問題もあるだろう。でも、沢山の情報を最初から提供してくれたので ある。患者の中には、自分で一番問題としている事柄を表現できるまでに、5セ ションを要したり、セラピーで抵抗が起こったときには、10セションも20セ ションも要する人がいる。彼の場合には、自己防衛が少なくて、最初から大きな 一歩を歩んだのである。これが彼のセラピーを短くした一要因であると考えられ る。

 5日後、第二セションを行った。 M.O.:「先生、職場で本当にストレスを感じています。何をしたらいいんですか。 どうにかなりますか。」 私:(彼の職場の人達の嫌がらせ行為について、彼の妄想だと議論したところで、 余り進まないであろう。彼にとっては、今の時点で、嫌がらせ行為は現実に見え るのである。)「皆が、あなたをゲイだと思っていることは、あなたはどうこう できないでしょう。人が何を思っても、あなたがそれを止めることは出来ないし。 あなた自身自分がゲイでないことを確信していれば、そのうちに皆も噂に疲れて、 忘れてしまうのでは。逆に、あなたが向きになって、反応をすれば、ますます皆 はあなたがゲイだと思うんじゃないかな。だから、皆が噂をしているという事を そのまま受け入れて、そして、自分がゲイでないんだという事もそのまま受け入 れて、後は時間に片づけさせるのがいい。」 M.O.:「じゃあ、向こうが何をしても、ほっとくのがいいんですか。」 私:「今のところはそうだろうね。」 M.O.:「先生は、私をゲイだと思いますか。」 私:「2回同性愛行為が起こったからって、あなたがゲイだとは思わない。ゲイ と言うにはある程度の習慣性がなければならない。」 M.O.:「そうでしょう。ああ、よかった。心配はしていたんですよ。」 私:「あなたがゲイかどうかと言うより、あなたがそのことを心配するって言う ことがちょっと気になるね。人は生まれた時は、バイセックス(両性)だと言わ れている。すなわち、異性愛的なところと、同性愛的なところと両方あるんだ。 それが成長するに従って、母や父の影響を受け、はっきりと異性愛的になったり、 同性愛的になったりする。それで、たとえ異性愛的になったとしても、同性愛的 な部分は誰でも持っているし、それがたまに何かのきっかけで表現されたからっ て、おかしくはない。 M.O.:「本当ですか。」 私:「特にあなたの同性愛的行為の状況を見てみると、ストレスや麻薬などの影 響で、心理的後退が起こったとしておかしくないんだ。」 M.O.:「それって、いったいなんですか。」 私:「後退って言って、あなたがもっと若いときの心理状態に戻ること。」 M.O.:「えっ、今思い出したんですけれど、私近所のおじさんに意地悪されたこ とあるんです。」 私:「と言うと?」 M.O.:「確か11歳ころだったと思います。あのおじさんが、面白いことを教え てやるといって、彼自身の性器を私の目の前で出したんです。それで、、、」 私:「それでどうしたの?」 M.O.:「彼がさわれって言ったり、舐めろって言ったりしました。何かよく解り ませんでしたけれど、恐かったような気がします。その後は誰にも言ってはいけ ないって言われたので、誰にも言いませんでした。ここで思い出して言ったのが 初めてです。」 私:「へぇー、でも、それってオーラルセックスをさせられたんでしょう。あな たがゲイの人としたのと同じじゃない。ん、ん、これは意味があるなぁ。すなわ ち、あなたがストレスでオーラルセックスをしたのは、実は、このことの再現だ ったのだ。」 M.O.:「よく解りません。」 私:「いたずらされたことが、あなたの中にトローマとして残っていたから、あ なたがストレスを感じたとき、それが出て来るんだ。つまり、あなたが11歳の 時のそのトローマに後退してしまったんだ。」 M.O.:「へぇー、そんなことがあるんですか。」

 と言うように、意外な展開をして、第二セションは終わった。心理力動的に考 えると、彼の消化しれなかった11歳の時の性的虐待、すなわち、同性愛的行為 は、彼を同じ行動に強いる結果となった。それに対して彼は非常に罪に感じてい るのである。そしてその罪は、彼自身を戒める結果に導く。そして戒めをする彼 の超自我は周りの人に投射されたのである。自分自身が戒めをする代わりに、周 りの人が戒めを始めたのである。職場にいようが、自宅に帰ろうが、誰かが彼の ことを見ていたり、話していたりする。彼がゲイであることを皆が知り、彼を痛 み付けるのである。このように考えると、皆が彼の噂をしていると言うより、彼 が妄想を抱いていると言った方が、正確であるかもしれない。  この妄想説を更に強める観察は、彼自信が、自分がゲイであるかを心配してい ることである。彼自身が自分を疑っている。自分が同性愛行為をしたことは、彼 にとって否定できない事実だ。自分を疑う考えが起こっても不思議でない。でも、 彼は自分がゲイであることは認めたくないのだ。すなわち彼は心の中で葛藤を起 こしている。自分がゲイであるかもしれないと言う疑問と、それを否定する自分 との葛藤である。そして、この葛藤の一部が外界化されたのである。彼がゲイか もしれないという疑問が、仕事場の人達に投射され、その部分とゲイであること を否定する自分と、葛藤してしまったのである。自分の心の葛藤は、今や、対人 関係の中に位置付けられたのだ。  これらのことをどのように彼に伝えるかが、問題である。

