バイリンガル教育

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「バイリンガル教育は、非常に奥深い」子どもや自分自身の第二言語習得に真剣に取り組んでいる方なら誰もがお気づきのことと思いますが、シカゴ在住の萩原さんが、バイリンガルに関して書かれた様々な著書を研究された結果をエッセイとしてまとめてくださいました。

SweetHeartによく訪れてくださっている方なら、耳にされたことはあると思うトロント大学中島和子教授の「バイリンガル教育の方法12歳までに親と教師ができること 」その他、幾つかのバイリンガル教育に関する本を大変わかりやすくまとめられています。

何章かに分けて掲載します。これを題材に「たかが英語されど英語情報掲示板」の方で、また色々とバイリンガル教育に関して話し合ってみませんか?!

著者

萩原裕子 シカゴ在住。11歳の息子さんと御主人との三人家族。

バイリンガル教育に興味を持ったきっかけ】

現在住んでいる地域は、アメリカ人だけにではなく、海外から入ってくる子供たちにも質の高い教育ができるよう、いろいろな試みがなされていて、びっくりしました。それに比べて、日本から来る先生方は、バイリンガル教育や、帰国子女教育に本当に興味があるのだろうかと見ていて疑問に感じるのです。本当に興味があるのなら、ここには学ぶべきことがたくさんあるのに…それを日本へ持って帰って生かしてくれたらよいのに…(息子だって、いずれ日本の学校へ戻るかもしれないのだし)という気持ちから、ではまず自分が勉強してみて、先生方にアピールできないものかと…そんなところから勉強が始まりました。

はじめに

T.バイリンガルとは

バイリンガルという言葉からまず想像するのは二ヶ国語がたんのうであること、私たちにとっての日本語と同格の言語をもう一つ持っている人というイメージであろうか。日本はモノリンガルの国であるから、外国語をぺらぺらしゃべっている人をみると、内容がよくわからないだけにとてもすごいような気がして、その外国の言葉がその人にとってまるっきり日本語と同じレベルなのだと思いがちである。

しかし読み書きも含めて100パーセントの言語を二つ以上有する人は思っているよりずっと少ない。だから、二言語を完璧に操れる人のみがバイリンガルで、どちらか、または両方の言語が、ネイティブに比べて少しでも劣っていればバイリンガルではないという考え方は正しくない。バイリンガルは理論的には、二重バイリンガル(両言語とも母語話者と同じ能力を持つ。)、平衡バイリンガル(両言語の能力の差はないが、いずれも母語話者の能力には及ばない)と、偏重バイリンガル(いずれかの能力は母語話者と同じだが、もう一方の能力は母語話者に比べて劣る)に分けられる。

実際には二重バイリンガルは稀であり、平衡バイリンガルと偏重バイリンガルが多い。この、母語話者と同じ能力というのはもちろん認知能力や、複雑な表現をも含むが、どこの国であっても言語の発達は年齢によって差があるので、「年齢相応の」という考え方は必要だと思う。その上でさらに、バイリンガルが主に会話に関する定義であるのとは別に、二言語に関する読み書きも相当程度にできる人に関して、中島和子はバイリテラシーと言う言葉を使って区別している。

また、二重バイリンガルの対極にあるものとして、セミリンガルという言葉が使われるが、最近これは「子どもの人権を侵害する可能性がある差別用語として、避ける傾向にあるそうだ。中島は消滅しつつある少数言語グループにはどのことばも不十分で、きちんと話せない、書けない、大人がいるが、子どもの場合は環境が変わり十分に必要な刺激が与えられれば正常に戻る可能性を十分に持っているので、成長過程の子どもが海外赴任などで、バイリンガル環境に置かれて両方の言葉が不完全になるケースは「一時的セミリンガル現象」として区別すべきだと述べている。

また、『言葉と教育』の中で「バイリンガルは、二つの言葉の「統合した力」を持っているものなので、モノリンガルの子どもと比べたらそれぞれの言葉がやや低くなるのは当然なのです。バイリンガルは、モノリンガルを二つ足したものと考えて、少しでもモノリンガルと差があると、『セミリンガル』と決めつけるのは穏当ではないと思います。」述べている。このようなことをふまえたうえで、バイリンガルに関して、主に日本語と英語、またアメリカと日本という視点で考えてみたいと思う。

つづく

 

