こどもに偏見を植え付けないために

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親が知らず知らずの内に教育しているものに偏見というものがある。それはたいていの場合、彼ら自身が親から教えられたものである。韓国人はああだ、中国人はこうだ、黒人はこういう人間だ、ユダヤ人はああいう人間だ、関西人はこうだ、田舎の人はああだ、老人はこうだ、女はああだ、国際結婚をしたカップルはこうだ、イギリス人は、アメリカ人は、日本人は、......と。親が教えなくても、友達が教えてくれることもある。しかしその友達も結局は周りの大人から、あるいは大人が作ったテレビ番組などのメディアから偏見を身につけていく。そう、偏見というものはからだの中で巣を作り、さらにそれが増幅されて、ピュアなものの捕らえ方をむしばんでいくものである。

しかし一概に偏見がすべて悪いとも言えない。私達は偏見がなければどのように相手と振舞ってよいのか戸惑ってしまう。外国人と会う場合、どのように振舞うかは日本人と会う場合とは違う。このように私達は偏見があるがゆえに安心して相手と接するすべを身につけている。これはポジティブな偏見と呼ぼう。だが、私のここで話していることはもっとネガティブな偏見を指している。

偏見は以外と小さな時にもう身についている。幼児の段階でもうすでに「あの子は汚い。」とか「あの子はインドネシアから来たから一緒に遊ばない。」、「あの子はお母さんがフィリピン人だから遊ばない。」などのことばで明らかである。こどもは親のもっている偏見を敏感に読み取り、それをベースに友達を差別する。

こどもは生まれたとき、偏見などは持っていない。私はある日の事、こんなできごとにでくわした。その電車の中で一人の浮浪者がすわっていた。彼は風呂にも何年も入っておらず、はだしの足は垢でまっしろになっていた。服は所々やぶれており、そこからは異様なアンモニアの匂いが周りの空気に漂っていた。だれもその浮浪者のとなりにすわることはなかった。浮浪者と気づいて、席を立つものさえいた。しかしある二人組の母親がたまたまそこに入ってきて一人はベビーカーをドアの近くに置いた。そのとき、その赤ちゃんはその浮浪者のすぐとなりに位置した。母親は友達と話し、背を向けていたので、浮浪者が座っていることなど気がついていなかったようであった。1歳くらいのその赤ちゃんはその浮浪者に微笑みかけた。そしてその浮浪者は赤ちゃんに微笑み返した。浮浪者はこどもをあやし、赤ちゃんは足をばたばたさせて喜びをからだ全体で表した。さらにそんな数回のやりとりがかわされたあと、浮浪者が赤ちゃんの手に触れた。母親はそれに気づき、さっと赤ちゃんを抱きかかえたのである。電車は混んでいたので、移動するまでに至らなかった。彼女は赤ちゃんがその浮浪者の方を見ないでほしいと説に願ったようだった。しかし浮浪者が両手で抱っこの誘いをするとなんと赤ちゃんの方でその浮浪者に身を投じるように抱っこを求めたのである。

私達の偏見はその浮浪者をどう見ていただろう。人生の敗北者?教養のない人?そして赤ちゃんの目にはどのように浮浪者が写ったのであろうか。赤ちゃんは浮浪者を汚いとは見ていなかったであろう。人生に失敗した落第者とも見ていなかったであろう。人間のかすとも見ていなかったであろう。赤ちゃんはただ素直にその微笑みに対し、愛情を受け、そして愛情を返したいと思っただけなのである。もしその時点で赤ちゃんが本当にその浮浪者の手に抱かれさらに目と目がみつめあっていたならば周りにいた多くの大人達はそこに何を見たであろうか。まさにそこにはドラマが存在したのではないだろうか。本当の愛とはなにか、偏見のない純粋な心とはなにか。この赤ちゃんはそうした大切な事を私達に教えてくれたであろう。しかしその母親の偏見がそのドラマを実現へ持って行く事をはばかんだ。それでも私達は彼女を攻められるであろうか。いいえ、もし自分であったならばおそらくその母親と同じ行動をとったに違いない。彼女を責める事はできないであろう。

私がここに伝えたい事は、私達の偏見というものは多くのベールを造ってしまっていると言うことである。見えるべきはずのものを偏見というベールで見えなくしてしまっているのである。そしてそのベールの裏に隠されたものはこの世で一番大切なものであるかもしれないのだ。

日本は国際化が進まないと嘆いているが、それはあまりにも偏見を持っているからではないだろうか。私達の身近にいる自分とは違う人を受け入れられないで、どうやって外国人のことを分かる事ができるであろうか。真の国際化とはごく周りにいる人達に向けられている偏見を取り除く事から始まるのではないだろうか。

だから私はこう伝えたい。偏見を植え付けるのも植えつけないのも親である私達のことばと行動ひとつなのです。五体不満足のスケートボードに乗ったアメリカ在住のローズマリーさんをテレビで見て、あなたがふとなにげなくつぶやいた、「かわいそうだね。」ということば。かわいそうだということが不幸だという事。それを子ども達はしっかりと聞いたのです。五体満足は不便であっても、決して、あるいは必ずしも不幸ではない事。人の幸せとは外見で決まる事でない事。これを私達は教えなくては行けないのです。現にローズマリーさんが言ったように、「私は、今、最高に幸せです。」と。友達との電話での会話、公園のお母さんとの会話。こどもたちは大人が何気なく話していることでもきちんとキャッチしてそれを自分の価値観として自分の中にはぐくんでいくのです。

こどもは親の鏡とよく言われます。こどもは一番身近な親を教師にして、見て、聞いて育ちます。今日皆さんが話しているそのひとことを聞いて子ども達の価値観に植えつけられ、育つのです。ネガティブな偏見はそのまま子ども達の中に残っていきます。そしてそれが彼らの将来、きちんとわかるべき大切なものを見えないようにしていくのです。確かな純粋な目をむしばんでいくのです。気をつけたいものですね。

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