第3セション 私:「あなたがゲイでないと私は思うよ。この間も説明したように、あなたの同 性愛行為に習慣性は見られないし、また、その様な行為をした原因も説明できる。 すなわち、あなたのしたことは、心理後退的同性愛と言うわけだ。前に説明した ように、あなたは性的虐待のあった11歳まで戻ってしまったのだ。そして、そ の後退の理由は、父の死んだこと、親戚との遺産相続争い、又は、麻薬による影 響等だ。解るかな。」 M.O.:「言っていることはわかりますよ。私も自分がゲイだとは思いませんし、 先生もそう言うのであれば、信じられます。その問題に関しては、すっきり出来 ます。では、職場での噂はどうしたらいいんですか。それがまだ大変ですよ。」 私:「前にも言ったように、皆がどうこう言うことを、あなたが単独で止めるこ とは難しい。でも、少し私が気になるのは、あなたが言うように、職場の人の中 には、あなたの仕事の成績をねたんでいる人がいるって言うことだ。それが本当 であれば、彼らがあなたを仕事に関して見ているって言うことと、あなたがゲイ だと思ってみていることと、区別がつくのかな。あなたはどうして区別ができる の。彼らの競争心を感じたり、時には意地悪を感じたり、、、たとえあなたのこ とを冗談を言って笑っても、仕事に関する競争心から来るものか、あなたをゲイ として笑っているのか、区別は難しい。彼らもあなたがゲイだから笑うなんて言 い出せない。そんなことしたら、差別と見なされて、彼らが問題となってしまう。 どう思う?」 M.O.:「そうですね。確かにそのとおりなんですがね。」 私:「もう一つ関連することは、あなたがコカインやスピードを使っていたとい うこと。こういう麻薬は、あなたの心の中に妄想を抱かせる。だから、職場で、 皆があなたのことを見てたり話していたりということは、ひょっとしたら妄想で はないかと思わないかな。麻薬の効果だよ。」 M.O.:「やぁ、そうなんですよ。私はやはり妄想的だと思うんですよ。」 私:(彼は現実味がある。自分が妄想的であることを一部解っているようだ。) 「ひょっとして、あなたの麻薬の使用が、妄想を高くして、職場で今のような感 じを作ってしまったのでは。」 M.O.:「そうかもしれません。」 私:(この人は、私をずいぶん信頼している。私の言うことを比較的簡単に受け 取っていく。)「今度皆があなたの前で冗談を言ったら、一緒になって冗談でも 吐いて、笑っていたらいい。そして、どうこう心配しないで、皆とフレンドリー にしてみては。結構仲間に入れてしまうかも。ひょっとしたら、あなたが妄想的 なので、それが態度に出て皆が敵意を感じる。それに対して皆が反応し、今度は あなたが敵意を感じる。あなたが友好的であれば、皆も友好的にしてくれるんじ ゃないかな。実験してみてはどう。明日仕事に行って、皆と仲良くしようと試み なさい。そして、結果がどうなるか、自分で確かめてみたら。」 M.O.:「やぁー、まいった、まいった。私には信じられない状態ですけれど、確 かに、先生の言うように、やってみなければ解りませんね。明日試しにやってみ ますよ。フレンドリーにしてみればいいんでしょう。あっはっは。」

