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    <title>Dr.小林のファミリー心理学</title>
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    <updated>2008-05-05T18:27:23Z</updated>
    <subtitle>Dr. 小林はカリフォルニア・トーレスにて1985年開業以来、こどもから大人まで、様々な心のケアを行ってきた心理学者です。特にアメリカに住む日本人心理学者というユニークな立場から日系コミュニティーにおける文化適応やアイデンティティーの問題などに尽力されてきました。その傍ら１９９０年から８回にわたって、日本から心理学系の教授や大学院生、産業カウンセラー等を対象にUCLAにて日米心理セミナーを行っています。
Dr. Kobayashi      23505 Crenshaw Bl., #220, Torrance, CA 90505     Phone: 310-257-9486</subtitle>
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    <title>第3の自己</title>
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    <published>2008-05-05T18:14:12Z</published>
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    <summary>「結婚は二人の道徳をもとにした、第三の道徳を必要とする。」（Dr. 小林の生活の...</summary>
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        <![CDATA[「結婚は二人の道徳をもとにした、第三の道徳を必要とする。」（Dr. 小林の生活の心理学、2001年12月15日号、<a href="http://www.sweetnet.com/marriage.htm">結婚の10条＋１</a>）

自分か相手か、と言う葛藤は、解決がなく永遠と続くかのようです。自分を立てれば相手が倒れ、相手を立てれば自分が救われない状態ってよくあると思いませんか。もう少しよく見つめてみると、自分の欲求を通そうとすると、相手が怒ったり、または無視をすることによって、傷つけたり迷惑をかけたりしてしまいます。その代わり、相手に合わせていては、自分の好きなことができません。欲求不満がたまります。

しかしながら、ここでいう自分とは、いったい何のことなのでしょう。

欲求が自分の現れであることは確かです。欲求を現すことによって、自分と相手との境目がはっきりしてきます。自分の欲求と相手の欲求が異なるからです。それに付け加えて、自分の考え方、自分の何かに対する気持ち、自分の想像なども自分に含まれています。これらは自分が一人でいる時によりはっきりと経験できます。でも、誰かと一緒にいるときには、相手に対する考慮が働くため、一時的に自分の特徴がはっきり見えないときもあるでしょう。

これらの欲求を持って誰かと接したとき、自分の欲求を丸出しにしては、相手に受け入れられないと思いながら、私達は相手に合わせて人間関係を続けていくことを学びます。すなわち、ある程度自分を抑えたり、我慢をしたりしながら、付き合いをしていきます。

日常一般的な人間関係ではそれでよさそうですが、もっと近い人間関係では、そのように続けていくのはたいへんです。結婚関係を例にとって見てみますと、最初のうちは相手に嫌われることに関して敏感ですから、お互いに譲り合いが多く、自分の欲求や本当の姿を見せません。ところが時間が経つにつれて、次第に遠慮も減り、本音の表現が多くなっていきます。

そこでよくあることは、相手が自分の欲求に対応してくれないので、怒って喧嘩になったりします。確かにハネムーン後の若い夫婦は、喧嘩が多いです。それまでどっちかと言うと、お互いに同じところ、相手のよいところに焦点がいっていたのに、しばらくの同居生活の結果、違いが明るみに出てき、相手が期待はずれの行動をするのに気が付いて、がっかりしたり喧嘩をしたりします。

でも、面白いことに、しばらくすると、喧嘩が減って仲良くなる夫婦もいるではないですか。いったいこれは何が起こったのでしょう。

喧嘩は必ずしも必要ではないのですが、お互いが本音で接することが十分存在すると、夫婦の間に分かち合える経験、もしくは現実がおこります。2人が本音同士で向き合い存在し、何かをするときに、2人とも同じ現実を経験することができます。その経験はそれまで一人ではできなかった、新しい経験です。これが何回も繰り返されて、2人だけが解る、そして2人だけが分かち合える、現実が生まれてくるのです。

この新しい現実、相手の物だけでなく、自分の物だけでもない、2人が共有する第3の現実は、自分達のアイデンティティーの一部となって発展していきます。今まで、相手との違いがあるために、フラストになったり、失望したりする代わりに、2人とも第3の現実、共通点から物事を理解して行動ができるようになります。]]>
        
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    <title>怒る愛</title>
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    <published>2008-04-03T14:19:36Z</published>
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    <summary>愛する人に対して怒ることは、多かれ少なかれ起こります。愛しているからといって、喧...</summary>
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        <![CDATA[<img alt="kenka.jpg" src="http://www.sweetnet.com/shinri/kenka.jpg" width="150" height="107" hspace="10" align="left" />愛する人に対して怒ることは、多かれ少なかれ起こります。愛しているからといって、喧嘩をしないわけではありません。それが夫婦関係であろうが、恋人関係であろうが同じです。

不思議なことに、怒りが始まってしまうと、簡単にはやめられない時があります。愛している人に対して怒りが続きます。それで嫌なことを言ったり、悪いことをしてしまったりします。いやいやしているのではなく、欲求があって、相手を傷つけるようともします。相手を愛しているのに、なぜそんなことをしてしまうのでしょう。

この怒りを説明するのに、心理学では一昔、「死の本能」 (death instinct, thanatos)と言う基本的なモーティベーションを唱えました。そこでは、人間には愛と死の力が根本的なことろにあって、愛が人々を寄せ合う力に対して、死の本能は、命を破壊する力で、人々を避け離すだけでなく、自分や他人を破壊するモーティベーションであると言うのです。

この考え方で誤解し易いことは、愛と死の本能は、正反対ですので別々に作用し、同時に作用することはないと思ってしまうことです。すなわち、愛する相手に怒りが向いた時、死の本能だけが働いているので、相手を破壊したいのは当たり前のこと、その上、相手から離れる力が働くはずです。怒っているときに、「あなたなんか見たくもない」という例があるように、死の本能によって相手に距離を置くか、去ってしまうかすると考えがちです。ところが、実際にはそのようなことにはならず、怒りながら、相手をアタックすることを、楽しん（？）だり、心の中で相手のことを考え続けたりし、相手から離れてしまうというわけでは、決してありません。

ということは、表面的には怒りで見えなくなってはいるものの、相手にくっ付いてしまう力が働いているようです。すなわち、愛の力が消えたわけではありません。２人を寄せあう力が働くと同時に、破壊する感情＝怒りが隣同士に存在していると言ったほうが正しいでしょう。ですから、引き付ける力と裂き離す力が共存し、非常にテンションの高い状態になっています。愛だけ存在するときの、穏和な状態ではなく、それを乱す作用も働いているので、愛の力は怒りに反動し、より強い状態に転化します。この愛情の強さが、いわゆる愛する相手に対する怒りの魅力とまでなっていきます。怒る愛は、強く、魅力的だということになるのでしょうか。

