2009年1月アーカイブ

ことば

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私達のことばとはどれほどのパワーがあるか。ことばによってその人を生かすことも殺すこともできるほどです。それだけに私達が子どもに何気なく語りかけていることばがどれほどのインパクトがあるか考えたことがありますでしょうか?

勇気を与えることば、気持ちが明るくなることば、元気がでることば、正しいことを伝えることば、気持ちが落ち着くことば、安心できることば、自信がつくことば、こういったことばを子ども達にはたくさんかけていかないといけないと思います。

私がアメリカとカナダで育ってよかったと思うことは、こういったポジティブなことばをかける大切さを学んだことだと思います。ポジティブなことばが子どもを育てるのです。

22年間の子育てを振り返って、私が意識して子ども達に伝えてきたことばに次のようなことばがあります。

「ありちゃんなら絶対にできる」、「ありさ、あなたは本当に心のやさしい、思いやりのあるいい子だよ。」、「ありちゃんはいいところがいっぱいあるんだからね。」、「ありさは私にとって誰よりも大切な存在なんだからね」、"You are precious",「まずはやってみたら?やらなければわからないし、やったことでわかることもあるじゃない?」、「自分の心に正直に生きるんだよ。」、「心はなんて言ってるの?」、「いやなら、はっきりNo と言いなさい。」、「いいのよ、失敗は誰でもあるよ。失敗はそこから学べばいいんだから。転んだらまた起き上がればいいのさ。」、「悪い方向に考えていっちゃだめだよ。いいほうに考えようね。」、「人の言うことを気にしちゃだめだよ。言いたい人には言わせておけばいいんだから。そのことばに振り回されないことだよ。」、「明日になったらまた新しい1日をスタートさせればいいのよ。」、 "I love you, Joshua"、 "I love you, Alicia",「どんなことがあっても私はありちゃんを見捨てないからね。絶対に見捨てないからね。」、「自由と共に責任があることを忘れないでね。」、「それはよかったね。マミーもうれしいよ。」、「よくがんばったね。本当によくがんばったね。」、「人生は一度だけ。あなたが本当にやりたいことをしなさい。」、「親や親戚、他人を満足させるために生きるのでなく、自分のために生きなさい。そうしないとどこかで後悔するよ」、「人生はやり直しがきくよ。There is always a second chance.」"It's not the end of the world"、「社会のルールに反したことは絶対にやってはいけないよ。」、「からだは大切にね。からだが資本だからね。それは心の健康もだよ。」、「ありちゃんがそうされたらどういう気持ちになる?ならありちゃんがいやなことは人にもしないようにしようね。」、「人のことをうらやましく思うことはやめようね。みんなそれぞれの人生、それぞれの幸せがあるんだから。」

まだまだ続きます。とても全部は書ききれないことに気づきました。親のかけることばで子どもは育ちます。そして子ども達はまた自分達の子ども達にそれを伝えていくのです。だからこそ、ことばの力をよいにしろ、悪いにしろ信じましょう。

 

 

望んでいる学校に合格しなかった、望んでいる学校に願書を出さなかった、期待していた成績に達さなかった、テストの成績が上がらない、新しい学校に馴染まない、英語がちっとも上達しない、アメリカ人の友だちができない、などなど 私達、親は多くのことを子ども達に知らず知らずのうちに期待しています。しかし、その期待を子どものことを思ってとか、子どもを愛しているからこそということばでくるめてしまっています。

実はそれはその子をその子として受け入れられなかったに過ぎないのです。子どもの選択を尊重してあげられなかったということの表れでもあります。子どもは自分で選択をしなくてはいけないことがあります。そのときに、子どもが選択したことに対して親が不満になることがあります。つまり、どうしてこっちを選ばなかったの?とです。しかし、子どもは自分で自分のことを決めなくてはいけないときがあります。親に決めてもらってはいけないことがあります。それは自分で選んだことに対して責任を取らなくてはいけないからです。それをしなかった子どもは親を責めます。親に責任を取らせます。

そして、親はどうかというと、自分が子どものためによいと思って選んだことに対して、それがうまくことが運ばなかった場合、後悔し、自分を責めるようになります。その結果、双方ともハッピーではなくなるでしょう。私達の子どもは私達の所有物ではないのです。私達の望むように、期待するようにはならないのです。子どもはれっきとした一個人なのです。母親だからといって、子どもの将来をコントロールすることはできないのです。コントロールしようとして、うまくいかなければそこには不満、苛立ちしかありません。

どんなに私達が正しいと思って子どもを育てても、子どもは間違った選択をすることがあります。しかし、それは親の責任ではないのです。そこで自分を責めてはいけないのです。できる限りのサポートをし、よい環境を与え、最善を尽くしたのなら、親としての務めは果たしたのです。だからもし、間違った選択をしても、いつもと変わらぬやさしい愛情をもって引き続きサポートしてあげましょう。本人がその過ちに気づき、自分で立ち上がり、もう一度やり直すことを信じるのです。 

母親の願い

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 子どもがいる家庭ではつねになにかが散らかっていて、一日として整然とものが片付いている日がないといってもよいでしょう。出したものは出しっぱなし、遊んだものは遊びっぱなし、食器は片付けない、冷蔵庫は子どもの手あかでべたべた、おもちゃはそこら中に、ソファの下、靴の中。靴はぬぎっぱなし、服は床に置きっぱなし。起きている間はしゃべりっぱなし、兄弟けんかはしょっちゅう。いつになったら平和がくるの?!と思うくらい。もう子どもなんていや!と思う日もあるかもしれません。
 
 では皆さんのお宅がいつもきれいであること、整理整頓とされ、モデルハウスのように整然とされていることを望みますか?もし、1日だけでもぴかぴかなきれいな家が与えられたとします。そうしたら、皆さんは本当に幸せになれますか?さあ、どうでしょう?けれどもそこには子ども達はいないでしょう。
 
 あなたが子どもをほしいと思っていたあの時を思い出してください。そう、子どもが生まれたら、といろいろな夢があったのではないでしょうか?これが子どものいる家庭、そんなものもえがいていたのでは?けれどもそれに伴う現実は?もうおわかりのとおりです。だから皆さんは子どものいる現実を選んだのでもあります。子どもがいるということは、一日として片付くことがないということ。いつも片づけをしている状態が子どもとの生活。子どもは汚すのが当たり前。なにか問題があるのが当たり前。だって、それが子どもが子どもでいることなのだからです。彼らはまだ子どもだからです。そしてそれは皆さんが以前から描いていた夢そのものなのです。
 
 だから子どもがどんなに散らかし、どんなに家を汚しても、どんなにうるさくても、にこっと微笑んで、ああ、これは今日も子ども達が元気でいる証拠。健康な証拠。人生を楽しんでる証拠。だからこれでいいんだ。子どもがいる暮らしって汚されること、壊されること、悩むこともいっしょにあってこそなんだ。そういった視点で家の状況を見てみてはどうでしょうか?そしてなによりも、これもすべて過去となる日がいつか来て、その日を思い返したときに、ああ、あんな時もあったんだな~、なつかしいな~と思うでしょう。そして、あの時があったからこそ子ども達が今、幸せでいるんだと思えるでしょう。皆さん、是非、子ども達に子どもらしく過ごせる時間を与えてください。子ども達が独立してからはうんとうんと子ども達がいない長~い生活が待っているのですから。今をうんと楽しんでください。

習慣

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 子どもを育てているとどうしても大声で怒鳴ったり、しかったり、ヒステリックに声あげてしまいます。どうしたら声を上げずに子どもを育てられるのだろうか。それは誰もが一度は思い悩むことではないでしょうか。「もういい加減にしてよ!」、「何度同じことを言わせるの!」、「さっき言ったでしょ!まだわからないの!」、
 「またやったのね。何度やったら気が済むの?」、「ねえ、また怒られたいの?」、「どうしてこんなにママを怒らせるの?」、「今、やったことがどういうことかわかってるの!」とこのようなことばに身に覚えがあるのではないでしょうか。しかし4人の男の子を育てていたり、年子の子どもを3人もかかえていて、やさしい小さな声で子どもを育てられるのでしょうか?
 
 「ああ、また怒鳴ってしまった」、「もう怒鳴りたくないのに、やめられない。」、「今日こそ、今日だけでも声を上げない」と何度自分に言い聞かせたことでしょうか?怒鳴った後はいつも自己嫌悪、そして言われた側の子ども達も決していい気持ちはしていないはず。「ああ、またやってしまった。」。「もう絶対に声を上げないと誓ったのに」、「どうして自分はこうもだめなの?」。それではどうしてそんなに怒鳴ることをやめることがむずかしいのでしょうか?
 
 そのひとつに習慣というものがあると思います。自分の母親がいつも自分に対してそう育てた。自分は怒鳴られて育った。自分の母親はいつもヒステリックに怒鳴っていた。そしておそらく自分の母親の母親も同じように育てたのかもしれません。つまりそれが普通と思っているとその習慣をくずすことはとてもむずかしいと言えます。けれども希望はあります。習慣を変えることは可能です。まずはその習慣を絶つという決心から始まります。その決心が一番重要なのです。もうしないときっぱり決断することです。しかし決断するだけでは十分でなく、それならどうしたらよいかという新しい習慣をそこに置き換えることです。怒鳴らない代わりにならどうしたらいいのかです。最初はむずかしくても、今度新しい習慣が身に付けばもう古い習慣は消えるはずです。それは新しい習慣がその古い習慣を置き換えたからです。

むずかしい子育て

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 子どもが中学生になり、高校生になると子育てはますますむずかしくなる。小さい頃はおなかさえ満たしていればよかった。しかし思春期を迎えるとそればかりでは足らなくなるからたいへんだ。なぜこの時代、こんなに子育てがむずかしくなっているのだろうか。もう手に負えないとお手上げという声をよく耳にする。いったい昔の子育てとどう変わっているのだろうか?
 
 いやいや、大いに変わっている。それもそのはず。一番の大きな変化は親という存在を子ども達は恐れなくなったからだ。皆さんは自分の親を思い出してほしい。ほらほら、こんなことばがあったではないか。怖いもののベスト4。そう地震、雷、火事、親父。とこのように昔、父親というのはものすごく怖い存在であった。しかし今は子どものご機嫌をとる父親、友達のような父親が増えている。それもそのはず、今や子
 育ては夫婦二人の参加が当たり前だからだ。父親がうんと身近な存在になった。たまに帰ってきて怒るとどなったり、平手打ちをするような父親はもういなくなった。となると子ども達は怖い親という存在がない。親をばかにしたり、ひどい口答えもするようになった。それは単にもう親を怖いと思ってないからだ。私達は怖い存在と思わなくなるとばかにしたり、口答えをするものだ。つまり同じレベルに考えるからだ。そして怖いと思う存在の人に対して我々は尊敬の意を称すのだ。だから今の子ども達は親を尊敬しないというのは親を怖い存在と受け止めてないからなのだ。
 
 
 けれどもうれしいニュースがある。確かに子ども達は家ではもうどうしようもないという振る舞いをしていながら、外ではどうだろう?うん、案外彼らはまともなのだ。近所のおばさんとはすばらしいほどの敬語、丁寧語で会話をしている。あいさつもちゃんとできている。決して恥ずかしくない立ち居振る舞いであるのではないか。驚いてしまうだろう。つまり彼らはちゃんと外で生きるすべを学んでいて実行できているのだ。ただ家では問題だらけの行動を起こす。
 
 
 それはなぜか?彼らは外で一生懸命大人ぶっている分、家に帰ってうんと甘えるのだ。甘えることによって生気を養っているといってもいいほどだ。だから急に赤ちゃんのような存在に彼らは戻るのだ。わがままを言ってみたり、考えられないようなことを言って親を困らせたり。つまりまだまだ成長していない部分を持ち備えていて、それを家庭では経験しているのだ。つまりそれだけ外の世界で求められる大人の部分が、期待される部分が大きくなったといえるのかもしれない。その分、家に帰ってしっかり赤ちゃんをやらないと外の世界でついていけなくなるともいえるのではなかろうか。
 
 
 さて、ならどうしたらいいのか?口答え、親を尊敬しない。まず言わなくてはいけないことはきちんと伝えるべきだ。そして相手はぐちゅぐちゅまた言ってくるだろう。しかし親はそれに惑わされてはいけない。断固、自分の方針や家のルールに関しては妥当である限り曲げないことだ。そして相手がチャレンジして来てもその点においてはこちらも対応しないこと。ここでストップ。会話はおしまい。少なくとも彼らの耳にこちらの意向は入ったはずだからだ。あとは彼らがどう対応しようと彼らが決めることだ。
 
 そしてたいていはきちんと自分の中で考えをまとめられる力を持っているはずだ。だからそれを信じることだ。そう思うとかなり肩の荷が下り、いらいらがなくなるのではないだろうか。なんとか自分がしっかりしなくちゃこの子はたいへんなことになるなど責任を取らなくてもいい。不思議なことになんとかなるものだ。けっこうまともな大人に成長するものだ。
 人間とはもともとどろどろとした存在だ。つまり生まれてきたときは自分中心で、他の人のことへの配慮などまったくなかったはずだ。だから子どもの最初のことばは、自分を満たしてもらいたいがためにその欲求を満たしてくれる母親を呼ぶ、「ママ」であり、もう少し大きくなれば、子どもは 「わたし!」「ぼく!」「ぼくの!」「かなちゃんの!」というように自分中心にしか考えられない世界からスタートするのだ。そして怖いことに大人になってもまだまだその自分中心な primitive な考えから脱出できない人が大勢いることだ。

それはなぜか?それは成長できる余裕がなかったからではないだろうか。子どもが成長するには親からの十分な愛情の元、安心が不可欠だ。その安心がないと子どもは成長できないのだ。不安な気持ちではその気持ちを落ち着かせることに気がいってしまうだろう。そこには余裕がない。自分を成長させる余裕がないのだ。そのため彼らは自己を成長させることができず、その自己形成にかけた状態から他人への思いやりまで発展できないのだ。

そういう大人は人のうわさばかりをする。人のうわさをすることによって自分へのフォーカスが他人へと向くからだ。自分のことだけを考えていればいいのに、向きあうべき自分が嫌いであったり、問題が多すぎたりすると、そこに目を向けたくないのだ。だから他の人へと向くのだ。そしてたいていその対象となる人物は自分より優れていたり、自分が持っていないものを持っている。だからジェラシーの感情を持つようになる。そして自分が持ってないものを相手が持っていることが面白くないがゆえに相手をいじめ、不幸にすることによって彼らは自己満足をするのだ。それは自分の不幸に彼らを率いることでもある。

彼らは人の幸せを喜ぶことはできない。人が得たものを受け入れることができない。いつも人の幸せをねたみ、彼らの不幸を望むのだ。相手が不幸になれば自分の不幸が見えなくなると思うからだ。この世の中にはそのようなmiserable な感情を抱いている人が大勢いるのだ。そのため、心の健康な子ども達はとかくいじめの対象になるのかもしれない。私達が子どもを育てるときに大切なことは子どもにどんな風が当たってきても倒れないだけの強さを植え付けることだ。それは愛されていることの安心感、自分が受け入れられているという自信。そのようなものなのだ。それさえあれば子どもは少々の風では倒れない。そんな子どもを育てなければならない。 

 ケア・ワールドは海外で就学前のお子さんを持たれるご家族を対象ですが、今日は、思春期のお子さんをもたれるご両親のためにお話をします。私も今現在、思春期の娘(16)を育てている真っ最中です。彼女はありとあらゆるチャレンジを私に与えてくれました。はらはらどきどきの連続のここ数年間です。しかし最近になって少しづつ彼女の大人への成長が見られるようになりました。
 
 おそらく今、思春期真っ只中のお子さんを育ててらっしゃる皆さんは毎日が悩みの連続かもしれません。あるいはいい時もあれば最悪と思われる時もあるでしょう。思春期の子どもたちは小さな大人ではありません。彼らは大きな子どもなのです。まだまだいろいろなことがわかっていない、子どもです。しかし、本人はりっぱな理屈もいえますし、かなり自分は大人だと思い込んでいます。そこが思春期の子ども自身にある葛藤なのです。
 
 たとえば、「私は高校卒業したら、すぐ結婚して子どもを産んで、ヤンママになるの。大学なんて行かない。仕事する。子どもには苦労をさせて人生のたいへんさを教えるの。」と言ったとします。親としては、大学へ行く費用も貯金していて、通える身なのになぜ?仕事に就くといってもそんなに簡単に経験も学歴もなくていい仕事につけるわけがない。けれども子供たちは本当にそう考えてないかもしれません。単に私達を試しているのかもしれません。つまり親がどれほど成長しているかを見てるのです。子育ては自分育てというのはそこなのです。私達は試されてるのです。だからここで一応、高校を卒業してすぐ子どもを持つ厳しさを話してもよいでしょう。しかしそこで子どもが本当にそうすると思って動揺しないことです。そこがポイントなのです。堂々と彼らが正しい選択をすることを信じることです。それは皆さんが今までどのようなことをどのように子どもと接してきたかにかかってきます。
 
 子どもが生まれてからの5年間は母子の絆を定着するのにとても大切だといいます。しかし、それと同じくらい私は子どもが巣立つまでの最後の5年間はとても大切だと強調したいと思います。つまり子どもたちはこの最後の5年間でもう一度最初の5年間を通るのです。つまり欠けていることがあったら、それを補う最後のチャンスなのです。そしてもし忘れていたら、母親との絆をもう一度確認する最後のチャンスでもあるのです。しかしそこを素直に幼児のようには甘えられないためその葛藤からさまざまな行動に出るわけです。そこで私達がしっかりそこを理解し、ああ、今、あの時期をもう一度通っているのだなと理解してあげないと単に無理なことを要求したり、突き放してしまうのです。
 
 そのためこう思ってみてはどうでしょうか?私はこう考えています。今の時期は子ども達が生まれ変わる最後の通過点と見ています。そこにはちょうどちょうがさなぎから出ようとするときのもがきがあり、苦しみがあり、長い時間があるわけです。そう、お産にたとえてみてください。ちょうど今、お母さん自身は陣痛を通っているのだと。子どもも苦しんでいて、母親も苦しんでいる。けれどもその苦しみを通るからこそそこに新たな誕生があるわけです。
 
 もう少しの辛抱です。この陣痛が一生続くわけではありません。この陣痛は必ず通過する。そう自分に言い聞かせれば少しは楽になると思います。そして何よりも子ども達がその産道を通過したときにすばらしい大人となって巣立つことを希望として想像してください。私は娘が高校を卒業することを夢にいだきました。卒業式を常に頭に描いています。
 
 今のさまざまな問題も通過点と捉え、驚かないことです。もうどうしよう、どうしようと、パニックにならず、子どもに対して怒鳴らないことです。堂々と落ち着いていることが何よりも子どもが求めている親の姿なのです。ここで動揺したら、子どもはますます不安になってしまうのです。本来なら見習いたいべき存在がそのようにパニックを起こしていたらなおさら、何を信じ、誰を信じたらいいかわからなくなり、さらに子どもは信じたいと思う存在を求めて、ますます悪い行動へと向かっていきます。そしてこれでもか、これでもかと私達をチャレンジするでしょう。それは私達にもっとしっかりしてとエールをかけていることでもあります。子どもが聞きたいのはノーというひとことでもあるかもしれません。また正しい生き方を親から示してほしいのです。そのためには皆さんがお手本とならなくてはなりません。皆さんが自分自身の生き方に対して自信をもっていなかったり、不安だったりすると子ども達はもっと不安になり、自分の将来のあり方に希望が持てなくなるのです。子どもたちが自分の将来に希望を持てるためにも、皆さんの自分自身の生き方をたまには振り返ってみ
 るとよいかもしれません。
 

子どもの塾が夜なので、子どもは塾で食事。パパは帰りが遅いので、帰宅してから食事。小さい子どもは早く寝るので、早めに食事。ママはまだおなかがすいていないので上の子どものお迎えに合わせて食事。これが孤食の実態ではないでしょうか?