 第3セションはこのようにして終わった。前に、M.O.は、第1セションから フランクに自分のことを話してくれたと書いた。その裏には、彼がセションに持 って来た、私に対する信頼があったと思う。この信頼が、第3セションで効果の 上がる結果に導いたのだ。信頼をできると言うことは、私の言うことを比較的簡 単に受け入れるだけでなく、セラピーに対するある程度の期待と希望を持ってい るということである。セラピー関係内でのお互いの信頼、セラピーを通して自分 がよくなるであろうという希望は、セラピーの結果をよくする要素である。 M.O.は、このような要素をセラピーに自ら持って来たのである。一般的には、信 頼や希望はある程度セラピー以前から存在するものの、十分ではなく、セラピー をしていくうちに徐々に育てていくものである。そしてそれにはある程度の時間 が必要であるのは、言うまでもない。M.O.の場合は、それがすでに確立した状 態で、セラピーを始めることができたといえる。私の方としても、彼の抵抗に対 処する必要がなかったし、教育的な立場をとるだけで、彼を導けたのである。そ れで、セラピーがトントン拍子に早く進み、短時間で終了した。  一つ矛盾に思える点が、あるかもしれない。それは、彼が私をはじめから信頼 できるのに、彼の相談に来た問題は、人に対する疑いであり、被害者的妄想であ る。いったいこれはどういうこのなのであろうか。私は人間不信の人達の観察を して、彼らの特に人を信じやすい傾向に驚いたことがある。彼らは相手が信頼で きようができまいが、人を簡単に信じてしまうのである。そのために、裏切られ ることも多い。現実的な注意深さをしていれば、普通は信じられない人達も出て くるはずである。そのような人もひっくりめて信じてしまっては、何人かに裏切 られてもしようのないことだ。人を信じやすい人は、この理由で、人に裏切られ て、傷ついたことも多いのである。その結果、今度は逆にだれも信じなくなって しまったり、誰も彼も疑いを持って関わったりしてしまう。すなわち、極端なの である。人を全体的に信ずるか、そうでなければ、全体的に信じないのである。 M.O.の場合、職場では皆を信じず疑って、セラピーに来たときには、私を何も 疑わずに信じてしまった。もちろんセラピストとして、人からの信頼を裏切った り、悪用してはいけない。この場合、彼の信頼をよい方に使って、セラピーを効 果的にし、彼を援助できたのである。もし、M.O.が望むのであれば、彼の信頼 についての問題を、追求できるであろう。これが課題となったのであれば、もう 少し時間を使って、セラピーを続けたかもしれない。でも、M.O.がセラピーで したいことははっきりしていて、とりあえず今彼の問題とすることだけを考えた っかたのである。ちなみに、セラピーする問題がはっきりしていて、正確に定義 できると、セラピーに効果があった時は、短時間で終えることができる。

第4セション  M.O.が診療室に入ってくる様子が違っていた。リラックスした態度で、顔に は微笑みまで浮かんでいる。うつ気分が消えていた。 私:(彼はよくなっていると思うが、まずは彼に話させて、様子をちょっと見て みよう。)「どう、調子は?」 M.O.:「やぁ、いいと思いますよ。先生がこの間、もっと皆とフレンドリーにし て、話に加われとおっしゃったでしょう。やって見たんですよ。そしたら、皆も 結構フレンドリーでした。冗談を言ってやり取りしたりして、普通にできました。」 私:「そう、よかったね。皆もフレンドリーだったか。」 M.O.:「それで誰かが冗談言ったりしたら、私も言い返して一緒に笑っていまし た。」 私:「へぇー、じゃ、皆はあまり悪気がないように聞こえるけれど?」 M.O.: 「そうですね。悪気があったとしても、あまり気にならなくなりました。 気分もいいです。」 私:「どう、皆がまだあなたのことをゲイだと話している?」 M.O.:「私の職場には、ゲイの人が2人いると思います。その人たちはもう自分 がゲイだと言いきって、表に出ているので、皆はどうこう言いません。私だって ゲイだって言い切ってしまえば、同じだと思います。皆が変な態度をするのは、 私が過剰反応するからかもしれません。私が無関心でいれば、彼らも興味を持た ないでしょう。」 私:「でも、本当に皆があなたのことをゲイだと話していると思う?それも麻薬 のせいで、その様に感じるんじゃないかな。」 M.O.:「そうかもしれません。実際私に向かって、私がゲイだと言った人はいな いし。解りませんね、、、でも、平気ですよ、先生。自分でゲイでないと思って いるんだから、人の目は余り気にしないで、やっていけばいいでしょう。先生の 言うように、そのうちに皆も忘れるでしょう。私のことが何時までもそんなに面 白いはずがない。」 私:「上出来、上出来。その調子だよ。」 M.O.:「私はもう大丈夫ですか。」 私:「そんな感じだね。一応、今回でセラピーは止めといて、また、難しくなっ たら戻ってくればいい。ちょっと変と思ったらなるべく早くね。」 M.O.:「解りました。頑張ってみます。」

 このようにして第4セションは終わり、そしてセラピーは終了した。M.O.は、 職場で皆がゲイだと噂していると、悩んで来談し、第4セション目には、そのこ とが気にならなくなった。勿論、彼にはもっとセラピーの対象となる問題があっ たはずである。でも、この時点で、あえてそれを取り上げる必要がなかった。ま た問題が起こったら戻ってくればよいのである。  もし、このような4セションを行って、M.O.が、良くならなかったとしたら どうであろう。実はその場合の方が、多いのである。症状は簡単に消えない。そ の時は、彼の性格の分析に入り込まなければならない。可能性としては、彼の妄 想の消えない理由を求めて、過去の経験を細かく探ったりする。それと同時に彼 の職場での困難なことに対して、気持ちのはけ口をセションで作ってあげたりす るだろう。そのうちには、彼の問題が、私とのセラピー関係の中で、転移として、 再現されると思う。転移はその時によって、色々な形で現れるが、それを一つ一 つ取り上げて、彼と理解を進めていく。この行程を経て、彼の症状を徐々に取り 除いていくのである。  1年後M.O.の様子を知ることが出来た。彼は同じ会社で働いていた。ゲイに 関する妄想は、「もう、そんなことは忘れていますよ。」と言うことだった。ま た、彼はセラピーの後、家を購入して引っ越しをしていた。「隣の人が気になっ たのか?」と聞いたら、今いる地区の方が、子供のためによい学校があるのだそ うだ。そのために引っ越したと言っていた。隣の人に対する妄想があったかもし れないが、それを知ることは出来ない。とりあえず問題なしで、めでたし。