臨床的によくあることで、日常も経験することですが、今まで好きだった人に対して怒り、それが進んで憎悪にまで発展し、自分にとっても相手にとってもためにならないのは理解してはいるものの、それをやめることができない状態があります。このような時に、怒りの愛の強さと魅力を感じます。怒る本人は、何故かひきつけられたように、やめられません。心の根底に存在する相手に対する愛情と、相手への依存からくる欲求が相手を放しません。

一方、怒りをぶつけられた相手は、その怒りの捌け口として、黙って入れ物のように使われるのはいやですから、反動的に自分を守り、相手に怒りを返します。よって、その人も相手の破壊に走ってしまいますが、それと同時に、愛が相手を完全に破壊させませんし、相手から離させません。それで、怒りのやりとりがサイクルのように、継続してしまいます。

はたして怒る愛の人間関係は終わることがあるのでしょうか。人によっては、人格形成上、死の本能に基づく怒りが強すぎて、関係を破壊してしまうときがあります。または、死の本能を愛が中性化することができ、怒りが治まって、以前の平穏な建設的な人間関係に戻ることもあるでしょう。怒りは火に油を注ぐようなことをしなければ、時間と共に自然消滅します。また、セラピストを一時的貯蔵庫として使い、怒りの吐き出しをしても、それが減ります。怒りが減ったところで、相手の悪化されたイメージを、良い点を思い出しながら中性化することで、愛情のある関係が戻ります。 

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    <title>宇宙はあるのか、それともアインシュタインの想像か </title>
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    <published>2008-02-06T14:25:36Z</published>
    <updated>2008-02-06T14:31:07Z</updated>
    
    <summary>アインシュタインがこの世を去ってから、もうすでに半世紀以上経っています。過去50...</summary>
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        アインシュタインがこの世を去ってから、もうすでに半世紀以上経っています。過去50年といえば、すさまじい量のテクノロジーの発展を見ました。特にその後半は、コンピューターとインターネットによる世界的革命があり、私達の生活は大きく変わりました。

にもかかわらず、アインシュタインが発見した公式E = mc2をくつがえすような偉大な発見は未だ存在しません。こんなに簡単な公式の中に、宇宙の秘密が隠されているなんて、想像もつきませんし、その簡素には、アインシュタイン自身にも感銘を与えました。

アインシュタインの巧妙さは、それまでの観点から脱出することにあったのです。ある物体が自分に迫ってきたら、アインシュタインはそれを自分が物体に迫っていくのと同じであるという相対的な考えをしました。エレベーターを吊っているロープが切れたら、中にいる人は、エレベーターと共に落ちるというより、重力を感じなくなると見たんです。確かに、地上に立っていれば、地球の重力を感じますが、地球に向かって落ちる人は、重力を感じません。

アインシュタインの重大な発見の一つは、動いているものを地上から見たとき、例えば宇宙を旅する宇宙船の中では、光がゆっくり動くということでした。しかしながら、アインシュタインはその当時、光の速度は一定であると、信じていたのです。光の速度が一定なのに、宇宙船の中では光がゆっくり動くという観察をしたとき、彼は、光の速度は変わっていないが、時間がゆっくりになっているのだと、考えたのです。つまり、動いている宇宙船の中では、時間がゆっくり動いていて、そのために、光もゆっくり動くと考えました。それまで時間は一定の速度で動いているものであると、信じていたのが、彼の考えによって、「時間の速度はその場による」ということになってしまいました。

アインシュタインはこのようにして、宇宙の法則を発見していくのだと、この世を去る日まで努力をし続けました。その前提には、真実は私たちとは別に、この世の中にあるということ、そしてそれを一つ一つ発見していくことが、物理学者としての仕事であると信じていたからです。

アインシュタインが相対性理論を発見してまもなく、quantum mechanics theoryクウォンタム　メカニックスというのが発表されました。アインシュタインはこの理論を最後まで受け入れられませんでした。その理由は、この理論によると、観察されるもの、例えば、物体の動きは、観察者を定義することによって、決定するというのです。何ですって？観察者を定義しないと、観察されるものはないのでしょうか。

アインシュタインの基礎前提は、「現実は自分の外に、独立して存在する」というものです。Quantum mechanics theoryによって、その現実が、自分の主観の定義に基づくものであるというならば、彼が発見した相対性理論は、自らの想像でしかないという可能性が出てくるではないですか。このような理屈は、彼は最後まで受け入れませんでした。

でも、心理学では、主観が現実を決定するということは、ごく当たり前と言ってよいくらい、受け入れられています。あなたの存在は、私によって生まれてきますし、私の存在は、あなたが作り上げるものです。あなたの主観と私の主観が合体し、第３の主観を作り上げ、そこにユニークな現実を作り上げるということは、かなり常識化した心理学の知識です。

アインシュタインの相対性理論は、宇宙の現実を説明するもので、その規則がそこに存在するのでしょうか。それとも、アインシュタインが相対性的に考えることが、宇宙を理解するのに便利だからでしょうか。それとも、アインシュタインの相対性的考えが、私達の知る宇宙を作り上げたのでしょうか。更に、何年か後に、次の天才が、宇宙の原理をもっとよく説明する公式を考え出し、私達の宇宙のイメージがまた変わるのでしょうか。

        
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    <title>自分が他の人と違うとき</title>
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    <published>2008-01-03T13:40:23Z</published>
    <updated>2008-01-03T13:45:38Z</updated>
    
    <summary>1) 他の人とのやりとりで、相手が自分とどう違うかに着目しましょう。  2) 他...</summary>
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        <![CDATA[<strong>1) 他の人とのやりとりで、相手が自分とどう違うかに着目しましょう。 

2) 他の人の反対意見や違った意見を、自然であると思えるようにしましょう。 </strong>
結婚の初期には、お互いに賛成することが多いです。というか、相違点を作らないように努めます。それは二人の人間関係を発達させるために必要なことなのでしょう。相手の興味がある事柄に、自分からも興味を持つようにします。そのため、お互いのやりとりで、よいムードを作るのが簡単です。 

結婚も何年か続きますと、礼儀や相手に合わせることが減ってきて、相手と自分の違いがはっきりしてきます。そのために争いをしたり、がっかりしたり、自分の本音を隠したりします。相手との相違点はどちらかというと、厄介なものになります。

結婚関係を一つの例としてあげましたが、ある程度継続する人間関係では似たようなことが起こります。職場の関係、近所付き合い、友情関係、不倫関係、そして、いろいろな場面での上下関係でも、最初は明らかでないのですが、時が経つにつれて、相違点が明るみになり、問題につながるようなことが起こります。

どっちかというと、私達は相手が同じような考えや気持ちでいると思い込みがちです。というか、同じようであることを願っているようです。確かに、こちらと相手が同じ考えや欲求を持っていたら、やりやすいでしょう。人々の葛藤が減るでしょうし、意見調整などという面倒がはぶけて都合がよいです。 

