2013年1月アーカイブ

子供のしつけの基本ルールの中に、「親が自ら怒っている時には、子供を叱ってはいけない」というのがあります。よくあることですが、子供がいけないことをした時に、親がかっとなって怒り、その調子で怒りを子供にぶつけながら、子供を叱ってしまうことがあります。親の方は、子供のためだという理由で、自分の怒りを正当化しようとしますが、結果としては子供のためになっていません。多くの場合、子供の方は叱られた内容より、怒りをぶつけられたことにショックを受け、親が怖くなってしまったり、自分も怒りを心の中に溜めたりしてしまいます。

この親の怒りから来る子供に対する叱りは、子供の行動に刺激され怒りを感じてから、それを親本人我慢ができなくて、自分の心から除外する行為として見ることができます。よくあることではありますが、私達が嫌な気持ちをさせられた時、その原因となるものに当り散らすことをします。嫌なことは自分の外に出そうというわけです。それと同時に、その「嫌なこと」をした子供は否定されます。自分の子供はそんなことをする子ではない、またはそうなってほしくないという信念から子供の実際の行動を否定してしまいます。

次に、もう少し親の心に余裕がでてくると、自分の怒りを子供にぶつけたりはしませんが、問題となる子供の行動を改善しなければならないと考えます。それで、子供の至らない言動を見ると、それについて注意をしたり、とがめたりして、子供を変えようとします。この方法での焦点は、子供の悪い行動で、それが直れば親の満足が得られるという、言わばコントロールの状態が親から子供に対して起こります。

このメカニズムを見てみると、子供の悪いとする行動を定めるのが親で、それが知らずのうちに親自身の短所であったりすることが多いです。私たちは、自分の嫌な部分は見ないようにする動機があります。そのためにその部分が無意識の領域に入り、今度はそれが他人の中に見えるようになります。「相手は自分の鏡」とは、そのメカニズムをよく捉えた言い方で、言いかえると「子供は自分の鏡」と言うこともできるでしょう。すなわち自分の嫌な部分を子供に発見し、それを見えなくなるまでコントロールしようとすることが、「躾」となってしまいます。結果として、子供の方は、親の自ら嫌な部分を自分に投影させられ、それを信じることによって、自分がいけない子であるという自己認識から逃れるのが、たいへんになってしまうのです。最初に述べた方法による「否定」はされなかったものの、これでは結果として悪い子になってしまいました。

よって、親の方は、怒りを吐き出してはいけないし、自分の嫌な部分を子供に見出してもいけなくて、どのように子供を扱ったらよいか、解らなくなってしまいます。それでも親が、自分の嫌な部分を見つめることができ、それを自ら抱えることができると、それを外に除外する必要がなくなります。自分の短所は、それを冷静に受け入れられると、他人へ投影することがなくなるのです。その状態で子供と接したとき、子供の行動の良し悪しは、もっとはっきり掴めるようになります。それは、自分の気持ちで子供の理解をゆがめてしまうことが少なくなるからです。

子供の行動が気になったら、先ずはそれに対してすぐ反応し叱り始めるのは止めましょう。次に、自分がどのような行動をとったら、一番子供に良いことを伝えることができるかを考えましょう。悪い行動を止めさせるより、良い行動を教えながら導くほうが、文字通り「躾」となるでしょう。