たまに聞かれることですが、心理セラピーってどういうことをするのですか、 とか、お話しするだけなのですか、とか、何かいいアドバイスをしてくれるの ですか、などと皆さんから問われます。最近日本でも心理セラピーという方法 が盛んになりつつありますが、まだ定着しているほどではありませんから、ア メリカに来た日本人が、いったいこれって何であるか、質問があっても不思議 ではありません。  

一般的には、心理セラピーとカウンセリングを区別していませんが、違いは あります。カウンセリングでは、自己責任と決断を根底におき、カウンセラー がアドバイスという形で情報をあげることによって、相談者が自分で問題解決 に努力します。ところが心理セラピーでは、アドバイスをすることはあります が、それは一面にすぎず、実際には各種の方法を使って、相談者の思考、感情、 態度や行動を変え、問題解決に至ろうとします。  

例えば心理力動的療法では、相談者の対人関係のパターンとそれに現れる感 情を分析、理解しようとします。気分落ち込みの裏には、自己否定的な人間関 係のパターンがあるかもしれません。他人の中にはそれを見抜く人があるかも しれませんが、自分ではなかなか気が付きにくいものです。それをセラピーで 理解し変えていきます。  

また、認知療法では、相談者の問題の裏に、不適当な信念に基づいた思考が あるとし、それを明確にして思考の変化を求めようとします。いつも怒りっぽ い人の思考の根底には、「自分が一番優れていて、他の人は自分より劣る。」 と言うような、見方が潜んでいるかもしれません。それをもう少し現実的に変 えることによって、怒りが減るかもしれません。  

セラピーでもカウンセリングでも大切なことは、自分の秘密が厳守されると いうことです。これはカウンセラーと相談者との関係を特別なものにします。 なぜなら、他の人間関係では、自分の秘密が漏れることを恐れたり、自分の言 ったことが誰かを傷つけてしまう可能性を、恐れなければなりません。その心 配をせずに自分のことを追求できることは、自己を省みる絶好の機会を作るだ けでなく、大変ユニークな人間関係を経験する時でもあるのです。

通常、子供が悪いことをすると、親はしかりますが、これを長い目で見るとどのような結果になるのでしょう?

子供が親から見て悪いことをしていると、日本人の親の場合、しかることがほとんど当たり前と考えていると思います。例外はありますが、確かに、悪いことをしている子供をしかると、子供はそれを止めます。それでしかることが効果があるのは、明らかに見えます。

でも、表面的には直ぐ見えない、予期しないことも起こっているのです。子供はしかられた時に、感情的に反応します。怒りや恐怖を感じることは、まれではありません。例え泣いたりふさぎ込んだりしたとしても、その裏には怒りや恐怖が潜んでいます。そしてこれらの感情は、長い間に子供の反抗心につながっていくのです。すなわち、親が頻繁に子供をしかったりすると、親の言うことを聞かない子供になったり、又は、親の前だけで言うことを聞く子になってしまいます。最悪の場合で、厳しいしかり方が、長い間続いた時などには、青年になってから、非行に走ったりする可能性が、非常に高くなります。

厳しくしかられた時の子供の行動には、大きく分けて3つあります。一つは、あからさまな反抗で、親に向かって言い返したり、悪いことを平気でしたり、親を殴ったりすることです。二つ目は、親が怖く思われた時で、親の前ではよい子にしていますが、陰で規則を破ったり、自分勝手をしたり、親の悪口を言ったりすることです。三つ目のグループは、親が怖くてしかも圧迫的な時に起こり、子供は完全に服従してしまう場合です。親が怖いから親の言う通りになり、内心、失望して落ち込んでいる時もあります。表向きにはよい子に見えますが、ひょっとした事で、感情的爆発などをする時もあります。

このようなことを考えてみると、子供の行動を向上させるために、しかることは必ずしもよいとは言えません。むしろ、しかることはなるべく避けた方がよいでしょう。では、子供が悪いことをしたらどうしたらよいでしょう?