「よく説明すればきっと解ってくれる。」「愛しているんだから、きっと気持ちは伝わるだろう。」と信じることは、多分にありますが、その根底には、「<strong>人は皆、同じように感じて考え、同じようなことを大切にするでしょう」</strong>という<strong>仮定</strong>が潜んでいるわけです。 

でも、この<strong>仮定</strong>は本当に合っているのでしょうか。私達の日ごろの人間関係を観察してみますと、同じであると見せかけている方が多いように思えます。礼儀は気持ちを隠します。私達が人と会うたびに礼儀なしで本当の気持ちを出していたら、もっと肝心なやり取りができなくなってしまいます。また、私達は人に嫌われないために、人から反対を得ないために、本音を言わずに相手に合わせることをよくします。 

根本的なところで、人は自分の観点から離れることはできません。例え、相手の立場をとったとしても、本当は自分からみた相手の立場の想像でしかありません。そして、自分の立場はこの世に唯一つだけ存在します。それは、まさにユニークで、他の人と共有ができません。そして、私達が相手のユニークな立場に割り込むことも決してできません。その個々のユニークな立場から物を見、経験をしてきたのですから、自分の世界の理解は、他の人のそれと同じはずがないのです。 

と言うことは<strong>、「人は皆、同じように感じて考え、同じようなことを大切にするでしょう」</strong>という<strong>仮定</strong>よりも<strong>、「人は個々、違うことを感じて考え、違うことを大切にするでしょう」</strong>と<strong>仮定</strong>したほうが、より正確かもしれません。そうであるならば、自分が相手と違う意見を表現するのがあたりまえになりますし、相手と違うことが基本ですから、お互いの相違を尊重することを習うことができるでしょう。]]>
        
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    <title>自分が自分を攻撃（自己免疫疾患）</title>
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    <published>2007-12-06T13:53:15Z</published>
    <updated>2007-12-06T13:54:03Z</updated>
    
    <summary>**新しい事を先入観なしで、オープンな気持ちで経験しましょう。 **日常の解り尽...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sweetnet.com/shinri/">
        **新しい事を先入観なしで、オープンな気持ちで経験しましょう。
**日常の解り尽くした事も、通常の判断をせずに、新鮮な気持ちで再体験しましょう。 

自己免疫疾患 autoimmune disorder と言う病気があります。そのリストには、150以上の病名が記してあります。日常耳にするこの種の病気には、リウマチ rheumatoid arthritis、多発性硬化症 multiple sclerosis、カワサキ病、皮膚炎 dermatitis、乾癬 psoriasis 等があります。これらの病気に共通することは、皆何らかの大きなストレスの結果発病すると言われていることです。

自己免疫疾患の原理を考えて見ましょう。先ず、バクテリアやウィルスのようなばい菌が体に進入したとしましょう。体の組織はそれを守るために、抗体を作り外部から進入したばい菌と戦います。このようにして、ばい菌による発病を防ぐわけです。そこまでは良いのですが、今度はできた抗体が、体の一部を外部の進入物として間違え、それをアタックしてしまうのです。体が作り出した、病気に対して戦うための抗体が自分の体と戦いだしてしまいます。その結果どの体の部分をアタックするかによって、いろいろな病気になってしまうのです。

これらは身体面で起こる病気ですが、それに匹敵する、心理面で起きる自己免疫障害があると言っても不思議ではありません。

私たちは人に拒絶されたり、嫌われたり、去られたりすると、精神的なショックを感じます。ショックが大きければ大きいほど、その経験を２度としないように、いくつかの防衛をするようになります。

例えば、今後拒絶をされないように、一生懸命人に尽くすようになったり、人が恐くなって、人付き合いを避けるようになったりします。そうすることによって、拒絶をされることを防げることが解りますと、それを繰り返すことになり、知らずのうちに、人間関係の中でパターンとして固定していきます。ここまでは、丁度体を守る抗体が出来たかのように、危険なことに対して、心の準備が出来ている状態としてみることが出来るでしょう。すなわち心理的抗体ができました。

次に、その心理的抗体は他の人からのアタックを常に警戒しているわけですから、ちょっとでも以前のストレスと似たような状態が起こると、実際にはストレスは存在しないにもかかわらず、防衛を始めます。つまり、人を避けたり、攻撃を始めたりするようになります。それと同時に、心も体もストレス時と同じように、反応しますから、ストレスが無いにも関わらず、心身にストレスがたまり、疲労をしていきます。他人からのアタックが無いにも関わらず、心身ともにまいってしまうのです。

心理的抗体の種類にはいろいろあります。相手のコントロールのしすぎ、謙遜のしすぎ、人に合わせすぎ、人の欠点の探しすぎ、人を疑いすぎ、そして、必要以上の完璧主義等があります。皆自分を守るためにするのですが、実際に新しい状況でそのような行動をする必要は無いときでも、一人相撲をとるかのように、一人でがんばってしまい、自分が一番ダメージを受けることになります。もちろん、そのように扱われた相手もあまり心地よくないことでしょう。
        
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    <title>浮気の心理的原因</title>
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    <published>2007-11-06T01:29:37Z</published>
    <updated>2007-11-06T01:30:58Z</updated>
    
    <summary>浮気ってかなり多そうな感じがします。テレビや映画ドラマを見てもその話題を扱うこと...</summary>
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        浮気ってかなり多そうな感じがします。テレビや映画ドラマを見てもその話題を扱うことは頻繁にありますし、周りの「ゴシップ」を聞いてもかなり伝わってきます。私がセラピーで結婚問題や離婚の相談を受けることがありますが、過半数は浮気の問題が含まれています。結婚問題の相談をされたとき、浮気の有無に関して質問をしなければ、セラピストの落ちとみなしてよいくらいでしょう。 

さて、男女がお互いを選択し、「カップル」となってつながりますと、必ずしも選択されなかった男女が存在します。その「三番目」の人物が実存するか否かは、どうでもよいのですが、可能性として男性には、カップル外の女性がいつでも存在します。同じく女性には、カップル外の男性の存在を認めないわけにはいきません。すなわち、浮気が起こりうる状態は常に存在する状態がカップルが成立すると同時に発生するわけです。 

そのために、「カップル」がその存在を守るためには、常に外に対して、すなわち「第三者」に対して、警戒していたり、防御的な立場を取っていなければなりません。例えば、カップル内に必然的に起きる怒りや攻撃心を外に向けて、自分たちの統一を強めたりします。 

しかしながら、「カップル」の存在が続くにつれて、お互いの期待が破られたり、毎日の個人的なストレスも避けるわけにはいきません。こんなときに「カップル」内でよく起きる心理的動きは、「相手を自分のストレスの吐き箱に使ってしまう。」ということです。何か自分に問題が起きるごとに、相手の責任にしたり、たとえ相手の責任にしなくても、相手に対して怒りをぶつけ、ののしったりしてしまいます。こういうのが蓄積されていくと、相手がかなり悪く見えてくるのを避けられません。 

