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海外で安心して赤ちゃんを産む本』  

海外で安心して子育てをする本』 

いずれもジャパンタイムズ社 

Nora.gif (11700 バイト)

 

感じるこどもに育ってほしい

こどもが見えない、何を考えているか分からない、そういう訴えを今の中学生の親はもっているといいます。何を聞いても、「わからない」「別に」「うるさい」なんと語句が減ったものだろうかと驚くくらいだといいます。さらに会話が無いといいます。会話が無い?そんなばかな、こんな多感な時期にいる子どもが何も感じないはずも無いし、それを伝えたい気持ちで一杯であるはずなのにいったいどう言う現象でしょうか。

子ども達をシャットアウトしてしまったのはむしろ親に原因があるのではないでしょうか。話したくない親になっているのではないでしょうか。どうせ思春期はこんなものよとあきらめていないでしょうか。私はこの多感な時期を是非共有してもらいたいと思っています。彼らが何を感じ、何を考え、どう反応しているのか、どんな新しい発見をし、どんな新しい知識を得たのか知りたいし、それを聞くのが何よりも楽しみです。ひとつひとつの彼らの感動が私にとっては彼らの成長の証しであり、とても喜ばしいことなのです。 それなのにそれを経験できていない親達はどうしてしまったのでしょう。いままで子ども達ときちんと会話をしてきたのでしょうか。

会話ってな〜に?会話とはたわいない日常の会話です。しかし彼らはいつも親という権威をかざし、「教える」という立場でしかこどもと接してこなかったのではないでしょうか?親だから「教える」「命令する」「指導する」「監視する」「支配する」のは当然と彼らは思っていないでしょうか。親はそれだけに徹していたら決して子ども達のハートをつかむことはできないと私は思います。むしろ思春期の子供は「教えられる」「批判される」と感じたら即心を閉ざしてしまうでしょう。 自分が今何を考えているのかを彼らは伝えたいのです。けれどもそれをくだらない考えだとか、そんなことも知らなかったの?といわれてしまったら次のことばが出ないのは当然です。思春期の子供にお説教はもう通じないのです。思春期の子供が聞きたいことはいっしょに考えてくれる親なのです。こう感じたと言うことに対して、「そうなんだ」と同調してくれる親。そして親自身がどうその時期に思ったかなどを伝えられればどんなに彼らはもっと話したいという気持ちにかられることでしょう。

こどもが感じることは彼らの特権なのです。どう感じようがだれも批判できるものではないのです。花をみてうれしく感じた。死んだ猫を見て悲しくなった。ある人の生き方を見て感動した。これはどう感じたかなのです。感じることは自由なのです。だれもよいわるいをつけられないものなのです。だれも批判出きることではないのです。そして自分が自分として一番受け入れられるものなのです。だから受け入れられることがとてもうれしいのが人間ならば、子ども達はそれを求めているのです。受け入れられ、それが自信へとつながる。さらには自己確立へと結びつく。自分の存在感を認めてもらえる。こんなうれしいことはないのです。

だから私はこどもに「感じること」をたくさん経験していってほしいのです。感じるためには心の中をじっとみつめる余裕が必要です。そして考える脳も必要です。時間も必要です。親は待つことが必要です。 詰め込み式にただ知識を頭に入れる。考えることもさせないでただ暗記。先生はただ教える立場。生徒といっしょに考えたり、いっしょに悩んだりそんなことは塾の先生には求められていないのです。ただ覚えろと言うことばかりを強調する今の日本の教育体制に私は本当に疑問を感じざるを得ません。会話のできない親子、ましてや会話のできない夫婦がこれからの日本にはたくさん誕生してしまうのではないかというき危機感を感じます。

今月のエッセイはむしろまだ子どもが小さい皆さんへの警告だと受け取ってください。そう、会話のない親子にならないように、今から子ども達の心をしっかりとキャッチしておいてください。

追伸:  1年と3ヶ月全部で15の子育てエッセイを書きました。皆さんにどのような影響を与えたか分かりませんが、なにか子育てについて考える材料になっていたらなと思って書きました。このたび、節目を迎え、自分自身のこれからの生きる道をたてたいとおもい、ここで一応、子育てエッセイは終止符を打つことになりました。しかしまた皆さんとお会いする日が来ると思います。その時までお元気で。ごきげんよう。

 


 

こどもを見守る姿勢、待つ大切さ

私はこどもが生まれてからつねづね、「子育ては見守ることよ」といわれてきました。しかしまだこどもが小さい時にはその意味の持つ重要性が分かりませんでした。こどもを見守るってどういうこと?こんなに何もできない子供をどうしてほっておけるの?そうです。つまり私が理解していた見守るということはただほっておいて外から見ているだけの受身的な姿勢を写し出していたのです。

しかしこどもが歩き始めの頃に転んだとき、そこで自分が手を出しておきあがらせてはいけないということをまずわかりました。これが私がはじめて知った見守るという姿勢でした。ことばがでない、まだ歩けない、おむつがまだとれない、そんな頃、心の無い人達は「あら、まだなの?うちはもうできてるわよ。」と他人の子を平気で批判します。しかしそんな心落ち着かない中でも自分はこの子の自分なりの成長を見守るという姿勢を要求されました。この子にはこの子の成長のスピードがある。早いからいいのか?遅いから悪いのか?そうではないはず。この子がいつかできるのであれば、その日をじっとその子のスピードに合わせて待ってあげる。これが見守ると言うことだと気づいたのです。

「どうして?なぜ?」と繰り返し尋ねる頃、すぐ答えを出すのでなく、「けんちゃんはどうしてだと思う?」と考えさせ、自分の力で回答を探す力をつけさせる。考えている間はじっと待ってあげる。そして答えが出たときはほめてあげる。これこそが見守るという姿勢そのものだったと思います。

その後こどもが学校から帰ってきてランドセルを玄関に放り投げる、脱いだ靴下を片付けない、これにおいても私は本人が片付けるのを待つことにしました。しかしかなりの忍耐力を必要とします。ここで私が片付けたらこの子は一生だれかが片付けてくれるだろうという誰かに依存した生き方をしてしまいます。だから私は心を鬼にして断固片付けませんでした。待つ。彼女が自主的に行動を起こすまで見守る姿勢です。そして息子。彼は自分の進路について悩んでいました。私達親が出きることはいっしょに考えること、そして最終的には彼が自分で道を選んで行くというその過程を見守ることなのです。彼のために進路を私達が決めることはできないのです。

このようにこどもが育って行く中で常に見守る姿勢を要求されてきました。しかしただ見ているだけでなく、彼らが本当に助けを求めてきた時には手を差し伸べる、失敗したときは励ましてあげる。そのためにも状況を把握しておく、すぐ手を差し伸べられるように親自身がオープンな構えでいること。これが見守るということなのかと私は知りました。

結局こどもは勝手に「育つ」のです。生まれもった潜在的な力があって、こどもはなんとか自分で生きていく力を持っていて育つのです。私達親は、何もできないこどもと思って、つい先走ってしまったり、こどもを生んだ責任上、きちんと立派に育てなくては行けないというプレッシャーを感じている人もいるでしょう。しかしこどもは私達が「育てる」のではなく、自然と「育つ」のであるのなら、その過程の中で見守るという役目に徹することが一番大切なのではないでしょうか。道を反れそうになった時に、軌道修整の為の声かけをしてあげる、失敗をしてしまった時に、もう1回がんばればいいと励ましてあげる。こんな声かけや手を添えてあげることが「見守る」ということなのではないでしょうか。結局私達は子ども達の人生を歩むことはできないのです。彼らはいずれ一人立ちしなくては行けないのです。そのためにはやはり見守るしかないのだと思います。

 


 男らしく、女らしくといいたくなったら 

もしかしたら私達は親から「もうちょっと女の子らしくしなさい。」とか「男の子なんだからすぐ泣かないの!」とか言われて育ったのではないでしょうか。いまでも無意識の内に言ってしまったり、言った後に、ああ、言っちゃった。と気が付く事があるのではないでしょうか。しかしこの男の子らしくとか女の子らしくというのは実際どのような実態があるのでしょうか?