帰宅は早いアメリカのパパ、おけいこごとなどは夜にないし、塾にもいかないアメリカの子供達。なら当然家族でいっしょに夕食を食べているだろうと思うと大間違い。ニューヨークではこのところばらばらで食事をすることが問題化してきています。まず夫婦共働きは当たり前になりつつあり、それゆえに、おけいこごとの時間がづれこんでいます。10歳の子の太極拳のレッスンが5時半から7時半までとか。高校生の場合、スポーツの試合が他校であれば、帰りは夜10時ということも。外で試合がある場合、いったいいつ夕食を食べるのか?と聞けば、みんなそこらへんのマックへ行ってとりあえず腹ごしらえとか。ママは夜のミーティングが増え、食事をミーティングの後に食べることも。パパは長時間労働を強いられ、以前より働かないとよい暮らしができません。こうなると家族でいっしょに食べられるのが週に何回あるかという計算になります。食べる時間も夜遅くなったりがしばしば。中にはまず母子で食べて、それからパパが遅く帰ってきて食べるときに家族がまた集まるという家庭もあります。マンハッタンで働いていればママの帰りが7時ということもざらです。そのためいっしょに食べるとなると9時を回ることもあります。結局みんなもっともっと働かないとここニューヨークでは生きていけないということでしょう。友人も仕事を2つ持ち、さらに土日まで働いています。どうしてそこまで?と聞けば、彼女はシングルマザー、さらに周りのスタンダードに合わせるためと言います。つまりいい生活を子供達に与えたいからとのこと。

しかし家族いっしょに食べることはとっても重要です。まず子供達が何をしているのか、何を考えているのかがわかります。それによって非行に走ることが防げます。そして学校の様子もわかるので、ちゃんと勉強に追いついているかも把握でき、問題が起きても早く対応できていれば、成績も上位に戻ってくることでしょう。このように食事をいっしょに食べる大切さを奨励するために地域によっては、1ヶ月に一度、まったく夜の予定がない日まで地域こぞって作る始末です。

昔は日曜日にはみんな教会へ行くので、お店は午後にしか開きませんでした。(まだそういう地域もあります。)しかし今は教会へ行く人も減り、さらにさまざまな宗教の人がいるので、お店も朝から開いています。おけいこごともだいたい学校が終わった4時から6時には終わっていましたが、今では連れてくる親に合わせて夜まであります。結局、大人の都合で子どもの自然なスケジュールを乱してきたのではないでしょうか?なんと readysetrelax.org などというサイトが誕生するほど。 Overscheduled kids, hyper parenting このあたりでも検索できます。

忙しくなると、私達はこの世で大切なものを失ってしまいます。特に消費社会の先進国ではお金が第一と考えがちです。しかし、生きていくだけのお金があればと自分に言い聞かせることも大切ではないでしょうか?欲を言い始めたらきりがありません。どこかでここまでという線を引く必要があるのではないでしょうか?何もかもお金でしょうか?お金に代えがたいものがいっぱいあるはずです。それを犠牲にしてないでしょうか?まずどうして子ども達を産んだのですか?ものに囲まれて育ってほしいからですか?それが幸せですか?子供達が一番求めてるものは、パパやママの時間ではないでしょうか?

添い寝

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 このところ日本の添い寝が海外でも見直されているが、たたみにふとんを敷いて寝る日本の文化とベッドの上でねるほとんどの国の文化とではかなり状況が違うと思う。それに加えて、子どもを中心とする日本の文化と、夫婦が家族の中心ととらえる海外の多くの国ではこれまた添い寝に対する考え方が変わってくると思う。
 
 相談の中で、子どもが寝てくれない、夜中起きて困るという問い合わせがものすごくあります。これはもう20年前と変わっていません。なぜこれほどに日本人の親は子どもが寝ないこと、子どもが夜中何度も起きることに悩むのでしょうか?
 
 この問題を話題としてあげるのに実は、本が書けてしまうほどなので、今日の一言では言い尽くせませんが、ひとことでいうと、(病気でないと言う前提は言うまでもありませんが)子どもが親に振り回されているという現状です。子どもはいくらでも親を試そうとしています。それが彼らの役目なのです。それをノーというのがまた親の役目でもあるのです。しかし、そこで子どもがかわいそうだからとか、情緒不安定になるからとギブインを続けていたら、子どもは、ああ、この人はぼくの命令に従ってくれるなと悟り、さらに要望をエスカレートするのです。添い寝をいつまで続けるかはだいたい子どもの様子を見て親が判断すればいいと思います。
 
 さて、添い寝ですが、アメリカでは今や子どものベビーベッドを親のベッドルームに入れている人もいます。これは添い寝とはいわないと思いますが。Co-sleepというそうです。しかし、これを彼らが長いこと続けることは疑問です。まず彼らは夫婦としての生活を優先するでしょうから、子どもの目の前で夜の生活はちょっとためらうでしょう。そんなことをしたら、幼児虐待で通報されてしまうでしょう。さらに、ベッドの生活ですからキングサイズにしろ、やっぱりひとつのマットレスの上ですから、
 狭いですし、落ち着きません。子どもを真ん中に入れてしまったら、それこそ夫婦の距離ができて、これは結婚生活に支障をきたします。結局、添い寝といっても親のベッドルームに子どもを一時的に置くという程度で、やがて夜通して寝るようになって、子どもも自分の部屋で寝ることに納得し、おっぱいが終わった頃にはちゃんと子ども部屋に戻している家庭がほとんどです。
 
 それに対して日本人の添い寝は、親の間に子どもを入れるパターンが多く(いわゆる川の字)、しかもベッドでしたら、とても端には置けないので、真ん中となると、子どもはちょっとした親の寝返りで起きてしまいます。そもそも添い寝の目的は、目を覚ましたときに親がいることで安心ということなのですが、今や夜の生活が長い現代人にとって、子どもが浅い眠りから目を覚ましたときに親がその隣りで寝ているということはまれでしょう。となると、どうしてもギャーと泣いて起きてしまい、またなだめるのに一苦労。ましてやベビーベッドに入れてなければ、勝手にはいはいでもしてベッドから落ちてしまい危険です。さらに子どもが歩けるときまで添い寝をさせていると、起きたら自分勝手に歩き回ってしまうでしょう。これではたまったものじゃありません。ある程度の年齢に達したら子どもは子ども部屋に移すしかないのではないでしょうか?それとも50年前の暮らしに戻りますか?ということは、親も子どもと同じ時間に寝るなり、ベッドからふとんの生活に戻ることになります。添い寝だけとりあげて、それを現代のモダンな生活スタイルに当てはめてもぎくしゃくしてうまくいかないだけだと思うのです。添い寝と現代の生活スタイルをどのようにうまくかみ合わせるかがこれからの課題でしょう。

病児保育

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 我が家の息子も娘も保育園育ちである。ずっと私が仕事を持っていたからである。子どもが病気をしたとき、一番困ったのを覚えている。特に大阪に出張、クライアントと会う予定、出版社にはじめての企画をプレゼン、講演にいく、どうしても断れない、など休めない事情はいくらでもあった。そんなとき、特に朝、子どもが高熱、子どもが吐いた、前の晩眠れずに咳をしていたなど子どもをどうしても保育園に預けられない事態になったときは実に困った。近くに親戚はいない。私の母は仕事をもっていた。義母はからだが弱かった。妹も仕事を持っていた。まだ引っ越したばかりの頃は頼れる友達もいない。やっぱり友達には病児は預けられない。しかも彼女のところにも小さな子どもがいた。ベビーシッターは予約でないとすぐはきてくれない。夫は「なんでおまえの仕事のために俺が仕事を休まなくちゃいけないんだ。」という姿勢。自分の仕事の方が重要という姿勢、出張もある彼。途方にくれたが、いらいらしても、泣いてもいられない。9時18分の急行に乗らないと間に合わない。
 
 やむをえずだまって保育園に預けたときもあった。けれどもそういうときは必ず迎えに来てくださいの電話がはいった。どうしても今すぐには帰れないということで友達にその後預けたときもあった。小学生のときは一人で家においておいたこともあった。もちろんしょっちゅう電話を入れた。いっしょにいてあげられず胸がはちきれんばかり罪悪感をもって子どもを預けたこともあった。そんな時、病児保育があったらとどんなに望んだことか。
 
 今、日本では厚生労働省が子育てと就労の両立支援策として実施している「乳幼児健康支援一時預かり事業」があり、2002年5月末では全国で211ほど用意されている。増えつつある。施設によっては行政からの委託を受け、その区に住んでいれば利用額が1日2000円くらいですむ。生後7ヶ月から小学校3年生までというところもある。年齢はやはり1才児が一番多く、続いて2歳、0歳だそうだ。保育園と連携した施設もあり、ドクターがバックアップしているとなると安心だ。
 
 中には働いていない母親でも利用することがあるという。つまり、子どもが3人もいると病気の子どもだけに関わっていられないという。ましてや前の晩寝ずの看病をした後は、他の子どもの世話も病児の世話もできず、お母さんが倒れてしまうという。昼間ちょっと寝れば夜に備えられるという。
 
 しかし、病気の子どもを親元から裂く国は豊かな国といえるだろうか?子どもからしたら、病気のときほど心細いときはないはずだ。両親のどちらかがその子についていて上げたらどんなに子どもの心も守り、からだも早く回復することだろうか。病児保育には多ければ6人も病児を預かるという。ということは、子どもは他の病気にもさらされるわけだ。
 
 世界の子育て支援を研究してきて、フランスでは最高3年の育児休暇がとれる、北欧は夫婦あわせて何年か育児休暇がとれるほか、子どもが病気のときは有給休暇をもらえる。しかも両親どちらがとってもよい仕組みだ。日本でも1年の育児休暇がとれるはずなのに。アメリカでも親の介護、子どもの病気で有給休暇を年に何日か取れる。講演者が突然子どもの事情でキャンセルすることもある。このように見てくれるとやはり子どもの立場にたった対応が一番望まれるのではないかと考えた。
 子どものしつけ なんてテーマはもううんざりするというお母様方も多いのではないだろうか?そう、あまりにも多すぎるし、読みすぎているようにも思える。けれども読んでいながらしていっこうに何も変わっていないと感じるのはなぜだろうか?いったいどうして疑問に思われていることが正されないのだろうか?「子どもが夜、寝てくれない」、「お菓子ばかり食べて、ごはんをちゃんと食べてくれない。」、「ゲームばかりしてて、外で遊ばないの」、「朝、起こしてもぜんぜん起きてくれないの。」、「でかけるっていってるのに、ちっとも用意しないの。」こんな不満を子どもにいだいていませんか?
 
 私がいいたいのは、親の権威はどこへいった?ということです。いま、子育てをしているママの中で気になるのが、子どもにびくびくしている、子どもの自主性を重んじるといって実は完全に子どものいいなりになっている、子どもになにかを強いることができない、子どもの反応を気にするあまりいうべきことを言っていない、子どものご機嫌取りをするといったことです。
 
 子どもがごはんを食べてくれないではなく、親が子どもにごはんを食べさせるのです。お菓子ばかり食べてるというのであれば、お菓子は与えないのです。夜寝てくれないというのであれば、夜時間になったら、寝かせるのです。子どもの自主性を重んじてますからというのであれば、どの点において、待てばいいのか正しい判断をすること。なにもかも自主性に任せていたらそれは放任主義です。
 
 ひきこもりに関しても、「家族といっしょに食べないで一人でこもって食べるんです。」なら、強制的に家族といっしょに食べるようにさせればいいのです。親ならそういっていいのです。「部屋から出てこないんです。」なら、ドアのロックはぶちこわして、ついでにドアもはずして部屋から出すのです。こういうことを小さいときからしてなかったから、甘えをずっと許していたから図体がでかくなった18才ではもう手遅れなのです。
 
 だからいまからでも遅くはありません。親なら、いや親だからこそ、子どもにしなくてはいけないことは、「~しなさい。」といっていいのです。「~してほしいな。」「~してくれる?」じゃないのです。ただし、子どもは親に命令してはいけません。それが親と子どもの関係なのです。そこにははっきりとした一線があるのです。子どもに遠慮などいりません。まだ善悪も判断できない中途半端な大人、あるいは完全な子どものうちはです。私たちが大人としての権威を示さなくては子どもは方向性を失ってしまうのです。
 
 皆さん、もっと子どもに対して堂々とした姿勢を、威厳を示してください。車の助手席はママの席。リビングルームのアームチェアはお父さんの席。子どもは床。家族には上下関係が存在するのは当たり前。子どもとは対等、友達関係ではいられません。まず両親、そして子ども、そして最後にペットです。
 

 

子どもの頃は、みんな自分が誰であるかがよくわからないものです。しかし、10代の半ばあたりから、いったい本来の自分は誰なんだろう、どういう人間なんだろう、どういう価値観を持っているのだろうと、自分探しをはじめます。しかし、本当にこれが自分だと、自分のことをよくわかるものはどれだけいるでしょう?皆さんはどうでしたか?当時を振り返ってみてください。自分という人間をわかっているようでいて、まだまだう~ん、どうなんだろう?とどうもつかみどころのない自
分を描いていませんでしたか?それはどうしてでしょう?

私が思うところ、人は、小さいとき、まだ自分がわからないころ、周りの人からさまざまな評価をされてきたと思います。「あなたは、本当に絵が上手よ。」「あなたは、とても積極的でいいわ。」「ゆちゃんって本当にひょうきんよね。」「やさしいのね、さっちゃんは。」「気前がいいわよねありちゃんは。」「頭がいいわよ。ちーちゃんは。」とこのようにポジティブなこともある反面、「あんたは本当におっちょこちょいね。」「まあ、さとるはあくまでも平均人間ね。」「やすしは、頼りないけど、あつしはしっかりしてるわ。」「リサは算数だけは弱いね。」「まりちゃんは、すごいはずかしがりやよね。」とネガティブな自分の部分も言われてきたのではないでしょうか。

よく聞いてみると、このようなことはしょっちゅう、周りから言われてきませんでしたか?そうです。これこそが皆さんにつけられたレッテルなのです。そして、どれだけそれに影響を受け、それを信じて今日の皆さんがいるかということを私は指摘したいのです。たとえそうでなかったとしても、親が言ったから、先生が言ったから、自分が信用していて、自分のことをよく知っている人から言われてたから。だからこそそれが自分だと受け入れていたでしょう。

しかし、実際とどう違いましたか?本当にその人が言ったとおり、自分は恥ずかしがり屋だったでしょうか?算数が本当に苦手だったでしょうか?必ずしもそうではなかったと思います。確かに多少あたっているものもあるとしても、すべてにおいてそうではなかったでしょう。変わっていった自分もあっただろうし、そうでないときづいた自分もあったでしょう。

こわいのはそこです。そのレッテルはなんの意味がなかったり、真実性にかけていたり、でもなおかつ自分はそうであるとしっかり思いこんでそれをベースにした自分を作ってしまっていたこと。

そのため、今、皆さんがお子さんのことについて、言っていることばがいかに将来のその子を形付けるかを立ち止まって考えてから言ってほしいのです。本当に何気なく口走った彼女のこと、彼のことが間違っていれば、それをベースに彼、彼女は自分を作り上げてしまう可能性が大きいと思います。ポジティブがすべていいのでもありません。しかし、ネガティブなことに関しては、今一度、頭で考えてから発してほしいと伝えます。

 ちょうど10年ほど前あたりでしょうか、日本では、指示待ち人間が増えているという傾向が見え始めました。おそらく今もあまり変わらないと思うのですが、この指示待ち人間とはどういう人間を指すのでしょう?私の理解では、人に考えてもらって、いわれたことだけ、あるいは言われたとおりにしかしない人間ではないでしょうか?

しかし、指示待ち人間を育てたのは誰の責任でしょうか?言うまでもなく、それは日本の教育と各家庭でのしつけによるものではないでしょうか?日本の教育はさておいて、家庭はどうでしょう?

私たちは子どもたちに自分で考え、選択するというスペースと時間を十分に与えているでしょうか?おけいこごとにしても、隣のさくらちゃんがピアノを始めたからじゃ、うちもとか、啓介くんはスイミングにいってからだが丈夫になったからじゃ、うちの純一もとか。みんな塾に通っているからうちもとか。夏は誰もがアメリカではサマーキャンプにいくからうちもとか。こうみますと、子どもに本当に何をしたいかという選択権を与えているでしょうか?特に夏休みにおいては、彼らが自由に使える唯一の時間です。それすらも親の勝手に決めたスケジュールでいっぱいに埋めて、退
屈させてはいけないと意気込んでませんか?

子どもからしたら、1日ボケーっと何もしない日もとても彼らにとっては貴重な時間かもしれません。学校がある期間中は、やれ英語、やれ体操教室、やれ塾、やれサッカーと1週間びっしりのスケジュールだったはずです。せめて夏休みだけでもゆっくりさせて、自分で何をしたいのかを考え、選ばせて上げる機会を設けてはいかがでしょうか?

「そんな、まだ小さいのに何があるのかもわからないから、こっちで計画してあげなくちゃ無理よ」とおっしゃるかもしれません。それではせめてママが調べたものを教えてあげて、その中から選ばせてはいかがでしょうか?そのためには、いろいろな場に子どもを連れて行って体験させて、世の中にはどのようなものがあるのかを知らせてあげることだと思います。それは急に選べるものではないでしょう。動物保護センターでボランティアをするにしても、以前にそこに行っていれば本人も選べるでしょう。バイオリンのコンサートに足を運んでいれば、バイオリンを弾く楽しさがわかるでしょう。

子どもは、自分がしたいものは本能的に感知しています。いやなものは誰が強制してもいやなのです。それを無理にやらせても結局は無駄になると思います。本人がやりたいと思うものこそ、なんらかの実を結ぶものです。何もしないという選択肢があってもいいではないですか?何もしていないその毎日でいろいろなことを考えているのかもしれません。それがいつ花を開くかは親が決めることではありません。子どもたちの毎日は彼らのものです。良かれと思って親がすることが必ずしも本人に通ずるものでないこともあるのです。だから彼らの選択できる力を信じ、自分でしたいことを選ばせ、やらせることも重要だと思います。

夏休みが近づいています。子どもたちが楽しかった、充実していたと本人自身が納得できる夏休みを作らせて上げてください。


イギリス、フランス、ドイツに行ったママたちは現地の子どもたちが早く寝ることに驚いています。これらの国では幼児、および小学校の低学年であれば、早ければ7時、遅くとも8時には寝ています。それでもだいたいどの国でも子どもは早く寝ています。11時、12時に寝る子どもがいる日本の方が異常なのです。パパの帰りが遅いから、パパのお迎えがあるからと子どもを親のスケジュールに合わ
せた生活をさせていませんか?夜の9時、10時というのに幼い子どもたちが大人といっしょにまだ外にいるのは気になります。

子どもを親の都合で就寝時間をゆうに超えて起こしておくのはよくないと思います。成長ホルモンが活性化するのも寝ているときです。脳も睡眠によって次の日に備えることができるのです。早期教育と叫びながら子どもに十分な睡眠を与えず、脳の健康な成長をのぞむのは矛盾してます。ねずみの実験で十分な睡眠を与えられないととても攻撃的になるという結果がでています。それはまさに最近の切れる子を象徴してないでしょうか?

今、多くの日本人の子どもたちは睡眠不足です。「うちの子、ぜんぜん早く寝てくれないの」と嘆く母親がいますが、それは違います。早く寝かせていないのです。子どもに眠れる環境を与えるのは親の役目です。時間がきたから子どもが自発的に寝ると思ったら大間違いです。子どもは親といっしょにいつまでも起きていたいのです。それでも親は子どもを寝かさなくてはいけないのです。しつけがそこにあるのです。口だけで言っていても子どもは動きません。習慣として根付くまでは親が根気よく働きかけないとなりません。面倒でもそれが親としての責任です。

ドイツ人の子どもが7時半になったらさっさと部屋に入って寝たといいますが、これはしつけと毎日の努力の結果です。親がそうしつけたのです。日本人の子どもたちが早く寝ないのではなく、親がそうしつけてないだけなのです。子どもは寝ます。うんとからだを動かしていたら、疲れて寝ます。どうぞ、皆さん、もう一度子どもの就寝環境、生活のリズムを見直してみてください。子どもにとって規則正しいリズムの整った生活習慣は心とからだの成長にとても大切なものなのです。大人の都合で子どもを振り回さないでください。もしかしたらママももう少し早く寝るとさわやかな明日を迎えられるかもしれませんよ。

子育ては勉強

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 子育ては一生勉強。特に子どもが目の前にいるこの時期、私たち親は常に勉強しなくてはならないと思う。子どもの育て方についても一度読んだから、一度聞いたからもうなんでもわかったと思わず、機会あるごとに子育てについて学ぶべきだと思う。なぜならこのような教訓は必要なときに効力を発揮するからだ。必要でないときに聞いても頭に入らない、ましてや行動に現れない。子育てに悩んでいるときに勉強するとすぐ今日からでもその教訓をいかせる。しかし、悩む前に対策を打っておくことも大切だ。
 
 子育ての一番の目標は何だろう?それは子どもが自立できるようになることだ。つまり成人したら家から出て自分の足で生活していけるようにすることだ。そのためにはどうしたらいいか?そのプロセスは生まれたその瞬間から始まる。
 
 赤ちゃんが泣く、親は飛んでいく。さあ、もうこの時点で子どもは親をコントロールできることを学ぶ。つまりこんな小さなときから子どもは親をコントロールするようにプログラムされているのだ。泣いても親がこないとわかると子どもはじゃ、どうしたらよいかを考える。まあ、しょうがないか、このおしゃぶりをしゃぶって寝よう、と。これは極端な例だが、大きくなっても基本的には同じである。つまり親が甘やかさなければ、子どもは人生のつらいことを自分で対処できるようになる。そのためには、甘やかさない。親は子どもが自分で問題を解決できる力をつけるためにガイドするのが役目。つまりどうしたらいいか悩んでいるときには聞いてあげる。
 
 甘やかさない親に対し、子どもは「いじわる、最低な母親」というだろう。けれども言わせておけばいい。親はとかく自分のしつけの仕方を周りの人の目を気にしながら行う傾向がある。甘やかさないしつけにもっと親は自信を持つべきだ。実は子どもは自分で解決する能力を実は備えている。それを親が先走って解決しようとするから子どもはいつまでたっても自立できなくなる。つまり自分で自分の行動に責任をとらない子どもに育てるといつまでたっても成長しない。
 
 子どもは常に親の限界にチャレンジする。まるでそれが彼らの仕事のように。私たちの役目はどこまで許するかという線を常にひいておいてあげること。それによって子どもは安心する。安心があって初めて子どもはチャレンジにのぞむことができるようになる。
 
 日本の子育てがこれだけ問題として表面化しているひとつの原因は豊かさにある。日本ばかりでない、お金がある家庭は気をつけないと、つい子どもの自立をはばんでしまう。豊かさの中でがまんを教えることはむずかしい。しかしこの我慢、感情のコントロールができないと、成長につながらない。甘やかさない!他の家庭と比べない!我が家の育児方針をつらぬく精神的な強さを持つ!ことを伝えたい。

よく子どものためにがんばれたという声を聞くが、本当の意味でそれを理解できるのは、自分自身がそれを感じてはじめてわかることだと思う。本当に親というものは、底知れぬ愛情を子どもにいだくものである。もしそれがないというのであれば、それはとても残念なことであり、恋人とも違う、もっともっと無条件な愛情というものを子どもには感じるのではないだろうか。だから赤ちゃんの時期があり、そのなんともいえない無邪気な、心の純潔な時期があるからこそ、思春期になってあれだけ反抗したり、道をそれそうになっても親はその子を手放さないのだと思う。

そんな子どものためならまた無条件に親はエネルギーを発するのではないだろうか?少なくとも私はそれを何度も経験してきた。そしてそれが生後1ヶ月で高熱を出し入院したときのあの頃だけでなく、子どもの成長の節々で親は常に子どもを守るために限りないエネルギーを発するのだ。子どもが巣立つまでの18年間をひとつの節目としてゴールを定めたのなら、その18年間はなにがなんでも子どものために親は勤める。お金がなくなったときに、リストラにあったサラリーマンが部長の座を退き、タクシーの運転手を始めたのもそれは子どもへの愛情、家族のためではないだろうか。子どものためならなんでもできるって本当だと思う。

海外で子どもが慣れない土地で、慣れないことばで、慣れない環境でがんばってる。わからない英語で最初はあれほど泣いていたのに、3年たってうんとがんばった結果ここまで成長した。自分の力で成長したのもそうだろうが、それ以上にあれだけいやがっていながらもがんばったその成果はみんなが評価すべきだ。特に親はそれをうんとうんと評価すべきだ。よくがんばったね。すごいよ。ママはXXちゃんを誇りに思うよ。とうんとほめてあげるべきだ。そしてその子はこの先人生においてさまざまな壁にぶつかっても、海外でがんばれたことを評価されたことで自信を持ち、あらゆるチャレンジに向かいあい、克服していくであろう。

泣いていた3年間であっても、その時間は決して無駄ではないのだ。トンネルの中を走っているときは、周りが見えない、先が見えない、進歩がないようにみえる3年間であっても、実は着実に子どもは成長していってるのだ。人生に無駄はない。私はこのことばを実感せざるを得ない。親にできることは、その子を愛し、しっかりと受け止め、励まし、そして見守ることだけで十分なのだ。あとは本人の力を信じること。これと決めた育児方針、教育方針をたてたら、最後の最後までよほどのことがない限り貫き通すことも大切だ。子どもの人生はまだ始まったばかりである。そのスタートが海外であっても日本であっても基本的には同じなのだ。要はどの国おいても、つらいときも、うれしいときも家族いっしょにいることだ。

の世の中、インターネットが生活の一部となり、便利になりました。私のように世界を相手に仕事をしているものにとっては一番にその恩恵を受けているといっても過言ではないでしょう。しかしその一方、世の中は時代の進歩と共に複雑になり、さらに自然であったはずの人間の営みが失われつつあります。特にそれが子ども達の生活に現れているのではないでしょうか?
 