その一方で、「カップル」に託した夢と欲求は、次第に現実化されたものと、期待にはずれたものとに分けられていきます。現実化されたものが多ければ、カップルの関係の安定感もよいことでしょう。しかし、実らなかった夢と欲求が多かったり、それが自分にとって大切なものであったりすると、自分の心の中に秘めていくようになります。 

この心の状態、つまり相手が「悪」の袋となり、自分の夢や欲求は心に秘められた状態は、非常に不安定で、「第三者」の助けが必要になってくるわけです。その「第三者」は、まさにそれまで自分たちカップルが自らを守ろうとしていた外からの脅かしなのです。 

それまで心に秘めていた夢と欲求、そのために自分のパートナーをそのフラストの吐き箱にまでしてしまった、その夢と欲求が「第三者」に託されます。それまで、カップル内に存在した秘められた夢と欲求は分離されて「第三者」へ転移され、そしてフラスト、失望、醜悪はカップル内のパートナーに蓄積されます。 

ところで、このような三角関係は、心のフラストの解決方として発生したわけですが、それを保つのも、そう簡単なものでもありません。この三角関係を安定させるために、「浮気者」と「浮気相手」は常に、浮気者の「カップルもとパートナー」を悪者扱いしなければなりません。そのために、「浮気者」は、「もとパートナー」の悪いところだけを「浮気相手」に強調したり、嘘をついてでも、「もとパートナー」の悪を作り上げたりします。そのようにして、浮気関係内でのフラストをもとパートナーに転移していきます。 

もちろん「浮気相手」個人にもパートナーがいるかもしれません。つまりその人も男女にかかわらず、別のカップルの一員であったりするわけです。ですから、その人も、浮気者と同じく、自分のパートナーの悪口を言うことによって、浮気関係の正当化を図らなければなりません。また、その人がシングルの場合には、浮気者と同じく、浮気者のパートナーの悪口を言うことによって、自分の浮気関係内で感じるストレスを発散していくことになります。 

その後、浮気が長く続きますと、浮気の関係も徐々に進化していき、以前のカップルに似たような状態になるかもしれませんが、それはまた別の話としておきましょう。
        
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    <title>自己の定義に縛られて</title>
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    <published>2007-10-02T13:52:27Z</published>
    <updated>2007-10-02T13:54:22Z</updated>
    
    <summary>自分の正体、「いったい自分は何であるか」という問いかけに対して考える対象を、最近...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.sweetnet.com/shinri/">
        自分の正体、「いったい自分は何であるか」という問いかけに対して考える対象を、最近ではアイデンティティー Identity とよぶようになりました。セルフ・アイデンティティーと言いますと、なんとなく自分の形のまとまったものであるという気がします。でも、よく考えてみますと、自分のアイデンティティーとは、一つではないことに気が付きます。自分はいろいろなアイデンティティーから成り立っています。

先ず、基本的なところから考えますと、性別アイデンティティーがあります。自分が男であるか女であるかという認識です。それから人種のアイデンティティーがあります。アジア人か黒人か白人か等という違いです。そして、国民アイデンティティーもあります。日本人かアメリカ人か、または他の国の人かという認識です。

その他には、キャリア・仕事アイデンティティー、結婚アイデンティティー、親子アイデンティティー、興味サークルアイデンティティー、地元・ローカル・地域アイデンティティー、年齢アイデンティティー、思想アイデンティティー、性アイデンティティー、食物アイデンティティー等、まだ沢山あることでしょう。

自分はいろいろなアイデンティティーから成り立っています。国民意識や人種意識のように、知らない間に自分にくっついてしまっているものもありますし、仕事やサークルのように、自分で選べるアイデンティティーもあります。

ここで大切なことは、「アイデンティティーは、自分のことを、明らかにしてくれてよいのですが、同時に、自分に限度を付け、自分のそれ以上、それ以外の可能性を省き妨げてしまう」ということです。

例えば、男性というアイデンティティーを考えてみますと、それが女性と比べて、体の作りが違うという意味から始まって、服装のパターン、話し方、考え方、仕事との関わり、男らしさを暗示する言動、家族内での役割などを割り当ててくれます。

でも、それと同時に、男としてできないこと、しずらい事なども定めています。日本人男性としてのアイデンティティーは、感情の表現を少なくしてしまいます。「あなたを愛してます」なんていう表現は、なくはないですが、日本人男性にとって言いやすくはありません。特に人前ではそうです。そのために、日本人男性は、愛情の表現が乏しいなどと、文句まで言われてしまいます。

男性として泣くことも女々しいなどと言われてとがめられ、簡単にできるものではありません。しかしながら、時によって泣くことは、ストレス発散になって健康によいこともあります。また、精神的、肉体的痛みに対する我慢など男として、もっと要求されるので、簡単に弱みをはくわけにはいきません。でも、痛みは、体の危険信号として大切なメッセージを送っているわけなのですが。

同じく、女性としてのアイデンティティーは、女性の行動範囲を狭くしてしまいます。今は変わりつつありますが、学業や職業に専念することは、女性としてとがめられることがありました。服装なども、微妙にファッション界や周りの人が、限定をしてしまい、自分で自由な格好をすることが、男性よりは難しい感じがします。そして、年齢制限。結婚といい、職業といい、ロマンスを含む人間関係といい、女性に対する年齢制限は厳しいものがあります。そのために、それが女性の自尊心に及ぼす、心理的コストは、計り知れないものがあるでしょう。

人の成長、そして社会の発展は、自分のライフスタイルや生活環境の中に存在している限度に気づき、それを乗り越えることによって、可能になります。アイデンティティーは、自分を認識させ、人間関係の中での役割を明確にしてくれます。しかし、それがいかに自分を縛り上げて、狭いものにしてしまうかを理解することによって、それから飛び出すことを考えることが可能になり、自分のより大きなアイデンティティーを築くことが出来るようになります。
        
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    <title>脳からみる発達障害</title>
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    <published>2007-09-03T16:52:16Z</published>
    <updated>2007-09-03T16:53:06Z</updated>
    
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        自閉症と言いますと、皆さんご存知のように、コミューニケーションが難しかったり、言葉が遅れていたりする子供のことをいいます。その他に自閉症の子は、人間関係にあまり興味をしめしませんし、普通とはちょっと変わった遊びかたもします。

自閉症になってしまう原因は様々で、遺伝やら環境の汚染やら、妊娠中の事故や病気やらいろいろ考えられ、専門家でもこれがと特定できるものはありません。多分いろいろな原因で発達上の問題がおこり、行動や人間関係やコミューニケーションに障害が出てくるのでしょう。それゆえに、自閉症をある特定の問題と言うよりは、いろいろな発達問題を一つの大きな枠に入れて、自閉症とよんでいるのが現状だと思います。