私は思春期に入るまではあえて女の子だからとか男の子だからといって育てなくてもよいかと思います。つまりもっと大切なのは人間としてどうあるべきかを幼少の頃に植え付けておいた方がよいと思うからです。女の子らしさ、男の子らしさと言うものは思春期が近づいたあたりから自然と子ども達が意識する事であり、文化によってそれぞれ自分たちで発掘し、自分たちなりに受け入れて行けばよいと思うのです。

世の中を見ればただでさえ男の子らしく、女の子らしくははびこっています。まず、生まれた直後に、「男の子ですよ!」「女の子ですよ!」と誰もがそれに興味を持ちます。しかし先進国によってはそれを最初のことばとして親に伝えていない所もあります。つまり親があそこを見ればすぐわかるのでそれをあえて口に出して強調しないのです。つまりそれほど重要ではない、もっと重要な事がある。それは無事生まれたと言うことでしょう。

次に男の子はブルー、女の子はピンクとなります。もらうカードもその色だったり、洋服もその色だったり、もうそのあたりでいやおなくジェンダーが植えつけられます。だからもうそれで十分ではないでしょうか。その上に私達親が、女の子なんだから、男の子なんだからと育てるのはあまりにも押し付けがましいように思えるのです。

色にしても、「けんちゃんは本当はなに色が好きなの?」と聞いてあげれば、「けんちゃんはピンクがいい。けどピンクだとみんなに笑われる。女の子みたいだって。」けれども色は好みです。その色がジェンダーを決めるべきじゃないと思うのです。だから私はあえて好きなものを好きと言い、それを選ぶ事によって心豊かに喜べるこどもに育てたいと思うのです。

そのような信念で育ててきた11才の我が娘に、先日、「ねえ、ありちゃん、ありちゃんにとって男らしさってな~に?」と聞きました。彼女の答えは以外でした。「好きな人を守って上げられる人」と答えたのです。まさにこの子は自分なりに男らしさと言うものを発見していたのだと思いました。おそらく娘は生物的な男女の違いを理解し、その上で男は女を守るべきと考えたのでしょう。

 

男の子でも涙を流せる子どもに

男の子が産まれたときに、「ああ、この子は男の子らしくたくましく、強く、育てなくてはいけない。」とそんなプレッシャーをだれもがどこかで感じたのではないでしょうか。特に男に対する男としての理想像と言うものは女の子以上に求められるものだと思います。日本は特にそれが強いように思えます。それは男は世に出て社会にもまれ、その荒波に耐えながら家族を養って行かなくてはいけないという責任があると世の中では考えているからです。

しかし私はあえて男の子は強くなくてはいけないというプレッシャーを少しはとりのぞいて育てられたらと思うのです。確かに肉体的な男女の違いから男は女よりも力はあります。それは肉体的な当然な違いです。そもそも「らしさ」なんていい加減な定義なのです。涙も流さない、弱音も吐かない、悩み事も相談しない、そんなに我慢する事はないと思います。

あまり我慢していては病気になるでしょうし、人間そこまで強くはなれません。そのようなぽろっとした自分の弱みをさらけ出せる人がいない、つらいときに甘える人がいない、悩みも全部自分でしょうしかない、そのような状況では早死にします。だからと断言するわけではありませんが、独身の人が結婚している人と比べて寿命が短いと一般的に言いますが、それが証拠ではないでしょうか。

私の好みですが、私がもっとも人間的に惹かれる相手は、悲しい時に自然と涙を流し、プレッシャーに耐えられなくなったとき、恐いと言えるそんな人間身にあふれた人です。確かに世間に出たときは自分の弱みは隠し、しっかりした自分を保っているでしょうが、愛する相手に、心許せる友にそれができる人が私はもっとも精神的にも健康な人だと思っています。

だから私はあえていいたいのです。「涙も流せないんじゃ、人間じゃない。」「悲しい時には男であれ、女であれ思いっきり泣けばいい。」「つらいときはつらいって言えばいい」「うれしいときは飛びあがって喜べばいい。」人間として感じるべき感情を「男だから」というひとことで押さえつけてしまったり、自然と心のなかに湧き上がる感情を理性で殺してしまってはせっかく人間としてうまれてきているのなんともったいないことでしょう。人間として生まれたのであれば、人間としてフルにおおいに生きればいいのです。そのためにも「男は泣かない」という育て方はもうやめたほうがいいのではないでしょうか。

男は常に強くなくてはいけないなんて、この社会が攻撃的になり、守りを張らなくては生きていけない競争社会になっているからかもしれません。しかしそれは人間として生きることを否定されているほどに聞こえます。人間は弱さも強さもそなえています。強さだけを強調して弱さを隠したり否定したりしてよいのでしょうか。弱さとはそんなにも隠すべきものなのでしょうか。恥かしいものなのでしょうか。いいえ、私はそうは思いません。自分の弱さとはそう簡単に誰にでも言えるものではありません。だからこそ弱さを出せることはある意味で勇気ある強い人だとも思うのです。

こんな事を言ったら日本はやわな男がますます増えるという批判的の声も聞こえてきますが、そうでしょうか?確かに今の男性はやさしいといいます。しかし強さの中にやさしさをもった人こそ生き延びると思います。強さと弱さとのバランスがきちんととれた人間を育てるのが私達の役目ではないでしょうか。やわにみえる今の若い男の子達は昔からの「男は泣かない!」というよろいを取り除いかれ楽になったのだと思います。だからといってやわになったわけではないと思います。時代が変わりやさしさの表現の仕方は確かに変わりました。

しかし人間らしく育った男の子は思春期になれば男らしさや強さを自然と身につけていくと思います。本当の男らしさとは人間的な感情を表現し、愛する人に伝え、愛しているからこそその人を大切にする人ではないでしょうか。常にそのような陰と陽のバランスがとれている人間であれば、いざとなったときに本当の強さも発揮されるのではないでしょうか。いまでは女性も強くなっています。いや、母親などは一番強いのではないでしょうか

。なにも男ばかりが守りの立場、攻撃の立場に立たなくてもいいのです。夫婦のよいところはお互いにもっている力をそれぞれの形で発揮しながら家庭を守る、こどもを守ることができることだと私は思います。男だから、女だからなんてもうこだわらなくてもいいように思うのです。

 


本当に海外では子育てが楽なの?(その4 )

海外赴任家族は特別

さらに海外では自分たち夫婦だけで解決しなくてはいけない問題がたくさんあります。やれ発熱、やれ頭を打った、幼稚園はどうするか、先生からこんなことを言われた、ことばの発達が遅れているなどおそらく日本でしたら親に相談したり、友達に相談したり、相談機関の選択の余地があるでしょう。しかし海外ではまずは夫に相談、さらにそのあとも夫に続けて相談となるケースがほとんどです。つまり海外で自分たち家族が置かれている状況は特殊なため、他との比較がむずかしいのです。比較する対象がないこともあります。自国を離れ、異国で子どもを育てているというケースは特殊なのです。

滞在国にいる他の人達の子育て経験も参考にはなるでしょう。しかしあくまでも参考程度であり、実際に我が家のケースには当てはまらない場合がほとんどです。滞在年数も違う、同じ日本でも来た場所が違う、住んでいる地域も違う、ことばも違う、会社の方針も違う、帰国する都市も違う、将来の展望も違う、教育方針も違うと海外家族はそれぞれが特別なケースなのです。海外で生活するということそれ事態が普通ではないのです。他との比較で育児方針が作りあがるものでないだけに、また周りからの同じでなくては行けないというようなプレッシャーもないだけに我が家の家族づくり、我が家だけの育児方針というものが成立しやすいのです。

こども中心と私中心

海外と日本と大きな違いのひとつにこどもが家庭の中でどの位置にあるかということです。日本では母親がこどもの幸せのために自分を犠牲にすることは当然と言う風潮があります。こどものためには我慢しなくちゃ、こどもの教育のために夫は単身赴任でがんばってもらわなきゃ、こどもの塾やおけいこごとのために私が働かなくちゃ、こどもがかわいそうだからとても他人になんか預けられないわ、こどもが大きくなるまでの辛抱よ、と母親は我慢に我慢を重ね、それが美徳とされて来ました。今現在でも母親の忍耐、我慢、犠牲は美化されています。まわりでも「小学校に上がるまでの我慢よ、みんなそうやってきたんだから」と言われるでしょう。母親は耐えるもの、母親はこどものために我慢するのは当然、母親は子どものために自分を犠牲にしてこそよい子が育つとそれはそれはよく並べたものです。

しかし欧米では母親の幸せがあってはじめてこどもの幸せが成り立つと考えています。そのためアメリカでも赤ちゃんが生まれると看護婦さんは、「ご主人、奥様を大切にハッピーにさせてあげなくてはだめですよ。」とエールを送って家へ帰すほどです。カナダでも母親がハッピーでなくてはこどもの幸せは望めませんと積極的に育児に疲れた母親に息抜きの場を提供しています。

 

マイペース育児が可能

海外での子育てがどうして楽かということにマイペースで育児を楽しめたという声が多く上がります。これをいい変えてみますと、回りからの干渉がなかった、情報量が限られていたので惑わされる事がなかった、現地のやり方がわからなかったので日本のやり方で通したということです。さらに欧米は個人主義ですので、その子その子の成長のペースを重んじ、いつおむつがとれようが、離乳食に何を与えていようが、いつまでおっぱいを飲ませていようが、いつまでおしゃぶりを与えていようが、いつ歩き出そうが回りはさして干渉しないのです。こうでなければいけないなどというマニュアルに添わなくては行けないというプレッシャーがありません。そのためこどもとしっかり向き合って、こどもの成長ペースを見守りながら子育てができる環境があります。