アメリカ人にとってのバイリンガル

 

モノリンガル・コンプレックス

 

 「日本語は特殊な言語なので、日本人が外国語を学ぶのはたいへんだ。日本は島国なので、他国後を話せる人がほとんどいない。他の国では何ヶ国語も話せる人がたくさんいるのに...。アメリカにいても他の国の人は英語が上手なのに、英語をうまく話せないのは日本人ばかり...。」というコンプレックスを持っている人はいないだろうか。確かに日本はモノリンガルの社会で、日本に住んでいる間は他の言語を話す必要がないし、モノリンガルの環境の中で自然に他言語を習得できるわけもないから日本語以外話せない人が多いのは事実である。また、日本語の文字にしても、文法にしても他言語と大きく異なるので、外国語の習得が難しいのも事実かもしれない。

 

ただし、モノリンガルであることにコンプレックスを感じているのは日本人だけではない。実はアメリカ人こそがそれを感じているのだ。アメリカは多民族国家なので、いろんな言葉を話す人がいて日本人にしてみればとてもモノリンガルの社会とは思えないが、生粋のアメリカ人(これも定義が難しいのだが)で、英語以外の言葉を話せる人は意外に少ないのだ。アメリカ国内で、英語以外の言葉を話しているのは、たいていアメリカ人以外の人間なのである。そこへ来て、英語はいまや国際語であり、世界中どこへ行っても英語が話せればどうにかなるという思い込みがあるから、必要に迫られて他言語を習得するということがない。英語ができない人間は知的レベルが低いとまで思い込んでいた。(現在でもそう考えている人もいる。)アメリカ人は胸を張って「アメリカはモノリンガルの社会だ」と言っていたのである。

 

ところが、その「英語こそ一番」の神話が崩れつつある。南米からの移民の増加に伴い、州によっては英語とスパニッシュの割合が逆転しつつあるところも出てきたし、景気の波に乗って一般市民の海外旅行者が増え(アメリカは広いせいか、海外旅行へ行く人は日本に比べると意外にも少ないのだ)、旅先で英語が通じないところもあるという認識ができてきた。ビジネスだったら外国でも英語が通じるのだろうが、観光旅行となると話は違ってくる。日本人はもともと外国で日本語が通じるとは思っていないから、驚くこともないが、アメリカ人にとって英語が通じないところへいくというのは相当勇気がいることらしい。

 

自分たちの曹祖父母の時代には、それぞれが母国語を持っていたわけだが、いつのまにか英語しか話せなくなっている。それに引き換えヨーロッパの人たちは2ヶ国語、3ヶ国語を話せる人がザラにいる。新たに移民として入ってくる人たちも仕事のため公用語の英語を学びつつ、母国語も話せる。「アメリカはモノリンガルの社会だから、英語しか話せなくても仕方がないけれど...」というように考える人たちが増えてきている。カレッジの言語学の授業で、「アメリカはモノリンガルの社会なので...」が何回もでてきたことは、私にとっても目からうろこの体験であった。

 

アメリカ人のバイリンガルに対する考え方

 

ではアメリカではバイリンガルをどのようにとらえているのだろうか。言語学者Stephen J. Caldasは我が子をバイリンガルにしようと試みる。彼の家族も、彼の妻の家族も祖父母の代にはフランスからの移民であった。妻Suzanneの父母はケベックに住んでいる。(ケベックはフランス語圏) 彼自身はフランス語があまり得意ではなかったが、Suzannneはフランス語を話すことができた。そこで彼らは、家庭内では100パーセントフランス語で子育てをする一方、生後3ヶ月から息子を英語のプレスクールに預けた。息子のJohnは、2歳をすぎた頃から、英語、フランス語を同じように使えるようになる。しかし、1日8時間、週5日間英語環境ですごし、周りの社会も英語、家庭内だけがフランス語という環境の中で、やがて英語の能力のほうが勝ってゆき、兄弟同士が英語で会話をするようになる。(Johnには2歳下に双子のきょうだいが生まれていた。)そこで彼が4歳の年、夏休みを利用してきょうだいともどもケベックの祖父母の下に2週間滞在させた。もともとフランス語も話せる彼らはその2週間でフランス語を使うことに抵抗がなくなり、アメリカへ戻ってからは、家庭内ではフランス語、外では英語というように完全に使い分けるようになる。その後も子どもたちは夏休みのたびにケベック滞在を続けることになる。