ともあれ、自閉症と呼ばれる子供の脳機能のパターンは、個人差はあるものの、おおざっぱに似たようなものがあります。代表的なものは、左脳と右脳を比べると、左脳が弱いというパターンです。左脳の大切な機能は、言語能力ですから、左脳が弱いと、言語の発達が遅れます。言語の発達が遅れると、もちろんコミューニケーションが難しくなりますし、人間関係や、環境の理解などに影響が及んできます。 

人間関係の発達は複雑で、ほとんど脳全体の健全な機能に依存していますから、左脳が右脳と比べて弱いだけで、その問題を説明できません。自閉症には、右脳の問題のかかわりもあると思われます。

次に、アスパーガー障害と言うのがあります。これは自閉症と似ているのですが、言語の遅れがない障害です。でも、遊び方や、人間関係の難しさは自閉症と同じく存在します。脳の機能パターンとしては、左脳が右脳と比べると強いと言うことがです。 

左脳が強いので、言語自体はあまり遅れをとりません。ですが、コミューニケーションは人間関係のうまさにも由来していますので、言語が発達したといって、コミューニケーションに問題がないというわけではありません。また、右脳が弱いので、物事を全体的にみて理解することや、まとめたり、統合したりする機能が劣ります。さらに右脳の問題は他の人の感情を読んだり、自分の感情をうまく表現したりするのに問題になりまです。

最近になって言われだした障害に、非言語的学習障害nonverbal learning disorderと言うのがあります。これはアスパーガーと同じように、右脳が左脳と比べると弱いので、相手の気持ちを理解したり、相手の立場を理解するのが難しいということがあります。そのために人間関係が難しくなります。非言語能力が弱いために、それを補足するかのように、言語能力が著しく発達し、将来ライターだとか弁護士のような言語に携わる仕事をするようになる人もいます。右脳の弱いところは、音楽が苦手だったり、絵をかけなかったり、工作などで物を作るのが下手だったりするところに現れます。 

このように、脳を通しての発達障害の理解はこれからもどんどん進むと思いますが、これは、個々障害の理解を深めるだけでなく、その治療についても、いろいろなヒントを与えてくれます。

ここでの注意事項は、左脳が弱いというパターンは、自閉症に多いだけでなく、ADHDや行動障害などにも見られます。ですから、あるパターンを発見したと言って、すぐ、何々だと決めてしまうのは、間違いを導きます。
        
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    <title>親が超ださい</title>
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    <published>2007-08-05T13:38:37Z</published>
    <updated>2007-08-05T13:39:01Z</updated>
    
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このような発言をティーネージャーから聞いたことはありませんか。多くの場合、親に対する暴言は、隠れて言ってますので、聞かないかもしれませんし、または、間接的に伝わってくるだけかもしれません。

これに似た発言と態度は、ティーネージャーでもハイティーンだとか、20代前半の若い大人に見られると思います。これに関連する現象は、彼らが「親の服装を嫌う」、「親と一緒に人前にいられない」、「友達に親を会わせられない」などがあります。もちろん親と一緒に時間を過ごすことも避けますし、コミューニケーションも少ないことでしょう。親の方も、自分がティーネージャーだった時のことを思い出して、理解ができないわけでもないです。

思春期くらいまでは、友達より、親に好かれ認められることが大切です。ところがティーネージャーになりますと、親の言うことより、自分達の仲間の言うこと、していることが、もっと大切になります。親に好かれる自分のイメージより、仲間に好かれるイメージが大切になります。その分、親を見ると「ださく」思えたり、仲間に親と一緒にいるところなど、格好が悪くて、見られたくはありません。

ティーネージャーの時期とは、自分のアイデンティティーを確立するときです。その時に、親に認められるイメージを持っていたら、親離れができず、自分のアイデンティティーを作ることはできません。でも、そのティーネージャーが、一人急に独立できるほどの、精神的成長もありません。とりあえず仲間に認められるイメージを確保し、そこに自分の立場を置くことによって、アイデンティティーの一歩を始めるわけです。

この仲間意識は、必要なステップではありますが、たまにはそれが過ぎて問題となることもあります。例えば、仲間に認められるためのギャング入りや暴走族入りがあります。よっぽど親離れがたいへんと思われるティーネージャーの過激なアイデンティティーの追求として見ることができるでしょう。また、麻薬、酒、タバコなどの使用も仲間意識が根底にありますし、同時に親の規則を破ってまで求める親離れの欲求がそこに見られます。

 

しかしながら、ティーネージャーの反抗は、このように過激なとこをしなければならないわけではありません。正常な反抗期では、「親と違った意見を表現する」「親と異なった思想や気持ちを持ち、それを恐がらない」、「親と違った興味、趣味、活動をする」「親の生活スタイルや信条に疑問を持つ」など、様々な独立とアイデンティティーの表現があります。

もちろん、反抗期が起こらないティーネージャーもいるわけで、特に親離れもなく、親の言うことを聞き、一般的に「良い子」でいる青年もいます。親といつまでも、同一化している場合は、やはり自分のアイデンティティーの確立が難しいわけで、そのまま精神的成長が遅れてしまったり、何年か後で、急に反抗期が出てきたりすることもありえます。

ところで、仲間に認められるイメージを作れたハイティーンは、その後、大学での勉強や仕事をし始めて、社会人として認められるイメージに挑戦をしていきます。そのイメージはその後、何年にも渡って作られることになりますが、認める側の「社会人」の中には、親も含まれているというところで、親からの尊敬が再度大切になるわけです。
        
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    <title>人にきらわれないように</title>
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    <published>2007-07-01T22:23:41Z</published>
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        私達は、日常の人とのやり取りで、意識的に、そして無意識のうちに、人にきらわれないように、よく言えば、人に好かれるように、かなりの労力を使っているようです。人に好かれたり、ほめられたりした時には、問題になることは少ないです。でも、人に嫌われたと解った時には、落ち込んだり怒ったりします。中には、好かれたと思っても、続かないのではないかと緊張する人もいます。まるで、自分のイメージの成績表をわたされているかのようです。

私達がしたことで、評価が悪かったとき、あせってきます。自分が良かれと思ってしたことでも、他の人の反応が悪いとたいへんです。自分の良いイメージ、つまり受け入れられるイメージを人の間で保たなければなりません。何故かそうしないと、社会で生きていけないかのようです。そう社会化されているのでしょう。

人の自分に対する評価が悪いことを発見したとき、いろいろなことをやりだします。こういうのを防衛機制と言って、人の性格によって、やり方は様々です。

その一つで、一番よく使われる方法は、誰かを責めるということでしょう。自分のイメージが犯されたと感じたとき、それは自分がしたことでなく、誰かさんがしてしまったんだ、と思ったら、気が楽になります。その上、それを、自分を嫌いになりつつある人に伝えたら、自分を悪いイメージから救えるかもしれません。