これを私は欧米の個人主義 vs 日本の横並び主義と定義づけています。みんなといっしょに成長しなくてはおかしいというプレッシャーが無いがゆえに、こども自身の成長を受け入れ、回りでもそれを認めるがゆえに楽しめるのです。

他と比較してそれより自分の子どもが先を言っていたらそれはうれしいでしょう。育児も楽しいと錯覚するでしょう。ただしほとんどの場合こどもは教科書通りにはいきません。だから期待はずれに落胆して心配してしまうほうが多いのです。育児において余計な心配は無用です。本当におかしいと感じる場合は母親の直感が察するものです。あとの細かいところはいずれ習得するのですからあせることはないのです。

途上国では使用人がみてくれる

途上国の場合は住み込みで使用人を雇えたり、パートでも長時間メードを雇う事ができます。そしてそのメードさんにこどもを預ける事ができます。しかも低賃金です。有閑マダムはメードをショッピングモールに連れていき、自分はショッピングを楽しみ、こどもはメードが抱いています。裕福は家庭ですとリゾートにまでメードをベビーシッターとして同行させます。中にはこどもはメードに預けて夫婦でヨーロッパ旅行という家庭もあります。

日本人の母親も毎日の育児からの息抜きにメードにこどもを預けて、テニス、ブリッジ、ショッピング、ランチへと海外生活を満喫しています。自分の自由時間をこどもがいながらにしてできてしまうので、むしろどのように有効に使ったらよいか賢くならないとせっかくの時間が無駄になるほどです。

私も住み込みのメードを雇ったおかげでとてもハッピーなママでいられたと思います。本を書く時間ももてたし、こどもとはいらいらせずに付き合えました。日本に帰ったらメードなしの生活なんて送れるだろうかと不安に思ったほどです。

 


本当に海外では子育てが楽なの?(その3)

社会が女ひとりで問題解決できるようにできあがっている

日本は性別役割分担が浸透していて、男は外で働き、女はこどもの教育、健康、家事を担当するとシステムが出来上がっています。そのためたとえばこどものいじめの問題が浮上しても妻は夫には一応報告するものの、最終的には答えを夫以外のところに求めているケースが多いです。友達に相談したり、日中、児童相談所へ出向いたり、日中、学校の担任に相談に出向いたり、夫にこどものことで煩わせずに解決できるシステムができあがっています。しかし海外ではそのようにはいきません。おそらくこどもの問題は両親でかかわることを勧めるでしょう。母親だけ出向いては「ご主人とはうまくいってないのですか?」と聞かれてしまうかもしれません。

出産においても同じです。赤ちゃんが生まれるというときに、オランダでは、ご主人に「早く病院にいってあげなさい。」と上司が急き立てて会社を追い出すのに対して、日本でこどもが生まれるからと会社を退社しようものなら、「産まれたら面会時間にいけばいいんだろ。」というくらいにしか回りの理解がありません。おそらく妻は実家の母を頼るでしょう。「お母さん、産まれそうだから、来て!」と。結局頼りになれるのは細かいところまで気を回してくれる母親と思うかもしれません。

つまり日本では性別役割分担という都合のよいシステムを浸透させることによって、母親ばかりに育児の負担をかけてきたのです。核家族化が進み、身近に頼れる両親もおらず、マンションが増え、隣の人は何するひとぞとなり、受験戦争により人間関係が疎遠化して来ました。そのような環境の中で育児のすべてを母親任せにするのはあまりにつらいものがあるのです。

社会がこどもを育てる温かい目

アメリカでは赤ちゃんをベビーカーに乗せていれば、30分のお散歩で何人もの人が「かわいいわね。」「3人もこどもがいるなんてラッキーね。」と声かけをしてくれます。これはたいへんな子育てに対するエールにも聞こえます。アメリカでこどもを育てたお母さんがそのことばに励まされてなんとかやってこられたと言っていたほどです。

イギリスではこどもがなにか悪いことをしたら、他人であろうが年輩のおばあさんがこどもを叱ってくれました。このように社会全体でこどもを育ててくれるような気がします。

また私達が外国人で親戚もいないということを理解してくれてこどもを預かってくれたり、また日本人同士でもお互いさまなのだからと言うことで、日本以上にお互いに預けあったりしやすい環境があります。

母親が女になれる場、個人になれる場がある

日本では母親になるととかくそのアイデンティティーにかたまりがちです。ありちゃんのママ、家庭では夫から、「ちょっと、ママ」と呼ばれ、病院では「お母さん、どうしましたか?」といわれ、買い物をしていても、「奥さん」と呼ばれ、学校でも「お母さま方」と呼ばれ、どこまでも母親というレッテルがついてまわります。職業はと聞かれても、「ただの専業主婦です。」とうしろめたさの影をしたえて答えています。母親だけの自分だけで満足できるという人は年々減ってきているのです。母親でない部分の自分を発見したい、アピールしたいと願う女性は大勢います。こどもに縛られて、いらいらしてもがいている女性が日本にはあまりに多いように思えます。

しかし海外ではもっと母親でない自分になれる機会が多いように思えます。こどもを預けて夫婦でデートをするときは彼女になったり、妻になったり、女になったり。そしてこどもを預けてボランティアで活動をする場においてはファーストネームで呼ばれ、さらに仕事をする機会が与えられれば、これまたフルネームで呼ばれるでしょう。母親以外の自分になれるということは自信へつながり、喜びに直結するのです。それは欲が多いと言うのではありません。アイスクリームでもラムレーズンも抹茶もチョコチップスも好きと言うように嗜好がいくつあってもいいように、いくつもの自分が実在しているのは当然なのです。ひとりのこどもの子育て期間はせいぜい18年程度です。しかし我々の一生はいまや80年といいます。こどもができたから母親だけにとどまるのではなく、いままでの延長として女性としての自分、社会人としての自分は成長させて行くべきなのです。 

オランダでは働きたい女性は、ワークシェアリングなどでこどもが小さくても週2回くらい働く事が可能です。こどもと少しでも離れたときには〜ちゃんのママというラベルがはがされるのです。本来のもうひとつの自分に戻れるのです。その機会が多く設けられているのが欧米社会だと感じました。

しいては母親以外の自分を持てる欧米では、子育てだけで毎日が終わらないがゆえに余裕が生まれ、子育て自身が楽しくなるのだと思いました。

 


 

本当に海外では子育てが楽なの?(その2)

海外では夫婦で子育てが前提のシステムが出来上がっている

海外では一番身近にいる子育て協力者、父親が子育てに当然のように参加しています。そのような環境、システムができあがっています。日本にいるときよりは残業が少ない、通勤時間も短い、帰宅してもこどもの世話をするエネルギーが残っている、回りが早く帰るように仕向ける、幼稚園の保護者会なども夜なので両親ともに参加せざるを得ない、ベビーシッターはそのためにいて比較的低賃金で雇える、ホッケーの練習も夜行なわれ、父親がコーチなどをになっていることもある。日本人家族においては、こどもが病気というとことばの面で母親サポートに夫が病院に同伴する、買い物も妻が運転しない場合はいっしょに買い物、実家に預けられないのだから夫に頼るしかない。このように両親で子育てという概念が浸透していますから、父親が子育てに参加している割合が日本より多いこともあるでしょう。

こども以前に夫婦がある、自分がある

日本ではついこの間まで大多数のカップルがお見合い結婚でした。40年ほど前、つまり私達の親の世代です。この世代の人は戦後の日本の復興にただ経済面だけのうるおいで、利益追求型で日本の発展を評価してきた世代です。サラリーマンは夜中まで働いて、子育てやこどもの教育はすべて妻に任せて来ました。そしてその傾向はいまだに尾を引いています。しかしその結果、妻は夫を頼らず、妻だけの世界を作って来ました。そして夫は男だけの世界で、仕事が終わったら飲みにいく、週末はゴルフというのが大方ではなかったでしょうか。性別役割分担が働いているウィークデーだけでなく、さらに週末にも及んでいったのです。別々に過ごす時間が増えれば、当然別々でいることに自然を感じ、いっしょにいることで違和感を感じてきたのでしょう。

しかし欧米では夫婦あってのこどもです。そのためフランスなどでは夫婦だけで月に1度は、あるいは人によっては週に1度はデートをしたり、コンサートへ出向いたり、食事をしたりとふたりだけの時間を優先的に設けます。さらにこどもは独立したひとりの人間として育てる為、小さいうちから個室を与えます。