一番肝心なことは、子供の行動を治す時に、親が怒らないと言うことです。これは子供に対して怒らないではなくて、怒る感情を持たないと言うことなのです。確かに子供の悪い行動を見ると、怒るのは簡単だと思います。でも、親が怒ると、子供も怒るのです。そして、子供が怒ると、反抗心を強めてしまうのです。親の目的はこれではなくて、子供の言動に対して教育することですから、先ずは、怒らなくて、冷静でなければなりません。 

幼稚園以下の子供でしたら、「それはいけないよ。」と言いながら、物理的に止めさせればよいと思います。子供を抱き上げたり、移動させたり、押さえたり、物を取り上げたり等して、止めさせればよいです。でも、子供はほとんどの場合、親の一回の介入では変わりませんから、親が根気よく止めさせることを繰り返さなければなりません。しかった時にも、子供は一度で親の言うことは聞きませんから、それと同じだと思って、止めさせることを繰り返してください。

小学生位になりますと、物理的に何かを止めさせるのは、困難になりますから、あらかじめ、ある程度の親子の規則を作っておく必要があります。例えば、子供が責任を守れない時、その日の特権を失うことです。つまり、もし子供が宿題をしなかったり、おかたずけを出来なかったり、弟をいじめたりしたら、テレビ時間を失ったり、ゲームがその日は禁止になったりします。

ここで肝心なことは、前にも言いましたように、子供が規則を破った時、怒らないこと、しからないこと、叩いたりしないことです。ただルールに従って、特権を取り上げればよいのです。もう一つは、一回特権を取り上げて効かなかったら、諦めるのではなく、根気よく繰り返すことです。

また、これらの方法と併用して、しなければならないこともあります。それは、子供をほめること。親は、子供が悪いことをした時だけ、動き出すのではなく、子供のよい点、よい行動を見つけ出さなければなりません。子供を見ていて、少しでもよいことが見えたら、それについてコメントしましょう。大変よいと思ったら、沢山ほめてあげましょう。子供をほめることは、あなた自身をほめることだと思ってください。もし、あなたが、子供の悪い行動について一回介入するに対して、5回他のことをほめていたら、しつけがよく行われていると思ってよいと思います。

瞑想と心の健康

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 アメリカでは、東洋から取り入れた瞑想を、心理療法の中に取り入れる治療者が、少なくないのをご存じでしょうか。アメリカの心理療法の現状は、日本のそれと比べると、30年ほど進んでいると、言われています。でも、その中
には日本で何百年も、心の修業として行われてきた、座禅の知識などが使われているのです。日本人が座禅と聞くと、禅寺へ行っての厳しい修業と、難しい説教のことなどを、思い浮かべるかもしれませんが、アメリカではそれが、一つの心理テクニックと化してしまい、新鮮な受け入れ方をしてします。もちろん、禅を宗教として、学び実行している人も沢山います。

 アメリカでは瞑想が、1970年代から、はやり始めました。一般的に心の落ち着きと改善を求めて、実行されていましたが、同時に科学的な研究もなされてきました。その頃から、瞑想は心の健康に有効と言われ、将来も繁栄するであろうと、予言されましたが、まあ、大体そのとおりになっています。

 瞑想の効果にはどのようなものが含まれているかと申しますと、心の落ち着き、不安の改善、集中力の強化、睡眠の改善、ストレス解消、気質の改善などがあります。私も座禅の効果について研究をしたことがあります。その時に発見したことは、「ノイローゼ的思考の強さ」と言うものが、座禅をするに従って、減少するということです。ノイローゼ的思考とは、現実とは関係ない感情が伴う考えと言う意味で、例えば、実際に恐いものは目の前にないのに、あることを考えると、恐怖が起こってしまう、と言うような考えです。

 瞑想の仕方には数多くありますし、簡単なものから難しいものまであります。ここでは、何処でも出来る簡単なものを、紹介しましょう。床でも椅子でもよいですから、背筋を伸ばして、リラックスした状態で座ってください。目は半開きで斜め前を見下げるか、閉じてください。手は膝の上に組みます。心を呼吸に集中して、腹式呼吸をしてください。息を吐くごとに1、2、3、と10まで数えるのを繰り返してもいいです。1回20分ほどの瞑想が初めは適当です。心が落ち着いてリラックスしてきたら、うまくできたと思います。

Love is Blind

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2月は、バレンタインがありますね。日本と違ってアメリカでは、男性が女性 に対して赤いバラをプレゼントしたり、チョコレートをあげたりします。2月は 男女の愛と言うものが頭に浮かびます。  それはそれなりによいのですが、ところで、「恋は盲目」と言いますがそれは いったいどういうことなのでしょう。「恋している相手のことは、よく知ってい ると思いこんでいるが、実はそれは客観性に欠けた知識である」と私は理解して います。恋する相手の周りにいる人達の方が、その人の真実を知っていると、言 うことでしょう。 

心理的には、これをどう理解したらよいのでしょう。  まず、恋愛は自分に託した理想から始まります。誰でも理想の異性像を心の中 に託しています。それを意識している人もいますし、していない人もいますが、 大多数は何となくと言うくらいで、はっきりした考えはないと思います。恋愛で きそうな相手が現れたときに、自分の持っている異性の理想像が、投射と言う心 理作用で恋愛相手を包みます。その結果、相手が理想化され、美しくまたはハン サムで、親切で優しく、自分を救ってくれる立派な人になります。 
でも、相手 の良さは、自分の心の中の理想を見ているのと同じですから、相手のことはあま りよく見ていないことになるわけです。恋愛の熱が冷めたときに、相手が普通の 人と同じに見えたり、結婚三年後位に相手の良さが判らなくなってしまったりす ることは、今新しく述べることではありません。  