また、自分を正当化することも一つの方法です。誰かに批判されたときとか、批判されそうになったときに、自分はこういう理由で、結果として問題になることをしてしまった、といいます。うまい正当化によって、自分がしたことは問題ではないんだと、むしろ、正しいことをしているんだと相手に伝えたいわけです。

自分のイメージを守るための他の方法は、自分がやってしまったことや、相手のそれについての評価を全面的に否定することです。そんなことはないでしょう、と簡単に片付けてしまうわけです。人によっては、無理のある方法ではあるのですが、結構使われています。

次の方法は、自分のよいイメージを保つというよりは、自分が悪い人であることを再確認し、落ち込んだりすることです。最初から自分のことをよく思っていない人がするしかたですけれど、何かが起こったときに、自分を責めて、相手に謝り、許してもらったりしながら、自分の場を保つといった感じです。犠牲者的な立場をとりながら、ネガティブなナルシズムを秘密に楽しむ人間関係を保ちます。

理性的と思われる方法としては、何かのことで自分の評価が下がり、イメージダウンが起こってしまったとき、自分の間違いと思われる部分をすばやく理解し、それをどのように改善できるか考え、間違いが今後起こらないように心がけていく、ということでしょう。人の自分についての批判を、自分の成長のために使っていき、最終的には、自分が肯定できるイメージを作り上げていきます。

このように私達は、自分のイメージを保つために結構努力をしています。しかし、ここで肝心な点は、自分でがんばって作っているイメージが、どの程度他の人に見えているのでしょうか。他の人が見る自分のイメージと自分が思っているイメージが一致するのでしょうか。この二つに共通性がないと、私達の努力は無になってしまいます。

セラピーをしていて、セラピストに映っている患者さんのイメージを、本人に伝えたとき、自分のイメージと一致しているときには、問題がありません。ところが一致していないときには、ショックになったり良い意味での驚きがあります。自分が想像していた自分のイメージと違うので、葛藤が起こります。セラピストの観察を受け入れられる人は、自分のイメージの更新をします。つまり自分が変わるということが起きるわけです。セラピストの観察を否定して、自分の今まで守っていたイメージを保ち続ける人もいます。自分に自信があるか、または、たいへん自信がないときにそうしそうです。少なくともどうして差が出たのか理解しようとしないと、自分に進歩がありません。
        
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    <title>未来が今を決める時</title>
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    <published>2007-06-05T01:24:17Z</published>
    <updated>2007-06-05T01:30:40Z</updated>
    
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        私達は、これからあることを予想して、今しなければならないことをしていく、ということがあります。たとえば、明日、空港へ行く予定があるのですが、朝10時に着くには、道路の渋滞を予想して、30分早めにでかけなければならないと、計画を立てますし、そう実行しようと努めます。

これって、考えてみますと、普段当たり前にしていることですが、私達の今の行動が、予想によって決められていくようです。また、予想はしていないのですが、あることを起こすために、今何かをしていくということもあります。

もし、明日をよい日にしたいのであれば、明日を気持ちよくすごせるように、今日健康食をして、大酒を避けて、ほどほどの運動や仕事をして、よい睡眠をとるようにと努めます。うまくいけば、翌日は朝からよいスタートになることでしょう。

ということは、もし、私が、「来週、幸せになります。」といわれて、それを信じるのであれば、来週そうなるかのように、今行動をしていくでしょう。たとえば、どんな幸せが訪れるのだろうかと、自分の周りを探したりします。「これかな、あれかな」、「これは違うな、あれはそうでないな」といった具合です。幸せな出来事の方へ目を向けて、そうでない方は、無視していきます。その結果幸せな出来事を見つける可能性が高くなり、実際に来週幸せな時を過ごす確率が上がります。

そこで考えるのですが、占い師がいろいろなことをしながら、未来の予言をするとき、ここで述べているようなことが起こるのではないかと思うのです。占い師が、手そうなり、人そうなり、カードやクリスタルボールを使いながら、「あなたは来年結婚する人にめぐり合えるでしょう。」と言い、それを信じてしまえば、今から来年にかけて、人と会うたびに、「この人はどうなのかな。」と人を見る目が変わってきます。しかしながら、来年にめぐり合えるのですから、今年どんな人と出会っても、違うと思ってその人とは結婚しないでしょう。来年になって、異性である人は皆、結婚相手である可能性があると思い、相手をそのように見守っていますと、やはり、それらしき人を見つける確立が高くなってきます。そうしているうちに、よさそうな人を見つけ、結婚すると信じてますから、ますます、その可能性が増えるということです。

また、ちょっと違う方面ですが、「Power of Positive thinking」というのがあります。ポジティブ思考ということですが、これは、何かを将来得たいときに、その内容なり、それに至るまでの過程の様子を、イメージを起こして想像し、自分がそれを得られるんだと信じ込むことです。そうして毎日をそのイメージを持ちながら、生活していくうちに、自分の願いがかなうということです。もちろんこれも、自分で選んでそちらの方向へ目を向けていきますから、100%と言わなくても、得たいものを得る可能性が上がっていくことでしょう。

逆に、自分にとって悪い予想やイメージを持ち、それを信じ込んで毎日生活をしていったら、その悪い結果を招く確立が高くなります。自分が失敗すると信じ込んでいる人がいます。多くの場合、その信条が無意識で、自分でそうしていると思ってない人がいますのでたいへんです。にもかかわらず、自分から失敗を招いてしまいます。セラピーでその信条、つまり未来の失敗予定を暴露して、方向を変えるのに一苦労するわけです。
        
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    <title>そう見ればそうある現実</title>
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    <published>2007-05-03T13:00:36Z</published>
    <updated>2007-05-03T13:03:12Z</updated>
    
    <summary>日本人は英語を学ぶことに熱心ですが、お気づきのように、外国語として習う英語は、聞...</summary>
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        <![CDATA[日本人は英語を学ぶことに熱心ですが、お気づきのように、外国語として習う英語は、聞き取れるようになるまでに結構苦労します。 

言葉を聞き取るということは、耳から入った音声を脳の中で認知する、と考えるのは簡単ですが、その認知するということは、結構積極的なプロセスのようです。ただ、受動的に入って来た言葉を解るというより、自分がすでに持っている言葉の意味と音を、入って来た音声の中に探すと言ったほうが、正確かもしれません。 

すなわち、脳の方で、この言葉かな、あの言葉かなと、入って来た音声と比べて、よいマッチを探しているかのようです。ですから、言葉を聞き取れるには、それ以前に、その言葉の音声が脳の中に存在しなければなりません。 