また母親はたとえ最初の数年は専業主婦として家にいても、自分の将来のために自分の時間というものを確保します。そのためにもベビーシッターに預けたり、夫に預けたりします。自分だけの時間をもつことになんの後ろめたさも感ぜず、それは当然の権利としてリフレッシュします。リフレッシュできれば子育てにも新たな風が吹きこまれ、こどもがかわいいと思えるようになります。ゆえに子育ては楽しくなるのです。

密室育児で、24時間こどもとつきあっていてはノイローゼになるのは目に見えます。こどもを叩いてしまう。必要以上に折檻をした。こどもも親から離れる空間が必要です。母親以外の人達と接し、それらの人達の中で育てられていくことも大切なのです。そして母親もこどもから離れる空間が必要なのです。他の人達によって育てられることもこどもには必要なのに、絶対に3才までは自分だけの手で育てるのだ、自分が育てることがこどもにとって一番いいのだというのは思い上がりかもしれません。そもそも無理なのです。母親も病気をします。美容院へも行きたいです。友達の結婚式にも出たいです。夫や夫以外の人に預けざるを得ない状況は出ているはずです。しかし多くの日本の女性は、こどものために自分のわがままは当分我慢と言い聞かせてきました。幼稚園に上がるまで、小学校に上がるまでと我満し、みんながやってるんだから自分もできるはずと自分を励まして来ました。我慢強いことはいいこと、忍耐は美徳と自分の感情を押さえつけてきた結果はどうだったでしょう?

 


本当に海外では子育てが楽なの?(その1)

海外から帰っていらっしゃる方の共通の意見として海外での子育ては楽しかったがよく上がります。もちろん根付くまでのたいへんさ、ことばの問題はありますが、その後は楽だったといいます。海外にいる間に3人目をとか、子育てを終わらせてしまおうという声も聞きました。日本で少子化が問題とされている中でいったい何がこんなに子育てを楽しくないと言わせたり、こどもはほしくないと言わせているのでしょうか。

「こどもが産まれたら、もう自分の時間が無くなるわ。」

「こどもはとてもお金がかかるから、せいぜい2人までよ。」

「こどもが産まれたら、フルタイムの仕事に戻るのは無理だもん。」

「預ける環境だって厳しいし、家事と仕事の両立なんてできない。」

「結局、最終的には全部母親ひとりの肩に負担がかかってくるじゃない?」

「専業主婦を選んでもなんか回りから評価されないじゃない?母親だけの自分にも誇りがもてるようになりたいんだけれども、なんかそれだけじゃ何もしてないように見られるのよね。」

今回は内容が濃く、また広い範囲で検討しなくては行けないゆえ、ハードの面、文化の面、仕事の面、社会の面といくつかに分けてお伝えします。

ハード面でベビーフレンドリー

先進国は特にインフラがバリアフリーで赤ちゃんにもお年寄りにも障害を持った人達にもフレンドリーな環境ができています。オランダではどんなに小さな駅でもエレベーターがあり、段差はほとんど見られませんでした。またたとえ段差があっても困っているときはまわりがすぐ手を差し伸べてくれるという情景があります。日本ではバスに乗るにもベビーカーをたたんでしかもこどもをかかえて乗らなくてはならず、さらにあいていない手でお金を払わなくてはなりません。運転手も乗客も助けてくれないと訴えています。駅のホームにたどりつくまでも階段、また階段。エレベーターやエスカレーター設置個所はまだまだ足りません。

日本でインフラでベビーフレンドリーなのが進んでいるのはデパート、スーパーなどのトイレ、こどもの遊び場、お買い物中の預かり施設でしょう。おむつ交換の台、授乳室と消費者を大切にしてくれるところでは率先して改良が進みました。それはどこへも子連れ、こぶつきで行動しなくてはならない日本の子育て現状を裏付けています。こどもを連れて行かなくてもよい国、あるいは長時間外出する必要のない国、車社会ではこのような設備はあまり必要でないように見受けられました。もちろん日本のように高級レストランでも、高級ホテルでもどこへいってもこどもが受け入れられるという国はすばらしいと思います。しかしその反面、ちょっと too much と思っている人の意見にも耳を傾けた次第です。

保育園もニーズに応じて、一時緊急保育、フルタイムで働く親のための保育施設、息抜きに母親が利用したい保育施設が整っている国もあります。さらに海外ではたいてい2才くらいからこどもを団体生活に導入させます。しかも2才くらいでしたら午前中だけ、あるいは週に2日と決して長い時間預けるわけではありません。これは日本の平均3才と比べると1年早いわけです。けれどもこの1年をどのくらいのウェイトで見るかによりますが、1年は大きいと思う人は多いと思います。2才児にエネルギーを知っている方は同感だと思います。毎日の朝夕のお散歩でくたくたというママもいます。

ベビーシッターを気軽に雇える環境もあります。ちょっと買い物へ、ちょっとドクターへ、ちょっと疲れたというときに電話一本で近所の高校生がこどもをみてくれたりできる国もあります。しかも最低賃金で。

働く母親が多い国では、会社において産前産後休暇、育児休暇の充実、育児休暇後の仕事復帰への保障、母乳育児へのサポート、短縮勤務、フレックスタイム、ワークシェアリング、などの企業側あるいは政府側の母性保護に通じるサポートを無視することができませんでした。

日本では歩ける距離に小さな公園はいくつかできました。この当りは評価したいと思います。しかし雨の日などちょっと気軽に公園へ行く感覚で他のお母さんと井戸端会議ができたり、こどもが遊べる室内施設は身近にいくつもないような気がします。

また日本では経済面でこどもはお金がかかるからとこどもを作りたくても作れないと訴えています。フランスではこどもが多ければ多いほど助成金や支援金が出されます。このような国ではこどもを経済的に援助しています。また公立の幼稚園がほとんどだったり、小学校、と高校まで公立が整っている国もあります。おけいこごとも民間でなく自治体が主催しているものがほとんどならばさほどお金はかかりません。「海外だからこどもに乗馬もヨットも習わせられるのよね。」という声もありました。受験制度も違えば塾などにかかるお金は必要ありません。

ベビーシッター代も安いです。日本ではベビーシッター斡旋業者が出てきてますが、やれ入会金、最低4時間、交通費、時給1000円以上は当たり前、キャンセル料、一週間前に予約など規制が多く、しかも高額です。民間の一時預かりも高いです。駅前などの利便性はありますが、それでも遊ぶ環境としてはビルの中、太陽の当らぬ場所などたとえ数時間でも考えてしまうところが多いです。

 

幸せ教育してますか?

我が家では子ども達と幸せ探しのゲームをよくします。ありちゃんにとって幸せってなあに?よしやにとって幸せって思える時ってどんなとき?ありちゃん、どういうときにうれしい?こんな質問を小さいときから今に至るまで折りに触れてしてきました。小さいときはほしいものが手に入ったときとか、犬が飼えたら、大きな家に住めて車三台あって、ハワイに行けたら、なんていっていました。もちろん、今もそのような答えが続いています。しかし教育に教育を重ねた今、子ども達は真の幸せが何であるかを少しづつ語れるようにまでなりました。

わたしがこの幸せ探しをはじめたきっかけは、子ども達がものに対して異常なほどの執着心を持ち始めた事に気が付いたときでした。何かものを手にすることだけが喜び、うれしい、幸せと感じてほしくなかったからです。本当の幸せは物質的なものから得られる幸せでない事を教えたかったのです。特に日本は自然が身近に無いだけに、また購買力、消費力がすさまじい環境です。ここ青葉台周辺も「買って、買って!」と叫ばんばかりにものが店頭にあふれています。それらを毎日目にする子ども達は当然まだ幼いのですから誘惑にかられます。そして実際にお金が無ければ買えないことに対してのいらいらがつのるわけです。

本当の幸せとは、実際とても身近にあって、気づいてないだけのものなのです。またどのような環境に生まれた人でも、どのような状況の元にあっても、これは心の持ちようなので万人平等に感じようと思えば感じられる事なのです。そうです。つまり幸せだと思えばだれもが幸せと思えるのです。私は子ども達にこの先、どのような苦境に陥っても幸せを感じられるように育てたかったのです。それが生きるための本当の力だと思ったのです。自殺をしたいと思うくらいに世の中が悪くなり、あるいは自分の置かれた周りの環境が狂っても、自分の心の中にひとつでも幸せと感じられるものがあったならば、子ども達は死を急がないと思うのです。

子ども達に今、伝えていく「幸せを感じる瞬間」というものは次のようなものです。

今日、命があること。

今日、健康であること。

今日、ごはんが食べられること。

今日、頭の上に雨、風をしのげる屋根があること。

今日、スマイルできること。

今日、人にやさしくできること、人を愛せること。

今日、人に喜ばせ、その人の心に幸せを送れること。

今日、ハッグできる人がいること。(娘はハッグ好き)

今日、マミーとダディーがいること。

今日、ハミーチャン(我が家のハムスターペット)がいること。

今日、うれしい、たのしいって感じることができる心があること。

とこのようにその時の状況に応じて足されていったり、減っています。たとえば私が子ども達を叱ったようなときは、マミーがいることは出てこないでしょう。しかし最低限あげられることは、命があること、それからご飯が食べられることでしょうか。

そしてそれにプラスして我が家では神様を信じているので、それらすべてが神さまによって与えられていることを感謝するようにしています。「本当に神様、ありがとうだよね。」と。幸せについて語ったときなぜか不思議にそのあと心がほんわかとあったかになり、だれかにやさしくしたくなるような気分になりませんか。

SweetHeartコメント・・・

ノーラさんが「子ども達が物に対して以上なほどの執着心を持ち始めた。」と書いていますが、我が家の長男(9歳)も同じです。いえ、我が家だけではなく、回りの子ども達が皆そうなのです。皆が競って、いろいろな物を買い、とどまることがありません。親は、どこまでこの物欲社会の防波堤になれるのでしょう?