こう考えてみると、恋愛とはいったい意味があるのかどうか、判りずらくなり ますが、よいこともあります。社会学的には、恋愛と言うものがないと、人々が 結婚をしなくなり、人類発展に困ることになるでしょう。心理学的に見ると、恋 愛は自尊心を高め、人とまじわうことに興味を持たせ、人格発展と自信に大きな 貢献をします。  

心理の異常で恋愛をできない人もいるのです。私たちは恋愛ができたこと、で きる可能性を秘めていることを、大切にしていきましょう。

「母子関係は子供の心の安定感にどのような影響があるのでしょうか。」 母子関係に限らず、親子の関係は子供の心の安定感に、いつでも何らかの影 響を与えます。でも、母子関係は子供の心の安定感の土台を作るために、大き な影響があります。子供は産まれると同時に、自分の周りの環境について習い 始めますが、自分の環境が安全かどうか発見していくことは、非常に大切な習 得です。子供は周りが安全であることを経験し、心が安らぐといくことで、少 しずつ心の安定感を作り上げていくのです。

 心の安定感を築くことで、一番大切な時期は0歳から1歳過ぎくらいです。 このころには、子供ができることは限られていますので、親の助けが最大の時 です。子供がはったり、よちよち歩いたりして、危険なものに近づいたとしま しょう。家の中にはガラス、ぼう、熱いお湯など子供にけがをさせてしまうよ うな物でいっぱいです。そして、母親の不注意で子供がけがを繰り返してしま ったら、この世界はずいぶん危険な場所だと、子供は思うでしょう。子供が危 険状態に入り込んだときに、母親がうまく守ってくれるので、子供は安心して いられますし、心の安定感も育ってくるのです。

 心に安定感のある子供は、将来人間関係がうまくいきます。母親から伝えら れた安定感は、後に他の人へも転移されます。情緒の安定した、長続きする人 間関係を作れるようになるでしょう。また、物事に対しても、安心して向かえ ますし、ある程度計算された挑戦もできるようになります。

 逆に安定感のない人は、毎日の生活を恐れながらしますし、人に対しても不 信感や怒りを持ちやすいです。最悪の場合で、精神障害になってしまった人を みてみますと、心の安定感や安心感の欠如、そして対人不信が顕著です。

 母親は子供に対していろいろな影響をおよぼしますが、心の安定感を育てる ことは、それが子供の成長上一番早く必要であるということと、それがその後 の人生で、精神的土台となるということで、非常に大切です。親としてはこれ を心がけて、子供と接したいものです。

 様々な人のセラピーをしていて気が付くことがあります。それは、子供の頃すごく明るくて元気だった人が、ある時点から元気がなくなり、暗くなって、内気な性格になってしまうのです。それが起こり始めるのが、早い人は小学校低学年で、おそい人で高校に入る頃です。この変化後、本人は悩むというほどの自覚は無いのですが、前ほど幸せでなく、人によってはうつ気味という感じですごし続けます。大人になって、何かのストレスを機会に、ノイローゼのようになったり、落ち込んだりします。

 その後、セラピーに訪れてうまくいきますと、何年か前の変化以前の自分を部分的に取り戻します。子供の時にあった本来の元気な自分を発見し、それを使いながら生きられるようになります。毎日の生活が楽しくなり、ストレス事項もチャレンジとして直面できるようになります。

 この子供の時に起きる変化がいったい何であるか、もう少し考えてみましょう。 変化以前は、子供はあまり周りを気にしずに過ごしています。でも、遅かれ早かれ、自分のする事が他人に影響があることに気がつきます。いつもよい影響があればよいのですが、そうとも限りません。自分のしたことが他人を傷つけることもあります。それに対して罪を感じ、反省したり落ち込んだりします。

 罪を感じるということは、子供にとっても大人にとっても非常に大変なことです。小学生や中学生位になりますと、罪悪感に対して何らかの対処ができるようになります。その対処法の一つは、人を傷つけないことを最優先し、その上、人からよく思われるために、人の欲求を重視してそれをかなえることに努力をしだします。

 ここまではよいのですが、あまりにも他人優先になってしまいますので、自分の欲求が満たせなくなってしまいます。すなわち本来の自分は、他人を傷つけてしまうような避けるべきものとなってしまうのです。そうしているうちに、本来の自分がだんだん失われていきます。自分でもそれがなんであるか忘れられてしまうのです。 本来の自分を失うと幸せを感じられなくなってしまいます。物事に興味もわきません。他人の心配が多く、自分の気持ちがありませんから、表面上社交的でも本当は内気になってしまいます。この状態が様々な精神的問題も引き起こす原因ともなります。

ある女性が、「先日トラフィック チケットを切られてしまった」と不満な様子で、私に話をしました。私は、「ああ、それは面倒なことになりましたねぇ。」と、同情をしたのです。チケットくらいは、車の社会のアメリカでは誰でももらうもの、それほど大それた事件とは思わず、話を終わらせました。もっと何か大切な事があろうと思い、質問を続けたところ、私に恐る恐るある事を告白したのです。