<font color="#FF9900">錯覚という現象</font>が、まさにこの言葉を聞き取るというプロセスとそっくりです。 

先ず、何かが見えるのですが、すぐにはなんだか解りません。脳の中で、いろいろな仮説を出します。これかな、あれかな、と試しているうちに、なんだか合いそうなものがでてきます。「あ、これはサボテンかも。」とその認知を試してみます。すると、結構合いそうなので、「サボテンだ。」と認知します。 

ところが、よく見てみますと、サボテンとは違うようです。脳の中の説と視覚情報がマッチしていません。今度は、「きのこかな。」と案を出します。それでマッチがうまくいきました。「サボテンは、錯覚でした。」といいます。

<font color="#FF9900">人間関係の状態を認知するには、言葉や自然現象を認知するより、もっと難しいところがあります。</font>それは、人間関係の複雑さと、曖昧さにあると思います。人間関係にはいろいろなパターンがありますし、二つのパターンが重なり合ったりしているときがあるからです。「私たちは恋人なの、それとも友達なの？」から解るように、二つの人間関係の境界線がはっきりせず、どうとったらよいか解らないときもあります。

複雑な人間関係を理解するには、さぞ様々な仮説が頭の中をよぎることでしょう。こうとったらよいのか、ああとったらよいのか、検討が付かないこともあるでしょう。

言葉や自然現象の認知と違って、人間関係は、間違った説でそれを理解しても、すなわちそれが錯覚であっても、気が付かないことが多いです。錯覚であっても、そのまま現実であると信じ込めるということがあります。人間関係は「こうとればこう取れるし、ああとれば、ああ取れるし」といった具合で、脳の中の説が、そのまま現実化してしまうことが多いです。

ある人が、「私は、他の人に嫌われている。」という説を持っていますと、人とやり取りをするごとに、この説を使い、嫌われているサインを探します。人間関係の曖昧さと複雑さから、探しているサインを見つけ出すことは、あまり難しくありません。結果として、「やはり、私は嫌われているんだ。」と認知します。

<font color="#FF9900">私達の生活の中で一番大切な認知分野</font>は、人間関係を正確に掴むということです。しかしながら、そのプロセスが一番難しいことも確かです。正に、人間関係においては、「そう見れば、そうある現実」なのです。人間関係の理解は永遠とチャレンジです。]]>
        
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    <title>Falling in Love</title>
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    <published>2007-04-11T20:35:33Z</published>
    <updated>2007-04-11T20:36:21Z</updated>
    
    <summary>恋におちいることは、エイプリルフールみたいだなんて映画が昔ありましたが、やはり、...</summary>
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        恋におちいることは、エイプリルフールみたいだなんて映画が昔ありましたが、やはり、恋におちいることは、だまされたかのようなのでしょうか。今回は、そのプロセスについて探ってみようと思います。 

「Love at first sight」すなわち、一目ぼれっていう言葉がありますが、この現象は、自分が描いていた異性の姿にたまたま出くわした時に起こります。自分からすでに理想の人のイメージを持っていなければならないですし、運良くその人と会わなければならないしで、かなり、確率的には少ないと思うのです。 

実際には、ある人に会って、ほれて、恋におちいるまで、個人差はありますが、時間がかかることでしょう。 

第一段階の出会いですが、初めて会うので、相手に対してちょっと気を向ける以外は、感情的にニュートラルなものだと思います。しかしながら、面白いもので、ほれるタイプっているのは、それ以前に存在するものです。それまでの経験で、恋というものは、自分にとっていかなる人間関係なのかと、型ができてしまっています。 

その型がいったいどうやってできたかは、それ自体長いお話になりそうですけれど、ちょっと考えてみますと、他のカップルのロマンスの仕方がお手本になるように思えます。そのお手本は両親であったり、身近なカップルであったり、異性の自分の親を思わせるような型であったりします。また、映画やテレビで見て、自分の型の表現の仕方を習ったり、再確認、強化されたりして、出来上がったりもします。 

最初に相手と出会ったとき、自分の型の影響で、相手にちょっと興味があったり、気になったりします。たぶん、二度と会わなければ、それだけで終わってしまうのかもしれません。やはり、恋が発生するには、何回か会う機会が必要です。少なくとも、なんらかのコンタクトがあり、二人の関わりを支えているものが必要でしょう。 

第二段階：その間に起こることが、結構面白いです。実は、恋におちいるプロセスは、心の中で随分働いています。相手のイメージを頭の中に描きながら、それに対して自分特有の意味を付けていきます。たとえば、相手の顔を浮かべながら、この人に優しく扱われたいとか、この人に認めてもらったら最高であるとか、この人と旅行に行って、こうなると楽しいだとか、いろいろと意味がふくれ上がっていきます。その意味付けが、相手の姿だけに起こるだけでなく、相手の行動や態度、声の音色、髪のスタイルなど、無意識のうちにいろいろなものにわたって起こっていきます。もはや、彼/彼女は自分のとって大切なものに変化していきます。自分で作りあげた像ですから、大切なものに違いはありません。 

第三段階：そこまで思って作り上げた大切な彼女/彼は、存在してほしいです。運良く相手との関わりあいが続くのであれば、自分が信じている相手がそうであると、確認できるかもしれない。そして、相手とのやり取りの中で、自分の思っていることを、テストしていきます。もし、相手が自分の意味を付けた通りであれば、興奮します。そうでなければ、がっかりして、相手を思う心が減っていってしまいます。

面白いことに、相手もこちらのほうへちょっとは興味を寄せていますと、こちらの願っているように反応をしてくれるようになります。ここが人のよいところであり、悪いところでもあるのですが、こちらの欲求の期待を破らないように、結構合わせて答えてくれます。そのために、こちらは現実を見極める力が劣ってしまうのは確かです。相手が、実際にはどのような人であるか、よくは判らなくなってしまいます。でも、恋人の実存のほしさに、こちらはますます恋人の存在を確信していくわけです。 

この世に、自分を満足させてくれる人物がいる。なんと不思議なことであり、たのしいことであるんだろう、と思いながら、相手との関係を追及していきます。相手はそこにいるのですが、同時に自分で作りあげたもの。やはり、エイプリルフールですかね。
        
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    <title>正真正銘な自分</title>
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    <published>2007-03-07T17:43:41Z</published>
    <updated>2007-03-10T21:23:20Z</updated>
    
    <summary>心の健康の目安の一つとして、正真正銘な自分というのがあります。これは、自分の気持...</summary>
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        心の健康の目安の一つとして、正真正銘な自分というのがあります。これは、自分の気持ちや考えが素直に表面に出る、または、相手に伝わるということです。確かに自分の考えや気持ちを、そのまま誰にでも言えたら、簡単でしょうし、気持ちもよいでしょうし、心を健康に保つことができることでしょう。