そう言っている親自体が、かなり物欲の波に飲まれてしまっているのかもしれません。SweetHeartに常にアップしてある“Happiness is A Journey”まだ読まれていなかったら是非読んでみてください。私も時々読んでは、心のとめるようにしています。   http://www.sweetnet.com/happy.htm

 


 

      こどもに偏見を植え付けないために

親が知らず知らずの内に教育しているものに偏見というものがある。それはたいていの場合、彼ら自身が親から教えられたものである。韓国人はああだ、中国人はこうだ、黒人はこういう人間だ、ユダヤ人はああいう人間だ、関西人はこうだ、田舎の人はああだ、老人はこうだ、女はああだ、国際結婚をしたカップルはこうだ、イギリス人は、アメリカ人は、日本人は、……と。親が教えなくても、友達が教えてくれることもある。しかしその友達も結局は周りの大人から、あるいは大人が作ったテレビ番組などのメディアから偏見を身につけていく。そう、偏見というものはからだの中で巣を作り、さらにそれが増幅されて、ピュアなものの捕らえ方をむしばんでいくものである。

しかし一概に偏見がすべて悪いとも言えない。私達は偏見がなければどのように相手と振舞ってよいのか戸惑ってしまう。外国人と会う場合、どのように振舞うかは日本人と会う場合とは違う。このように私達は偏見があるがゆえに安心して相手と接するすべを身につけている。これはポジティブな偏見と呼ぼう。だが、私のここで話していることはもっとネガティブな偏見を指している。

偏見は以外と小さな時にもう身についている。幼児の段階でもうすでに「あの子は汚い。」とか「あの子はインドネシアから来たから一緒に遊ばない。」、「あの子はお母さんがフィリピン人だから遊ばない。」などのことばで明らかである。こどもは親のもっている偏見を敏感に読み取り、それをベースに友達を差別する。

こどもは生まれたとき、偏見などは持っていない。私はある日の事、こんなできごとにでくわした。その電車の中で一人の浮浪者がすわっていた。彼は風呂にも何年も入っておらず、はだしの足は垢でまっしろになっていた。服は所々やぶれており、そこからは異様なアンモニアの匂いが周りの空気に漂っていた。だれもその浮浪者のとなりにすわることはなかった。浮浪者と気づいて、席を立つものさえいた。しかしある二人組の母親がたまたまそこに入ってきて一人はベビーカーをドアの近くに置いた。そのとき、その赤ちゃんはその浮浪者のすぐとなりに位置した。母親は友達と話し、背を向けていたので、浮浪者が座っていることなど気がついていなかったようであった。1歳くらいのその赤ちゃんはその浮浪者に微笑みかけた。そしてその浮浪者は赤ちゃんに微笑み返した。浮浪者はこどもをあやし、赤ちゃんは足をばたばたさせて喜びをからだ全体で表した。さらにそんな数回のやりとりがかわされたあと、浮浪者が赤ちゃんの手に触れた。母親はそれに気づき、さっと赤ちゃんを抱きかかえたのである。電車は混んでいたので、移動するまでに至らなかった。彼女は赤ちゃんがその浮浪者の方を見ないでほしいと説に願ったようだった。しかし浮浪者が両手で抱っこの誘いをするとなんと赤ちゃんの方でその浮浪者に身を投じるように抱っこを求めたのである。

私達の偏見はその浮浪者をどう見ていただろう。人生の敗北者?教養のない人?そして赤ちゃんの目にはどのように浮浪者が写ったのであろうか。赤ちゃんは浮浪者を汚いとは見ていなかったであろう。人生に失敗した落第者とも見ていなかったであろう。人間のかすとも見ていなかったであろう。赤ちゃんはただ素直にその微笑みに対し、愛情を受け、そして愛情を返したいと思っただけなのである。もしその時点で赤ちゃんが本当にその浮浪者の手に抱かれさらに目と目がみつめあっていたならば周りにいた多くの大人達はそこに何を見たであろうか。まさにそこにはドラマが存在したのではないだろうか。本当の愛とはなにか、偏見のない純粋な心とはなにか。この赤ちゃんはそうした大切な事を私達に教えてくれたであろう。しかしその母親の偏見がそのドラマを実現へ持って行く事をはばかんだ。それでも私達は彼女を攻められるであろうか。いいえ、もし自分であったならばおそらくその母親と同じ行動をとったに違いない。彼女を責める事はできないであろう。

私がここに伝えたい事は、私達の偏見というものは多くのベールを造ってしまっていると言うことである。見えるべきはずのものを偏見というベールで見えなくしてしまっているのである。そしてそのベールの裏に隠されたものはこの世で一番大切なものであるかもしれないのだ。

日本は国際化が進まないと嘆いているが、それはあまりにも偏見を持っているからではないだろうか。私達の身近にいる自分とは違う人を受け入れられないで、どうやって外国人のことを分かる事ができるであろうか。真の国際化とはごく周りにいる人達に向けられている偏見を取り除く事から始まるのではないだろうか。

だから私はこう伝えたい。偏見を植え付けるのも植えつけないのも親である私達のことばと行動ひとつなのです。五体不満足のスケートボードに乗ったアメリカ在住のローズマリーさんをテレビで見て、あなたがふとなにげなくつぶやいた、「かわいそうだね。」ということば。かわいそうだということが不幸だという事。それを子ども達はしっかりと聞いたのです。五体満足は不便であっても、決して、あるいは必ずしも不幸ではない事。人の幸せとは外見で決まる事でない事。これを私達は教えなくては行けないのです。現にローズマリーさんが言ったように、「私は、今、最高に幸せです。」と。友達との電話での会話、公園のお母さんとの会話。こどもたちは大人が何気なく話していることでもきちんとキャッチしてそれを自分の価値観として自分の中にはぐくんでいくのです。

こどもは親の鏡とよく言われます。こどもは一番身近な親を教師にして、見て、聞いて育ちます。今日皆さんが話しているそのひとことを聞いて子ども達の価値観に植えつけられ、育つのです。ネガティブな偏見はそのまま子ども達の中に残っていきます。そしてそれが彼らの将来、きちんとわかるべき大切なものを見えないようにしていくのです。確かな純粋な目をむしばんでいくのです。気をつけたいものですね。

 


うそをつくこと

母親にとってこどもがうそをつくことほど悲しいことはないですよね。特に最初にうそを付かれたときはショックということばにも表せるかもしれません。信頼していたのにとか、うちの子に限ってとか、あれだけうそはだめと教えてきたのに裏切られたとか、きっとそんな思いをされたのではないでしょうか。そしてこどもがうそをついたらその段階で、「だめでしょ、うそついたら。」「ママには絶対にうそつかないで!」とか言うのではないでしょうか?しかしうそをつくことは悪いように聞こえますが、実は成長の一部なのだと受けとめたらどうでしょうか。

なぜうそをつくのか?