 数日前、彼女と同じ仕事場で働いている男性と、ホテルへ行って性交渉をしたというのです。前からその男性に引かれていたというのは、聞かされていましたけれど、まさか結婚をしている身の彼女が、不倫に走るとは思いませんでした。驚きながらも、分析を続けますと、どうやら彼女は、「女としての確信」と言うようなものを探していたようです。

 彼女は子供の時から、強い劣等感に悩まされていました。結婚前、今の夫に出会った時、彼の自信と大きな夢に惚れたのでした。自分を彼の側に置くことによって、心中の劣等感から逃れられたのでした。

 でも、結婚数年後、夫が仕事上で壁にぶつかってしまったのです。夫は彼女を見下げ、こき使うようになりました。そうすることによって、自分の自信を取り戻そうとしたのです。そして彼女はますます劣等感のどん底に落ちてしまいました。離婚も考えましたが、子供がいることもあり、難しいステップでした。うつ病になり、私の所へ治療を求めて訪れたのでした。そのような状態の彼女にとって、同じ職場のある男性が彼女に振り向いたことは、大きな救いになったのです。 彼女は続けて説明をしました。「こんなこと、初めてだったので、ちょっとあわてて人に見られないように急いでホテルから出たんです。車で左折した時に、お巡りさんに捕まりました。道路の標識をよく見ていなかったんです。」

 彼女は、さぞかし不倫について罪に思っていたのではないでしょうか。それ故、罰を受けるために無意識に警官に捕まってしまったのでは。でも、チケットを払うことによって、罪滅ぼしが出来るのでしょうか?!

 彼女は不倫行為を大変後悔し、二度としまいと誓ったのでした。警官に捕まったことが、罪悪感を倍増したのは確かです。これをきっかけに、自分の劣等感を不倫をとおしてでなく、治療によって解消することに、専念したのです。治療して半年、彼女はかなり自信をつけました。すると自分を見下す夫とは居ることができなくなり、離婚を決心したのです。

 ここロサンゼルスの日本食レストランへ行きますと、日本人が会話などを交わしながら、食事を楽しんでいるのを見かけます。でも、日本人の中には、自意識過剰が苦痛になって、人前で食事をできない人もいます。特に、洋食レストランでは、自分のことを心配して、食事が出来ない日本人も、少なくありません。また、お母さん方からたまに聞くことは、せっかく子どもに美味しそうなお弁当を作ってやっても、それを食べずに持って帰ってしまう、ということです。
他の子どもの前で、自分のお弁当をあけて食べるのが、恥ずかしいのでしょう。

 アメリカ社会が、個人主義的であるのに比べて、日本は、グループ社会と言われます。これは日本人が、グループとしてまとまりながら、行動をする傾向が高く、個人の欲求は抑えて、グループに合わせていくと言うことです。ですから、日本人は子どもの時から、他人の目を気にして、「変」に見られないように心がけます。すなわち、人の自分に対する判断を、大切にするように育てられます。これが日本人としての、適当な社会性を、作り上げるわけです。

 でも、この教育の仕方が、厳しすぎたり、または、子どもが初めから感受性が高かったりしますと、回避性格と言うものに発展してしまうのです。回避性格の人は、人に「変」に思われて、拒絶されることを、非常に恐がります。そして、人前に出ることは、すごく大事に思えてしまうのです。人前では、自分はいつも観察されていると思いこみ、堅くなって、自由に行動が出来なくなってしまいます。重傷の時には、人が今自分をどのように、「変」に思っているかと、妄想にまで発展してしまいます。このような気持ちが、苦痛になり、人前での食事を避けるのはもちろん、他のあらゆる活動も避けて、家に隠りがちに、なってしまったりします。

 症状によっては、精神治療が必要な時もありますが、自分でいろいろな努力もできます。例えば、人からの観察を恐れずに、自分から人を観察するようにすることです。人が自分を見ているのかどうか、確かめて見てもよいでしょう。他人がそれほど自分に興味がないことを、発見するかもしれません。また、人目に焦点を置かないで、自分のしていることに、焦点を置くようにしても、助けになるかもしれません。

痴漢について

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 ここロサンゼルスでは、日本で一般的に言う、車内での痴漢行為と言うのは、あまり聞かないですね。もちろんロスでは、自分で車を運転してしまいますから、痴漢が起こるきっかけが少ないと言ってよいでしょう。

 アメリカ人の間で、日本の車内での痴漢、すなわち、知らない女性の体にさわること、のようなことが起こらないわけではないのです。かの有名大学、ハーバードの学生がある日、私のところに診断に来ました。彼曰く、大学の近くの公園をジョッギングしていたとき、前を走っていた女性のおしりを後方からさわってしまったのだそうです。即逃げたものの、警察に通報され、御用となってしまいました。大学から停学処分を受け、心理セラピーなしでは戻れないということで、はるばる地元のロスまで戻って来たのでした。