 

Stephanは彼のarticleの中で「我が子のバイリンガル教育は成功を収めた」と述べている。Johonは6歳の時点で、英語のみならずフランス語の読み書きも完全にできているという。しかし、私はここで疑問を感じた。日本でいう小学校1年生の年での完全な読み書きとはどのようなレベルを言うのだろうか。おそらくJohnは1年生レベルの読み書きはどちらの言葉に関しても問題がないのであろう。しかし日本人であれば、この時点でバイリンガル教育が成功したというであろうか。英語はこのまま学校で勉強するから問題がないとしても、家庭内だけのフランス語で、小学校高学年から中学生もしくはそれ以降に学習すべき複雑な表現や、膨大な数の語彙の獲得をまたずしてバイリンガル教育が成功したと言い切れるであろうか。ましてこれを書いているのは言語学者である。この時点で成功宣言をしてしまうというのは、日本人とはバイリンガルに対する考え方が違うということである。というより、バイリンガルとバイリテラシーをきちんと区別しているということである。彼が試みたのはあくまでもバイリンガル教育であってバイリテラシーを求めていたわけではないということであろう。それではバイリンガルにおいて、何が重要なのだろうか。

 

言語獲得のボーダーライン

 

アメリカでは言語獲得に関して“Critical Period”というボーダーラインがあると考えられている。それは、第一言語、第二言語にかかわらず、生物学的にみて思春期に当たる13歳前後が言語中枢の発達の限界であり、それ以降は新言語の獲得が困難になるというものである。しかし、それとは逆に、第一言語が完成されるこの時期が第二言語の学習を始めるための適齢期という考えに基づき、ほとんどの学校が7thグレードから、外国語を取り入れるようになる。これはどういうことだろうか。Critical Period以降に獲得が困難になるものとしてまず挙げられるのは発音である。それに加えて、自然な形での文法の獲得。この二つが最も困難なものであるらしい。発音に関しては、身にしみて納得がいく。文法に関しては、文法を理論化することによって獲得可能であるから、第一言語がそのレベルに達しているのであれば、それを道具として多少苦労はしても覚えられると思う。ただしそのようにして獲得した文法は会話の中ではそうスムーズには使えないのだが...。

 

このように考えると、7thグレードで外国語の学習を始めるということは、バイリンガルを育てるここと別物であることがわかる。これは日本においても同様である。この言語の学習するということと、バイリンガルを育てることとが、まったく別物であるという認識が果たして日本の社会においてあるのであろうか。英語が話せるということ、英語を道具として使うということこれは同じではない。子どもが英語を話せるようになったからといってそれで学習したり、仕事をしたりできると思うのも間違いなら、日本語が100パーセント完成してから英語を言語として獲得しようと思うことも間違いである。もちろん学習によってある程度の会話もできるようにはなる。言語を習得するという意味においては不可能ではない。

 

しかし、英語環境に身をおくことなく、学習のみで、たとえ日常会話程度とはいえ社会生活に支障がない程度にまで会話力を上げることは難しい。日本に住んでいても低学年からアメリカンスクールやインターナショナルスクールに通い、毎日英語で考え、英語で学ぶ生活をしていれば英語に関しては問題なく言語として獲得できるだろう。逆にアメリカに住んでいても全日校に通い、英語は英語の時間に学ぶだけでは社会で通用するような会話力を身につけることは難しい。全日校に数年通っている子どもと、現地校に半年しか通っていない子どもを比べると、全日校に通っている子どものほうが英語に関する知識は豊富かもしれない。

 

しかしたとえ単語だけの会話でも、文法が整っていなくても現地校に通って間もない子どものほうがアメリカ人とのコミニケーションはとれると思う。その子どもにとって英語でコミ二ケーションがとれないということは死活問題なのだ。中島和子(トロント大学教授)はカナダのイマージョン教育を参考に、全日校で教科学習の一部を現地語で行うことができるなら、日本語も保持し、質の高い異文化体験をお土産に帰国することができるのではないかといっているが、言語の学習ということから、その言語を道具として活用できるようにするということへの発想の転換と言う意味で良い考えだと思う。

 

英語獲得の過程

 