 これからは新しい時代での子育ての仕方が要求されてきました。しかし、私達、新しくこのインターネットの時代に大人になってからはいってきたものが上手に子ども達にこの時代の生き方を伝えられますでしょうか?これは大きな課題であると思います。もうすでにその弊害が佐世保市のさとみちゃん事件に現れてきています。今、彼女の死を無駄にしないためにもしっかりと未来の子育てのあり方について見つめなおす時期が来ていると思います。
 
 もうアメリカでは両親共働きが当たり前となりました。日本では男性の給料の伸び悩み、リストラの不安などから女性も子どもを産んでからも仕事を続けるべきだという考えが広まって来ています。あるいは子どもが小さいうちは家にいて、ある程度大きくなってから仕事に復帰という形をとる家庭が増えています。私達は子どもが小さいうちはその成長が楽しいし、まだ手がかかるからと家で母親が子どもをみるという形をとりがちです。しかし私の考えでは、本当の子育ては、子育ての最終段階である人間形成の仕上げというべき思春期が一番肝心であると信じています。確かにもう身の回りのことは何でも自分でできる年齢になります。しかし、心の成長の仕上げはこの時期なのです。子どもは思春期に子ども時代のベーシックな成長をもう一度繰り返すように思えます。そしてそれをしっかり今度は自分で納得して経験して大きく羽ばたくのだと私は信じています。
 
 この時期にしっかり親が心の成長を見守ってあげていない状況でいるとどうなるのでしょうか?子どもは疑問があったり、問題にぶつかったりして相談する人生の先輩が身近にいないのであれば、どこへいくのでしょうか? それはお互いに試行錯誤の状態でいる同年齢の友達に答えを求めたり、ネットに求めたり、自分の中で悩んだりするでしょう。そしていまや相手の顔も表情もわからないチャットや掲示板の架空の相談相手に人生の指針を求めているのです。その結果、ますます本人は困惑し、感情的に思いつめた行動に走るのではないでしょうか? ついこの間までは子ども達の自殺、そして今はいやな相手は殺しちゃえと考え、それを簡単に実行するようにまで変わってしまっています。感情を上手にコントロールできなくなっている切れやすい子ども達。これはコントロールを教えることをおこたってきた大人に責任があるとしか思えません。
 
 子どもを育てること、人間を一人前に育てることはそんなに簡単な仕事ではありません。今でこそ子ども達としっかり向き合える親の養成が求められています。それではどうしたらいいのでしょうか?箇条書きに書いてそれを守れば完璧かという問題ではありませんが、参考になれば。
 
 ・ 子どもを育てることは両親の責任 (子どもに関することは二人で相談して決めていく)
 ・ 夫婦のコミュニケーションがうまくとれていないと子どもはその下でゆらぐ
 ・ 余裕のある生活をする。ぎりぎりの時間の中で生活しない。子どもが何か話したいとアプローチした時にその時間をとってあげられるくらいの余裕をいつももつ生活を心がけること。
 ・ 口に出すことがすべて本当だとは信じないこと。場合によっては逆のことを伝えようとしているのかもしれない。その判断ができる訓練と冷静に子どもの一時的な感情を受け止められるくらいの成長を親に求められる。
 ・ 親は子どもの感情に振り回されないこと。
 ・ 親は困ったとき、つらくなったときに思春期の子どもを育てた経験のある育児の先輩にためらわずに相談すること。親もつらい。周りからのサポートが必要であることを認めること。みんなそうやってこの時期を乗り越えているのだから。
 ・ 子どもの友達のことをよく知っておくこと。これは日々のコミュニケーションの中で自然とわかってくる。学校の先生とも連絡を意識的にとっておくこと。定期的に電話を入れるなり、家の様子などをメモにして送る。
 ・ アドバイスはひかえる。ただ聞いてあげることに徹すること。最後まで聞いてあげること。人生における大切なアドバイスをしたいと思った時は本人はどう考えているかを聞き出し、自分で正しい選択ができるように導くこと。もし間違った考えと察した時は例としてその方法だとどのような結果が生まれるか本人の口からいわせる。親がアドバイスをしたり批判するととたんに彼らは口を閉じ、結局は心も閉じてしまいます。「うちの親にいってもわからない。」という結果になります。
 ・ 黙っているときはそっとしてあげる。かなり傷ついたか、失敗に気づいて反省しているかです。そこから自分なりに学んでいるはず。きっとあとから時間をみて、ぽろっと何が起きたかを伝えてくれるはず。プライドがあってとてもいえないこともある。この時期だからこそ失敗もある程度許されるのです。大人になってからはもう手遅れ。
 ・ 思春期の子ども達が悩みや相談をもってくるのは夜中の11時とか12時とか親が一番疲れていて、もう寝たいとき。
 ・ 2時間ほどのドライブでも、近くへの買い物でもとにかく子どもと二人だけの時間を努めてもうけるようにする。牛乳を買いに出るときでも誘ってみる。
 ・ 夕食は家族全員で食べ、食後の団欒のときをもとう。これも習慣付けること。
 ・ 子どもにストレスの多い生活をしいらないこと。
 ・ インターネットやテレビはせいぜい1時間と限定すること。親は何をしているかがわかるようにパソコンを目の届くところにおいておくこと。
 ・ 子どもは規則やきまりが必要です。生意気な口調を聞いても家を出るまでは親のコントロールの元にいることが本人の安心につながるのです。
 ・ 失敗も大切。失敗から学ぶことがこの時期はものすごく多い。人間関係でこの時期はものすごく悩みます。けれどもそれが今後社会に出た時に必要なのです。おおいに悩ませて学ばせること。聞いてあげること。質問すること。答えをいってはだめ、本人の口からその答えを出させること。
 ・ この時期他人との比較あっての自分しか見えていません。本人のもっているよさをうんと認めてほめてあげること。ないものに関してはあるものをうんとありがたいと思えるように。みんな違っていてもいいんだということを教える。
 ・ ほめることのついでに。まだまだこの時期、本人はてれくさそうに思うかもしれませんが、親にほめてもらうことをものすごく待っています。否定されても口に出して本人の功績を認めてあげること。
 ・ 自分の感情や気持ちを素直に現すことは大切です。それには親が自分の気持ちを素直に表すことによって子どもは学びます。表し方も大切そ。相手に悪い印象を与えないでうまく自分の気持ちを表せるように教えるのは親が見本となります。感情のコントロールができない親をみて子どもはああ、こうやって現せばいいんだとコピーします。
 ・ 感情でもう一つ。この時期子どもは感情の起伏が激しいです。ホルモンの影響もさることながら、こちらも更年期前でホルモンがたがた。それが波長を合わせたようにふりまわされていてはもともこうもありません。自分自身も子どもの感情で一喜一憂せずに冷静に状況を判断すること。パニクらない。
 ・ すぐ答えを出さないこと。むずかしい決断だったらパパと相談して決めるねって伝えること。だいたいすぐ答えを求めるのは朝学校へ行く前だったり、親が仕事に出かける前など。
 ・ 親が子どもの部屋に入ることに慣れさせておくこと。ドアはいつもあけた状態にしておくこと。ロックがあるのなら、ロックをするのは着替えをしているときだけと決める。
 
 リストはまだまだ続きます。はっきりいって本がかけるほどです。子育ての仕上げは幼児期の子育てよりむずかしいと私は思います。最後に、ティーネージャーを育てた結果とは自分自身の成長につながることを覚えておきましょう。彼らから学んだことは自分自身がの時期に学べなかったことであるかもしれません。彼らが育つことによって皆さん自信もまたすてきに輝くことでしょう。
 こどもだけが自分の人生、今の自分の生活のすべてがこどもと思っては危険です。こどもからすればそれはちょっと息苦しいかも。夫婦がありその基盤の上にこどもがいる。自分の人生があり、その人生の一部に子ども達がいる。さらに家庭という場以外にも自分でいることができる世界があるということが大切だと思います。それが仕事であってもよいでしょう、何かを教えるということであってもよいでしょう、ボランティアでもよいでしょう。しかしできたら子どもの世界とは離れた、あるいは子どもの学校からは離れた世界であればより理想的です。つまり~ちゃんのお母さんを超えた部分で名字に取りかたまらない名前で呼ばれる自分のいる世界を持つことです。

ふと気がついたら、夫以外の男性と話していない最近の自分に気が付きませんか。たとえインターネット上の意見交換でも夫以外の男性の意見に耳を傾けることは大切だと思います。それを通じて自分の世界が広げることができるのなら、さらに夫婦のあり方において方向性が見出だせるのであればおおいに人類の半分もいる男性に意見を求めましょう。女性ばかりで、母親ばかりではしょせん偏った世界での話し合いにしかとどまらないような気がします。何か悩みがあったり、愚痴をこぼしたいときにもちろん夫もよいでしょうが、夫にも言えない場合、打ち明けられる誰か人がいることは本当に必要です。話すことでかなり気持ちが整理されることもあるからです。さらに違う立場から意見を言ってもらえることができたら、人生そう絶望的でないことにすぐ気が付くでしょう。生きる力もわいてくるはずです。

さらにこども以外の世界をもっと広く広げられたらと思います。もし英語や他の外国語でコミュニケーションができるのであれば地球の裏側ではどのような価値観が息づいているのか、どのような生活があるのかなど視野を広げて自分の存在を確かめられるようになるといいですね。子どもも小学校に上がればだいぶ自分の時間もできてきます。その時間を何かの活動に生かす、社会に出て自分なりの仕事の仕方を模索してみるなど自分が成長できる世界、自分が生かせる世界が見つかると毎日の生活における充実感の割合が変わってくることに気がつくでしょう。



「私はこどもが学校から帰ってくる頃には必ず家にいるようにしました。それがよい母親だと信じていました。しかし仕事を始めてから、必ずしも3時前に自宅に帰れないことがあることも分かりました。それでもこどもは私が不在の間に洗濯物を取りこんでくれたりといろいろと協力し出しました。今まではすべて洗濯物をたたむことも引出しに入れることも私がしていました。つまり私の時間は本当にこどもや夫のためにほとんどが費やされていたのに気が付きました。さらに仕事を始めてからは夫の疲れが分かるようになり、お金を稼ぐということの厳しさが分かり、人間関係の難しさも分かり、今まで以上に夫にやさしくなれるようになったと思います。そして会話も増えました。会話の内容も変わりました。今まではこどものことやこどもの愚痴などが中心でしたが、今では会社の話、出会う人達の話で私の視野はだいぶ広がったのに気が付きます。

こどものためにと思ってこの子達のために時間を費やしてきた10年でしたが、もうこれからは自分のためにもう少し生きて行くということを認識しながら子ども達の成長を見守りたいと思います。」(こども10才、14才)

 

専業主婦ということばは皆さんからしてどのような響きがありますか?私は個人的には好きではないのですが、フルタイムで家庭にいる女性の多くは専業主婦と呼ばれ、その多くはこどもができて仕事を辞め、家に入るというパターンをとったのではないでしょうか。疲れて帰ってきた夫の放り投げた靴下を拾い、ソファにのせた背広を拾い、何も疑問に思わず自然に、当然のごとく自分が拾っている。自分は家にいるのだから疲れて帰ってきた夫にこの程度はサービスしなくてはと思っている。一人で台所に立ち、食事を作り、その間にこどもがおしっこといえば料理を中断して面倒をみる。その間夫は新聞を広げ、くつろいでいる。これも当然と思っている。

しかしいったんこの関係に疑問をいだくと多くの妻はいてもたってもいられなくなるのではないでしょうか。トイレの掃除、お風呂の掃除、散らかしたものを片付ける、ゴミ捨て、食事の後片付け、どれをとってみても特に高い能力を要求されるものではない。誰にでもできること。そして誰が感謝してくれるわけでもない。親として自分のことは自分で出きるようにと子どもにもしつけているのにもかかわらず、大の大人である夫がそれをしないことに腹が立つようになるでしょう。

特に以前自分で男性の部下まで引き入れて、ばりばりと仕事をしていたようなキャリアウーマンにとって夫と自分の立場がこどもを産んだことによって主従関係になってしまったことは耐えがたいものです。なぜ外で仕事をして収入の多いほうがえらいの?なぜ家にいて掃除、洗濯、こどもの世話をしているものがこんなに意見の弱い立場に置かれてしまうの?そうです。夫の中は妻が家に入ると急にえばり始める人もいます。これは男としての見栄でしょうか。私達は親として、夫婦として、パートナーとして本来対等でなければなりません。ただし妻がくり返し行なっている単純家事を片目に見ながら、男性の中には急に自分の方が優劣だと感じ出す人もいます。ひどい夫だと、「いいよ、いつでもおれが主夫になってやるよ。けど俺の今の収入以上に稼げるか。」と脅す人もいます。

つまり自分だけがやりたいことをやめて、仕事までやめて、好きなこともやめて家に入ったのに、なんの生産性も無いことを日々繰り返している自分は貧乏くじを引いたような、損をしたような、犠牲になっているように思えてくるかもしれません。確かに子育ては誰にも変わってもらうことはできない、この時期、子どものそばにいることは人間の育成に大切。と言い聞かせても振り返れば体力を要する下働き的な仕事ばかり。周りからのサポートがない、孤立した子どもとの毎日の生活、夫は帰りが遅い、夫の感謝の気持ちがないとなると不満の毎日を送ることになり、決してこれは子どもにも悪い影響ですし、ママ自身の健康によくありません。

それではいったいどうしたらいいのでしょうか?それはいかに自分を納得させるかにかかっていると思います。

1)自分が選んだ道であること

まず自分が家にとどまることを選んだということに自信を持ちましょう。誰からも強制されたのでないこと。夫が仕事をすることに反対したからという理由ではいけません。なんでも人のせいにする人生では、自分自身が不幸になるばかりか、その責任をなすりつけられた相手(夫やこども)をも不幸にしてしまいます。自分から家に入ることを選んだことを誰にでもほこりをもっていえるようにしましょう。そのためにはなぜ家に入ることを選んだのかもう一度考え直してみましょう。

2)子育ては大切な仕事

一人の人間を完成するのはたいへんな仕事です。これはりっぱな仕事といえるでしょう。しかも24時間要求される仕事です。子どもが病気にかかれば病気についての知識を高めるでしょう。子どもが受験するのであれば、徹底的に教育制度について学ぶでしょう。どれをとっても仕事のかたわらにはできないくらいの時間を費やし、そのエキスパートになりましょう。

3)夫は感謝の意を

あまり家にいることができず、妻をサポートできないのであれば、せめて夫は妻に感謝の意を毎日述べるべきでしょう。また妻は夫が毎日仕事に出て、経済面での家庭へのインプットを感謝すべきです。

4)今しかできないことをやる

ある意味で家にいれば何をしようと自由ですし、時間も自由に調整できます。あとは意思の問題です。与えられた時間をいかに有効に使うか。自分を磨くにしても子どもといっしょに何ができるか。将来につながるものを探すとよいでしょう。そして人生80年というものさしがいかに長いかを知ることです。この子育ての時期がいかに短いかを認識すべきでしょう。そのためにいもしっかり子どもと向き合ってこのかわいい時期は今しかないと毎日自分に言い聞かせたら、家にいられる自分がいかに幸せかがわかるでしょう。

5)家事は最低限に
どうしてそんなに生産性のない家事に腹が立つのか見直して見ましょう。ものが多くてそれにとられる時間が多すぎるのではないか?家事のやり方の効率が悪いのではないか?買い物でも、掃除でも回数を減らしてもいいのではないか?きっと家事に費やす時間をカットでき、その時間を他のところへ回せるのに気づくでしょう。

6)仕事に未練?
子どもはすぐ病気になる、幼稚園の行事が多いなど仕事と家庭を両立しているママたちはたいへんな苦労をしています。一人の収入でもやっていけるということは恵まれていることです。仕事に未練があるのでしたら、いずれ復帰することを念頭に準備期間にできることを探しましょう。ボランティアでもよいでしょう。自分で勉強することもできるでしょう。今、熱を入れてしていることは決して将来無駄になりません。いや、無駄にしないのです。


妻としての位置付け、母親としての位置付けと、自分と夫との位置付け以前にまず自分の人生における今の自分の位置づけをよく見つめてください。彼が収入が多いからという理由で家庭内の決断を彼にゆだね、自分の意見を控えるなど遠慮していませんか。彼の方が疲れているのでという理由でいやと思っていることも口に出さずに我慢していませんか。またどうして不満に思ってしまうのか、いらいらしてしまうのかも考えてみてください。もしかしたらそれが彼の自由さへのねたみであったり、仕事を通じて彼が持っているアイデンティティーへの嫉妬であったり、自分自身の能力が発揮されていないことへの不満であったり、先行きが見えないことへの不安であったり。トイレ掃除をしている時の自分の中で燃えている感情「何で私がこんなことを。私はメードじゃないのよ。みんなだってトイレを使うのになんで私だけがいつもこんなことをしなくちゃいけないの。」を分析してみてください。これらのいらいらを子ども達にぶつけていませんか。

私は皆さんのために回答を出すことはできません。皆さんそれぞれ家庭状況が違い、人生のページも違います。その中で自分自身の納得の行く今を見つめなくてはならないと思います。もしまだ模索中でしたら、何年かかっても構わないから納得の行く回答を求めてください。また人の納得を参考にすることはできても、それは決して100%自分のケースに当てはまると思わないでください。自分の納得は自分自身で探し、自分固有のものでなくてはならないと後々まで力は持続しません。 Good luck !

