散るぞ悲しき

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iou.jpg久々に深く感銘した本です。「散るぞ悲しき」梯 久美子著

左の写真、大抵一度は目にしたことがあると思います。この旗が立てられた島の名は硫黄島。アメリカ海兵隊員が島の占領を記念して星条旗を立てている有名な写真です。硫黄島は太平洋戦争末期、日本軍側の死傷者、2万1152名(内、戦死者2万129名、生存率5%)、米軍の死傷者数2万868名(内、戦死者6821名)を出した激戦地です。

数字を見てもわかるように日本の兵士は、死傷者と言っても全滅状態です。アメリカの戦死者も、日本に比べれば、はるかに少ないとは言え、第二次世界大戦で戦死した海兵隊員の内の3分の2が、この硫黄島での犠牲者でした。(アメリカ合衆国の海兵隊は上陸作戦・即応展開などを担当する精鋭部隊で、その主任務は陸海空軍が上陸する前に先陣を切って上陸を果たすことにあり、よって常に犠牲者が最も多く出ます。徴兵制度の取られたベトナム戦争の時でも、全員志願兵でした。)

たまたま私の夫と深い親交のあった大学時代の恩師ハンフリー教授という方が、硫黄島を生き残った方で(彼の十数名いた部隊で生き残ったのは二人だけだそうです)、我が家を訪れると、たまに硫黄島のことを話されていたので、硫黄島が日米の激戦地だったということは知っていましたが、今回、日本側の硫黄島総指揮官の戦いの最後の様子が書かれたこの本を読んで、改めて日本側の犠牲の大きさと、兵士達の生の苦しみ、死に行く悲しさを知り何度も涙が出ました。

硫黄島は東京とサイパンのほぼ真ん中に位置し日本にとっては本土防衛の最後の拠点であり、アメリカにとっては日本本土空襲のための発着地として最大の足がかりとなる場所でした。

日米両者の軍事力の差は、戦う前からあまりにも歴然としていました。日本兵2万余に対し、アメリカ兵6万余。想像をこえる物量の大差。日本側は戦争末期で召集された30代以上の妻子を残して出征した兵士達が多く、対するアメリカ側は歴戦の将校と士気旺盛な志願兵の若者達から成る先鋭の海兵隊。最初から万に一つも勝ち目のない戦いであった上に、日本の大本営からは米軍上陸直前に「敵手にゆだねるもやむなし」として見放され、援軍の希望も絶たれていました。

iou1.jpg島は半日もあれば徒歩で回れてしまう程の大きさで、所々で硫黄ガスが吹き出し、ハエ、アリ、アブラムシがウヨウヨと徘徊する不毛の地。川も湧き水もなく、水源は時より来るスコールを溜めた水のみ。そのような状況下、栗林は上層部の反対を押し切って隠れるところのほとんどない島に、くまなく地下壕を堀りトンネルを張り巡らせ日本軍には例のないゲリラ戦を展開し、アメリカに5日で落ちると言われていた島を36日間にも渡って守り抜いたのです。アメリカ軍に地獄のような苦戦を強い、米国ではBattle of IWO JIMAとして語り継がれ、米軍人の間でいまもGeneral Kuribayashiとして評価されている日本の総指揮官、陸軍中将、栗林忠道氏(享年52歳)。

筆者、梯(かけはし)久美子さんにペンを取らせたきっかけとなったのは、たまたま目にした栗林氏の訣別電報の中の辞世の句の中にあった「国のため、重きつとめを果たし得で、矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき」という一首。当時の帝国軍人、しかも大将が「悲しき」などという弱弱しい言葉を使うことは大変まれでした。現に、この辞世の句の「散るぞ悲しき」の部分は、大本営部によって「散るぞ口惜し」と改変され新聞に発表されました。栗林氏が敢えて「散るぞ悲しき」の一文に籠めた思い、伝えたかった真実とは、なんだったのか?

栗林氏は、地獄のような戦地から、大変まめに妻子に宛てて心細やかな手紙をしたためていました。自分は真っ暗で狭く暑い穴の中で連日に渡って行われる空襲から身を隠しながら、日本の妻のアカギレを気遣い、出征前に直すことのできなかった床の隙間風を心配し、短い間しか一緒にいてやれなかった末娘の将来を思いやる手紙を何通も書き送ります。

「たこちゃん元気ですか?お父さんが出発の時、お母さんと二人で御門に立って見送ってくれた姿が、はっきり見える気がします。・・・たこちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。・・・」、