英語環境におかれた子どもの英語獲得の過程として中島和子は「文法的に正確な英語を話すようになるには時間がかかります。大きなルールを先取りし、だんだんに細かいルールに分化していきます。例えば、まずplaying,次にplaysplayedという具合です。」と言っている。実はこれは英語を母国語とする子どもの言葉の発達段階と同じなのだ。

 

アメリカ人といえども、生まれたときから英語が話せるわけではない。語彙も徐々に増えていくし、文法も少しずつ完成していく。Critical Period以前の年齢の子どもが日本からの転勤でいきなり英語環境におかれた場合は、アメリカ人の子どもが英語を獲得していくのと同じ過程で英語を獲得していくということだ。通常アメリカ人の子どもが文法的に大人とほぼ同じレベルになるのは6歳から8歳いくらいといわれている。つまり小学校に上がる時期にはほぼ完成されているとみてよい。

 

その中で英語を母国語としない子どもは、アメリカ人の幼児期の段階からスタートするわけなので、大変と言えば大変である。しかしその自然の摂理にかなった発達の段階を踏むことによって、言語は習得ではなく獲得されてゆくのだと思う。

 

発音に関しても、Cooingという生後6週間目くらいに始まるいわゆる「バブバブ」以前の段階から既に赤ん坊は親の発音を聞いているそうで、言語によって異なる発音形態を身につけていくということだが、Critical Periodに至るまでの段階で、年齢が低いほど、発音に関する認知力は高いということだと思う。また、自分で発音できるということと、正確に発音が聞き取れるということは表裏一体である。これも学習で習得をするには限界がある。

 

このように考えていくと、バイリンガルの要素とは、もちろん二言語のどちらでもコミ二ケーションがとれるということではあるが、それは「きちんとした文法」とか、「語彙が十分である」とかの問題よりも、たとえ単語レベルであっても、文法が不完全であっても、native speakerがよりよく理解できる言葉を話す人ということになる。なぜなら、大人は幼児の言葉を理解できるのであるから。そして母語の文法的な完成が6歳から8歳ということを考えれば、先の例でバイリンガル教育に成功したと言っていることも理解できる。学習だけでは決して獲得できないものをバイリンガルの子どもは獲得しているのだと思う。読み書きのレベルが大人並になるのは小学校高学年以上とすると、やはりバイリテラシーとは区別すべきなのだろう。

 

 

アメリカにおけるBilingual Education

 アメリカのbilingual educationは、ヒスパニック系の人々の叫びによって1960年代に黒人の市民権獲得運動と共に始まった。彼らは母国語で教育を受ける権利を主張し、英語のみで指導する学校を閉鎖的だと言い放った。スパニッシュが英語よりも劣る言葉であるはずはない。英語を使うように強制することは差別に当たる。というのが彼らの主張だった。実際現在ではアメリカ国内においてスパニッシュを母国語とする人口は爆発的に増えている。余談であるが、スパングリッシュという言葉がある。日本人もジャパングリッシュという言葉を使うが、これは「日本人の下手な英語」という意味合がある。しかし、スパングリッシュは今や市民権を得た言語なのである。スパニッシュでも英語でもないスパングリッシュのラジオ番組もあるらしい。このようなエネルギーとプライドを持った主張によってはじまったアメリカのbilingual educationは日本人が考えるものとは少し違うと思う。「英語ができないからバイリンガルのクラスに入れてもらう、もしくは入らざるをえない」というものではなかったのである。自分の国の言葉で教育を受ける権利を堂々と主張する。それが本来のアメリカのbilingual educationであったのだ。

アメリカではさまざまな国からの移民の増加に伴い、日々Bilingual Educationの研究がなされている。現在の主な考え方は、「移行型バイリンガル教育(transitional bilingual education)」(英語獲得の手段として、一時的母語教育を行う)、「維持型バイリンガル教育(maintenance bilingual education)」(英語の習得と同時に母語の伸張保持をはかる)、および「双方向型バイリンガル教育(tow―way bilingual education)」(両言語を教育言語として用いることによって、二つの言語能力をともに高める)という三種類に分けられる。このほか、カナダから入ってきた「イマージョンバイリンガル教育(immersion bilingual education)」がある。これは英語を母語とする子どもたちの第二言語獲得をめざして、英語と第二言語の教育を組み合わせて授業を行うプログラムである。カナダのイマ―ジョンスクールでは、教科によって母語または英語で授業を行っている。(理論的なものは英語、感性的なものは母語) これは語学学習ではない。あくまでもその言語を介して何かを学ぶ、本来の意味での言語獲得のための学習である。そのような意味では、「週1日だけでも日本語を学習言語として使う補習校は週末イマージョン教育とよぶことができる」と中島和子は述べている。