 

 しつけの視点 

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あるバスの中での光景をお伝えしよう。そこには4才くらいの子どもが席にすわっていて、そのわきに1才くらいの赤ちゃんをおんぶしているお母さんがいた。赤ちゃんは重そうであった。それでもその母親は子どもに席を与え、自分は立っていた。おそらくこの光景は日本では当たり前に写るのであろう。しかし、私の目には、重い赤ちゃんを背負っている母親こそ席が必要なのではないかと解釈したのだ。4才の子どもは元気そうだった。母親が手を持っていれば、しっかり立っていられるはずだと私は思った。だが、日本はまず子どもの安全が重視され、子どもが優先される世の理解なのだろうなと察した。グローバルな視点では、今、親の安全を確保して、初めて子どもの安全に気を配ることができるという理解が浸透しているようだが。例をあげてみると飛行機での酸素マスクのデモンストレーションを思い出してほしい。あれはあきらかに、親の酸素マスク着用の上、子どものを着用させるようにと指導しているのだ。

次にその子どもがきちんと席にすわっていない。立ってみたり、横すわりになってみたり。そのとき、その母親は「みんなちゃんとしてるわよ。」「みんなに笑われるよ」と子どもにきちんとすわる指導をしていた。その子どもは他の人から笑われるからきちんとすわらなくてはいけないということ、他の人たちはみんなきちんとすわっているからその子もきちんと座らなくてはいけないことを教え込んでいた。つまり他人(みんな)あっての自分(子ども)ということをその母親は子どもにしつけていたのだ。さらに、「運転手さんに降りてくださいっていわれるよ」と多少脅しとも思われるニュアンスを含め、運転手さんに怒られるからきちんと座らなくてはいけないことを子どもに伝えているのだ。よく昔、おまわりさんを持ち出して子どもにいうことを聞かせるのと似ているなと思った。つまりおかみを利用したしつけの仕方だ。

この母親のしつけの仕方を観察していて、私は、あれ?いったいいつになったら、安全、危険というコンセプトをその子に伝えるのだろうかと待っていた。つまり、その子どもがきちんと深くまですわらないといけない理由は、バスが急に止まった場合、あるいはカーブなどで曲がった場合に、席から子どもが放り出され、けがをするかもしれない危険性があるからだ。「バスが急に止まったりしたら、頭を打って危ないでしょ?だからきちんとすわりなさい。」のはずだ。「ほかの人から笑われるわよ。だからやめたほうがいいんじゃないの?」ではしつけのインパクトしてはあまりにも弱い。危ないことは絶対にだめなのだ。子どもにその選択の余地は与えなくてもよいはずだ。周りの人がどう見ようと、周りの人が笑おうが何をしようが、子どもを危険から守ることとはまったく関係ないはずである。大切なことは将来、その子どもが危機を察し、自分の身を守るすべを自らはかれるようになるかどうかである。それをしつけるのが親の役目である。

しかし、こんなことを書いたら、私のしつけは厳しすぎ、日本のしつけの仕方にはマッチしないと非難されそうである。それでも、私はやっぱり言い続けるしかないかもしれない。それは私は子どもたちを守るという視点に立っているからだ。

 日本人補習校。アメリカだけでも日本人補習校はなんと100校近くあるのです。そこの日本人の子ども達の実態はあまり一般的には知られていません。中学、高校になるとほとんどの子どもたちは現地で生まれ、現地で育った子ども達です。補習校にはもう15年17年と通っています。中等部、高等部となると日本に帰国する生徒のほとんどは帰国してしまったり、あるいは塾に通うようになり、補習校からは身を引いてしまうのです。さらに補習校には現地で育った子ども達の日本語力と日本の受験に向かう帰国組の子ども達とでは日本語力に大きなギャップが出てきます。そのようなことも原因でいわゆる永住組の子ども達が主になっていきます。
 
 これだけ長い期間現地に住んでいれば当然日本語はほとんど話せず、英語は現地の子ども達とほぼ同等だと思われると思います。しかしこれらの家庭には共通点があります。これらの家庭のほとんどは両親共に日本人、あるいは母親のみ日本人というケースが多く、どの家庭でも日本語教育をしっかりと教育方針に子どもが生まれたときから据えてきました。私が驚くことはほとんど補習校しか通っておらず、家庭では日本語を日本人の母親あるいは父親としか話してないにもかかわらず、発音はとてもきれいで、しかも作文も書け、中学、高校の教科書も読め、漢字も書け、外から見たら日本で育った日本人かと誤解するほどです。中身はかなり現地の子どもでありながら、しっかりと日本人の部分を備えています。
 
 皆さんの中には永住組の方が多くいらっしゃると思います。是非、バイリンガルに育てたいと思っていらっしゃるでしょう。しかし、子ども達にとってはバイリンガルという得点以上に、日本人、日本語は彼らのアイデンティティーなのです。そのためそのアイデンティティーをいかに育てるかは親に任されています。とっても大切なアイデンティティーです。漢字がたいへん、もうついていけないと弱音をはく時期にも必ずぶつかります。しかし、彼らにとって補習校はある意味で彼らが彼らでいられ、同じような境遇の仲間と時間を共有できる唯一の場であります。そのようなことも含め、是非継続にチャレンジしてください。最後に自称16年間補習校に通った中学3年の菊池くんの答辞をここに抜粋して記します。
 
 「初めて一人で日本に行ったとき、そこは新鮮な驚き、感動の連続でした。僕は日本を訪れるまで自分から日本について知りたいと思ったことがありませんでした。中等部の歴史は苦手で、その授業中の僕の頭は寝ていました。いま、とても後悔しています。これから高等部に進むにあたり、新たな気持ちで日本を学んでいこうと思っています。現地校の友達にゲームや電子機器だけでない日本を伝えて生きたいと思います。
 
 最後になりましたが、補習校の勉強にはあまり熱心とはいえなかった僕を温かく見守り、指導してくださった先生方に厚くお礼を申し上げます。そして、お父さん、お母さん、ありがとう。特に僕より長い間、補習校に通い続けたお母さん。今日はお母さんの卒業式でもあります。本当にありがとうございました。」
 これだけでなんか本の題名になりそうですが、実は頑固な子どもほど本来、一番楽な子どもだと思うのです。私達は頑固な子どもは手に追えなくて困るといいがちです。まあ、育てる側としてはたいへんかもしれませんが、見方をちょっと変えてみると案外楽なのです。それは頑固な子どもほど自分の意思をきちんと持っているからなのです。それだけの主張が出きるということは21世紀においてとても大切な要素を備えているということです。

うちの娘も相当な頑固者です。これは夫の頑固さを受け継いだと私は心の中で思っています。だから夫はその頑固娘を一番上手に扱えるかと言うとこれまただめなのです。つまり頑固同士心が通じ合うわけでもありません。

私が「ご飯食べなさい。」といっても本人がどうしても食べたくないと思ったら、何がなんでも食べません。「食べなかったら、~だからね。」なんて交換条件を出しても効果まったくなしです。本人は食べないと決めたら食べません。

それならです。いっそうのことほっておくのです。おなかが空いたらきっと下にそっと下りてくるでしょう。今食べなくても、あとで食べればそれでもいいではないですか。そりゃ、母親の都合と言うものがあります。いつまでたっても台所は片付かない。我が家の方針では全員が揃って初めて食べるが実行できてません。こども一人のために自分のスケジュールが狂うのは実に憤慨でしょう。

しかし考えても見てください。ここで何が大切かということです。彼女の自己主張はすばらしいものではないでしょうか。いまどきこれだけの頑固を通し、自己主張を貫ける強い精神の持ち主はどれほどいるでしょうか。言われるままに動く、依頼心が強い、自立心が無い、そんな子どもが増えている中、このような強い精神力を育成できるチャンスはみのがしてはいけないのかもしれません。それでは甘やかしていると思われる方もいらっしゃるでしょう。しかしそれとは少しニュアンスが違うと思います。本人はそれなりの根拠があり、自分が絶対に正しいと信じて、そのような反抗に出ているのです。単なる意味の裏づけの無いわがままとはまた別です。

しかもこのようなことはそうしょっちゅうあるわけではないはずです。それならば1ヶ月に一度夜ご飯を食べなくても死にゃしないと腹をくくるのはいかがでしょうか。

まあ、うちの場合は、少し時間がたって本人が落ち着いた頃、彼女は私の前にひょこっと現れ、さっきのことがうそのような笑みを浮かべることがあります。たいていその頃には怒りもおさまっています。そしてけんかをした相手である兄貴がいないのを見計らって食べ始めます。

子どもの頑固はプライドでもあるのです。だから頑固を貫かせればいいのです。やがて嵐が通過すれば、すぐ元通りになるものです。嵐が来たからとあわてる事もないのです。これも成長過程のひとつ、やがてこの頑固さが大人になってよい動力になるはずです。
 

 

世の中にはおそらく万と言う子育てをテーマとした本が出版されています。子育てを検索しただけでもその数、万を超えます。どうしてそれだけ多くの本が毎月のように出版され、さらにそれらがばんばんと売られて行くのでしょうか。確かに時代の変化というものもありますでしょう。しかし子ども達はそんなに昔から変わっているわけではないのです。特にこどもの年齢が低ければ低いほどこどもはこども、どこの国でも3才児は3才児らしく生きています。

一番の原因はそのような本を読む人達は自分の子育てに自信がなく、何か参考になればと求めているから読むのでしょう。皆さんも思い当たるふしがありませんか。けれども誰もが迷いを持っているのです。子育てほど難しく、簡単なものは無いからです。つまり難しいと思えば難しいですし、簡単と思えば実に簡単なものなのです。昔はすぐ身近なところに子育てを教えてくれる人がいました。両親であったり、親戚のおばさんであったり、近所のおせっかいなおばさんであったり。しかし、今はそういう人が周りにいません。自分から求めていかないと何かひとつの問題にぶつかって、不安でならなくなるのです。そこでマニュアルを求め始めました。

そして本来子どもひとりひとりの個性をみて、しっかりと向き合いながらその子にあった子育てをしてきてもいいはずなのですが、今はそういう子どもを見据えるという観察力が衰えたように思えます。よく、子どもをよく見極めるとはどういう意味?と聞かれますが、それもひとつの表れでしょう。人を観察して、分析するという訓練を私たちは受けていません。これは教育の仕方に問題ありなのでしょう。さらに自分の本能の言っている事、あるいは心が反応している状況に敏感でなくなりいました。感情は子育てにおいて抑えるといったことでしょうが、そうでしょうか?私はけっこう心というものは正直だと思います。子育ての本でなにをいようが、我が子がいやと反応しているし、私もこれはおかしいと思うのならそれに従うべきでしょう。それが、子育ての本はこう書いてあるからとそちらを信じる傾向が強いように思えます。この点においても、本に書かれていることよりも自分の気持ちに正直に従う、自分の力を信じるという姿勢に欠けてしまったのかもしれません。きっと私たちの多くは自分の力に自信を持つように育てられなかったのでしょう。

それでもやはり私達が子育ては難しいとつい口に出してしまうのは子育ては「かくあるべき」というステレオタイプを求めているからだと思います。誰もが子どもをパーフェクトに間違いなく育てたいと望むからです。しかしそのようなステレオタイプに当てはまる子育てなど実際は無いわけです。子どもはマニュアルどおりにはならないし、パーフェクトな子どもなんてしょせん生まれっこないのです。こどもが個々に顔が違うように、個性もさまざまそしてさらに親もさまざまでそのコンビネーションはどの組み合わせもユニークそのものなのです。つまり「わたしたちだけの子育て」が要求されているのです。

 

おそらく皆さんが日々努力していることといえば良妻賢母になろうと言うことではないでしょうか。それは無意識の内に自分はいい母親でいたい、こどもから好かれたい、夫からもよい妻として母親として認められたいという強い願望のうちにはぐくまれてきた目標ではないでしょうか。「あら、ノーラさん、それのどこが悪いの。日本全国母親ならみんなが目標としていることじゃない。」という声が聞こえてきそうです。しかしめざす良妻賢母が実は必要以上に自分達の肩に重荷として重くのしかかっていないでしょうか?それがプレッシャーになっていないでしょうか? 

さらに良妻賢母はこどもの教育もパーフェクトに見たいという意識が強い傾向があります。よい母親はきちんとこどもの勉強を見て、よい学校へ入れることができると信じています。そのためこどもへも必要以上の期待を寄せるわけです。これではこどももあっぷあっぷ状態になるのが目に見えます。子どもも追い詰められ、さらに母親も実は自分を追い詰めていっています。

 今、このレッテルをちょっとでも意識の中からはずしてみてください。今まで朝6時に起きてお弁当を作ってあげていたのをやめてみたらどうでしょう。栄養バランスを考えた手作りお弁当を作っていたあなた、今日はパンにハム・チーズをはさんで、りんごを添えてこどもにもたせてみたらどうでしょう。そんなことをしたら、幼稚園のお友達から子どもがとがめられるわ、回りのお母さん達のうわさになるわ、そう思ってしまいませんか?そのような怠り、手抜きをしたら、自己嫌悪に陥ってしまうと思いましたか。もしそう思われるようであれば、きっとその方は良妻賢母のレッテルにかなりふりまわされているかもしれません。

 毎日絶対に続けるんだと思っていたドリルを、日曜日だけはやめてみては?あるいは疲れたらまあ、今日一日やらなくてもいいではないですか。 

家にいる母親だから、専業主婦だから、仕事をしているからだと言われない為にと、私達はいかに良妻賢母というレッテルに執着し、自分を追い詰めてきたかということです。特に仕事を持っている母親は社会、世間、会社、親族に加え、こどもによってもプレッシャーをかけられるものです。「他のお母さんはみんなお母さんがやってるんだよ。」「普通のお母さんがよかった。」とこどもは自分が楽をしたいし、甘えたいからそのように母親失格を前面に出して戦ってくるのです。 

しかし良妻賢母なんてしょせん理想像に過ぎないのです。誰がそれを評価するのですか?案外それは自分ではないでしょうか?そもそも良妻賢母なんて誰もそんなにドラマに出てくるようにパーフェクトにこなせるはずがないのです。そのような理想を掲げているから、「ああ、本当に子育てに自信が持てない。」「子育てを楽しく思えない。」と自分を追い詰めて行くのではないでしょうか。

 それぞれの家のやり方があっていいではないですか。自分は自分でしかいられない。自分はこういう母親だけどそれでいいんだと自信を持てばよいのです。力を入れすぎていると感じたら少し手を抜けばいいのです。今晩は買ってきたお惣菜を出しても、コンビニのおにぎりをお弁当に持たせてもいいではないですか。子どもたちは1食くらいコンビ二弁当でも死にはしません。家庭に母親がいる生活が理想でもなくすべてでもないのです。スウェーデンでも専業主婦のほうが少数派なのです。タイでは働けるのに働いていないことはむしろなまけものと見られてしまうのです。アメリカ人の共働き家庭の子どものランチはベーグルにクリームチーズとりんごだけです。 

もし母親が自分なりに一生懸命この家族という生命体を愛し、なんとか運営して行こうと言う気持ちすらあるのであればこどもがなんといおうが我が家の家事方針をこどもに納得させればよいのです。そこで割り切らさなくては周りの弾圧は相当なものですからこどもは納得しません。「うちはうち、他のうちは他のうち」これを徹底的に頭にたたきこめばいつかは理解してくれると思います。

 家族とは共同体なのです。なにも母親がすべての家事をしなくてもいいのです。夫もいっしょに食事を作る楽しみを分かち合えばいいのです。こどもがいるのですから子どもができることはおおいに手伝わせればよいのです。いえ、手伝わせるということばは取り除きましょう。こどもも家族の一員。同じ屋根の下で生活する以上彼らも家事の役割責任があると言うことを伝えましょう。3歳ならもうお茶碗を並べることならできるでしょう。さあ、今日から始めてみませんか?

 こどもはいくらでも親を独占していたいと思うものです。極端な話、24時間いっしょにいてもらいたいでしょう。特に小さな子どもでしたら、親自身が子どもをほっておけないでしょう。しかし一日中こどもといっしょにいればよい母親だと信じていませんか。周りでも同じような目があるでしょう。母親がいつもいっしょにいるのが子どもの幸せよ、とか子どもといっしょにいるのが母親の務めよ!なんて言われたことがありませんか?子どもが学校から帰ってきたら必ず家にいたい、だからパートは子どもが学校から帰ってくるまでと思っている方も多いでしょう。
 
 しかし私が伝えたいのは、子どもといっしょにいる時間のけじめを強調したいのです。家の中でいっしょにいる状態であっても、今はママの時間というものがあってもよいと思うのです。子ども自身も自分だけの時間というものをもってよいでしょう。そのため、子どもの時間、大人の時間、勉強する時間、いっしょに過ごす時間というものをある程度毎日の生活の中で決めておいた方がめりはりがありよいと思います。そうしないといつまでもこどもといっしょという時間が永遠に続いてしまい、気がついてみたら、あれ?いったい自分のための時間を今日は持っただろうかと考え込んでしまうでしょう。そのためにもこどもが何時に寝たら、あるいは何時を過ぎたらそれ以降は大人の時間と決めてみるのはどうでしょうか。目が離せない年齢の子どもでしたら、週に1回、2時間だけでも子どもを預け、自分だけの贅沢な時間を作ってみてはいかがでしょうか。そうするときっとこどもと過ごす時間と決めていた時間が充実した時間になると思います。

 子ども達は常に私達に挑戦してきます。いらいらすることも次から次へと言ってくることがあります。「こんなのまずい、食べない!」、「あれ出して」、「これ、買って~」と。しかしすべてに対応していたらそれこそ頭の中もパンク状態になってしまいますし、体力的にも持続しないでしょう。そのため何に対して本当に取り組むべきか、何に対しては流すべきなのかその判断が必要です。場合によっては子ども達は単に母親を試そうと思って言うことがあります。本気ではないのですが、ただ親がどのような反応をするのかおもしろいことから、あるいは疲れから来ている自分自身のいらいらをぶつけたいためにいうこともあります。つまりたいていの場合、子どもはもう親がどのような答えをするかがわかっていながらねだるのです。

 

たとえばスイミングに関しても、たとえ自分で行きたいと言い出したスイミングでも、まだ10才くらいですと疲れていて行きたくなかったり、気分的に学校で何かいやなことがあって行きたくないということあります。特に学校から帰ってきたばかりですぐおけいこの先へ行くということはエネルギーのいることです。今や学校と言う所は友達関係で大変疲れるところですから、帰宅してすぐまたどこかへとなると本当に行く元気がすぐでません。そのためこどもは「きょう疲れているからスイミング行かない。」と言います。そうすると親は「だめよ、高いお月謝払ってるんだから熱も無いんだから絶対に行きなさい。」と言います。しかしこの絶対と言ってしまうとスイミングへ行くことが大変なプレッシャーに変わってしまいます。このような場合は戦うに値しないことなのです。だから親は単に、「そう、疲れているのね。わかった。じゃあ、ちょっと休んでからまた考えよう。」と流しておけばいいのです。

このような例もあります。自分で食べると言ってご飯を盛り付けたとします。母親としては明らかに多すぎて食べ切れないのが目に見えています。「本当に全部食べるのね?」とこどもに念を押すでしょう。こどもは「絶対に食べる」というでしょう。しかし案の定「やっぱり食べられない。もうおなかいっぱい。残す。」と言うでしょう。そこで皆さんはなんと答えますか。「だって絶対に食べるってさっき言ったでしょ。言ったことは守りなさい。最後まできちんと食べなさい。」というでしょう。そして戦いが始まります。この戦いを選びますか。子どもはおなかがすいているときは食べられると思うのですが、実際おなかがふくれてくるともう食べれなくなります。私たちはそれがわかっています。けれども子どもはそのように言うのです。けれどもそれだからといって口の中に押し込んでまで食べさせられませんよね?それでは子どもの気持ちを選ぶか、あるいは食べ物の無駄をさせないかどちらかを選ばなくてはいけません。皆さんはどちらを選びますか?それは戦うか、あるいは気持ちを受け止めて流すかということだと思います。

親は若い内はすべての戦いのチャレンジを受けてもよいでしょう。しかしこどもが10才を過ぎ、ティーネージャーになるころ多くの親は40代に突入します。40代はからだの変化がじょじょに始まる頃です。また仕事を始める人も多くなるでしょう。そうすると母親も疲れるのです。怒ることはエネルギーを要します。子どものチャレンジに対して戦うことはさらに疲れます。また、子どもの気持ちをくみとりながら、正しいことばや声かけを選んでいくこともかなりのエネルギーを要するのです。

そのため私は何が戦うに一番ふさわしいかを判断することを勧めます。小さなことは聞き流す程度にして対応した方が子ども達も実際は楽なのです。すべてにおいて真剣に取るくむ必要はないのです。無視しろと言っているのではなく、そのことばの背後に何があり、戦うのに値するかを判断しましょうと言いたいのです。大切なエネルギーは大切な問題に回しましょう。戦う部分を選ばないと本当にエネルギーが必要な部分に回せなくなります。夜寝る前に、「ねえ、ママ~」と声かけられたときのために是非そのエネルギーをとっておきましょう。

 日本でも、アメリカでも比較的尊ばれている価値観のひとつに、「忙しいということ はよいこと」というものがあります。何もしていないことに罪悪感を感じる、暇なこ とはあまりよく受け入れられない、何もしていないことは生産性を持たないなまけも のと捕らえる風潮があるように思えます。そしてそのような価値観にまどわされて私達は毎日何かやることを作ってるのではないでしょうか?今日、一日何もやることが ない、行くところが無いと不安に思えてきませんでしょうか。

子どもが小さければ、月曜は体操教室、火曜は下の子の子育てサークル、水曜日はス イミング、木曜日は英語教室、そして唯一空いている日が金曜日、しかしその金曜日 が埋まっていないと落ち着かず必ず誰かと会うようにスケジュールを組む。そしてこ どもが小学校に上がっても月曜日は英語教室、火曜日はスイミング、水曜日は公文、 金曜日はピアノそして唯一空いている日が木曜日でもクラブで帰りが遅い、そのよう な子どもの生活ではないでしょうか。

そして母親自身も子どもが幼稚園や学校へ行っ ている間に、やれトールペインティング、手話教室、英会話、テニスと毎日何かが埋 まっている1週間で、1日2つ以上行かなくてはいけないところがあることもしょっ ちゅうでしょう。それを充実と呼んでいませんか?しかし、これがそのまま子ども達 の将来のスケジュールパターンとして植えつけられていくように思えてなりません。 子どもたちもこのような綿密なスケジュールに追われ、疲れているものの、私が心配 なのはそのようなパターンにしか安心感が得られず、疲れて本来子育てをエンジョイ すべきなのにそれができていない親です。

このようにスケジュールに追われる生活の中でいったいいつのんびりと空を見たり、 外を散歩しながらいろいろなことを考えたり、本をじっくり読んだりできるのでしょ うか。常に何かに追われている生活、常にあれをしなくては、これをしなくてはと頭 の中をしなくてはいけないことのリストが堂堂巡りしている中でどこにものごとを創 造したり、考えたり、人への思いやりをもつ余裕が持てるのでしょうか。

1週間の内、いや毎日の中でも1,2時間はボケーと何もしない余裕を持った時間を作ることが何よりもの心の栄養だと思います。そしてその余裕のある両親の笑顔は何 よりも子ども達へのプレゼントだと思います。余裕が無いと笑えるはずのことも笑え なくなってしまうのです。心の底から笑えることは本来、心への栄養補給のはずなの に、笑っていないお母さん、お父さんが増えていることに私は本当に残念だと思いま す。

子ども達はいくつになっても本当におかしなことをしたり、おかしなことを言ったり して私達を笑わせてくれるのです。子育てが楽しい、こどもといることが楽しいと思 えるのはこのような時ではないでしょうか。子どもが小さい内は自然とそれが多くて も年齢が増すと子ども達は親の顔色をうかがってきます。そのため私達親側で心の余裕が無ければ笑いが飛ぶような雰囲気を与えてあげることができません。

そのためにも家族がみんなで笑い転がれるようなそのような環境づくりを心の余裕か ら見出してみてください。 ちなみにうちは、皆さんが驚くほどおけいこごとたぐいのものはほとんとしていませ ん。長い夏休みも自由に過ごさせてあげようと思っています。与えられた膨大な時間 を子どもたちは自分なりに工夫をし、有効に、後悔なく使うことができると信じてい ます。与えられたものだけをこなしてきた子どもは、ふいに与えられた時間をどうし てよいかわからない傾向があります。その時間は水族館、動物園、遊園地、などお金 のかかる場所に行くことで処理していきます。つまり、することを与えられることで 安心を求めるのです。

それに対し、常に自由な時間を与えられてきた子どもは、その 時間をどのように使ったらよいかの工夫をする訓練ができています。大きくなって自分の人生を楽しむ時期が来たときに、自由時間というものを自分が楽しめるために、 あるいは人のために使うことができ、その時間的空間を心から喜んで受け入れられる 子どもに育てたいと思いませんか?