こどもは皆さんが思っている以上に早い時期にうそをつくことを覚えています。早ければ3才前、少なくとも3才になったらうそをつくという知能が発達しているのです。さらにうそをつくことは悪いと言うことも分かっています。それでもあえてうそをつくのは知恵なのです。相手をからかう為のうそも賢くなった現われと見うけられるときがあります。

また彼らがうそをつくのは自己防衛でもあります。つまり私達、大人が使う「うそも方便」のようなものです。事実を隠すという行為はますますエスカレートして行きます。ひとつのうそをつくと、さらにその最初のうそをカバーする為にもうひとつうそをついてしまいます。このあたりにくるとだんだんこちらも真相が見えてきますよね。ある意味で、事実を隠し、われわれ親の反応を試しているのです。年齢を増すごとにうそはだんだん巧妙になり、私達親でもわからなくなります。

しかしこどものうそはかわいいもんです。たとえば4才の子供にナプキンの下に隠してあるおもちゃを「まだ見ちゃダメよ」とこどもに伝えたとします。しかしこどもは好奇心が旺盛ですから、ましてやみちゃだめといわれればなおさら見たくなるものです。大人も同じですよね。大人が絶対に分からないと思えば、「見た?」という問いにたいして、「見てない」と答えるでしょう。そうすると大人は、「そう、いい子だってね」とさらにほめてしまいます。ほめられることはこどもにとってとてもうれしいことです。だから当然嘘をつくのです。

これで「見た」といったらどうでしょう。おそらくこどもは怒られると言うことがわかっているから「見てない」というでしょう。怒られるのがいやだから、自分の心をあるいはからだにおいて、傷つきたくないから自分の身を守る為にうそを言うのです。

こどもにはこどもの理由がある場合も

結局知能の高い子どもほど上手にうそをつくと思います。さらに驚くことは口の固い子もいると言うことです。我が家でも過去にこんな事件がありました。娘は大の動物好きで犬を買いたかったのですが、我が家の男性諸君の反対を受け、どうしても飼うことができませんでした。そして私は娘にハムスターを与えました。当時8才の娘はそれはそれは大事にそのハミーちゃんをかわいがって育て、りっぱに8才の子どもなりに世話もしました。しかしある2月のこと、「マミー、ちょっときて、ハミーチャンがおかしい。」といって見たところ、完全に体が硬直していました。そう、ハミーチャンは命絶えていたのです。一連のお葬式をすませ、それから一年近くが過ぎました。ある日、娘は、「マミー、絶対にダディーに言わないって約束してくれる?絶対にだよ。………・あのね、ハミーチャンね、アリちゃんがソファーでつぶしちゃったの。」とこぼしました。

私はそれを聞いたときに、娘がなんと長い間この事実を自分の小さな胸に苦しんでいたのだろうといとおしくなりました。これだけ長い間、心に押さえていたものを声に出してみたという勇気にすら私は認めて上げなくてはいけないと思いました。彼女は1年以上という長い歳月、ずっとこの真実を小さな心に秘めていたのです。だれにも本当のことを言えず。それがどんなに彼女を苦しめていただろうかと思いました。わずか8才の子どもにこれだけの大きな我慢を長期に渡ってできるのだろうかと疑問に思ったほどでした。

きっと彼女は、本当のことを言ったら回りから攻められるなり、もう飼っては行けないといわれたりするだろうと思ったのでしょう。さらに「かわいそう」とか、「ありちゃん、ひどい」とか言われたら、自分が引き起こした事件だけに自分をいつも責めて行くこともつらかったのでしょう。私は娘に、「ありちゃん、ほんとうによくいってくれたね。マミーうれしかったょ。ありがとう。そのことずっといえなかったこと、ほんとうにつらかったね。けどいったあとほっとしたね。言えてよかったね。」そしてそのあと私は彼女を攻めることもなくただ抱きしめました。

私は彼女の口の固さというか、我慢強さというか、その成長にとにかく我が娘ながら感動しました。自分自身が8才という幼さでそれほど長い間、事実を隠し通せたかどうか、本当の所自信がありません。しかし娘はある意味で、自分の失敗に対してこのような形で心の中で長い時間をかけて事件を整理し、かつ反省していたのです。こどもは私達が思う以上に自分自身で悪いことに対する反省する力を備えているのだと思いました。そのため、私達ができることはこどものその力を信じて見守ってあげることではないでしょうか。

どのようなうそかを見極める

「どうしてうそつくの!」「うそついたでしょ!」「うそはどろぼうのはじまりっていうのよ!」「うそをつくとえんまさまがきて舌をぬいてっちゃうよ!」「うそだけは絶対にダメだっていつも言ってるでしょ!」「うそつきのこどもはうちには入れません!」などときっと皆さんはこどものうそに対して更正してきたとおもいます。またそれが正しいしつけだと信じているでしょう。

私達大人の世界ではなんと多くのうそが平然と行われているのでしょう。「奥さん、きょうはきれいですね。」「ごめん、今日娘が熱出したらから出られないの。」などは日常茶飯事ですよね。まあ、これはいわゆる小さなうそ、世の中をうまく渡る為の知恵ですね。さらに大きなうそでは、人をだまし、真実を隠し、むしろだまされる方が悪いという価値観の国もあります。警察官ですら真実を隠し、報道にはうそを発表し、政治家は国民をだましと大人の世界はもっともっと汚いのです。このようなうそは当然罰せられなくてはいけないうそです。それは誰が見ても悪いことです。

うそにもいろいろな状況、場面と種類があります。当然怒らなくてはいけないうそもあります。それは人を傷つけるうそです。私達親としての勤めは、どのようなうそなのかを見極める賢さを備えることです。こどものうそはしょせん見え透いたうそです。うそを見抜くことはそれほどむずかしくありません。

こどもがうそをついたとき、すべてのうそに頭ごなしでうそはだめと怒るのでなく、どうしてうそをつかなくてはいけなかったのかを考えて見てください。そしてこどもの立場に立って状況を主観的に見つめて見てください。きっとお子さんは悪気をもってうそをついたのでなく、彼らなりに理由があり、場合によってはママを悲しませたくないがゆえにとったうそという配慮だったのかもしれません。子ども達の心は繊細です。どうぞ温かく心の成長を見守ってあげてください。うそに対して時には目をつむって微笑むこともこどもを一番よく理解している母親ならではできることなのかもしれません。

「あれ?けんちゃん、これこわしたんでしょ?」

「ちがうよ、けんちゃんじゃない!」

 

 


とにかくまずは口に出してみよう

公園であったお母さん、こどものおけいこ先で知り合ったお母さん、私達は母親になると母親が集まる世界でいろいろな女性との出会いがあります。しかしとかく子どもレベルの話しで終わってしまいがちです。きのう熱を出した、どこどこの小児科医はどうだ、野菜を食べないで困っている、あそこでこども靴のバーゲンがあるなどの範疇でのこどもレベルの話しが大半の人とのつきあい程度ではないでしょうか。これを一歩超えて少し親しくなった段階でもせいぜい夫の仕事について、どこどこに旅行したことがある、というまだ表面的な事実だけを話す程度ではないでしょうか。

しかし本当の所はもう少し踏み込んでこどもがかわいく思えないときがあること、自分は本当は働きに出たいこと、夫とうまく行っていないこと、姑にいじめられていること、女の体のこと、避妊のこと、セックスレスの悩み、昔の彼のこと、家庭の経済的悩み、好きになれないIちゃんのお母さんのこと、まで話したいと思うときがあるのではないでしょうか。

私達は女同士だから本当はこういうことも話したいけれども実際にはこどもがいっしょにいるときであれば話しが中断されてしまったり、昼間の公園で陽がさんさんと照っているもとで夫婦のふとんの中での話しなどはとうていできません。またそれ以上に周りのお母さん方にこんなことを話したらうわさとして流されてしまうのではないかとか、こどもを殴ってしまったことでも話せばひどい母親だと敬遠されてしまうのではないかと躊躇しとても話せません。

カミングアウト

長い間、都会の窮屈な住居で子育てをいらいらしながらしていた母親は衝動的なこどもへの虐待、あるいはたまの平手打ちなども他のお母さん方にはとうてい告白できなかったのです。しかし徐々にその風潮もくずれ、今ではそのような環境に押し込められればだれだってノイローゼになってしまう、ぶってしまうこともあるということが世間で理解されてきました。私は決して児童虐待を肯定しているわけではありません。私は単に今まで口にできなかった事を女性はもっと堂々と気持ちに素直になって言ってみるべきだと提案しているのです。

こんなことを感じている自分はおかしいのではないか、こんなことを言ったらきっとみんなから異常な母親として村八分を受けるのではないか、と思わないでとにかく言ってみることです。そこには、「あら、Oさんもそういうことがあるの?実は私も先日、こどもをぶってしまったの。後からすごく後悔したんだけれども。」と会話が発展し、自分だけが孤立化してそのように感じているのではないということに気がつくと思います。母親失格と思っていたのに、そのように感じることがあるのも普通なんだと受けとめられてきます。同じような悩みを抱えている人が近くにいて、話し合えることに気がつくはずです。

疑問は投げかけてみましょう。もしかしたらみんなも同じなのかなと声をかけて聞いてみましょう。どこかにきっと、「あら、私もそう思っていたの。こういった気持ちはおかしくないよね。」と同調してくれる人が必ずひとりくらいは現れるはずです。また現われなくてもいいではないですか。