アメリカのほとんどの州では「移行型バイリンガル教育」が一般的であり、できるだけ早く通常のクラスでの学習を可能にすることを目的にしている。このほか最近では「維持型バイリンガル教育」や連邦政府の補助を受けた「双方向型バイリンガル教育」を試みている学区または学校もあるようだ。イリノイでは、各学校に20名以上の同じ言語を母語とするLEP児(英語能力が劣っている児童)が在籍する場合、バイリンガルの実施が義務づけられるとともに、ESLプログラムの実施、アメリカと出身国の両方の文化を教えること、このクラスには原則3年間在籍できること、バイリンガル教育を行う教師は専門の資格を有すること、等が州の法律で定められている。このようにバイリンガル教師の資格を設け、きちんとした知識を持った教師を養成することによって、ただ単に英語を教え込むというだけではなく、子どものアイデンティティーや、母国の文化の尊重、精神的なケアも含めてよりよい教育が行われるように考えられている。

アメリカで活躍する日本人バイリンガル教師の中にもきちんと勉強している人たちが増えてきて、「知識はどちらの言葉で入れても同じ。後にそれぞれの言語が完成すれば、知識はトランスレートできる。」ということを前提に、言語を伸ばすだけでなく、精神面のケアも含めた、より高度な学習ができるような授業を行っているクラスもある。バイリンガルのクラスは隔離された閉鎖空間だとか、一刻も早くそこを脱出すべき単なるつなぎのクラスという認識は改めていったほうがよいと思う。ただし、実際質がよくないクラスもあるようなので、どのようにすれば子どもたちがよりよく学べるかを考え、親が学校と連携することも大切だと思う。私がいる15区の中だけでさえ、ESLのレベルや、生徒に対する待遇、学校の考え方などさまざまなように見受ける。ただし、アメリカの学校は親からの働きかけを重要視しているので、親が積極的に学校とのかかわりを持ち、その上で必要に応じて要求すべきことは要求していくべきだと思う。じっさい息子が通う学校では、日本人の親で、何らかのボランティアにかかわったことがないという人はほとんどいないというくらいみんな活発に活動しているし、PTAの役員の中にも日本人が何人かいる。学校もその努力を認めてくれており、ESLも充実しているし、必要に応じてそのほかに発音矯正の先生や、リーディング強化の先生(それも何種類かのコースがあって、その児童が弱い部分、語彙の不足、読解、基礎などを集中的に補ってくれる)をつけてくれるし、来米したばかりで不安定な子どもには、親ともどもカウンセリングを行ってくれるなど至れり尽せりである。親が学校とコミニケーションをとりやすくするためにと、ハーパーカレッジから講師を招いて、parents専用のプログラムによる親向けのESLクラスも無料で開講してくれることになった。ディストリクトが金銭面の補助をしてくれるということである。これは親と学校と連携が非常にうまくいった例だと思う。

 

アメリカ在住の日本人と他の国から来た人々

これは実際の教育現場を見ての話なのだが、15学校区にあるニューカマーセンターで、毎日午後日本人を含めた英語を母国語としない子どもたちがESLの授業を受けている間、ヒスパニック系の子どもたちはバイリンガルの授業を受けている。そこのクラスでは、スパニッシュを使って英語の学習するだけではなく、スパニッシュの読み書きを指導しているというので、びっくりしたことがある。「なぜ?」という私の問いに返ってきた説明によると「ここにいる子どもたちの中には、ここに来て初めて学校へ通うことができるようになった子どももいる。そういう子どもは話すことはできても読み書きができない。現地校へ移動してバイリンガルのクラスに入ってもそれではついていけない。だからスパニッシュの読み書きを教えるのだ」ということであった。 学校へ行っていなかったというのは、もちろん就学年齢に達していなかったからという意味ではない。そのような子どもたちの中には小学校中学年以上の子どもたちもいるのである。英語にしても、日本人の子どもたちは日本から辞書を持参し、(最近は高価な電子辞書を使っている子どもも多い) それがよいと聞けばカセットつきの本や、ペンでなぞると英語を発音してくれる本を買い与えられ、宿題もテストもできなかったら一大事とばかりに親が必死で手伝う(私もやりました)。スパニッシュのクラスにボランティアで入っていた友人が、「あの子達はこれから英語を学ばなければいけないというのに、家には英語の本の1冊も、英語の新聞も、辞書も何もないって言うの。私はそれを聞いて悲しかった。」と言ったことがある。日本の子供との大きな違いを見せ付けられて、私はショックを受けたが、私同様このようなことに思い及ばない日本人は多いと思う。