しかし、現実はそう簡単にはいきません。自分の考えや気持ちをすきに出していたら、相手を傷つけたり、怒られたり、嫌われたりすると思って、なかなかできるものではありません。ですから、皆、自分の気持ちや考えを直接出さないで、人付き合いをやっていきます。 

赤ちゃんは自分の表現を、惑わされないでします。赤ちゃんは、欲求やニーズのかたまりであるかのごとく、楽しければ笑うし、痛ければ泣くし、お腹がすけば叫ぶし、好きなように、好きなときに自分の状態を表現します。母親がそれに対して、適当に反応してくれますから、問題にはなりません。でも、この状態は長い間続きません。母親は、子供が好き勝手をしていたら、将来社会でやっていけないのを解っていますから、少しずつ子供に教え込んでいきます。その過程で、子供は自分の気持ちを抑えるようになりますし、考えを隠したり、場合によっては、ある情報を隠すために、嘘をついたりします。

こうしていくうちに、子供は自分勝手な表現はしなくなるのですが、その反面、自分という存在が抑圧されるようになってしまいます。結果として欲求不満になったり、挙句の果ては、落ち込んだりし、そのようになる要因を受け入れてしまったりします。親が極端に厳しくて、子供を規則正しく育てると同時に、子供の気持ちが無視された状態になってしまいますと、子供の自己というものが無くなってしまい、回りに合わせるだけが大切になる、ある意味、ロボット的な人になってしまいます。

 この、自分が圧迫された状態や自分が忘れられた状態が、いろいろな精神的問題となって症状化し、ある人は不安症、ある人はうつ病、ある人は対人恐怖症、ある人はパニック障害となって、クリニックに治療を求めるようになります。症状は人それぞれ違うのですが、みな共通していることは、人前で自分が失われていることです。人前にでますと、相手に合わせることだけに気を使い、自分の気持ちや考えが消えてしまいます。だからといって、自分の気持ちが無くなってしまったわけではなく、一時的に無意識になってしまうのです。ひとりになると、また、自分の気持ちが戻ってきて、あの時自分がどう感じていたか、思い出すことができます。でも、中には、もっと重症の人で、自分の気持ちがよみがえってくる代わりに、あの時、自分がいかに相手に合わせられなかったと、心配する人もいます。

この心理的状態はたいへんですから、やはり、人前でも自分の表現をできるようにならなければなりません。しかし、赤ちゃんのように、ただ自分の主張をするのであれば、怒られたり、嫌われたりしますから、自分を上手に表現しなければなりません。そのやりかたは、自分を正確に表現すると同時に、相手の立場を考慮に入れるというわけです。よい自己の表現は、自分の気持ちと相手の気持ちを統合した表現であるわけです。

このようなプロセスは、セラピーでよく見られることです。最初は、自分のことを表現することが恐い状態の人が、徐々に、自分を出してきます。そして自分を出し過ぎて、自分勝手になったりします。そうしますと、相手のこと（セラピスト）を心配して、自分を抑えたりしながら、調整が起こります。そうしているうちに、自分と相手との統合がだんだんできるようになっていきます。すなわち、自分を肯定しながら、相手のことも無視をしない表現が出てくるようになります。

赤ちゃんの状態から、最後の状態に至るまでのプロセスは、人間の心の発達上、必然的なもののように思えます。第一段階の自己主張時期、第二段階の社会性時期、そして第三段階の統合の時期。正真正銘な自分とは、実は自分の事だけでなく、相手があってこそ存在する、自分の表現であるわけです。


        
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    <title>女性化、男性化</title>
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    <published>2007-02-04T01:19:50Z</published>
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        昨年の12月に、「男女の相性のよしあし」について書きました。その時、女っぽい男性と男っぽい女性という性格について述べました。そして、中年期を越しますと、男は女っぽさを増しますし、女は男っぽさを増していくということを、ほのめかしながら終わりました。今回はその変化の理由について書いてみようと思います。

性別の男性、女性は遺伝的、生理的な要素で決まるものの、子供が生まれてからは、環境的な要素が強く働きます。男らしさ、女らしさは、社会で既に存在する、男はこうあるべき、女はこうあるべきというイメージでうえつけられていきます。そしてその裏には、常に生理的な要素、特に男性ホルモン(testosterone)や女性ホルモン(estrogen)などが働いているわけです。

思春期に、ホルモンの影響で、男子は男らしく、女子は女らしくなっていきます。その後、男女の身体的な差は大きくなり、子供の出産時の20代では、男はますます男らしく、そして女はさらに女らしくなります。

それはそうなのですが、見かけは男らしい男でも、心のほうは、そうでない人もいます。すなわち、女っぽい男が、心理的観点から見ると存在するわけですし、男っぽい女も存在します。この部分は、父親や母親の性格が、心理的に影響しているのが、反映されているわけで、ホルモンの影響を更に複雑にしているわけです。

面白いことに、男性の場合、40才を越したころから、男性ホルモンが徐々に減っていくのが見受けられます。すなわち、Testosterone が年をとるにしたがって減っていき、男らしさが徐々に失われていきます。個人差はありますが、この傾向は誰にでも見えてきて、今まで野外で男性的活動をしていた人が、だんだん屋内で静かな行動を好む、といったような例がでてきます。その分だけ、女性化されたということができるでしょう。

さらに興味深いことは、ちょうどこの変化が起こるころに、男性は中年危機におちいる人がいます。人生のちょうど真中あたりということもあって、これから下り坂の人生を悔やんで落ち込んだり、最後の花を咲かせるがごとく、若い女性と恋をしてみたり、それまでの人生を振り返って、ライフスタイルを変えて見たり、職を変えてみたり、いろいろ変動の多いときであります。一般でいう厄年に当たります。

一方、女性のほうは、40才を越したころから、そろそろメノポーズ (Menopause) 更年期に向かって、女性ホルモン　estrogen が減っていきます。それまで、女らしさを保っていたホルモンが減っていきますから、女らしさが失われ、結果としてそれだけ男性化されると言っていいかもしれません。女性の中には、それまで家で家事をしたり、子育てをしていた人が、外に出て、仕事をしだしたり、性格的には堂々とし積極性を見せてきたりします。

かなり昔、有名な精神分析者Carl Jungが男性と女性は40代になると、男らしさ、女らしさが交換すると言っていましたが、まさに、それが起こっているというわけです。

昨年の12月に男女の相性の話をしたときに、男っぽい男性は、あまり家庭に目を向けないので、結婚相手としては、女っぽい男性と比べると、難しいといいました。でも、その男性が40才を越したころから、少し女性っぽくなり、少し静かになり、家庭的になって、夫婦仲がよくなるという可能性が出てきます。その代わり、若い時には、家庭的な女っぽい主婦が、50才に向かいつつ、家の外に目を向けるようになり、独立心も増えたりして、夫婦生活に頼らなくなったりもしそうです。
        
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