 今朝、ラジオではトイレット・トレーニングの話をしていました。きっと今日もトイレット・トレーニングで悩んでいる海外のママもいることでしょう。ラジオではどうして、用を足した後に "Bye, Mr. Poo-Pee"といって水を流すことがテーマに上がったのです。そして視聴者からいろいろな意見が寄せられていたのですが、その中に、子どもがそれをもてあそぶからという意見があったり、あの水が吸い込まれていく様子は子どもにとってはものすごい恐怖なのだとか、流れていった先はどこなのだろうとか、なかなかおもしろいでした。
 
 皆さんはどのように子どもにトイレを紹介しましたか?私が海外での子育てを調べ始めてから、このトイレット・トレーニングについての見方が大きく変わりました。私は以前、トイレット・トレーニングは自立に向けての最後の関門だと思っていました。一人で寝返りができて、一人で歩けるようになって、おっぱいから普通食に移行して、一人で食べれるようになって、話せるようになって、そしておむつが取れたらと少しづつ自立に向かいます。そしてこの最後のオムツが取れたら私はどんなに楽になるだろうとそう思っていました。しかしこのトイレット・トレーニングという節目がない国があるということを知って私はびっくりしました。発展途上国の多くの国では、子どもはパンツもオムツもしてないのです。そのような国ではトイレット・トレーニングなんていうコンセプトすらないのでした。そしてママたちはそんなことで悩みもしない。
 
 地球規模でおむつはずしを見たとき、オムツすら最初から存在しないという視点があり、となるとオムツはずしもない、と知ったとき、かなり気持ちが開放されました。結局私たちが子育てで悩んでいることとは先進国に住むものならではの悩みがいかに多いかということです。文明の発達によって、近代化する社会の中で、私たち親はより多くのことで子どもについては悩みを増やして行ったのです。あああ、私もご多分にもれず、我が娘の学校のことで悩んでいます。学校のない国の人から見たらいきっとそれは悩みにも写らないのでしょう。しかしどこの親も同じ、きっと彼らは他のこ
 とでもっと悩んでいるのでしょう。

 妻は子育ての大変さを夫に理解してもらいたくても、ここまでいわなくちゃわからないの?これだけ見ているのに分からないの?と発狂寸前です。けれども実際に本当にくわしく説明しているでしょうか。多くの妻は夫の悠悠自適な子供が生まれる前と変わらない生活を横目にみながら面と向かって自分の気持ちを伝えているでしょうか。また伝えた所で夫はどれほど理解できているでしょうか。

「夫はこどもが生まれる前から仕事が終わるとジムに行って汗を流して帰って来るんです。長い時間の勤務を終えた後でおもいっきり汗を流してストレス解消をしたい気持ちはわかるんです。こどもがいなかったときは私も仕事が終わるとエアロビックスなどへ行って汗を流して帰宅していたんです。けれども私は毎日1才半の息子を相手にもう発狂しそうなまでも振り回されてくたくたなんです。それでも彼は家に帰ってきて疲れたの一言を言って寝てしまうんです。彼は息子が生まれた前とあとではまったく生活が変わってないんです。けれど私はもうぼろぼろなんです。それでも彼はわかってくれません。」

「息子が2歳のときでした。帰ってきた夫がなんかうれしそうなんです。だからどうしたのと聞いたら今度奄美大島でお客さんとダイビングをするというのです。私はそれを聞いてカアッ~~~となってまな板を包丁で何度も何度も叩きました。今でもすごい跡が残っていますが、それをみるたびに私の気持ちを思い知れと間接的に言っています。」

「息子は本当に育てにくく、なんと4歳になるまで夜中必ず1回は泣いて起きたんです。もちろん母乳のときは私が起きておっぱいをあげなくてはいけなかったので私が起きなければいけない事には納得していました。しかしおっぱいが終わっても夫は一度として息子が夜泣いたときに対処してくれなかったんです。いつも通りに決まった時間に寝てしかも朝さわやかに起きていたんです。土日も同じです。そして一度くらいは起きてと言っても息子が泣いていることすら気が付かなかったと言うのです。さらに次の言い訳がおれは明日仕事がある、おまえは家にいるんだからいつだって昼寝できるだろうというのです。すべてが二言目にはおまえはいつも家にいるんだから自由な時間がたくさんあるだろというのです。しかし息子が昼寝をしている時に私は夕飯の支度だとかこどもが寝ているときでないとできない電話などがあっていっしょにのんびり昼寝なんてしていられませんでした。しかも24時間オンコールの働き詰めなんです。休めてもこどもがそこにいれば本当の休みではありません。何かあったら動かなくてはいけないのは私なんです。だから休みがまったくないのです。彼は少なくとも土日は仕事から解放されています。しかし私は土日も夏休み中も子育ての責任から開放されないんです。」

これらの声を聞くと、彼女達はしょせん言ったところで何が変わるわけでもないしと言います。おそらく言い方がいやみにしか出てこないのかもしれません。そしてそのいやみや不平を聞きたくないがゆえに夫たちはさらに家から足が遠のいてしまうのではないでしょうか。いやみにしか聞こえないのなら言わない方がいいと思い、さらに我慢することが美徳とすら思っている人もいるかもしれません。

おそらく夫らは1,2歳の子どもと1日中、毎日生活することの大変さを理解していないのだと思います。口で説明していてもせいぜいやさしい夫で「大変だよね」とねぎらいのことばをかけるだけです。助けてくれても遊んでくれるだけ。いやなことになるとすぐママにバトンタッチ。

「あれ、なんかくさいぞ」

「ねえ、なんとかしてよ、全然泣き止まないよ。」

そして結局妻がうんちのおむつを替える、おむつからもれたうんちが洋服についてそれを水洗いし、新しい服を着させる、あるいは眠い子どもをおんぶして昼食の準備をする。そして夫はどうでしょうか。ああやれやれとまたテレビの前で柿ピーをぼりぼり。そのような光景ではないでしょうか。そこで我慢も限界をつき、かあちゃんが爆発。

「どうしてちょっとくらい手伝ってくれないの!!」

「あなただって親でしょ。私一人でこの子作ったんじゃないのよ、責任もってよ。」

まだ爆発できる妻は救われると思います。しかし妻の中には、こどもがかわいいから仕方がない、とか彼は疲れているんだから私がここで我慢すればいいことなんだとよき妻、よき母親を無理に演じようとするからその我慢が自分の中に蓄積されていきます。それよりもそんなことを考えている暇もなく、次から次へとやらなくてはいけないことが並んでいるのが現状です。だから送り送られていつか爆発するのです。

ちょっとでもこどもを見てくれたら、いやちょっとでも家事をしてくれたらどんなに楽か。けれど言わなくては分からないのです。わかっているはずと思いこむのは禁物です。わかっているのに動いてくれないと信じては自分を追い詰めるだけです。相手はわかっていないと思い、妻は相手を攻めるのでなく、素直に気持ちを伝えたほうが伝わるのです。我慢をしていてはこどもに伝わります。場合によってはこどもに当ります。自分もさらにつらくなるだけです。体にも悪いです。

わかっていないとは本当に分からないのです。具体的に何をしてほしいのか言わなければ、うんちのおむつをどう取るのか、それをどこに捨てるのか、新しい服はどこにおいてあるのか、普段やりつけていないとそのような細かいことが父親はまったく分からないのです。

あとは頼み方次第です。そして次のステップはその大変さが理解できた上で、父親の意識を変える事です。つまりお手伝いではだめで、協力でもダメで、大変だけれども一人だともっと大変だから、二人でやれば子育てももっと楽しいからいっしょにやろうなのです。あとは実体験ですね。「あなた、じゃ、今日一日よろしくね。」と彼にすべて任せてみましょう。きっとあなたの大変さを心底わかってくれるはずです。そして外で働くほうが楽だなんて思うかもしれません。

子どもが大きくなればなるほどからだの悩みからは開放され、心の悩みが増えていきます。我が子は何を悲しんでいるのだろう?こういった身体的な症状はもしかしたら精神的なものから来ているのではないだろうか?早ければもう2,3歳からこのような精神的な悩みは始まることでしょう。ティーネージャーになって子どもが何を考えているかわからない、子どもとの会話がない、子どもが何も話してくれないなんてことになる前に是非今から子どもとのよい関係を築く努力を始めてください。

子どもとのよい関係を築くため、私は次の5つの項目を今年の抱負として提案します。

 

1. ほめること

ほめることは何度も話題に上がっていると思いますが、ほめられることは子どもに自信を与えます。ほめることで子ども達は心から喜びます。喜びを持って人生に向かうことは大きな業績を得ることに通じます。子ども達は海外に来て日本以上にがんばっています。挫折も失敗もあるだろうし、さみしさもいっぱいです。けれどももう後にはひけないのを重々わかっています。だからこそたとえ小さなできたことに対しても「すごいね、よくやったね。」「がんばったね。」と声をかけていってあげたいものです。

 

2. 子どもを批判しない

誰も批判されることはうれしくありません。批判されると人は自己防衛に向かいます。子ども達は学校や社会で十分に自己批判を受けています。そのため、家に帰ってからも一番愛する親に批判されたくないのです。「どじね。」「だからあんたはだめなのよ。」など。子どもは自己形成の途上にあるため、これらのことばを素直にうのみにします。そのようなことを信じて育つ子どもは劣等感を常にかかえて生きていくことになるでしょう。

 

3. 子どもの意見に耳を傾ける

頭ごなしに子どもを否定するのでなく、彼らの意見にも耳を向けることは大切です。何を言おうとしているのか、なぜそう思ったのか、何を考えてそのことを伝えようとしているのか。子ども達は子ども達なりに思いがあり、それを伝えているのです。せめて聞いてあげてみてあげてください。

 

4. 親の意見はあくまでも自分の意見、提案として伝える

子ども達が一番聞きたくないことは、こうしろ、ああしろという一方的な親からの命令です。「ジャケット着てきなさい!」多くの場合、子ども達はもう自分で答えがわかっているのです。それをあえて親から言われたくないのです。プライドもあるでしょう。それよりは、「寒いからつらいわよ。」程度で十分なのです。風邪をひいてそこから学ばなくてはわからない子どももいます。

「薬飲みなさい。」ではなく、「薬を飲んだほうが早く治るかもね。」という提案でいいのです。そして決断は子ども達にさせるのです。自分で決断をすればそれに対して責任を持ちます。自分でやったんだ、自分で決めたのだということが彼らの行動の根底にあることはよい成果を導きます。

絶対服従は悪いことだけに対してで十分です。「人の心を傷つけることばは絶対に言ってはいけません。」のように。

 

5. たくさんの思い出を作る

海外でよいことは親戚などから離れているため、家族だけの時間をたくさん設けることができることです。そのため、家族と旅行をしたり、家でお菓子をいっしょに作ったり、いっしょに勉強をしたり、子どもと共有する時間が増えると思います。慣れるまでの最初の時期は特に一番つらい時期であるからこそ、そばにいてあげたいものです。そしてたくさんの楽しい思い出を作ってあげたいと思います。思い出はお金で得られるものではなく、主に時間とちょっとした工夫が作るものだと思います。

皆さんも海外で子育てをしているからこそ、日本にいるときとはまたちょっと違った子育てに関する抱負があると思います。いやむしろ海外でこその抱負をたててみたいものですね。

 前回はあいさつが人間関係を保つ為にいかに大切かについて話しました。さらに今あいさつができなくてもあいさつの気持ちよさがわかったらきっと子ども達は自然とすすんであいさつをするようになるでしょうと話しました。そしてそのお手本は親だとも言いました。今回は少し掘り下げてあいさつの大切さについて分析してみます。

あいさつというのは他人に対する単なる形式的な儀式と思われるかもしれませんが、あいさつとかマナーとは子どもが社会の中で生きていく上でお互いにどのような心地よい人間関係を作ったらよいのかに導く機能とも言えると思います。人間はさまざまな人との関わりの中で自分の存在を確認して自分が他者との関係においてどのような位置にいるのかをみつけるのです。それが人との関係の中でなのです。そしてその第一歩のかかわりをもつものがあいさつやマナーだと思います。これがしつけの基本であるということ、そして今一度これを親である皆さん以外に誰も子どもにしつけられないということをさらに指摘したいと思います。「先生、まだあいさつもできないので。教えてあげてください。」としつけを幼稚園の先生に任せるのは間違いです。しつけは親の大きな役目であり、社会に順応できる子どもを育てるにあたって大きな責任です。

私が心配しているのはいじめ、登校拒否、17才犯罪の根底にあるものが共通しているように思えてしかたがないのです。それはこれらの多くの子ども達が思いのままになる家庭の中で「自分が中心の世界」にひたって育ってきたと言うことです。親はのびのびと育てたと言いますが、子どもの行動を見ていると、単にわがままにさせてきたと聞こえます。そういうこどもが大きくなって他人との関係によって成り立つ「他者とのよい関係を保つために自我を調節しなくてはいけない社会」でどのようにかかわっていいかわからないからこのような異常現象が起きているのだと思います。

これからの子ども達の環境は悪化する一方かもしれません。子ども達を放っておけば、自分だけの世界に閉じこもっていきます。パソコンにしても、テレビゲームにしても自分の殻の中に閉じこもっていることで心地よい世界です。私はこれらを全面否定しているのでなく、使い方を誤ると危険だと忠告しているのです。特にパソコンは一番身勝手になれるところだと思います。相手の顔が見えないだけに人を中傷するような発言を出しっぱなしでいる人も見受けられます。自己規制のきかない「自己主張」だけが先行する行動傾向をパソコンの世界は助長していると思います。育児を全面的に担わざるを得ない母親はしつけの一貫性に欠けてしまいます。子ども達だけで遊べない都会は常に親の監督の目からのがれず、人間関係の基礎をつくる子ども達同士でまもれる機会を奪われてしまいます。

それでも専門家や子どものおじいちゃん、おばあちゃんはこうしろああしろと次々にアドバイスをし、母親だけを攻めます。もう私達はわかっていながら、けれどもできないという状況にまで追いこまれているのです。むずかしい環境での子育ての中、簡単に思えるあいさつを教えることひとつとっても、今の親はチャレンジを強いられているのです。

 私の友人で以前、マレーシア、今はグアムで5才の娘さんを育てているSさんがいます。Sさんは子ども達があいさつできないことに大変腹を立てていました。

「私がこのコンド(分譲集合住宅)でよく感じることは「あいさつ」です。あいさつを言える子が少ない。私はここでは一番厳しいかも。(母親の中で)自分の子供には泣かせるほど言い聞かせました。いまだに自分からは言えないときがありますが、私は子供だからって見過ごしていてはいけないと思っているんです。

エレベータで会っても玄関で会っても挨拶がありません。なぜなんでしょう?母親が側にいても言わせようとしません。あれって習慣でしょう?大人になっても言えない人っていっぱいいるじゃない?。

だから私はここではあらゆる子供に大きな声で声をかけるようにしています。毎日あうんだから「おはよう、こんにちわ、こんばんわ」くらい言えるべきですよね。私みたいに考えている人は還暦をすぎたおじいさんくらいですが。我が子は絶対大丈夫ってわけではないので偉そうなことはあまり言えませんけどね。Sさんは厳しすぎっていうのがここでの反応です。」

これに対して私は次のような意見を持っています。それはあいさつこそ親が示すことで習得することだということです。おそらく幼稚園の頃から、「大きな声であいさつをしましょう。」などとスローガンをかかげ、さらに小学校の1年生では必ずといって「あいさつができる元気な子」なんていう目標が掲げられます。それだけ今の子ども達はあいさつができていないのです。

しかしそれでは大人はどうでしょうか。ちょっと知っている人なら目が合えばおそらくちょっとした会話をしなくても会釈くらいします。けれどもたいていは面倒だから目をそらしてみたり、ましてや知らない人であれば決してあいさつなどはしない今日になっていませんか。同じマンションでエレベーターがいっしょになっても10代、20代の人達はほとんどあいさつなどしません。こどもができて初めてやっぱりお手本を示さねばと思い出したようにあいさつをしはじめたり。

たとえば毎日保育園に同じ時間にこどもを送って行くお母さん、毎朝公園に犬を散歩に連れてくるおじさん、そういう知らない人にも昔はあいさつをしていたのです。近所ということでちょっとした会釈をしたり、おはようございますを言っていたのです。しかし今は隣の人も何する人ぞと都会は化し、むしろ知らない人にあいさつをするなんてあの人、気味悪いはと思われるのが落ちです。家庭の中ではどうでしょうか。ご主人に「おはよう」くらい毎日言ってますか?お子さんにはどうでしょうか。もう夫は空気のような存在になっていませんか。お子さんにあいさつするなんて照れくさいとか、あいさつは外でだけするものとおのずとメッセージを伝えていませんか。

このように大人ですらあいさつをしなくなってきたのに、それをこどもに期待するのは間違っているのではないでしょうか。子ども達は大人から学び、大人をしっかりと見ているのです。あいさつをすべき相手かどうかと差別している皆さんをこどもたちは鋭い感覚で察しているのです。

人間は本能的にあいさつをする動物なのです。社会的な動物なのです。だからまだ話さない赤ちゃんでも目があえばにこっと笑いますね。10ヶ月の子どもはばいばいができますよね。1才の子どもは会った人すべてにあいさつをするほどです。あいさつとは本来、区別へだたりなく、人間であればするべきことなのです。

つまり会えばあいさつなのでした。1才半のフィリックスなどは犬や猫にもあいさつをするほどです。動くものすべて、生き物すべてに小さな子どもはあいさつをします。それがある程度ものごとの判断がつき始めると、つまり知恵がつき始めると親の様子を観察して、あいさつをしなくなるのだと思います。つまり子ども達はあいさつを親から学習しているのです。

人間は自然にあいさつをするように本能的にコンディションされた生物なのだと私は思います。朝など気持ちがいいときには、会う人すべてに、いや電線に止まっているはとにさえ「おはよう」と言いたくなる、そんな気持ちを抱いた経験は皆さん持っているはずです。あいさつとは、人とコミュニケーションをとることは気持ちのよいことなのです。特に朝のあいさつは実にさわやかで、相手の気持ちをなごまし、その日一日を明るくするほどのパワーを持っています。

人間は社会的な動物です。人の中で生きていく動物なのです。そしてそのような社会的集団の中でけんかをしないためにはコミュニケーションが必要なのです。私はあなたに対して決して敵意を持っていませんよと示す第一発言があいさつなのではないでしょうか。そのような理由からでしょうか、あるいはもっと余裕があるからでしょうか、あいさつにかけては多人種社会に育ったアメリカ人は上手だと思います。10代の子どもでも、知らない人にすら、「すてきなTシャツね」とコメントをしたり、料金所でも"Have a nice day!" (今日も一日よい日でありますように)と運転手を送るのです。彼らは朝の「おはよう」だけにとどまりません。何も時間帯に応じて言うあいさつが無いときでも、何か一言相手をほめたり、天気のことを言ったり。さらに相手に喜びを与えることにたけています。日本語で言ったらどうもまどろっこしいような、わざとらしいことでも、「あら、今日のネクタイすてきじゃない。」と彼らは実に自然に言いのけるのです。同じ発想を日本語に置き換えて言うことなどとても照れて言えないでしょう。しかしこれらもりっぱなあいさつです。