そのようなヒスパニックの子どもたちもアメリカ生活が長くなれば英語が強い言葉になる。家庭に本や辞書もなく、(英語の本だけではなくスパニッシュの本もあまりないらしい)親も忙しくて、学校の勉強のことなどかまっていられない。もちろん補習校もない。親といるより友だちといる時間のほうが長くなり、子どもたちは母国語を忘れていく。生活のために働くことが精一杯で英語など勉強する暇もない親たちは取り残され、コミニケーションがとれなくなるという。「日本人は母親が家にいるし、家庭では日本語をきちんと使っているし、補習校へ通っている子どもも多い。日本語に関して心配することはあまりないのじゃない?」とESLの先生達は言う。やれ漢字が書けなくなってきた、文章題が解けなくなってきた、日本にいる子どもたちと差がついた、とあわてふためく日本人はなんて贅沢なのだろうとつくづく思う。日本人にしてみれば、日本へ帰国したとき日本の受験戦争についていけないということはとても深刻な問題なのだろうが、いろいろな国の子どもたちを預かるESLの先生にしてみれば日本人が悩んでいることより、もっと深刻な問題を抱えている子どもたちがたくさんいるということなのだと思う。英語もまだちゃんとできるわけではないのに、漢字の読み書きができない、数学の文章題が理解できない、時々日本語としてはおかしな表現をするという程度では、決してセミリンガルなどといえる状態ではないはずなのだが...。まして、日本の入試の読解ができない、漢字や言葉が難解で漱石や芥川が読めない、尊敬語や丁寧語が使えないことがセミリンガルと関係があると思うなどは問題外である。

 

日本人の考え方

確かに圧倒的に永住者が多い他の国からの移民と、駐在の日本人とでは立場が異なる。少なくとも一つはその言語で思考し、自分の言いたいことを的確に表現できる言葉が必要なのは誰にとってもかわらない。永住すればそこの国の言葉が強い言語になっていくのは当然だが、日本人のように何年かアメリカに滞在して日本に帰らなくてはならない場合、短い期間で英語を獲得することも難しいし、その間に日本語力が落ちてゆくのも確かである。特に4〜8歳の言語形成期前半に、ことばを道具として使うことを覚え、ことばそのものの基礎ができるため、この時期に母語をしっかりと身につけておくことは大切なのだそうである。もちろん生まれたときからバイリンガルの環境で育っているのであれば、両方のことばが母語になるので、両方の基礎ができていかなければいけないということになる。低年齢の子どもの場合、周囲がかなり気をつけて努力していかなければならない。「話しかけ」や「話し合い」、「読み聞かせ」などが大切であると言われている。

 

また、バイリテラシーの見地から考えると、日本語の読み書きができるようになってからのほうが、英語の読解力が現地の子のレベルと同じラインに到達するのに要する時間は短いと言う調査結果が出ている。ただし、たとえ時間が少し余分にかかったとしても、きちんと学習を続けていけば低年齢で異言語環境に入った子どもも同じように現地の子に追いつくことができるというのも、また調査結果の中に表れている。年齢で言うと9歳以前後で海外に出る子どもが一番その期間は短いようだ。

 

中島和子は「セミリンガル現象―幼児事の場合」の中で、語彙テストの結果を元にした警告として「海外子女は、一歩間違えばセミリンガルになる危険性をいつも持っているといえます。それどころか、現に帰国子女の中に多くのセミリンガルがいるのです。時として親や本人も自分がセミリンガルであると気づいていない場合があるばかりか、その主たる原因が海外での年齢を考慮しなかった学習言語の選択にあることも気づいていません。...他人事ではありません。どの海外在住子女も、セミリンガルになる可能性があります」を例にあげて、「確かに海外在住子女は、どの子も一時的に『セミリンガル的現象』を持つ可能性があります。しかし、それを語彙テストだけで決定するのは危険ですし、また学校で学習する言語の選択と言っても、多くの子どもにとっては、選択の余地がないのが海外在住の悩みです。また、モノリンガルにも個人差があるように、バイリンガルにも個人差があるわけで、バイリンガルというととどうしても学年平均に達していなければいけないと言うのも問題です。」と言っている。

