2008年12月アーカイブ

growing.jpg     この1年を振り返ってみて、尊敬できる人が現れましたか。それとも、尊敬される立場になることはできましたか。普段、ある人を尊敬するとか、できないとか言いますけれど、考えてみますと、人を尊敬するっていったいどういうことなのでしょう。

人を尊敬するきっかけというのがあります。それまでこれと言って何も感じていない人を、何かのきっかけで見直すときがあります。そういう時とは、その人のある特徴に気が付いたり、その人の行動で、よい印象を受けたり、感動をした時のようです。そしてその人の特徴は、自分では持っていなかったり、できなかったりするときです。自分をその人の立場に置いたとき、自分ではその人のようにはできないだろうと思うと、それは尊敬に価する特徴で、よってその人をそれだけ尊敬するようになります。

それでは、自分に対する尊敬、つまり自尊心やセルフエスティームというものはどうでしょう。これもまた、人を尊敬するのと同じように、自分の特徴をある程度客観的に人と比べながら、自分なりに良しとし、自尊心が生まれてきます。セルフエスティームのある定義が、Value as much as I think others value me「他の人が自分を大切にしてくれると思われるレベルの自分の大切さ」とあるように、自分の尊敬できる特徴は、客観的に人を通して伝えられ、その上自分からも良しとした部分であります。

こうしてみますと、人を尊敬したり、自分を尊敬したりするのには、難しそうな条件があるように感じられますが、必ずしもそうではありません。それは人は各々全て違う人々であるからです。相手は自分と違うので、その中に自分から貴重と思われるものを発見できます。同じく相手も自分に対して同じことをしてくれることでしょう。そしてお互いに違いを認め合いながら、お互いに尊敬できるようになります(mutual respect)。

ところが、自分自身を尊敬できない人もいます。心の根底に劣等感や極端な恥を感じ、それが問題となっている人です。そのような感情にはまってしまっては、自己破壊になってしまいますから、それと戦いながら生きていきます。自分を尊敬に価する人間として信じたいですから、人に頼って自分を認めてもらうことに夢中になります。そのために、自分と人との違いを見つけなければなりません。そして、その違いを見せびらかせ、自慢をして、相手から賞賛を引き出さなければなりません。

この方法が上手な人の周りには、いつも決まった少数の人たちが、何かと言うと長所と思えることを拾い出して、賞賛する役割を果たします。賞賛する側も、実は劣等感や恥の問題を抱え、その解決法として、賞賛することによって、自ら救われることを願っています。

上記の極端な例を、自己愛性人格障害といいますが、そこまでいかなくても、日常このような人に巡り会うこともありますし、よく自分を見つめたら、自分もそんなことをしていたということがあるかもしれません。

子供が成長する過程で、大人のようにいろいろできないことが多いですから、必然的に劣等感や恥の経験が起こります。それを誰にでもあることであると理解し、それを克服していくのが成長においてのチャレンジであります。自分が他の人と違うことを認識し受け入れ、客観的に自分を見たときに、きっと自分にとってよい特徴を見つけることができるでしょう。また、そのような特徴を良しとして認めてくれる人がいるでしょう。そのようにして自尊心を見出していく過程で、問題の劣等感や恥は謙虚さとして変化をしていくことでしょう。

image.jpg私の「生活の心理学」を読んだ人からたまに聞かれることは、「心理的問題を説明することがあるが、それについての解決策や方法が伝えられていない」ということです。まあ、記事を書くときの主な目的として、情報提供や心理現象、問題の説明が多いですから、確かに解決法が書かれていないときがあります。多くの場合、解決をするのに、専門家の援助が必要なときもありますから、解決法をただ説明しただけでは、足りないこともあるわけです。にもかかわらず今回は、精神的問題の解決法の一つを紹介してみようと思います。しかしながら、その解決法を習うまでに、ちょっとの訓練が必要ですから、それをどうしようかと言いますと、ただ勉強と努力をする以外あまり考えられません。

解決法を説く前に、その方法が解く問題について説明をしようと思います。多くの精神的問題は、感情の問題として認知されます。簡単に言いますと、嫌な気持ちを経験するということでしょう。それが怒りであろうが、フラストであろうが、悲しみ、嫉妬、落ち込み、不安、みな感じとして襲ってきます。それでそのような経験をしないでいたら、平穏な気持ちや、幸せな気持ちが漂うようになるかもしれません。

ちょっと付け足しになりますが、嫌な感じが起こっているとき、それを経験しないでいると、すなわち、それを認知しないでいると、気持ちのエネルギーが体に溜まり、それが体の臓器を襲うことになります。その結果、胃が痛くなったり、心臓が悪くなったり、頭痛や筋肉痛、そして皮膚病などにも発展することがあります。つまり、感情的問題は最終的には、体の病気として現れることもあるわけです。

また、嫌な気持ちが起こったときに、それを避けようとするのが私達の最初の反応です。そのために、誰かを責めたり(人格問題)、現実を変えたり(分裂症)、原因と見られるものを避けたり(ノイローゼ)、自分を責めたり(うつ病)するなど、いろいろな精神問題につながるときもあります。

ですから、嫌な気持ちを避ける代わりに、経験することが問題解決の方向に向かうことになるのです。でも、この経験の仕方に秘訣が含まれています。ただ単に、嫌な気持ちを嫌だと思いながら、経験してもあまり変化は期待できません。それは自分が嫌な気持ちと葛藤していて、嫌な気持ちを何とか取り除こうとしているからです。「自分に嫌な気持ちが起こったのだから、それを何かの方法で取り除けばよい」と思っているのです。実は嫌な気持ちは「自分」と相対的に発生するもので、自分を方程式の中から除外して、嫌な気持ちだけ片付けるわけにはいかないのです。

その代わりもう一つの観点を作らなければなりません。それは、「自分」と「嫌な気持ち」をいっぺんに見ようとする観点です。それをもう一つの観察する自分といってもよいですし、客観的にものを見る意識のあり方といってもよいでしょう。

そのような意識のあり方は、普段知らずのうちに経験しているときがあります。例えば、我を忘れて工作にふけっているときとか、おいしい食べ物を口に入れた瞬間、その感触、味、風味に気をとられて、無心に楽しんでいるときなどの、我を意識していない意識です。

その意識を使って、嫌な気持ちを経験し、嫌な気持ちと戦っている自分を観察してください。それができたときに、嫌な気持ちに変化がおきます。それが消化されたかのようです。嫌な気持ちの経験が去り、平穏な自分が残ります。

セラピストにとって、嫌な気持ちを経験している当事者ではありませんから、この客観的な意識を保つことがより簡単です。もちろん、訓練と慣れがあることも無視はできませんが。それで、心が病んでいる人が自分の嫌な気持ちのお話をすると、それをこの特有な意識で聞くことができます。病んでいる人が、自分で客観的意識を作ることは可能でしょうが、セラピー中はセラピストの意識を借りる形になっています。嫌な気持ちの話をすると、セラピストが客観的な意識で嫌な気持ちを経験します。その上経験した結果を、セラピストの反応として、患者さんに伝えます。その結果病んでいる嫌な気持ちに変化が起こり、その後、「話してすっきりした」という感じになるのです。