さらに都会で自分のことしか考えていない社会では、相手を思いやる心の余裕が無くなってきているのも一因だと思います。もし時間的にも余裕があれば、あいさつついでにちょっと立ち話位する時間があるはずです。しかしごみを出してその足でこどもを保育園に送って、ふとんにカバーをかけて、7:59分の急行に乗らなくてはと頭の中が時間に追われていたらいったいどこにあいさつをする余裕があるでしょうか。現代人は忙しくなりすぎて、時間的余裕を失ってしまったのです。そしてあいさつする時間すら惜しむようになったのです。

このように見てきますと、親がきちんと大きな声で、まあ少なくとも毎日会う知り合いの人達にあいさつする姿を見ていればこどもはおのずとそれを悟ると信じています。子どもは親の鏡なのです。元気なあいさつをする子どもはお母さんも元気です。しかしそのような元気なさわやかでにこやかなあいさつをする子どもが実に減ってきています。それはおそらくお母さん方に元気が無くなっている最たる証拠ではないでしょうか。お母さんが生き生きしていない、そのようなところにあいさつをしない子どもが増えている現象が一部位置付けられるのではないでしょうか。

まあ、今あいさつができなくても、もう少し気長に待ってみてはどうでしょうか。子ども達にとってあいさつというものが本当に気持ちのいい事だと言う事を悟ればおのずとそのさわやかさを感じたいという気持ちからあいさつができるようになるのではないでしょうか。あいさつとは人間が共存する社会でお互いに気持ちよく生きていくに当って、安心な社会を感じさせるためにするものなのだと教えてみてはどうでしょうか。ちょっとむずかしい言い方だったかもしれませんが、あいさつとは本来相手がどのような気持ちを自分に向けているかを判断する一つのバロメーターであるはずです。そして自分のことばに対して相手が反応すればこちらは安心を得ているはずです。

むずかしいことはさておいて、とにかくお子さんたち、そしてご主人と、つまりまずは家庭の中からあいさつの練習をしてその感性を身に付けて行ったらどうでしょうか。「こんにちは」、「おはよう」、「いってらっしゃい。」、「鈴木 あみです。」、「3才です。」、「いただきます」、「ごちそうさま」、「はい」、「ありがとう」、「ごめんね。」、「おかえりなさい」、「こんばんは」、口に出してみるとどうですか。気持ちいいでしょ?なんか心の中が温かくなりませんか。自然と口元に笑みが添えられたはずです。

子どもが見えない、何を考えているか分からない、そういう訴えを今の中学生の親はもっているといいます。何を聞いても、「わからない」「別に」「うるさい」なんと語句が減ったものだろうかと驚くくらいだといいます。さらに会話が無いといいます。会話が無い?そんなばかな、こんな多感な時期にいる子どもが何も感じないはずも無いし、それを伝えたい気持ちで一杯であるはずなのにいったいどう言う現象でしょうか。

子ども達をシャットアウトしてしまったのはむしろ親に原因があるのではないでしょうか。話したくない親になっているのではないでしょうか。どうせ思春期はこんなものよとあきらめていないでしょうか。私はこの多感な時期を是非共有してもらいたいと思っています。彼らが何を感じ、何を考え、どう反応しているのか、どんな新しい発見をし、どんな新しい知識を得たのか知りたいし、それを聞くのが何よりも楽しみです。ひとつひとつの彼らの感動が私にとっては彼らの成長の証しであり、とても喜ばしいことなのです。 それなのにそれを経験できていない親達はどうしてしまったのでしょう。いままで子ども達ときちんと会話をしてきたのでしょうか。

会話ってな~に?会話とはたわいない日常の会話です。しかし彼らはいつも親という権威をかざし、「教える」という立場でしかこどもと接してこなかったのではないでしょうか?親だから「教える」「命令する」「指導する」「監視する」「支配する」のは当然と彼らは思っていないでしょうか。親はそれだけに徹していたら決して子ども達のハートをつかむことはできないと私は思います。むしろ思春期の子供は「教えられる」「批判される」と感じたら即心を閉ざしてしまうでしょう。 自分が今何を考えているのかを彼らは伝えたいのです。けれどもそれをくだらない考えだとか、そんなことも知らなかったの?といわれてしまったら次のことばが出ないのは当然です。思春期の子供にお説教はもう通じないのです。思春期の子供が聞きたいことはいっしょに考えてくれる親なのです。こう感じたと言うことに対して、「そうなんだ」と同調してくれる親。そして親自身がどうその時期に思ったかなどを伝えられればどんなに彼らはもっと話したいという気持ちにかられることでしょう。

こどもが感じることは彼らの特権なのです。どう感じようがだれも批判できるものではないのです。花をみてうれしく感じた。死んだ猫を見て悲しくなった。ある人の生き方を見て感動した。これはどう感じたかなのです。感じることは自由なのです。だれもよいわるいをつけられないものなのです。だれも批判出きることではないのです。そして自分が自分として一番受け入れられるものなのです。だから受け入れられることがとてもうれしいのが人間ならば、子ども達はそれを求めているのです。受け入れられ、それが自信へとつながる。さらには自己確立へと結びつく。自分の存在感を認めてもらえる。こんなうれしいことはないのです。

だから私はこどもに「感じること」をたくさん経験していってほしいのです。感じるためには心の中をじっとみつめる余裕が必要です。そして考える脳も必要です。時間も必要です。親は待つことが必要です。 詰め込み式にただ知識を頭に入れる。考えることもさせないでただ暗記。先生はただ教える立場。生徒といっしょに考えたり、いっしょに悩んだりそんなことは塾の先生には求められていないのです。ただ覚えろと言うことばかりを強調する今の日本の教育体制に私は本当に疑問を感じざるを得ません。会話のできない親子、ましてや会話のできない夫婦がこれからの日本にはたくさん誕生してしまうのではないかというき危機感を感じます。

今月のエッセイはむしろまだ子どもが小さい皆さんへの警告だと受け取ってください。そう、会話のない親子にならないように、今から子ども達の心をしっかりとキャッチしておいてください。

追伸:  1年と3ヶ月全部で15の子育てエッセイを書きました。皆さんにどのような影響を与えたか分かりませんが、なにか子育てについて考える材料になっていたらなと思って書きました。このたび、節目を迎え、自分自身のこれからの生きる道をたてたいとおもい、ここで一応、子育てエッセイは終止符を打つことになりました。しかしまた皆さんとお会いする日が来ると思います。その時までお元気で。ごきげんよう。

 私はこどもが生まれてからつねづね、「子育ては見守ることよ」といわれてきました。しかしまだこどもが小さい時にはその意味の持つ重要性が分かりませんでした。こどもを見守るってどういうこと?こんなに何もできない子供をどうしてほっておけるの?そうです。つまり私が理解していた見守るということはただほっておいて外から見ているだけの受身的な姿勢を写し出していたのです。

しかしこどもが歩き始めの頃に転んだとき、そこで自分が手を出しておきあがらせてはいけないということをまずわかりました。これが私がはじめて知った見守るという姿勢でした。ことばがでない、まだ歩けない、おむつがまだとれない、そんな頃、心の無い人達は「あら、まだなの?うちはもうできてるわよ。」と他人の子を平気で批判します。しかしそんな心落ち着かない中でも自分はこの子の自分なりの成長を見守るという姿勢を要求されました。この子にはこの子の成長のスピードがある。早いからいいのか?遅いから悪いのか?そうではないはず。この子がいつかできるのであれば、その日をじっとその子のスピードに合わせて待ってあげる。これが見守ると言うことだと気づいたのです。

「どうして?なぜ?」と繰り返し尋ねる頃、すぐ答えを出すのでなく、「けんちゃんはどうしてだと思う?」と考えさせ、自分の力で回答を探す力をつけさせる。考えている間はじっと待ってあげる。そして答えが出たときはほめてあげる。これこそが見守るという姿勢そのものだったと思います。

その後こどもが学校から帰ってきてランドセルを玄関に放り投げる、脱いだ靴下を片付けない、これにおいても私は本人が片付けるのを待つことにしました。しかしかなりの忍耐力を必要とします。ここで私が片付けたらこの子は一生だれかが片付けてくれるだろうという誰かに依存した生き方をしてしまいます。だから私は心を鬼にして断固片付けませんでした。待つ。彼女が自主的に行動を起こすまで見守る姿勢です。そして息子。彼は自分の進路について悩んでいました。私達親が出きることはいっしょに考えること、そして最終的には彼が自分で道を選んで行くというその過程を見守ることなのです。彼のために進路を私達が決めることはできないのです。

このようにこどもが育って行く中で常に見守る姿勢を要求されてきました。しかしただ見ているだけでなく、彼らが本当に助けを求めてきた時には手を差し伸べる、失敗したときは励ましてあげる。そのためにも状況を把握しておく、すぐ手を差し伸べられるように親自身がオープンな構えでいること。これが見守るということなのかと私は知りました。

結局こどもは勝手に「育つ」のです。生まれもった潜在的な力があって、こどもはなんとか自分で生きていく力を持っていて育つのです。私達親は、何もできないこどもと思って、つい先走ってしまったり、こどもを生んだ責任上、きちんと立派に育てなくては行けないというプレッシャーを感じている人もいるでしょう。しかしこどもは私達が「育てる」のではなく、自然と「育つ」のであるのなら、その過程の中で見守るという役目に徹することが一番大切なのではないでしょうか。道を反れそうになった時に、軌道修整の為の声かけをしてあげる、失敗をしてしまった時に、もう1回がんばればいいと励ましてあげる。こんな声かけや手を添えてあげることが「見守る」ということなのではないでしょうか。結局私達は子ども達の人生を歩むことはできないのです。彼らはいずれ一人立ちしなくては行けないのです。そのためにはやはり見守るしかないのだと思います。

もしかしたら私達は親から「もうちょっと女の子らしくしなさい。」とか「男の子なんだからすぐ泣かないの!」とか言われて育ったのではないでしょうか。いまでも無意識の内に言ってしまったり、言った後に、ああ、言っちゃった。と気が付く事があるのではないでしょうか。しかしこの男の子らしくとか女の子らしくというのは実際どのような実態があるのでしょうか?

私は思春期に入るまではあえて女の子だからとか男の子だからといって育てなくてもよいかと思います。つまりもっと大切なのは人間としてどうあるべきかを幼少の頃に植え付けておいた方がよいと思うからです。女の子らしさ、男の子らしさと言うものは思春期が近づいたあたりから自然と子ども達が意識する事であり、文化によってそれぞれ自分たちで発掘し、自分たちなりに受け入れて行けばよいと思うのです。

世の中を見ればただでさえ男の子らしく、女の子らしくははびこっています。まず、生まれた直後に、「男の子ですよ!」「女の子ですよ!」と誰もがそれに興味を持ちます。しかし先進国によってはそれを最初のことばとして親に伝えていない所もあります。つまり親があそこを見ればすぐわかるのでそれをあえて口に出して強調しないのです。つまりそれほど重要ではない、もっと重要な事がある。それは無事生まれたと言うことでしょう。

次に男の子はブルー、女の子はピンクとなります。もらうカードもその色だったり、洋服もその色だったり、もうそのあたりでいやおなくジェンダーが植えつけられます。だからもうそれで十分ではないでしょうか。その上に私達親が、女の子なんだから、男の子なんだからと育てるのはあまりにも押し付けがましいように思えるのです。

色にしても、「けんちゃんは本当はなに色が好きなの?」と聞いてあげれば、「けんちゃんはピンクがいい。けどピンクだとみんなに笑われる。女の子みたいだって。」けれども色は好みです。その色がジェンダーを決めるべきじゃないと思うのです。だから私はあえて好きなものを好きと言い、それを選ぶ事によって心豊かに喜べるこどもに育てたいと思うのです。

そのような信念で育ててきた11才の我が娘に、先日、「ねえ、ありちゃん、ありちゃんにとって男らしさってな~に?」と聞きました。彼女の答えは以外でした。「好きな人を守って上げられる人」と答えたのです。まさにこの子は自分なりに男らしさと言うものを発見していたのだと思いました。おそらく娘は生物的な男女の違いを理解し、その上で男は女を守るべきと考えたのでしょう。

 

男の子でも涙を流せる子どもに

男の子が産まれたときに、「ああ、この子は男の子らしくたくましく、強く、育てなくてはいけない。」とそんなプレッシャーをだれもがどこかで感じたのではないでしょうか。特に男に対する男としての理想像と言うものは女の子以上に求められるものだと思います。日本は特にそれが強いように思えます。それは男は世に出て社会にもまれ、その荒波に耐えながら家族を養って行かなくてはいけないという責任があると世の中では考えているからです。

しかし私はあえて男の子は強くなくてはいけないというプレッシャーを少しはとりのぞいて育てられたらと思うのです。確かに肉体的な男女の違いから男は女よりも力はあります。それは肉体的な当然な違いです。そもそも「らしさ」なんていい加減な定義なのです。涙も流さない、弱音も吐かない、悩み事も相談しない、そんなに我慢する事はないと思います。

あまり我慢していては病気になるでしょうし、人間そこまで強くはなれません。そのようなぽろっとした自分の弱みをさらけ出せる人がいない、つらいときに甘える人がいない、悩みも全部自分でしょうしかない、そのような状況では早死にします。だからと断言するわけではありませんが、独身の人が結婚している人と比べて寿命が短いと一般的に言いますが、それが証拠ではないでしょうか。

私の好みですが、私がもっとも人間的に惹かれる相手は、悲しい時に自然と涙を流し、プレッシャーに耐えられなくなったとき、恐いと言えるそんな人間身にあふれた人です。確かに世間に出たときは自分の弱みは隠し、しっかりした自分を保っているでしょうが、愛する相手に、心許せる友にそれができる人が私はもっとも精神的にも健康な人だと思っています。

だから私はあえていいたいのです。「涙も流せないんじゃ、人間じゃない。」「悲しい時には男であれ、女であれ思いっきり泣けばいい。」「つらいときはつらいって言えばいい」「うれしいときは飛びあがって喜べばいい。」人間として感じるべき感情を「男だから」というひとことで押さえつけてしまったり、自然と心のなかに湧き上がる感情を理性で殺してしまってはせっかく人間としてうまれてきているのなんともったいないことでしょう。人間として生まれたのであれば、人間としてフルにおおいに生きればいいのです。そのためにも「男は泣かない」という育て方はもうやめたほうがいいのではないでしょうか。

男は常に強くなくてはいけないなんて、この社会が攻撃的になり、守りを張らなくては生きていけない競争社会になっているからかもしれません。しかしそれは人間として生きることを否定されているほどに聞こえます。人間は弱さも強さもそなえています。強さだけを強調して弱さを隠したり否定したりしてよいのでしょうか。弱さとはそんなにも隠すべきものなのでしょうか。恥かしいものなのでしょうか。いいえ、私はそうは思いません。自分の弱さとはそう簡単に誰にでも言えるものではありません。だからこそ弱さを出せることはある意味で勇気ある強い人だとも思うのです。

こんな事を言ったら日本はやわな男がますます増えるという批判的の声も聞こえてきますが、そうでしょうか?確かに今の男性はやさしいといいます。しかし強さの中にやさしさをもった人こそ生き延びると思います。強さと弱さとのバランスがきちんととれた人間を育てるのが私達の役目ではないでしょうか。やわにみえる今の若い男の子達は昔からの「男は泣かない!」というよろいを取り除いかれ楽になったのだと思います。だからといってやわになったわけではないと思います。時代が変わりやさしさの表現の仕方は確かに変わりました。

しかし人間らしく育った男の子は思春期になれば男らしさや強さを自然と身につけていくと思います。本当の男らしさとは人間的な感情を表現し、愛する人に伝え、愛しているからこそその人を大切にする人ではないでしょうか。常にそのような陰と陽のバランスがとれている人間であれば、いざとなったときに本当の強さも発揮されるのではないでしょうか。いまでは女性も強くなっています。いや、母親などは一番強いのではないでしょうか

。なにも男ばかりが守りの立場、攻撃の立場に立たなくてもいいのです。夫婦のよいところはお互いにもっている力をそれぞれの形で発揮しながら家庭を守る、こどもを守ることができることだと私は思います。男だから、女だからなんてもうこだわらなくてもいいように思うのです。

社会が女一人でも問題解決できるように出来上がっている

日本は性別役割分担が浸透していて、男は外で働き、女はこどもの教育、健康、家事を担当するとシステムが出来上がっています。そのためたとえばこどものいじめの問題が浮上しても妻は夫には一応報告するものの、最終的には答えを夫以外のところに求めているケースが多いです。友達に相談したり、日中、児童相談所へ出向いたり、日中、学校の担任に相談に出向いたり、夫にこどものことで煩わせずに解決できるシステムができあがっています。しかし海外ではそのようにはいきません。おそらくこどもの問題は両親でかかわることを勧めるでしょう。母親だけ出向いては「ご主人とはうまくいってないのですか?」と聞かれてしまうかもしれません。

出産においても同じです。赤ちゃんが生まれるというときに、オランダでは、ご主人に「早く病院にいってあげなさい。」と上司が急き立てて会社を追い出すのに対して、日本でこどもが生まれるからと会社を退社しようものなら、「産まれたら面会時間にいけばいいんだろ。」というくらいにしか回りの理解がありません。おそらく妻は実家の母を頼るでしょう。「お母さん、産まれそうだから、来て!」と。結局頼りになれるのは細かいところまで気を回してくれる母親と思うかもしれません。

つまり日本では性別役割分担という都合のよいシステムを浸透させることによって、母親ばかりに育児の負担をかけてきたのです。核家族化が進み、身近に頼れる両親もおらず、マンションが増え、隣の人は何するひとぞとなり、受験戦争により人間関係が疎遠化して来ました。そのような環境の中で育児のすべてを母親任せにするのはあまりにつらいものがあるのです。

社会がこどもを育てる温かい目

アメリカでは赤ちゃんをベビーカーに乗せていれば、30分のお散歩で何人もの人が「かわいいわね。」「3人もこどもがいるなんてラッキーね。」と声かけをしてくれます。これはたいへんな子育てに対するエールにも聞こえます。アメリカでこどもを育てたお母さんがそのことばに励まされてなんとかやってこられたと言っていたほどです。

イギリスではこどもがなにか悪いことをしたら、他人であろうが年輩のおばあさんがこどもを叱ってくれました。このように社会全体でこどもを育ててくれるような気がします。

また私達が外国人で親戚もいないということを理解してくれてこどもを預かってくれたり、また日本人同士でもお互いさまなのだからと言うことで、日本以上にお互いに預けあったりしやすい環境があります。

母親が女になれる場、個人になれる場がある

日本では母親になるととかくそのアイデンティティーにかたまりがちです。ありちゃんのママ、家庭では夫から、「ちょっと、ママ」と呼ばれ、病院では「お母さん、どうしましたか?」といわれ、買い物をしていても、「奥さん」と呼ばれ、学校でも「お母さま方」と呼ばれ、どこまでも母親というレッテルがついてまわります。職業はと聞かれても、「ただの専業主婦です。」とうしろめたさの影をしたえて答えています。母親だけの自分だけで満足できるという人は年々減ってきているのです。母親でない部分の自分を発見したい、アピールしたいと願う女性は大勢います。こどもに縛られて、いらいらしてもがいている女性が日本にはあまりに多いように思えます。

しかし海外ではもっと母親でない自分になれる機会が多いように思えます。こどもを預けて夫婦でデートをするときは彼女になったり、妻になったり、女になったり。そしてこどもを預けてボランティアで活動をする場においてはファーストネームで呼ばれ、さらに仕事をする機会が与えられれば、これまたフルネームで呼ばれるでしょう。母親以外の自分になれるということは自信へつながり、喜びに直結するのです。それは欲が多いと言うのではありません。アイスクリームでもラムレーズンも抹茶もチョコチップスも好きと言うように嗜好がいくつあってもいいように、いくつもの自分が実在しているのは当然なのです。ひとりのこどもの子育て期間はせいぜい18年程度です。しかし我々の一生はいまや80年といいます。こどもができたから母親だけにとどまるのではなく、いままでの延長として女性としての自分、社会人としての自分は成長させて行くべきなのです。 

オランダでは働きたい女性は、ワークシェアリングなどでこどもが小さくても週2回くらい働く事が可能です。こどもと少しでも離れたときには~ちゃんのママというラベルがはがされるのです。本来のもうひとつの自分に戻れるのです。その機会が多く設けられているのが欧米社会だと感じました。

しいては母親以外の自分を持てる欧米では、子育てだけで毎日が終わらないがゆえに余裕が生まれ、子育て自身が楽しくなるのだと思いました。

海外では夫婦で子育てが前提のシステムが出来上がっている

海外では一番身近にいる子育て協力者、父親が子育てに当然のように参加しています。そのような環境、システムができあがっています。日本にいるときよりは残業が少ない、通勤時間も短い、帰宅してもこどもの世話をするエネルギーが残っている、回りが早く帰るように仕向ける、幼稚園の保護者会なども夜なので両親ともに参加せざるを得ない、ベビーシッターはそのためにいて比較的低賃金で雇える、ホッケーの練習も夜行なわれ、父親がコーチなどをになっていることもある。

日本人家族においては、こどもが病気というとことばの面で母親サポートに夫が病院に同伴する、買い物も妻が運転しない場合はいっしょに買い物、実家に預けられないのだから夫に頼るしかない。このように両親で子育てという概念が浸透していますから、父親が子育てに参加している割合が日本より多いこともあるでしょう。

 

こども以前に夫婦がある、自分がある

日本ではついこの間まで大多数のカップルがお見合い結婚でした。40年ほど前、つまり私達の親の世代です。この世代の人は戦後の日本の復興にただ経済面だけのうるおいで、利益追求型で日本の発展を評価してきた世代です。サラリーマンは夜中まで働いて、子育てやこどもの教育はすべて妻に任せて来ました。そしてその傾向はいまだに尾を引いています。しかしその結果、妻は夫を頼らず、妻だけの世界を作って来ました。そして夫は男だけの世界で、仕事が終わったら飲みにいく、週末はゴルフというのが大方ではなかったでしょうか。性別役割分担が働いているウィークデーだけでなく、さらに週末にも及んでいったのです。別々に過ごす時間が増えれば、当然別々でいることに自然を感じ、いっしょにいることで違和感を感じてきたのでしょう。

しかし欧米では夫婦あってのこどもです。そのためフランスなどでは夫婦だけで月に1度は、あるいは人によっては週に1度はデートをしたり、コンサートへ出向いたり、食事をしたりとふたりだけの時間を優先的に設けます。さらにこどもは独立したひとりの人間として育てる為、小さいうちから個室を与えます。

また母親はたとえ最初の数年は専業主婦として家にいても、自分の将来のために自分の時間というものを確保します。そのためにもベビーシッターに預けたり、夫に預けたりします。自分だけの時間をもつことになんの後ろめたさも感ぜず、それは当然の権利としてリフレッシュします。リフレッシュできれば子育てにも新たな風が吹きこまれ、こどもがかわいいと思えるようになります。ゆえに子育ては楽しくなるのです。

密室育児で、24時間こどもとつきあっていてはノイローゼになるのは目に見えます。こどもを叩いてしまう。必要以上に折檻をした。こどもも親から離れる空間が必要です。母親以外の人達と接し、それらの人達の中で育てられていくことも大切なのです。そして母親もこどもから離れる空間が必要なのです。他の人達によって育てられることもこどもには必要なのに、絶対に3才までは自分だけの手で育てるのだ、自分が育てることがこどもにとって一番いいのだというのは思い上がりかもしれません。そもそも無理なのです。母親も病気をします。美容院へも行きたいです。友達の結婚式にも出たいです。夫や夫以外の人に預けざるを得ない状況は出ているはずです。

しかし多くの日本の女性は、こどものために自分のわがままは当分我慢と言い聞かせてきました。幼稚園に上がるまで、小学校に上がるまでと我満し、みんながやってるんだから自分もできるはずと自分を励まして来ました。我慢強いことはいいこと、忍耐は美徳と自分の感情を押さえつけてきた結果はどうだったでしょう?