 

私自身も、出国する直前子供の教科書をとりに行ったときから、現在に至るまで同じような警告を何度となく聞いた。逆に、アメリカ駐在がわが身に降りかかってくる以前、私が聞いていたのは「英語が話せるような教育を」、「教育のグローバル化」「国際社会で通用するような人間を育てる」という文部省のかけ声であった。何か納得のいかないものをずっと感じていたが、ここに来ていろいろと学ぶうちに日本の教育関係者の考え方、帰国子女受け入れの側に問題があるのではないかと気がついた。

小学校からの英語教育が始まり、中学生の英語の教科書は会話主体のものが増え帰国子女を受け入れる学校も増えてきている。しかし小学校から週に何回かネイティブに英語の授業を受けたからと言って、それだけで英語を話せるようになるとは私にはとても思えない。また、言語と言うのはその国の文化と密接なかかわりを持っている。本当に国際社会に通用する人間を育てたいと考えるのであれば、どうして外国で生活し、外国の言葉や文化を身につけてきた子どもをより前向きに受け入れ、その力を活用すべく考えることができないのであろうか。帰国子女の受け入れに関して年々環境が整ってきていることは認める。一部の帰国子女受け入れ専門校では、本当にすばらしいカリキュラムのもと、帰国子女教育に熱心な先生方が熱心な指導をされている。

 

しかし、一般の学校ではまだまだ教師も勉強不足だし、専門の教員の配置もない。先に述べてきたように、日本では得られない「発音」など本当にバイリンガルになるための要素を身につけながら、滞在期間が短かったためにセミリンガル状態を脱しきれない子どもたちの、「遅れてしまった日本語を効率よく取り戻すためのカリキュラム」、「英語能力の完成のためのカリキュラムなどの特別な教育体制」を用意することなく、とりあえず日本の教育の枠の中に戻そうとするだけの受け入れ態勢はあまりにもお粗末ではないか。そのことには触れず、「セミリンガルになると取り返しがつかないから...」ということを繰り返し親に吹き込むのはずいぶんひどい話だと思う。

 

中島和子氏が「子どものセミリンガルは成人のものとは区別し、一時的セミリンガル状態と表現する」といっていたことは先にも述べたが、その一時的を一時的でなくしてしまうところに大きな問題がありはしないだろうか。セミリンガルという言葉はもともとスカンジナビアの学者が使い始めた言葉だと言うことだが、現在それを、これほどよく使っている国は日本以外世界でも例がないのではないかと思う。ところがこのセミリンガルの問題は、帰国子女に対して使われるよりももっと深刻な問題としてやはり日本国内にあるのである。

 

 

 日本におけるバイリンガル教育

 

 日本は島国なので、アメリカのように移民が多いということもなければ、ヨーロッパのように言語が違う国どうし簡単にいったり来たりできる状況でもなかった。そのため日本の学校教育において、外国の生徒をどのように教育するかということに関しては今までほとんど考えてこられなかったといってよいであろう。

 

 しかし、現在はアジアの各地から仕事のために日本へ来る外国人の割合は日に日に増えている。それにともない就学する子どもも増えているわけだが、アメリカのようにバイリンガルのクラスを設けたり専門の資格をもつ教師を養成したりするところまではとてもいかない。さいわいまだ人数が少ないので、もしそのような子どもがクラスにはいってきても、クラスの子どもたちも面倒を見てあげたがるし、教師も手がかけられるので日本語環境になじむという点ではそれほど問題はなさそうに見える。

 

 しかし、先にも述べたように会話能力と、学習言語の能力は必ずしも一致しない。特に学年があがるほど学習内容が複雑になるので、滞日2〜3年で日本の学習レベルについていくのは困難である。そこへきて日本語の会話能力がつくにしたがい母語の能力が落ちていく。親との会話が難しくなっていく場合もある。しかし現在の日本にはそれらの子どもたちを救う手立てはほとんどないのである。ようやくそのことに気がつき、研究が始まったばかりである。