「たこちゃん!元気ですか?お父さんは元気です。ゆうべも寝てすぐと明け方との二回、空襲がありましたが、お父さんは面白い夢を見ました。それはたこちゃんがおふろから上がってめそめそ泣いていましたから、お父さんは「どうして泣くの?おふろがあつかったからかね?」と尋ねていると、お母さんが笑いながら出てきて、「きっと甘いものがほしいからでょう」と言うて・・・。それだけですが、お父さんはみんなの顔がはっきり見えたので、会ったも同じようでした。」

「夫として父として、御身達にこれから段々幸福を与え得るだろうと思った矢先この大戦争で、しかも日本として今最も大切な要点の守備を命ぜられたからには、任務上やむを得ないことです。・・・最後に子ども達に申しますが、よく母の言いつけを守り、父なき後、母を中心によく母を助け、相励まして元気に暮らして行くように。・・・たこちゃんは可愛がってあげる年月が短かった事が残念です。どうか体を丈夫にして大きくなってください。」そして追伸として「家の整理は大概つけて来たと思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です。・・・」

栗林は若い頃、軍の視察にアメリカとカナダに2年間留学していました。そのため、日米の軍事力、資力の圧倒的な差を知っており、アメリカとの開戦には最後まで反対していました。(栗林がアメリカ通であったために、死地にやられたという見方もあるそうです。)しかし、手紙にも「任務上やむを得ない」とあるように、勝利も生きて帰る見込みさえもない死の島へ2万余の兵士の命を預かり送り込まれました。

iou2.jpg筆者は、そんな状況で栗林は一体、どんな目標のを持って飢えと乾きに耐えながら最後まで勇敢に戦い続けたのかに思いをはせます。当時、日本兵士は勝ち目のない戦いになると万歳三唱して敵に切り込む「バンザイ突撃」を行い潔く散ることが慣例のようになっていました。トンネルの中にガソリンを流し込まれ火炎放射器で焼き殺されるよりも、思い切って飛び出して潔く散ってしまった方が、きっと楽だったに違いありません。しかしながら、栗林はバンザイ突撃を強く禁じ、潔い死を選ぶ変わりに、死よりも苦しい生を生き、戦い抜くことを部下にも自分にも課します。目標や希望なくしては、とてもできなかった戦い方でした。

栗林は、家族に宛てた手紙の中で何度も以下のようなことを書いています。

「もし私のいる島が敵に取られたとしたら、日本内地は毎日毎夜のように空襲されるでしょう。」「東京大空襲の前提としては、父のいる島が敵に取られるということで、言い換えれば父が玉砕したということである。」・・・と。つまり栗林は、日本の家族への危害を一日でも一秒でも遅らせるために必死に島を死守しようとしたのではないか?

全米ベストセラーとなった「硫黄島の星条旗」の著者J.ブラッドリーは、栗林が、苦しいゲリラ戦を決意した背景には、栗林がアメリカ人気質を熟知していたからだと分析しています。ベトナム戦争においても、今のイラクとの戦争でもそうですが、アメリカ国民は、何よりも人的被害を重く見るので犠牲者が多くなるに従い、たとえ戦況が有利でも段々と厭戦気分が高まるとともに、政権者への批判も高まり、戦争を早く終結させようとします。栗林は、そのようなアメリカ世論を考慮し、勝ち目はなくとも、できるだけ相手に人的被害を与え、アメリカの世論が、日本との戦争を早く終わらせようと望むことを期待したのではないか。

iou4.jpgまた、筆者梯は、さらにこう付け加えます。栗林の、そのような目論見の背景には、できるだけ硫黄島でアメリカを引き止めることで、愛しい家族達の住む本土への空襲を遅らせ、日本が戦争終結を考慮する時間を稼ぎ、敵に甚大な損害を与えることで、日本が有利な形で終戦交渉の席につける、という心積もりがあったのではないか。2万余の兵士達全員が、同様の気持ちを共有していたからこそ矢弾尽きるとも命の一滴まで戦い抜けたのではないか。ただ、最大の悲劇は、栗林の最後の願いはむなしく、日本軍部の上層部は、その方針を変えることなく、本土は焦土と化したこと、確かにアメリカでの厭戦ムードは高まったけれども、アメリカは戦争を早期終結させるべく、栗林が想像だにつかなかった原爆の使用に踏み切ったこと。

戦後、遺骨収集団の方たちが見つけた戦没者のポケットの中には家族や子どもの写真や手紙を抱いていたものがたくさんあったそうです。そして今でも多くの兵士達の遺体が回収されることなく硫黄島の土の下に眠っているそうです。栗林の遺骨も共に戦った部下達とともに硫黄島の土となることを望んだ栗林が、最後の攻撃の際に軍服の身分証などを全てはずしていたために、発見されることがなかったそうです。
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