 海外から帰っていらっしゃる方の共通の意見として海外での子育ては楽しかったがよく上がります。もちろん根付くまでのたいへんさ、ことばの問題はありますが、その後は楽だったといいます。海外にいる間に3人目をとか、子育てを終わらせてしまおうという声も聞きました。日本で少子化が問題とされている中でいったい何がこんなに子育てを楽しくないと言わせたり、こどもはほしくないと言わせているのでしょうか。

「こどもが産まれたら、もう自分の時間が無くなるわ。」

「こどもはとてもお金がかかるから、せいぜい2人までよ。」

「こどもが産まれたら、フルタイムの仕事に戻るのは無理だもん。」

「預ける環境だって厳しいし、家事と仕事の両立なんてできない。」

「結局、最終的には全部母親ひとりの肩に負担がかかってくるじゃない?」

「専業主婦を選んでもなんか回りから評価されないじゃない?母親だけの自分にも誇りがもてるようになりたいんだけれども、なんかそれだけじゃ何もしてないように見られるのよね。」

今回は内容が濃く、また広い範囲で検討しなくては行けないゆえ、ハードの面、文化の面、仕事の面、社会の面といくつかに分けてお伝えします。

 

ハード面でベビーフレンドリー

先進国は特にインフラがバリアフリーで赤ちゃんにもお年寄りにも障害を持った人達にもフレンドリーな環境ができています。オランダではどんなに小さな駅でもエレベーターがあり、段差はほとんど見られませんでした。またたとえ段差があっても困っているときはまわりがすぐ手を差し伸べてくれるという情景があります。日本ではバスに乗るにもベビーカーをたたんでしかもこどもをかかえて乗らなくてはならず、さらにあいていない手でお金を払わなくてはなりません。運転手も乗客も助けてくれないと訴えています。駅のホームにたどりつくまでも階段、また階段。エレベーターやエスカレーター設置個所はまだまだ足りません。

日本でインフラでベビーフレンドリーなのが進んでいるのはデパート、スーパーなどのトイレ、こどもの遊び場、お買い物中の預かり施設でしょう。おむつ交換の台、授乳室と消費者を大切にしてくれるところでは率先して改良が進みました。それはどこへも子連れ、こぶつきで行動しなくてはならない日本の子育て現状を裏付けています。こどもを連れて行かなくてもよい国、あるいは長時間外出する必要のない国、車社会ではこのような設備はあまり必要でないように見受けられました。もちろん日本のように高級レストランでも、高級ホテルでもどこへいってもこどもが受け入れられるという国はすばらしいと思います。しかしその反面、ちょっと too much と思っている人の意見にも耳を傾けた次第です。

保育園もニーズに応じて、一時緊急保育、フルタイムで働く親のための保育施設、息抜きに母親が利用したい保育施設が整っている国もあります。さらに海外ではたいてい2才くらいからこどもを団体生活に導入させます。しかも2才くらいでしたら午前中だけ、あるいは週に2日と決して長い時間預けるわけではありません。これは日本の平均3才と比べると1年早いわけです。けれどもこの1年をどのくらいのウェイトで見るかによりますが、1年は大きいと思う人は多いと思います。2才児にエネルギーを知っている方は同感だと思います。毎日の朝夕のお散歩でくたくたというママもいます。

ベビーシッターを気軽に雇える環境もあります。ちょっと買い物へ、ちょっとドクターへ、ちょっと疲れたというときに電話一本で近所の高校生がこどもをみてくれたりできる国もあります。しかも最低賃金で。

働く母親が多い国では、会社において産前産後休暇、育児休暇の充実、育児休暇後の仕事復帰への保障、母乳育児へのサポート、短縮勤務、フレックスタイム、ワークシェアリング、などの企業側あるいは政府側の母性保護に通じるサポートを無視することができませんでした。

日本では歩ける距離に小さな公園はいくつかできました。この当りは評価したいと思います。しかし雨の日などちょっと気軽に公園へ行く感覚で他のお母さんと井戸端会議ができたり、こどもが遊べる室内施設は身近にいくつもないような気がします。

また日本では経済面でこどもはお金がかかるからとこどもを作りたくても作れないと訴えています。フランスではこどもが多ければ多いほど助成金や支援金が出されます。このような国ではこどもを経済的に援助しています。また公立の幼稚園がほとんどだったり、小学校、と高校まで公立が整っている国もあります。おけいこごとも民間でなく自治体が主催しているものがほとんどならばさほどお金はかかりません。「海外だからこどもに乗馬もヨットも習わせられるのよね。」という声もありました。受験制度も違えば塾などにかかるお金は必要ありません。

ベビーシッター代も安いです。日本ではベビーシッター斡旋業者が出てきてますが、やれ入会金、最低4時間、交通費、時給1000円以上は当たり前、キャンセル料、一週間前に予約など規制が多く、しかも高額です。民間の一時預かりも高いです。駅前などの利便性はありますが、それでも遊ぶ環境としてはビルの中、太陽の当らぬ場所などたとえ数時間でも考えてしまうところが多いです。

我が家では子ども達と幸せ探しのゲームをよくします。ありちゃんにとって幸せってなあに?よしやにとって幸せって思える時ってどんなとき?ありちゃん、どういうときにうれしい?こんな質問を小さいときから今に至るまで折りに触れてしてきました。小さいときはほしいものが手に入ったときとか、犬が飼えたら、大きな家に住めて車三台あって、ハワイに行けたら、なんていっていました。もちろん、今もそのような答えが続いています。しかし教育に教育を重ねた今、子ども達は真の幸せが何であるかを少しづつ語れるようにまでなりました。

わたしがこの幸せ探しをはじめたきっかけは、子ども達がものに対して異常なほどの執着心を持ち始めた事に気が付いたときでした。何かものを手にすることだけが喜び、うれしい、幸せと感じてほしくなかったからです。本当の幸せは物質的なものから得られる幸せでない事を教えたかったのです。特に日本は自然が身近に無いだけに、また購買力、消費力がすさまじい環境です。ここ青葉台周辺も「買って、買って!」と叫ばんばかりにものが店頭にあふれています。それらを毎日目にする子ども達は当然まだ幼いのですから誘惑にかられます。そして実際にお金が無ければ買えないことに対してのいらいらがつのるわけです。

本当の幸せとは、実際とても身近にあって、気づいてないだけのものなのです。またどのような環境に生まれた人でも、どのような状況の元にあっても、これは心の持ちようなので万人平等に感じようと思えば感じられる事なのです。そうです。つまり幸せだと思えばだれもが幸せと思えるのです。私は子ども達にこの先、どのような苦境に陥っても幸せを感じられるように育てたかったのです。それが生きるための本当の力だと思ったのです。自殺をしたいと思うくらいに世の中が悪くなり、あるいは自分の置かれた周りの環境が狂っても、自分の心の中にひとつでも幸せと感じられるものがあったならば、子ども達は死を急がないと思うのです。

子ども達に今、伝えていく「幸せを感じる瞬間」というものは次のようなものです。

今日、命があること。

今日、健康であること。

今日、ごはんが食べられること。

今日、頭の上に雨、風をしのげる屋根があること。

今日、スマイルできること。

今日、人にやさしくできること、人を愛せること。

今日、人に喜ばせ、その人の心に幸せを送れること。

今日、ハッグできる人がいること。(娘はハッグ好き)

今日、マミーとダディーがいること。

今日、ハミーチャン(我が家のハムスターペット)がいること。

今日、うれしい、たのしいって感じることができる心があること。

とこのようにその時の状況に応じて足されていったり、減っています。たとえば私が子ども達を叱ったようなときは、マミーがいることは出てこないでしょう。しかし最低限あげられることは、命があること、それからご飯が食べられることでしょうか。

そしてそれにプラスして我が家では神様を信じているので、それらすべてが神さまによって与えられていることを感謝するようにしています。「本当に神様、ありがとうだよね。」と。幸せについて語ったときなぜか不思議にそのあと心がほんわかとあったかになり、だれかにやさしくしたくなるような気分になりませんか。

親が知らず知らずの内に教育しているものに偏見というものがある。それはたいていの場合、彼ら自身が親から教えられたものである。韓国人はああだ、中国人はこうだ、黒人はこういう人間だ、ユダヤ人はああいう人間だ、関西人はこうだ、田舎の人はああだ、老人はこうだ、女はああだ、国際結婚をしたカップルはこうだ、イギリス人は、アメリカ人は、日本人は、......と。親が教えなくても、友達が教えてくれることもある。しかしその友達も結局は周りの大人から、あるいは大人が作ったテレビ番組などのメディアから偏見を身につけていく。そう、偏見というものはからだの中で巣を作り、さらにそれが増幅されて、ピュアなものの捕らえ方をむしばんでいくものである。

しかし一概に偏見がすべて悪いとも言えない。私達は偏見がなければどのように相手と振舞ってよいのか戸惑ってしまう。外国人と会う場合、どのように振舞うかは日本人と会う場合とは違う。このように私達は偏見があるがゆえに安心して相手と接するすべを身につけている。これはポジティブな偏見と呼ぼう。だが、私のここで話していることはもっとネガティブな偏見を指している。

偏見は以外と小さな時にもう身についている。幼児の段階でもうすでに「あの子は汚い。」とか「あの子はインドネシアから来たから一緒に遊ばない。」、「あの子はお母さんがフィリピン人だから遊ばない。」などのことばで明らかである。こどもは親のもっている偏見を敏感に読み取り、それをベースに友達を差別する。

こどもは生まれたとき、偏見などは持っていない。私はある日の事、こんなできごとにでくわした。その電車の中で一人の浮浪者がすわっていた。彼は風呂にも何年も入っておらず、はだしの足は垢でまっしろになっていた。服は所々やぶれており、そこからは異様なアンモニアの匂いが周りの空気に漂っていた。だれもその浮浪者のとなりにすわることはなかった。浮浪者と気づいて、席を立つものさえいた。しかしある二人組の母親がたまたまそこに入ってきて一人はベビーカーをドアの近くに置いた。そのとき、その赤ちゃんはその浮浪者のすぐとなりに位置した。母親は友達と話し、背を向けていたので、浮浪者が座っていることなど気がついていなかったようであった。1歳くらいのその赤ちゃんはその浮浪者に微笑みかけた。そしてその浮浪者は赤ちゃんに微笑み返した。浮浪者はこどもをあやし、赤ちゃんは足をばたばたさせて喜びをからだ全体で表した。さらにそんな数回のやりとりがかわされたあと、浮浪者が赤ちゃんの手に触れた。母親はそれに気づき、さっと赤ちゃんを抱きかかえたのである。電車は混んでいたので、移動するまでに至らなかった。彼女は赤ちゃんがその浮浪者の方を見ないでほしいと説に願ったようだった。しかし浮浪者が両手で抱っこの誘いをするとなんと赤ちゃんの方でその浮浪者に身を投じるように抱っこを求めたのである。

私達の偏見はその浮浪者をどう見ていただろう。人生の敗北者?教養のない人?そして赤ちゃんの目にはどのように浮浪者が写ったのであろうか。赤ちゃんは浮浪者を汚いとは見ていなかったであろう。人生に失敗した落第者とも見ていなかったであろう。人間のかすとも見ていなかったであろう。赤ちゃんはただ素直にその微笑みに対し、愛情を受け、そして愛情を返したいと思っただけなのである。もしその時点で赤ちゃんが本当にその浮浪者の手に抱かれさらに目と目がみつめあっていたならば周りにいた多くの大人達はそこに何を見たであろうか。まさにそこにはドラマが存在したのではないだろうか。本当の愛とはなにか、偏見のない純粋な心とはなにか。この赤ちゃんはそうした大切な事を私達に教えてくれたであろう。しかしその母親の偏見がそのドラマを実現へ持って行く事をはばかんだ。それでも私達は彼女を攻められるであろうか。いいえ、もし自分であったならばおそらくその母親と同じ行動をとったに違いない。彼女を責める事はできないであろう。

私がここに伝えたい事は、私達の偏見というものは多くのベールを造ってしまっていると言うことである。見えるべきはずのものを偏見というベールで見えなくしてしまっているのである。そしてそのベールの裏に隠されたものはこの世で一番大切なものであるかもしれないのだ。

日本は国際化が進まないと嘆いているが、それはあまりにも偏見を持っているからではないだろうか。私達の身近にいる自分とは違う人を受け入れられないで、どうやって外国人のことを分かる事ができるであろうか。真の国際化とはごく周りにいる人達に向けられている偏見を取り除く事から始まるのではないだろうか。

だから私はこう伝えたい。偏見を植え付けるのも植えつけないのも親である私達のことばと行動ひとつなのです。五体不満足のスケートボードに乗ったアメリカ在住のローズマリーさんをテレビで見て、あなたがふとなにげなくつぶやいた、「かわいそうだね。」ということば。かわいそうだということが不幸だという事。それを子ども達はしっかりと聞いたのです。五体満足は不便であっても、決して、あるいは必ずしも不幸ではない事。人の幸せとは外見で決まる事でない事。これを私達は教えなくては行けないのです。現にローズマリーさんが言ったように、「私は、今、最高に幸せです。」と。友達との電話での会話、公園のお母さんとの会話。こどもたちは大人が何気なく話していることでもきちんとキャッチしてそれを自分の価値観として自分の中にはぐくんでいくのです。

こどもは親の鏡とよく言われます。こどもは一番身近な親を教師にして、見て、聞いて育ちます。今日皆さんが話しているそのひとことを聞いて子ども達の価値観に植えつけられ、育つのです。ネガティブな偏見はそのまま子ども達の中に残っていきます。そしてそれが彼らの将来、きちんとわかるべき大切なものを見えないようにしていくのです。確かな純粋な目をむしばんでいくのです。気をつけたいものですね。

うそをつくこと

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 母親にとってこどもがうそをつくことほど悲しいことはないですよね。特に最初にうそを付かれたときはショックということばにも表せるかもしれません。信頼していたのにとか、うちの子に限ってとか、あれだけうそはだめと教えてきたのに裏切られたとか、きっとそんな思いをされたのではないでしょうか。そしてこどもがうそをついたらその段階で、「だめでしょ、うそついたら。」「ママには絶対にうそつかないで!」とか言うのではないでしょうか?しかしうそをつくことは悪いように聞こえますが、実は成長の一部なのだと受けとめたらどうでしょうか。

 

なぜうそをつくのか?

こどもは皆さんが思っている以上に早い時期にうそをつくことを覚えています。早ければ3才前、少なくとも3才になったらうそをつくという知能が発達しているのです。さらにうそをつくことは悪いと言うことも分かっています。それでもあえてうそをつくのは知恵なのです。相手をからかう為のうそも賢くなった現われと見うけられるときがあります。

また彼らがうそをつくのは自己防衛でもあります。つまり私達、大人が使う「うそも方便」のようなものです。事実を隠すという行為はますますエスカレートして行きます。ひとつのうそをつくと、さらにその最初のうそをカバーする為にもうひとつうそをついてしまいます。このあたりにくるとだんだんこちらも真相が見えてきますよね。ある意味で、事実を隠し、われわれ親の反応を試しているのです。年齢を増すごとにうそはだんだん巧妙になり、私達親でもわからなくなります。

しかしこどものうそはかわいいもんです。たとえば4才の子供にナプキンの下に隠してあるおもちゃを「まだ見ちゃダメよ」とこどもに伝えたとします。しかしこどもは好奇心が旺盛ですから、ましてやみちゃだめといわれればなおさら見たくなるものです。大人も同じですよね。大人が絶対に分からないと思えば、「見た?」という問いにたいして、「見てない」と答えるでしょう。そうすると大人は、「そう、いい子だってね」とさらにほめてしまいます。ほめられることはこどもにとってとてもうれしいことです。だから当然嘘をつくのです。

これで「見た」といったらどうでしょう。おそらくこどもは怒られると言うことがわかっているから「見てない」というでしょう。怒られるのがいやだから、自分の心をあるいはからだにおいて、傷つきたくないから自分の身を守る為にうそを言うのです。

 

こどもにはこどもの理由がある場合も

結局知能の高い子どもほど上手にうそをつくと思います。さらに驚くことは口の固い子もいると言うことです。我が家でも過去にこんな事件がありました。娘は大の動物好きで犬を買いたかったのですが、我が家の男性諸君の反対を受け、どうしても飼うことができませんでした。そして私は娘にハムスターを与えました。当時8才の娘はそれはそれは大事にそのハミーちゃんをかわいがって育て、りっぱに8才の子どもなりに世話もしました。しかしある2月のこと、「マミー、ちょっときて、ハミーチャンがおかしい。」といって見たところ、完全に体が硬直していました。そう、ハミーチャンは命絶えていたのです。一連のお葬式をすませ、それから一年近くが過ぎました。ある日、娘は、「マミー、絶対にダディーに言わないって約束してくれる?絶対にだよ。.........・あのね、ハミーチャンね、アリちゃんがソファーでつぶしちゃったの。」とこぼしました。

私はそれを聞いたときに、娘がなんと長い間この事実を自分の小さな胸に苦しんでいたのだろうといとおしくなりました。これだけ長い間、心に押さえていたものを声に出してみたという勇気にすら私は認めて上げなくてはいけないと思いました。彼女は1年以上という長い歳月、ずっとこの真実を小さな心に秘めていたのです。だれにも本当のことを言えず。それがどんなに彼女を苦しめていただろうかと思いました。わずか8才の子どもにこれだけの大きな我慢を長期に渡ってできるのだろうかと疑問に思ったほどでした。

きっと彼女は、本当のことを言ったら回りから攻められるなり、もう飼っては行けないといわれたりするだろうと思ったのでしょう。さらに「かわいそう」とか、「ありちゃん、ひどい」とか言われたら、自分が引き起こした事件だけに自分をいつも責めて行くこともつらかったのでしょう。私は娘に、「ありちゃん、ほんとうによくいってくれたね。マミーうれしかったょ。ありがとう。そのことずっといえなかったこと、ほんとうにつらかったね。けどいったあとほっとしたね。言えてよかったね。」そしてそのあと私は彼女を攻めることもなくただ抱きしめました。

私は彼女の口の固さというか、我慢強さというか、その成長にとにかく我が娘ながら感動しました。自分自身が8才という幼さでそれほど長い間、事実を隠し通せたかどうか、本当の所自信がありません。しかし娘はある意味で、自分の失敗に対してこのような形で心の中で長い時間をかけて事件を整理し、かつ反省していたのです。こどもは私達が思う以上に自分自身で悪いことに対する反省する力を備えているのだと思いました。そのため、私達ができることはこどものその力を信じて見守ってあげることではないでしょうか。

 

どのようなうそかを見極める

「どうしてうそつくの!」「うそついたでしょ!」「うそはどろぼうのはじまりっていうのよ!」「うそをつくとえんまさまがきて舌をぬいてっちゃうよ!」「うそだけは絶対にダメだっていつも言ってるでしょ!」「うそつきのこどもはうちには入れません!」などときっと皆さんはこどものうそに対して更正してきたとおもいます。またそれが正しいしつけだと信じているでしょう。