 痴漢行為の特徴として、「これは性的行為である」ことはみなさんもお気づきのことと思います。確かに、それをする人は、性的ファンタジーを抱き、通常の社会ルールを無視したり、またはそれがゆるんだりして実行に移してしまいます。 よく考えてみますと、このファンタジーは女性とのある人間関係を描いています。自分がこの女性をさわって、性的快楽を得るという限られた人間関係なのです。ここで問題なのは、その人間関係が一方的であり、相手から承諾を得ていないことです。様々な痴漢行為の共通点は、犠牲者の気持ちを完全に無視することなのです。そして、自分で勝手に相手の気持ちを想像し信じ込みます。心理的にはこれを "denial of subjectivity" と言って相手の主観の存在を否定する事に値します。

このような人間関係は、異常というよりは、小さい子の他人に対する関係と似ています。小さい子は自分のことばかり大切で、相手の気持ちがまだよくつかめません。と言うことは、痴漢行為はある意味で大人が子供に後退してしまった、と言えるでしょう。

 大人の人間関係にはフラストが多いことがあります。そのときにある人は後退現象を起こし、子供のような行動にでてしまうのです。その上、それに性的要素を付け加え、フラストであったものを快楽に変えてしまおうと言う、こんたんがあるのです。ハーバードの学生も、勉強からのフラストを大変感じていました。

痴漢はそのようなときに起こったのです。 付け加えますと、痴漢行為をする人の中には、フラストがなくてもする人がいます。このグループはまたちょっと違った心理状態がありますので、また他の機会と言うことで、ここでは触れずにおきましょう.

『ティーンエイジャーになってからの予防でなく、幼稚園や小 学校にいるうちに予防をしなければならない』

最近、日本ではティーンエイジャーによる犯罪が目立ちます。バスをハイジャッ クしてナイフを使って殺人までしてしまった17才の男子、電車内で突然かなずち で男性の頭をたたき重症を負わせた男子、「おやじ狩」と言って、複数のティー ンエイジャーがバットで大人を殴りかかり、お金を盗もうとしたケース、そして 、金属バットで生徒達にけがをさせ、その後自分の母まで殺して逃げた17才の男 子等、目にあまるものがあります。

これらのティーンエイジャーに関するまわりの印象は、「静かでいい子だった。」 「あまり目立たない子だった。」「勉強はよくできた。」などで、直接彼らの犯 罪行為とは結び付きません。彼らのしていることを心理的にはどのように理解す ればよいのでしょうか。

日本では集団行動が重視されるために、ちいさい時から基本的な社会性が身につきます。これは集団生活に役立ちますが、同時に個人的な傾向や気持をかくしてしまう結果にもなります。あるティーンエイジャーが内心怒り狂っていても、 まわりがそれに気付くのは難しいのです。一見普通にしている人の怒りが、社会 性の壁を乗り越えて表現され、事件になることは不思議ではありません。

突然犯罪行為を犯してしまうティーンエイジャーの心の奥には、かなり強いそ して慢性的な怒り、不満、絶望感や劣等感が潜んでいます。こういう気持は、無意識のうちにも残虐的なファンタジーをかき立てます。そういうファンタジーが 現実的な計画となって進行したり、突然表現されたりして犯行に至るわけです。

この様な行動が起った時には、法的な処置の他に、個人療法や家族療法などの 心理療法が必要と思われますが、やはり少年にとって一番大切なのは予防である と思います。それもティーンエイジャーになってからの予防でなく、幼稚園や小 学校にいるうちに予防をしなければならないと思います。怒り、不満、絶望感、そして劣等感は日常の対人関係によって必ずしも起るものです。それ自体は問題 はないのですが、子供が頻繁にこの様な感情を感じる人間関係におかれたとき、慢性化が起こり感情的な障害として心に残ります。これを防ぐための気配りを家 庭を始め、そして学校でしていかなければなりません。

感情的な障害に至るまでに子供はいろいろなサインを出します。特にわがまま であったり、ひきこもったり、乱暴であったり、個人個人いろいろですが、行き 着くところ他の子供や先生とうまくやっていけないのです。そのような事態が起っ たときには、無視しないで家族や先生方の力を借りてなおしていきましょう。そ れでも問題解決に至らないときには、専門家に相談することをおすすめします。

癌や心臓病の予防のために定期検査をすることは、普通に思われています。特に その傾向のある人はあたりまえです。子供の感情的障害が気になる親が、一年や 二年に一回子供や親子関係の状態を専門家に検査してもらうことは、決して不思議なことではありませんし、身体検査と同様おすすめしたいと思います。

子供とよい人間関係をつくり、それを経験させること、そして良い人間関係を 作れる子に育てていくことが大切であると思います。自己理解を深め、責任感を 育て、他人を尊敬し、そして他人に興味を抱ける子供を育てる努力をしていきま しょう。

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