2008年10月アーカイブ

meisou.jpg
座禅をする方法の一つとして、集中瞑想と言うのがあります。座禅の勉強の初期に適当な瞑想法で、先ずは呼吸に集中するように導かれます。座禅を組んで、息を吸いそして吐く毎に「1、」「2、」「3、」と数えながら、息が入ったり出たりするのに集中し、10まで数えたらまた1から数えなおします。これを繰り返しながら、集中力を付けていきます。

座禅を始めて直ぐ気が付くことは、雑念が頭に入ってきて気が散り、呼吸の動きに集中することを忘れてしまうことです。ひどい時には、吐き出す息を数えるのも忘れてしまったり、「14、15、16、、」などと知らない間に数えていたりします。集中するのがたいへんなことであることを経験します。

長いこと座って、集中していると、時には雑念が減ったりすることもあります。また、座禅の経験が増えるにしたがって雑念が徐々に減っていきます。座禅の目的は、雑念を減らして、心が無の状態に至るまで努力をすることですが、今回考えたいことは、その雑念はいったい何を意味しているかということです。

この種の雑念は、座禅をしているときだけ、現れるものではありません。普段何かに集中しようとしているとき、心の隅から沸いて来ますし、疲れてボーっとしているときも、心配しているときも、夜中に目が覚めて、眠れないときも起こります。そして、自分にとって重要事件が起こり、直ぐ対策を練って活動しなければならないときに、心はいろいろな雑念で引き裂かれたりします。

雑念の本質は、自己防衛です。

雑念の内容を観察してみますと、過去に起こった思い出、苦しかったこと、楽しかったこと、やり残したこと、何かをしてしまった悔い、対人関係のむし返し、やりたいこと、やらなければならないこと等含まれています。これらを通してやろうとしていることは、自己問答をしながら、自己安定を図ると言うことではないでしょうか。

これを自ら意識してしようとしているわけではありません。長い間知らず知らずのうちに、自分のイメージを保つために、自分を説得したり、自分に言い訳をしたり、自分を納得させたり、または、事実を否定したりしてきたものが、習慣化され自動的に起こるようになったのです。

その一方、意識をもってすること、座禅で言えば呼吸を数えること、生活の中では、問題解決をしたり、仕事に集中したりするとこは、自分で苦心しながらするものなので、雑念よりもっと努力、すなわちメンタルエネルギーが必要です。そのために、よい睡眠後のすっきりとした頭の状態では集中力がよく、雑念が少ないですし、疲れているときには、集中力低下で雑念が増えます。

ちなみに、夜中の夢は、日中の雑念よりさらに自動的で、勝手に脳がやってくれるといった感じです。それでも、夢の目的は日ごろ起こる出来事の消化と言う意味で、自己を守るために、自然とやってくれる生存力であると言えるでしょう。

では、なぜ座禅をする時に、呼吸に集中をして、自分を守ろうとする雑念を減らす方向に努力をするのでしょう。それにはかなり深い意味が隠されているのです。

実は雑念が守る自分というものは、あまりよい自分ではありません。既に書きましたように、雑念は長い間知らず知らずのうちに出来上がったもの。それが守る自分もかなり「長い間」以前に出来上がったもので、古い自分なのです。あまりにも古いので現在には適応しませんし、使用できません。むしろそのような自分を使ったら、「現在の自分」にとって悪いでしょう。

「現在の自分」とは、古い自分よりは成長した、もっと社会のことや人間関係のことを理解でき、世間渡りが上手になった現在の自分です。誰にでもそのような「大人の自分」があるのですが、日常は古い自分と混合し、二つの自分を識別することは難しくなっています。それで、座禅では、古い自分を守る雑念を減らすことに努力します。日常に関しては、自然に起きる雑念を無視し、今、目前にある出来事や仕事に集中することが、自分にとって一番よく機能している状態であるということになります。

集中=Mindfulnessの実践に日ごろから勤めましょう。


j0300550.gif昔から決まってよく聞くことですが、「フランス人は、フランス語以外話したがらない」と言います。まあ、フランス人の誇りの現われだと思いますが。そういえば最近では、英国の前首相トニー・ブレアーTony Blairがパリでの国会で演説したとき、フランス語を話していました。その逆にフランスの大統領ニコラス・サーコーズィーNicolas Sarkozyがイギリスを訪問した際、彼の演説はフランス語でした。なるほどですね。

そのようなわけで、私のパリへの旅行は、何十年も前に少し習ったフランス語の復習から始まりました。その昔と比べると、現代の語学勉強は便利になりました。インターネットを使って、現地の画像や人々の音声を簡単に手に入れることができます。地理もある程度習ったところで、パリに向かったのでした。

パリの駅の一つ、Gare du Nord に到着し、最初にしたかったことは、トイレ。ところが入ったとたんコインを入れないと使えないようになっていました。幸い両替機が備わっていました。コインを得た直後、細かいのを少しくださいとよってきたフランス人はなんと英語で話してきました。英語で通じているとほっとしながらタクシーに乗ったのでした。

タクシーの運転手ですから、もちろん英語で、「Thirty-three rue Cambon」(カンボン通り33番)と言ったら、わからない様子。今度は恥ずかしいながらもフランス語で「Trente-trois rue Cambon」と言ったら、直ぐわかってくれたらしく、でも英語で解らなくて申し訳なさそうに、「Merci, trente-trois rue Cambon, merci」(ありがとう、カンボン通り33番、ありがとう)と戻ってくるではないですか。実は英語が通じなかったのはこのときだけでした。

その後は、タクシーに乗ろうが、買い物をしようが、レストランでもホテルでも、フランス人はよく英語を話しました。名所はどこに行っても観光客でいっぱいで、パリジァンはそれに適応してきているのでしょうか。観光客として、どこに行っても、パリジァンの対応は、観光客慣れ、外国人慣れをしているという印象を受けざるをえませんでした。

少数接することができたパリジァンの性格にも、ちょっと面白い発見をしたと思います。外国人に対してプライドの高い態度を見せるパリ人とは反対に、アメリカ人と比べると遠慮、躊躇、謙遜といった態度が見られました。これを対人関係内での、自分か相手かどこに重点を置くかと言う尺度で考えてみようと思います。

\アメリカ人は結構自分の気持ち、あるいは考えに重点をおきます。個人主義そして自己主張が習慣になっているアメリカ社会では、相手の気持ちや考えに焦点を当てるというころはあまりしません。相手の気持ちは、相手自身が責任をもって表現し、伝えてくるものだと思っているでしょう。

それに比べて日本人は、結構相手の気持ちに重点を置きます。相手の気持ちを察して、それに応じてこちらの態度や行動を変えていきます。そのために自分の気持ちを二の次にしがちで、遠慮したり、自分の気持ちを表現しなかったりすることが多いです。

私が接したパリジァンは、アメリカ人と日本人の間くらいに感じました。すなわち、アメリカ人ほど、自分的でなく日本人ほど相手的でもありませんでした。西洋人のなかではアメリカ人慣れしている私としては、パリジァンと接すると、ちょっとリラックスで居心地よかったです。

そんなわけで、先入観から想像しいたパリジァンと遭遇できず、違ったパリジァンの性格の発見と理解に興味をもって帰途についたのでした。