すべて周りのお母さんがみんな家でも公園にいるときと同じような笑顔でこどもとしょっちゅう遊んでいると思ったら大間違いです。自分で思いつめないで、話すことでかなり心が軽くなるものです。つらい子育ての部分にも元気がわいてくるはずです。今は子育てが本当にやりにくい時代になっているのです。自分一人でない、みんなもがんばっているんだ、同じことで悩んでいるんだと思うことは、私達の中に大きな力を与えうるのです。解決策が見出せることもあります。

夫に話しても限界を感じたり、壁にぶつかることがあります。悩みを分かってもらえるのは同じ境遇のもとにいるもの同士だけということもあるのです。そのためそのチャンスを見逃さないでください。このように心を開くことによってできた友はかけがいのない一生の友となるはずです。

 


 

子育てに失敗したっていいじゃないの

ある友人が自分の母親を「母親として失格だ」とひどく批判していました。彼女の母親は自分のやりたいことがいっぱいあったにもかかわらず、こどもがいたためにできなかったとしょっちゅう愚痴をこぼしていたようです。やりたいこともこどものためにあきらめ、やらなかったことが子どもへの愛情だとその母親はいいたかったのでしょうか。他にも彼女は母親の子育ての姿勢に対して大変否定的でした。

しかし驚くことにその出会いから数年後、彼女はすっかり自分の母親を許していたのです。話を聞くと、「子育てなんてしょせん大成功なんてありえないのよ」と妙に納得していました。そうなのです。特に最初の子どもとなると実は失敗の連続なのです。最初の子どもは思考錯誤で育てるギニーピッグ(実験用のマウス)なのです。わからないことだらけゆえに本に書いてあることをすべて鵜呑みにして実行したり、保健婦さんの言ったことを従順に守るのです。疑うというすべも知らないこともあります。それゆえに時には我が子の場合には当てはまらなかったり、事の事態を誤解して失敗していたと言うことが数多くあるのです。

私も長男のときは時計と睨めっこをしながら授乳時間を右10分、左10分と決めていました。赤ちゃんに日光浴といわれれば、真冬でもまっぱだかにして窓を開けてこれまた時計を見て時間を測りながら日光浴をさせていました。なにも分からないから言われるがまま素直に実行しました。何も疑問に思わず、とにかくこの小さな命をちゃんと育てなくちゃという使命感に燃えていました。泣き止まないからと総合病院の救急にも走り、看護婦さんに笑われた経験もあります。皆さんも一生懸命にその子どものことを思い、愛していたからがゆえに行っているはずです。それでもそれがたまたま裏目に出てしまうこともあるのです。しかしそれでもいいのです。しょせん母親一年生は失敗から学ぶのですから。当然二人目となれば失敗率は減っているはずです。それは一度何が間違っているか失敗や経験から学んでいるからです。だから二人目は幸せかといえばそのように測れるものでもありません。

 

環境、時代を克服する

人生にはどんなにがんばってもなるようにしかならないこともあるのです。特に私達は生まれた環境を選ぶことはできません。さらに親を選ぶこともできなかったのです。たまたまアルコール依存症の親のもとに生まれてしまった。貧困の家庭に生まれた。それはどんなに努力しても変えられません。そのため、それは事実として受けとめるしかないのです。そしてたとえ受けとめられなくてもその人の人格が否定されたわけではないのです。環境を選べなかった人がすべて否定されたら私達は生きていく自信が無くなってしまいます。

子育て思想も同じです。「3才までは母親の手で子どもを育てろ」、「母乳で育てた子は情緒豊かになる。」、「母親との絆が結ばれるのは産みの苦しみを知ってこそ」、「赤ちゃんは新陳代謝が激しいので毎日お風呂に入れなくてはいけない。」、「断乳はいつまでにしないといけない」、「指しゃぶりは歯並びに影響するからやめさせろ」、「早期教育は3才過ぎたら遅すぎる。」とこのようなプロパギャンダ(回りから耐えず吹きこまれる理想像)にどれだけの母親が身も心もゆすぶられてきたことでしょう。そしてそれができないと世間では冷たい母親?母親として失格?とレッテルをつけてきました。

時代が変わり、その思想が間違っていたということに後々私達は気がつくのです。そしてその時にはもうこどもは手を離れ、遅すぎると言うこともあります。それを失敗と取るなら失敗でしょう。

あの時にこうしていればよかった、あの時ああしていればよかったといつまでも後悔していても始まりません。あくまでもその時点においては自分の限られた知識と経験の中で一生懸命精一杯にやった結果なのだとこどもに許してもらうことです。その時はもう二度と戻らないのです。その時はその時しかないのです。昨日をもう一度生き直すことはどんな金持ちでもできないことなのです。Yesterday is gone. Tomorrow is the unknown. That is why today is the present.そのためにも今日という日を納得のいくように生きていかなくてはいけないのでしょう。

人生のいいところは、たとえいつになっても気持ちさえあれば、やり直しが効くことだと思います。つまり生きていればなんとかなるもんさというものです。人間には生きようとするものすごい力があるのです。たとえ逆境に置かれても這い上がるだけの生きる力を備えています。そのためこどもの中にもしっかりその力が存在しているのだと信じて前向きな姿勢を立てなおせることに自信を持ってもらうことです。その時にもう親は手を出さなくてもいいのです。自分自身の人生を切り開いて行けるように遠くから見守っているだけでいいのです。子ども達の人生は巣立った後の方が長いのですから、その後は自分で責任を持って人生を切り開いて行けばいいのです。

 

では、今なにができるか?

今、私達に欠けていることは、みんなといっしょならば安心、他の人と違うことをするのはこわい、自分の信念を通すだけの強さがないといったところだと思います。うちはこれでいいんだと胸を張って自分と子どもとの関係に納得し、ハッピーであると言えれば自分だけの子育てに自信を持てるようになるのです。そうでなかったら夫が亡くなってしまい、生後数ヶ月で保育園に入れられた子ども、海外で生活していたがために緊張のあまり母乳が出なかった人工乳育ちのこども、その家族にこどもが授からなかったがゆえに養子として迎えた子どもが救われないじゃないですか。彼らが皆、そんなに不幸な人生を歩んでいますか?

子育て一般論なんてあくまでも空想であり、理想であり、現実にはこどもの数だけ子育て方針があっていいのです。だからそんないい加減で無責任な情報にまどわされず自分自身の子どもと向き合った我が家の子育て方針を探していってください。海外で子育てをしている多くの母親が、「情報がないだけに、それに頼らないマイペースの子育てができてよかったと思います。」というような感想を寄せています。もしかしたら情報がない方がちゃんとこどもの信号をキャッチできるよい環境に恵まれているのかもしれませんね。

 


ALgozira.gif (606 バイト)こどもにだめといわない環境? ALgozira.gif (606 バイト)

 

先日あるベビートークの会合でパネリストとして呼ばれました。その中で私は繰り返 し、日本の育児雑誌からの情報を鵜呑みにするなとか、海外からの育児案も日本の環 境にあったものをきちんと吟味して、日本の文化に馴染む形で受け入れなくては行け ないなどの提案をしていました。 トークが終わった後、あるお母さんが私のもとを訪れ、こどもがスーパーなどでもの をねだり始めたらどうしたらよいかという具体的な質問をあげました。私は親が買い たくないのであれば、スーパーではこどものものは買わないと一貫した方針を決め、 それを貫けばよいでしょう、とアドバイスをしました。

  さらにあまりかんしゃくを起 こして周りに迷惑をかけるような状況であれば、買い物は中止。外に出てこどもに言 い聞かせて戻るか、あるいは収まらないのであれば今日の夕飯は家にあるインスタン トラーメンにでもして、帰宅する事でしょうねと提案しました。けれども状況にもよ りますし、年齢がまた上がれば、言い聞かせができるので多少の譲歩は可能となりま す。あくまでもその時期のその状態です。 しかし彼女がもっとも気になっていたことはある育児雑誌に書かれていた、「だめと いわないしつけ」についてでした。つまり本当にだめをいわないで育てられるかとい う疑問を投げかけたかったのでした。

私はこどもに「だめ」を言わないでどうやって しつけの基本であるよい、悪いを伝えられるかといいました。 もちろん子どもがいる家であればそれなりの安全対策をひく必要はあります。テレビ やビデオのスイッチなどを勝手に触らないようにする、キッチンに入らないようにす る、危険なものが入った引出しはあけられないようにするなどこれはこどもがいる家 庭であればどの家庭でも行われているでしょう。このような対策を嵩じていなけれ ば、一日中だめを連発しなくてはならなくて、母親が疲れてしまうでしょう。この点 でしたら「だめをいわない環境づくり」ということで納得がいきます。