 

 杉田洋は、「母語での教育が第二言語による教科学習の基礎となり、それが助けとなる可能性」があることを指摘している。しかし日本では海外子女に対して日本語維持を奨励することとは裏腹に、まだその指摘でさえ一般的どころか教育現場においてさえほとんど知られていないのではないかと思う。佐藤郡衛は「日本では、言語教育の目標が明確になっていないが、単に日本語教育のみを課す現状の体制では、日本語も母語も中途半端なセミリンガルが増加していくことは必至である。」と述べている。

 

 以上、ごく簡単にではあるが日本における在日外国人子女向けの教育に関してまとめてみたが、ここで明らかなことは、日本における在日外国人子女教育の遅れと、帰国子女教育の遅れは元を正せば同じものであるということである。それをまとめて「国際理解教育」「異文化間教育」などといっているが、その言葉自体まだ新しい。これからその分野での研究が進んでいくことを私は望んでいるが、そのために海外に派遣されてくる教師は自分がそのことに深くかかわっているという認識を持ってほしいと思っている。「海外生活を体験し、日本人の生徒に日本にいるのと同じ水準の教育し、休みの日にその国の文化などに触れる。」それだけで国際理解教育の一端を担ったと考えるのはどうであろうか。先に述べたように、帰国子女受け入れ専門校以外の学校では、本当に帰国子女教育な対する認識の度合いが低い。それなのに海外に派遣されてくる教師のほとんどはその一般校から来るのだし、一般校へ戻るのである。全日校という日本の学校とほとんど変わらない環境で学んだ子どもたちに関する知識しかなければ、本来の意味での帰国子女教育には程遠いということになるだろう。現地校との国際交流があるといわれるかもしれないが、そのくらいではとても現地のことは把握できないと思う。

 

 特にここアメリカ、特にここシカゴにおいては、バイリンガル教育や、国際理解教育の手本や参考となるものが山ほどあると思う。海外から来たばかりの子どもたちを受け入れるESL専門校ニューカマーセンターの先生たちがどのような仕事をし、日本人の子どものどのような点を問題と考えているか。カルチャーショックを受けている子どもの精神面のケアと同時に、現状を理解させ、どのように順応させてゆくか。そのためにどのようなスタッフが仕事をしているか。現地校ESLクラスで多くの日本人を教えている先生の考え方やその資格がどのような意味を持っているか。ESLの教師に課せられている指導要項はどのようなものなのか。日本人の子どもたちのためにどのような配慮がされているかなど知るべきことはたくさんあると思う。

 

 また、ESL教師と親のためのミーティングが定期的にもたれ、その中で親に対してどのように子どもをヘルプすればよいか、気をつけなければいけないことなど、そのつど指導してくれること。親からの要望や意見をきちんと聞いてくれること。ビデオなどもいろいろ用意されており、必要に応じて貸し出してくれること(以上15区)などや、ESLの子ども達のために、日本語英語併記の絵本を作る作業がESL教師の提案により親たちの手で進められている学校(ホワイトリー)があることなども知ってほしいと思うし、もし知っているのであれば、興味を持ってほしいと思う。補習校に派遣されて来る教師の数は少ない。そのような意味では、全日校に派遣されてくる教師も海外子女教育だけを仕事と考えずに、帰国子女教育の責任の一端も担っていることを自覚し、学ぶべきことがあれば学んでいくという姿勢が必要だと思う。

 

終わり

 

 

参考文献

* 『言葉と教育』  中島和子

     『国際化と教育』 佐藤郡衛

     『国際理解教育』 佐藤郡衛

     『グローバル化時代の教育』 坂田直三

     『二言語教育とその支援に関する調査研究』 杉田洋、他

     Richard Rodriguez: Bilingual Education: Outdated and Unrealistic

     Stephen J. Caldas and Suzanne Caeon-Caldas: Rearing Bilingual Children in a Monolingual Culture: A Louisiana Experience

     George A. Miller and Patricia M. Gildea: How Children Learn Words

     Victoria Fromkin, Stephen Krashen, Susan Curitiss David Rigler, and Marilyn Rigler: The Development of Language in Genie: A Case of Language Acquisition beyond the Critical Period

* Lizette AlvarezIts the Talk of Nueva York: The Hybird Called Spanglish     

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