2007年10月アーカイブ

自分の正体、「いったい自分は何であるか」という問いかけに対して考える対象を、最近ではアイデンティティー Identity とよぶようになりました。セルフ・アイデンティティーと言いますと、なんとなく自分の形のまとまったものであるという気がします。でも、よく考えてみますと、自分のアイデンティティーとは、一つではないことに気が付きます。自分はいろいろなアイデンティティーから成り立っています。

先ず、基本的なところから考えますと、性別アイデンティティーがあります。自分が男であるか女であるかという認識です。それから人種のアイデンティティーがあります。アジア人か黒人か白人か等という違いです。そして、国民アイデンティティーもあります。日本人かアメリカ人か、または他の国の人かという認識です。

その他には、キャリア・仕事アイデンティティー、結婚アイデンティティー、親子アイデンティティー、興味サークルアイデンティティー、地元・ローカル・地域アイデンティティー、年齢アイデンティティー、思想アイデンティティー、性アイデンティティー、食物アイデンティティー等、まだ沢山あることでしょう。

自分はいろいろなアイデンティティーから成り立っています。国民意識や人種意識のように、知らない間に自分にくっついてしまっているものもありますし、仕事やサークルのように、自分で選べるアイデンティティーもあります。

ここで大切なことは、「アイデンティティーは、自分のことを、明らかにしてくれてよいのですが、同時に、自分に限度を付け、自分のそれ以上、それ以外の可能性を省き妨げてしまう」ということです。

例えば、男性というアイデンティティーを考えてみますと、それが女性と比べて、体の作りが違うという意味から始まって、服装のパターン、話し方、考え方、仕事との関わり、男らしさを暗示する言動、家族内での役割などを割り当ててくれます。

でも、それと同時に、男としてできないこと、しずらい事なども定めています。日本人男性としてのアイデンティティーは、感情の表現を少なくしてしまいます。「あなたを愛してます」なんていう表現は、なくはないですが、日本人男性にとって言いやすくはありません。特に人前ではそうです。そのために、日本人男性は、愛情の表現が乏しいなどと、文句まで言われてしまいます。

男性として泣くことも女々しいなどと言われてとがめられ、簡単にできるものではありません。しかしながら、時によって泣くことは、ストレス発散になって健康によいこともあります。また、精神的、肉体的痛みに対する我慢など男として、もっと要求されるので、簡単に弱みをはくわけにはいきません。でも、痛みは、体の危険信号として大切なメッセージを送っているわけなのですが。

同じく、女性としてのアイデンティティーは、女性の行動範囲を狭くしてしまいます。今は変わりつつありますが、学業や職業に専念することは、女性としてとがめられることがありました。服装なども、微妙にファッション界や周りの人が、限定をしてしまい、自分で自由な格好をすることが、男性よりは難しい感じがします。そして、年齢制限。結婚といい、職業といい、ロマンスを含む人間関係といい、女性に対する年齢制限は厳しいものがあります。そのために、それが女性の自尊心に及ぼす、心理的コストは、計り知れないものがあるでしょう。

人の成長、そして社会の発展は、自分のライフスタイルや生活環境の中に存在している限度に気づき、それを乗り越えることによって、可能になります。アイデンティティーは、自分を認識させ、人間関係の中での役割を明確にしてくれます。しかし、それがいかに自分を縛り上げて、狭いものにしてしまうかを理解することによって、それから飛び出すことを考えることが可能になり、自分のより大きなアイデンティティーを築くことが出来るようになります。

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