   しかし親として最低限のしつけは、こどもに何が悪いことか、何がよいことかを教え ていくことです。そして悪い事の中には他人に迷惑をかけてはいけないということが 含まれます。どんな未開な土地でも、どのような貧しい層の親でも、どのように教養 のない人達でも、何が他人に迷惑をかけるとか、何が相手に不快な感情を与えるかぐ らいはわかり、それをしないようにこどもたちにしつけています。これはしつけの基 本中の基本です。子ども達に「だめ」を教えないで、いったい何を教えるのでしょ う。親としての義務を放棄したようなものではないでしょうか。

  あえて付け加える事といえばその「だめ」を言う頻度が高い時期があるということで す。まだものごとがわからない年齢だからとほっておくのでなく、もうどんなに小さ な時からでも「だめ」は「だめ」です。そしてなんでも「やだ、やだ」の時期には もっと「だめ」という機会が増えるでしょう。

  私の身内にしつけに甘い母親がいま す。彼女が息子を連れてくると、私はこれぞとばかり、いけないことは伝えていきま す。だからこわいおばちゃんのように彼の目には写るかもしれませんが、本当にだめ なことはだめなのです。それを親が注意しなければ他人が注意するのは当然です。私 は他人の子であれど躊躇しません。子どもを社会人としてきちんと育てるのは社会全 体の責任だと思っているからです。そのため彼はベターっと床にうつぶせになって一 人でふてくされるのです。(この光景がなんともかわいいのです。)けれどもそれも わずか数秒、やがて遊びに行ってしまいます。いいですね。こどもは根に残らないで すから。

  しかしこの「やだ」を連発する時期に心がけなくては行けないことは、いつもいつも 「だめ」の連発で親から押さえつけられていては、中学生のように「うるせえ、いい かげんにしてくれ!」と言いたくなるでしょう。これではかえっていじけてやる気の ない子になってしまうかもしれません。そのためある程度、出口も作ってあげておか なくてはならないでしょう。その「だめ」と同時に、のびのびと「いいよ」思う存分 やってごらんという、のびのび開放された空間ももたせてあげるとよいでしょう。こ れで本人のエネルギーも発散され、ママのストレスもかなり解消できることでしょ う。

 

 


ALgozira.gif (606 バイト)夫に愛されている安心感が妻にあればこどもはハッピーALgozira.gif (606 バイト)

いったい母親がハッピーでいられる条件とはなんでしょう?そうです。ご主人が皆さんをしっかりと愛情で包んでいてくれることです。これ以上の安心はないと思います。そしてその安心があるからこそ私達女性は妻として、母親としての仕事をまっとうできるのです。異国での緊張の連続の生活、帰国後の将来への不安、悩み多き人生、このように心が不安定な状態になっているときこそ、「愛」で支えてほしいのです。その愛を夫が与えられないのであれば、妻はそれを他に求めます。こどもであったり、浮気相手であったり、とにかく必要だからこそ必ずどこかにそのよりどころを探そうとします。逆もまた正なりです。

ご主人はしっかり奥様のニーズを把握していますか。海外へ出たらなおのこと責任が増えた、仕事が増えた、時差の関係で日本の時以上に働かなくてはならないと家庭で過ごす時間が減少していることを正当化していませんか。しかしご主人が海外でせいいっぱい仕事ができるのも奥様の陰の力があってこそだということを忘れないでください。家庭を任せた、子どもを任せたと安心していられるからそれだけ仕事に打ちこめられるのです。そして彼女にも女としてのニーズ、人間としてのニーズ、妻として、母としてのニーズがあることを知ってください。

彼女の心の状態を感じ取っていますか。それを常に感知していられるのにはできるかぎりいっしょにいる時間を増やすことだと思います。二人だけの時間、デートの時間も設けるべきです。子どもを誰かに預けて男と女になる時間も大切なのです。こどもが大きくなったらと後送りしていはもうその時には遅いのです。

よくコミュニケーションが大切だといいますが、別に止め止めなくしゃべりまくっていなくてもいいのです。ただそばにいるだけでも彼女の心の動きが感じ取れるはずです。人間は本当に神秘的にできていてことば以上に体から発するメッセージが多くを伝えているものです。

こどもの健全な成長を願うのならば夫婦が基本、夫婦を核として家庭を形成して行かなくてはなりません。こどもはお父さんがお母さんにやさしくしている姿を見て安心するものです。これは子どもの前でべたべたしろといっているのではありません。お父さんがお母さんのためにりんごをむいて差し出してあげたり、たまにはお父さんがお母さんに大好きなコーヒーを入れてあげたりする、そんな小さな日常のしぐさ、しいては愛情表現をこどもは敏感に察ししています。それで十分なのです。

私はいろいろな子ども達と接していて、学校で問題を起こしていたり、友達とうまく行かない子どもを見るとどうしてもその背後に両親の不和、あるいは母親の心の不安定さが見えてきます。親がゆれているとこどもはその上でさらに大きくゆれてしまう、そんな現象が起きてしまうのでしょう。

しかし夫婦だってけんかをします。意見の不一致、結婚生活における波風、嵐、そのようなものは避けることはできません。子どもの前でもばんばん討論を行ってもいいと思います。価値観の違いや意見の違いから起きる討論は決してけんかではありません。子ども達はけんかか討論なのかその違いは分かりません。そのため「ママ達けんかしないで。」と叫ぶでしょう。夫婦でも人間である以上それぞれ違った意見を持つのは当たり前で、受け入れられるべきことを子ども達に見せてわからせる必要があります。別にケンカをしているのではなく、お互いの意見を述べていること、また多少けんかが数日に渡っても決してそれで分かれるわけではないことを行動で表し、ことばで伝えれば子ども達は安心するでしょう。夫婦けんかをしてもこのようにきちんと家族の一員であるこども達にもフォローを忘れないことです。そしてそれは夫婦の態度でこどもに伝えましょう。

 


ALgozira.gif (606 バイト)こどもはなるようにしかならないALgozira.gif (606 バイト)

子育ての楽しみ

なんと多くの女性が気を張って子育てをしていることでしょう。本来子育てとは楽しいことであるはずなのに、多くの人は子育てを楽しいと感じていないといいます。特に最初の子どもの場合はとても子育てが楽しいとは自信を持って言えないはずです。3人目くらいになって初めて子どもってなんてかわいいのと子育てに余裕ができ、やっと子育ての楽しみが分かってくると言います。さらに子育て雑誌を読みながら自分の子育てはこれでいいのだろうかと常に専門家の目を気にしながら、小児科医が提案すれば絶対にそれにこどもが当てはまらないと我慢ができなかったり、周りの人達が子どもとの暮らしが楽しいと言うのを聞くとどうして自分だけ楽しめないのだろうか自分の母性に対して不安に思ったりします。今、少子化時代を迎え、ほとんどの人が一人か二人しか子どもを産まなくなり、こどもを育てる本当の楽しさをあまり経験できずに過ごしているように思えます。しかしなにも3人目を生めといっているのではありません。1人目でも2人目でも子育てが楽しいと思えることはできます。それはもっとこどもについて知ることです。そしてそれをもとにどのような姿勢を母親が持つかということです。

楽観的な人間育て

こどもはどんなに自分がこうあってほしいと思っても自我があり、個性があり、生まれもっての性格があり、母親一人の手ではどうにも揺るがしようが無いその子だけの固有性があります。皆さんもお子さんの性格と知って、これだけはどうにも変えがたいと感じる部分をたくさん直面してきたと思います。変えられないのならそうだと思ってもっと楽観的に人間育てに臨んでみてはどうでしょうか。その個性をむしろ受け入れ、喜べるようになったらかなり精神的にも親は楽になると思います。からだを動かすことの好きな女の子ならそれでいいではありませんか。気弱な男の子でもそれは彼のやさしさではありませんか。

人生は軌道修正できる

どんなに親ががんばっても子はなるようにしかならないこともあるのです。将来、たとえ暴走族に走ろうが、登校拒否に陥ろうが、十代で妊娠してしまっても、それが彼らの選んだ道であるのならばどうしようもないことなのです。しかし愛情をもって育てていればたとえ子ども達が道を反れても必ずそれに気が付き軌道修正ができるはずです。その力を備えているはずです。その時に私達親ができることは、今までの自分の子育てに自信を持ち、本人がもとの正しい道に戻ることを見守るしかないのです。そして人生は何度でも軌道修正が可能であることを伝えていくことです。

天才的な子であるならばともかく普通の親から生まれた普通の子であれば、あまり期待をしすぎても始まらないと思います。とにかく健康に、普通に育ってくれればそれでまずは十分ではないでしょうか。そしてもし普通以上であればそこには期待していなかったボーナスとして感謝すればいいのだと私は思います。

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