私達大人の世界ではなんと多くのうそが平然と行われているのでしょう。「奥さん、きょうはきれいですね。」「ごめん、今日娘が熱出したらから出られないの。」などは日常茶飯事ですよね。まあ、これはいわゆる小さなうそ、世の中をうまく渡る為の知恵ですね。さらに大きなうそでは、人をだまし、真実を隠し、むしろだまされる方が悪いという価値観の国もあります。警察官ですら真実を隠し、報道にはうそを発表し、政治家は国民をだましと大人の世界はもっともっと汚いのです。このようなうそは当然罰せられなくてはいけないうそです。それは誰が見ても悪いことです。

うそにもいろいろな状況、場面と種類があります。当然怒らなくてはいけないうそもあります。それは人を傷つけるうそです。私達親としての勤めは、どのようなうそなのかを見極める賢さを備えることです。こどものうそはしょせん見え透いたうそです。うそを見抜くことはそれほどむずかしくありません。

こどもがうそをついたとき、すべてのうそに頭ごなしでうそはだめと怒るのでなく、どうしてうそをつかなくてはいけなかったのかを考えて見てください。そしてこどもの立場に立って状況を主観的に見つめて見てください。きっとお子さんは悪気をもってうそをついたのでなく、彼らなりに理由があり、場合によってはママを悲しませたくないがゆえにとったうそという配慮だったのかもしれません。子ども達の心は繊細です。どうぞ温かく心の成長を見守ってあげてください。うそに対して時には目をつむって微笑むこともこどもを一番よく理解している母親ならではできることなのかもしれません。

「あれ?けんちゃん、これこわしたんでしょ?」

「ちがうよ、けんちゃんじゃない!」

 公園であったお母さん、こどものおけいこ先で知り合ったお母さん、私達は母親になると母親が集まる世界でいろいろな女性との出会いがあります。しかしとかく子どもレベルの話しで終わってしまいがちです。きのう熱を出した、どこどこの小児科医はどうだ、野菜を食べないで困っている、あそこでこども靴のバーゲンがあるなどの範疇でのこどもレベルの話しが大半の人とのつきあい程度ではないでしょうか。これを一歩超えて少し親しくなった段階でもせいぜい夫の仕事について、どこどこに旅行したことがある、というまだ表面的な事実だけを話す程度ではないでしょうか。

 

しかし本当の所はもう少し踏み込んでこどもがかわいく思えないときがあること、自分は本当は働きに出たいこと、夫とうまく行っていないこと、姑にいじめられていること、女の体のこと、避妊のこと、セックスレスの悩み、昔の彼のこと、家庭の経済的悩み、好きになれないIちゃんのお母さんのこと、まで話したいと思うときがあるのではないでしょうか。

私達は女同士だから本当はこういうことも話したいけれども実際にはこどもがいっしょにいるときであれば話しが中断されてしまったり、昼間の公園で陽がさんさんと照っているもとで夫婦のふとんの中での話しなどはとうていできません。またそれ以上に周りのお母さん方にこんなことを話したらうわさとして流されてしまうのではないかとか、こどもを殴ってしまったことでも話せばひどい母親だと敬遠されてしまうのではないかと躊躇しとても話せません。

 

カミングアウト

長い間、都会の窮屈な住居で子育てをいらいらしながらしていた母親は衝動的なこどもへの虐待、あるいはたまの平手打ちなども他のお母さん方にはとうてい告白できなかったのです。しかし徐々にその風潮もくずれ、今ではそのような環境に押し込められればだれだってノイローゼになってしまう、ぶってしまうこともあるということが世間で理解されてきました。私は決して児童虐待を肯定しているわけではありません。私は単に今まで口にできなかった事を女性はもっと堂々と気持ちに素直になって言ってみるべきだと提案しているのです。

こんなことを感じている自分はおかしいのではないか、こんなことを言ったらきっとみんなから異常な母親として村八分を受けるのではないか、と思わないでとにかく言ってみることです。そこには、「あら、Oさんもそういうことがあるの?実は私も先日、こどもをぶってしまったの。後からすごく後悔したんだけれども。」と会話が発展し、自分だけが孤立化してそのように感じているのではないということに気がつくと思います。母親失格と思っていたのに、そのように感じることがあるのも普通なんだと受けとめられてきます。同じような悩みを抱えている人が近くにいて、話し合えることに気がつくはずです。

疑問は投げかけてみましょう。もしかしたらみんなも同じなのかなと声をかけて聞いてみましょう。どこかにきっと、「あら、私もそう思っていたの。こういった気持ちはおかしくないよね。」と同調してくれる人が必ずひとりくらいは現れるはずです。また現われなくてもいいではないですか。

すべて周りのお母さんがみんな家でも公園にいるときと同じような笑顔でこどもとしょっちゅう遊んでいると思ったら大間違いです。自分で思いつめないで、話すことでかなり心が軽くなるものです。つらい子育ての部分にも元気がわいてくるはずです。今は子育てが本当にやりにくい時代になっているのです。自分一人でない、みんなもがんばっているんだ、同じことで悩んでいるんだと思うことは、私達の中に大きな力を与えうるのです。解決策が見出せることもあります。

夫に話しても限界を感じたり、壁にぶつかることがあります。悩みを分かってもらえるのは同じ境遇のもとにいるもの同士だけということもあるのです。そのためそのチャンスを見逃さないでください。このように心を開くことによってできた友はかけがいのない一生の友となるはずです。

 ある友人が自分の母親を「母親として失格だ」とひどく批判していました。彼女の母親は自分のやりたいことがいっぱいあったにもかかわらず、こどもがいたためにできなかったとしょっちゅう愚痴をこぼしていたようです。やりたいこともこどものためにあきらめ、やらなかったことが子どもへの愛情だとその母親はいいたかったのでしょうか。他にも彼女は母親の子育ての姿勢に対して大変否定的でした。

しかし驚くことにその出会いから数年後、彼女はすっかり自分の母親を許していたのです。話を聞くと、「子育てなんてしょせん大成功なんてありえないのよ」と妙に納得していました。そうなのです。特に最初の子どもとなると実は失敗の連続なのです。最初の子どもは思考錯誤で育てるギニーピッグ(実験用のマウス)なのです。わからないことだらけゆえに本に書いてあることをすべて鵜呑みにして実行したり、保健婦さんの言ったことを従順に守るのです。疑うというすべも知らないこともあります。それゆえに時には我が子の場合には当てはまらなかったり、事の事態を誤解して失敗していたと言うことが数多くあるのです。

私も長男のときは時計と睨めっこをしながら授乳時間を右10分、左10分と決めていました。赤ちゃんに日光浴といわれれば、真冬でもまっぱだかにして窓を開けてこれまた時計を見て時間を測りながら日光浴をさせていました。なにも分からないから言われるがまま素直に実行しました。何も疑問に思わず、とにかくこの小さな命をちゃんと育てなくちゃという使命感に燃えていました。泣き止まないからと総合病院の救急にも走り、看護婦さんに笑われた経験もあります。皆さんも一生懸命にその子どものことを思い、愛していたからがゆえに行っているはずです。それでもそれがたまたま裏目に出てしまうこともあるのです。しかしそれでもいいのです。しょせん母親一年生は失敗から学ぶのですから。当然二人目となれば失敗率は減っているはずです。それは一度何が間違っているか失敗や経験から学んでいるからです。だから二人目は幸せかといえばそのように測れるものでもありません。

 

環境、時代を克服する

人生にはどんなにがんばってもなるようにしかならないこともあるのです。特に私達は生まれた環境を選ぶことはできません。さらに親を選ぶこともできなかったのです。たまたまアルコール依存症の親のもとに生まれてしまった。貧困の家庭に生まれた。それはどんなに努力しても変えられません。そのため、それは事実として受けとめるしかないのです。そしてたとえ受けとめられなくてもその人の人格が否定されたわけではないのです。環境を選べなかった人がすべて否定されたら私達は生きていく自信が無くなってしまいます。

子育て思想も同じです。「3才までは母親の手で子どもを育てろ」、「母乳で育てた子は情緒豊かになる。」、「母親との絆が結ばれるのは産みの苦しみを知ってこそ」、「赤ちゃんは新陳代謝が激しいので毎日お風呂に入れなくてはいけない。」、「断乳はいつまでにしないといけない」、「指しゃぶりは歯並びに影響するからやめさせろ」、「早期教育は3才過ぎたら遅すぎる。」とこのようなプロパギャンダ(回りから耐えず吹きこまれる理想像)にどれだけの母親が身も心もゆすぶられてきたことでしょう。そしてそれができないと世間では冷たい母親?母親として失格?とレッテルをつけてきました。

時代が変わり、その思想が間違っていたということに後々私達は気がつくのです。そしてその時にはもうこどもは手を離れ、遅すぎると言うこともあります。それを失敗と取るなら失敗でしょう。

あの時にこうしていればよかった、あの時ああしていればよかったといつまでも後悔していても始まりません。あくまでもその時点においては自分の限られた知識と経験の中で一生懸命精一杯にやった結果なのだとこどもに許してもらうことです。その時はもう二度と戻らないのです。その時はその時しかないのです。昨日をもう一度生き直すことはどんな金持ちでもできないことなのです。Yesterday is gone. Tomorrow is the unknown. That is why today is the present.そのためにも今日という日を納得のいくように生きていかなくてはいけないのでしょう。

人生のいいところは、たとえいつになっても気持ちさえあれば、やり直しが効くことだと思います。つまり生きていればなんとかなるもんさというものです。人間には生きようとするものすごい力があるのです。たとえ逆境に置かれても這い上がるだけの生きる力を備えています。そのためこどもの中にもしっかりその力が存在しているのだと信じて前向きな姿勢を立てなおせることに自信を持ってもらうことです。その時にもう親は手を出さなくてもいいのです。自分自身の人生を切り開いて行けるように遠くから見守っているだけでいいのです。子ども達の人生は巣立った後の方が長いのですから、その後は自分で責任を持って人生を切り開いて行けばいいのです。

 

では、今なにができるか?

今、私達に欠けていることは、みんなといっしょならば安心、他の人と違うことをするのはこわい、自分の信念を通すだけの強さがないといったところだと思います。うちはこれでいいんだと胸を張って自分と子どもとの関係に納得し、ハッピーであると言えれば自分だけの子育てに自信を持てるようになるのです。そうでなかったら夫が亡くなってしまい、生後数ヶ月で保育園に入れられた子ども、海外で生活していたがために緊張のあまり母乳が出なかった人工乳育ちのこども、その家族にこどもが授からなかったがゆえに養子として迎えた子どもが救われないじゃないですか。彼らが皆、そんなに不幸な人生を歩んでいますか?

子育て一般論なんてあくまでも空想であり、理想であり、現実にはこどもの数だけ子育て方針があっていいのです。だからそんないい加減で無責任な情報にまどわされず自分自身の子どもと向き合った我が家の子育て方針を探していってください。海外で子育てをしている多くの母親が、「情報がないだけに、それに頼らないマイペースの子育てができてよかったと思います。」というような感想を寄せています。もしかしたら情報がない方がちゃんとこどもの信号をキャッチできるよい環境に恵まれているのかもしれませんね。

 

先日あるベビートークの会合でパネリストとして呼ばれました。その中で私は繰り返 し、日本の育児雑誌からの情報を鵜呑みにするなとか、海外からの育児案も日本の環 境にあったものをきちんと吟味して、日本の文化に馴染む形で受け入れなくては行け ないなどの提案をしていました。 トークが終わった後、あるお母さんが私のもとを訪れ、こどもがスーパーなどでもの をねだり始めたらどうしたらよいかという具体的な質問をあげました。私は親が買い たくないのであれば、スーパーではこどものものは買わないと一貫した方針を決め、 それを貫けばよいでしょう、とアドバイスをしました。

  さらにあまりかんしゃくを起 こして周りに迷惑をかけるような状況であれば、買い物は中止。外に出てこどもに言 い聞かせて戻るか、あるいは収まらないのであれば今日の夕飯は家にあるインスタン トラーメンにでもして、帰宅する事でしょうねと提案しました。けれども状況にもよ りますし、年齢がまた上がれば、言い聞かせができるので多少の譲歩は可能となりま す。あくまでもその時期のその状態です。 しかし彼女がもっとも気になっていたことはある育児雑誌に書かれていた、「だめと いわないしつけ」についてでした。つまり本当にだめをいわないで育てられるかとい う疑問を投げかけたかったのでした。

私はこどもに「だめ」を言わないでどうやって しつけの基本であるよい、悪いを伝えられるかといいました。 もちろん子どもがいる家であればそれなりの安全対策をひく必要はあります。テレビ やビデオのスイッチなどを勝手に触らないようにする、キッチンに入らないようにす る、危険なものが入った引出しはあけられないようにするなどこれはこどもがいる家 庭であればどの家庭でも行われているでしょう。このような対策を嵩じていなけれ ば、一日中だめを連発しなくてはならなくて、母親が疲れてしまうでしょう。この点 でしたら「だめをいわない環境づくり」ということで納得がいきます。

   しかし親として最低限のしつけは、こどもに何が悪いことか、何がよいことかを教え ていくことです。そして悪い事の中には他人に迷惑をかけてはいけないということが 含まれます。どんな未開な土地でも、どのような貧しい層の親でも、どのように教養 のない人達でも、何が他人に迷惑をかけるとか、何が相手に不快な感情を与えるかぐ らいはわかり、それをしないようにこどもたちにしつけています。これはしつけの基 本中の基本です。子ども達に「だめ」を教えないで、いったい何を教えるのでしょ う。親としての義務を放棄したようなものではないでしょうか。

  あえて付け加える事といえばその「だめ」を言う頻度が高い時期があるということで す。まだものごとがわからない年齢だからとほっておくのでなく、もうどんなに小さ な時からでも「だめ」は「だめ」です。そしてなんでも「やだ、やだ」の時期には もっと「だめ」という機会が増えるでしょう。

  私の身内にしつけに甘い母親がいま す。彼女が息子を連れてくると、私はこれぞとばかり、いけないことは伝えていきま す。だからこわいおばちゃんのように彼の目には写るかもしれませんが、本当にだめ なことはだめなのです。それを親が注意しなければ他人が注意するのは当然です。私 は他人の子であれど躊躇しません。子どもを社会人としてきちんと育てるのは社会全 体の責任だと思っているからです。そのため彼はベターっと床にうつぶせになって一 人でふてくされるのです。(この光景がなんともかわいいのです。)けれどもそれも わずか数秒、やがて遊びに行ってしまいます。いいですね。こどもは根に残らないで すから。

  しかしこの「やだ」を連発する時期に心がけなくては行けないことは、いつもいつも 「だめ」の連発で親から押さえつけられていては、中学生のように「うるせえ、いい かげんにしてくれ!」と言いたくなるでしょう。これではかえっていじけてやる気の ない子になってしまうかもしれません。そのためある程度、出口も作ってあげておか なくてはならないでしょう。その「だめ」と同時に、のびのびと「いいよ」思う存分 やってごらんという、のびのび開放された空間ももたせてあげるとよいでしょう。こ れで本人のエネルギーも発散され、ママのストレスもかなり解消できることでしょ う。

 

いったい母親がハッピーでいられる条件とはなんでしょう?そうです。ご主人が皆さんをしっかりと愛情で包んでいてくれることです。これ以上の安心はないと思います。そしてその安心があるからこそ私達女性は妻として、母親としての仕事をまっとうできるのです。異国での緊張の連続の生活、帰国後の将来への不安、悩み多き人生、このように心が不安定な状態になっているときこそ、「愛」で支えてほしいのです。その愛を夫が与えられないのであれば、妻はそれを他に求めます。こどもであったり、浮気相手であったり、とにかく必要だからこそ必ずどこかにそのよりどころを探そうとします。逆もまた正なりです。

ご主人はしっかり奥様のニーズを把握していますか。海外へ出たらなおのこと責任が増えた、仕事が増えた、時差の関係で日本の時以上に働かなくてはならないと家庭で過ごす時間が減少していることを正当化していませんか。しかしご主人が海外でせいいっぱい仕事ができるのも奥様の陰の力があってこそだということを忘れないでください。家庭を任せた、子どもを任せたと安心していられるからそれだけ仕事に打ちこめられるのです。そして彼女にも女としてのニーズ、人間としてのニーズ、妻として、母としてのニーズがあることを知ってください。

彼女の心の状態を感じ取っていますか。それを常に感知していられるのにはできるかぎりいっしょにいる時間を増やすことだと思います。二人だけの時間、デートの時間も設けるべきです。子どもを誰かに預けて男と女になる時間も大切なのです。こどもが大きくなったらと後送りしていはもうその時には遅いのです。

よくコミュニケーションが大切だといいますが、別に止め止めなくしゃべりまくっていなくてもいいのです。ただそばにいるだけでも彼女の心の動きが感じ取れるはずです。人間は本当に神秘的にできていてことば以上に体から発するメッセージが多くを伝えているものです。

こどもの健全な成長を願うのならば夫婦が基本、夫婦を核として家庭を形成して行かなくてはなりません。こどもはお父さんがお母さんにやさしくしている姿を見て安心するものです。これは子どもの前でべたべたしろといっているのではありません。お父さんがお母さんのためにりんごをむいて差し出してあげたり、たまにはお父さんがお母さんに大好きなコーヒーを入れてあげたりする、そんな小さな日常のしぐさ、しいては愛情表現をこどもは敏感に察ししています。それで十分なのです。

私はいろいろな子ども達と接していて、学校で問題を起こしていたり、友達とうまく行かない子どもを見るとどうしてもその背後に両親の不和、あるいは母親の心の不安定さが見えてきます。親がゆれているとこどもはその上でさらに大きくゆれてしまう、そんな現象が起きてしまうのでしょう。

しかし夫婦だってけんかをします。意見の不一致、結婚生活における波風、嵐、そのようなものは避けることはできません。子どもの前でもばんばん討論を行ってもいいと思います。価値観の違いや意見の違いから起きる討論は決してけんかではありません。子ども達はけんかか討論なのかその違いは分かりません。そのため「ママ達けんかしないで。」と叫ぶでしょう。夫婦でも人間である以上それぞれ違った意見を持つのは当たり前で、受け入れられるべきことを子ども達に見せてわからせる必要があります。別にケンカをしているのではなく、お互いの意見を述べていること、また多少けんかが数日に渡っても決してそれで分かれるわけではないことを行動で表し、ことばで伝えれば子ども達は安心するでしょう。夫婦けんかをしてもこのようにきちんと家族の一員であるこども達にもフォローを忘れないことです。そしてそれは夫婦の態度でこどもに伝えましょう。

子育ての楽しみ


なんと多くの女性が気を張って子育てをしていることでしょう。本来子育てとは楽しいことであるはずなのに、多くの人は子育てを楽しいと感じていないといいます。特に最初の子どもの場合はとても子育てが楽しいとは自信を持って言えないはずです。

3人目くらいになって初めて子どもってなんてかわいいのと子育てに余裕ができ、やっと子育ての楽しみが分かってくると言います。さらに子育て雑誌を読みながら自分の子育てはこれでいいのだろうかと常に専門家の目を気にしながら、小児科医が提案すれば絶対にそれにこどもが当てはまらないと我慢ができなかったり、周りの人達が子どもとの暮らしが楽しいと言うのを聞くとどうして自分だけ楽しめないのだろうか自分の母性に対して不安に思ったりします。

今、少子化時代を迎え、ほとんどの人が一人か二人しか子どもを産まなくなり、こどもを育てる本当の楽しさをあまり経験できずに過ごしているように思えます。

しかしなにも3人目を生めといっているのではありません。1人目でも2人目でも子育てが楽しいと思えることはできます。それはもっとこどもについて知ることです。そしてそれをもとにどのような姿勢を母親が持つかということです。


楽観的な人間育て

こどもはどんなに自分がこうあってほしいと思っても自我があり、個性があり、生まれもっての性格があり、母親一人の手ではどうにも揺るがしようが無いその子だけの固有性があります。皆さんもお子さんの性格と知って、これだけはどうにも変えがたいと感じる部分をたくさん直面してきたと思います。変えられないのならそうだと思ってもっと楽観的に人間育てに臨んでみてはどうでしょうか。その個性をむしろ受け入れ、喜べるようになったらかなり精神的にも親は楽になると思います。からだを動かすことの好きな女の子ならそれでいいではありませんか。気弱な男の子でもそれは彼のやさしさではありませんか。


人生は軌道修正できる


どんなに親ががんばっても子はなるようにしかならないこともあるのです。将来、たとえ暴走族に走ろうが、登校拒否に陥ろうが、十代で妊娠してしまっても、それが彼らの選んだ道であるのならばどうしようもないことなのです。しかし愛情をもって育てていればたとえ子ども達が道を反れても必ずそれに気が付き軌道修正ができるはずです。その力を備えているはずです。その時に私達親ができることは、今までの自分の子育てに自信を持ち、本人がもとの正しい道に戻ることを見守るしかないのです。そして人生は何度でも軌道修正が可能であることを伝えていくことです。


天才的な子であるならばともかく普通の親から生まれた普通の子であれば、あまり期待をしすぎても始まらないと思います。とにかく健康に、普通に育ってくれればそれでまずは十分ではないでしょうか。そしてもし普通以上であればそこには期待していなかったボーナスとして感謝すればいいのだと私は思います。

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