2006年12月09日

男女の相性

男女の相性っていうのがありますが、結婚関係のように、長期にわたる対人関係では、結構大切なものと思えます。男女カップルの相性がよいとき、二人は仲がよいですし、喧嘩が少なくて、お付き合いが簡単です。その一方、相性が悪いと、不満が多くて、喧嘩も多いことでしょう。

結婚関係がうまくいくかどうかを、相性を通して理解するということは、一つの方法であります。相性を作り上げる要素(無意識心理、性格、感情的成長、etc.)は、いろいろありますが、一つ一つ何らかの貢献をして、結婚関係のよしあしが、決まってくるのでしょう。

今回は、相性の要素となる一つ、性格に含まれる男性度、女性度について考えてみたいと思います。先ず、男性度とは、男女に関わらず、その人が持っている男っぽさということです。その反対に、女性度とは、その人が持っている女っぽさということになります。

男性度とは、その人が物事に対して見せる興味の内容の度合いで、競争や攻撃的、機械的、独立的、冒険的な傾向です。これに含まれる例といえば、スポーツ、喧嘩、コンピューター、車、飛行機、単独行動、冒険旅行、などです。

女性度は、対人関係の興味、美術、芸術、家庭、子育て、保育、料理、庭などに現れる興味の傾向です。

男性だから、男性度が高いということではなく、男女に関わらず、男性度がどのくらい存在し、女性度がどのくらい存在するかによって、その人の性格を位置付けます。すなわち女性でも、競争心が強かったり、仕事にもくもくと取り組む男っぽい人はいますし、男性でも人間関係に敏感であったり、子育てに興味がある女っぽい人もいます。それで、4種類の性格のタイプを考えてみましょう。1.男っぽい男、2.女っぽい男、3.男っぽい女、4.女っぽい女の4つです。

さて、今度は問題となる相性ですが、人間関係の発生する場面で、相性が変わってくるので、ここでは、結婚関係の範囲内での状態を調べてみたいと思います。結婚関係で一番相性のいいのは、女っぽい女と女っぽい男の関係でしょう。すなわち、男女でありながら、両方とも人間関係に興味があり、家庭や子育てに目を向けられる人たちの関係です。

次に相性のよい組み合わせは、女っぽい男性と男っぽい女性との結婚でしょう。男っぽい女性は、女性でありながら、人間関係や家庭に興味を持ち、外での独立的行動も好き好んでやります。女っぽい男性は、妻のおおざっぱさを補うかのように、敏感に動いてくれる、家庭を大切にする人物です。

そして次の相性のよさは、男っぽい男性と女っぽい女性の組み合わせだと思います。多分このタイプのカップルが一般的にロマン化されて、理想と思われているかもしれません。確かに結婚以前で、デートをしている時期は、お互いに自分の持ってないところを求めることができ、エキサイティングだと思います。しかし、結婚後は、夫は外で働き、外のことに興味を持ち、家庭に対してあまり目を向けないようになってしまいます。妻は、家庭的ですから、夫の趣味には付いていけず、同時に人間関係を欲しがりますから、寂しい結婚になってしまうでしょう。

さらに相性が悪くなりそうな組み合わせが、男っぽい男性と男っぽい女性の結婚だと思います。この場合、二人ともあまり人間関係に興味がありません。二人で仲良くしようとするより、二人で争ったり、各々別の興味で外に目を向けて、単独行動をしそうです。このカップルは、感情的な距離がありすぎる、冷たい関係になっていきそうです。そして二人とも、子育てなどには興味をしめさず、経済的な理由がなくとも、共働きになる可能性が高いです。

このように、おおざっぱに結婚相手との相性をみることができますが、一人の人格のタイプは、述べたほどはっきりしていないときもあります。女っぽい男性といっても、その女っぽさがどの程度なのか、人によって差があります。少しの時もありますし、極端に女っぽくて、性同一性障害の部類に入り、他の問題が出てきそうなときもあります。また、男女の男っぽさ、女っぽさも、人の成長と年齢によっても変化があります。一般的に中年期を越しますと、男は女っぽさを増しますし、女は男っぽさを増していきます。

ストレスと健康

私たちは皆、あるときにストレスを感じます。交通渋滞に巻き込まれたときの様に、一時的のもありますし、毎晩晩くまで働かねばならない職場の状態のように、長期間継続するストレスもあります。ストレスが続いて、普段の生活ができなくなると、ストレスが危険なレベルに達したことになります。そのようなとき、セルフコントロールがなくなってしまったり、集中力が低下したり、ちょっとしたことで、いらいらしたりするようになります。

ストレスに対する体の反応は、自然の反応で、人類の進化と共に、身に付いたものです。ですから、仕事の面接の前に、心臓がどきどきするのは皆、よくありますし、100メートル競走の前に、冷や汗をかいても不思議ではありません。

しかし、もう少しストレスが強くなりますと、体の健康までにも、影響がでてきます。たとえば、大事な試験前には、学生の顔のにきびが、増えたりすることもあります。その学生がよく寝て、よく食べても、あまり変わりはありません。そして、試験の後には、にきびが減ったりします。何か学校で問題がある小学生が月曜日の朝、お腹が痛くなるという話は、よく聞きます。

さらに、慢性的なストレスを被ると、健康にかなり大きな打撃を与えます。何年もの長期にわたって、病人である家族のケアーをしていた女性は、普通より速く年をとるという報告があります。体の抵抗が衰え、血液細胞を新しく再生する力が衰えて、普通より10年も早く老化したということです。

その他に、ストレスによって体の抵抗が落ち、機能低下、心臓病、糖尿病や癌につながったりすることもあります。アルツァイマー病なども、ストレスの結果、脳がある種の毒や、危険な分子を妨げる力が落ちるからではないかと疑われています。

急なストレスが心臓に影響を及ぼすことは、普段から心臓に問題がない健康な人にでもあります。サイコセラピーに訪れる患者さんの中にも、心臓にこれといって問題がないにかかわらず、心臓がどきどきしたり、脈が時々とんだと感じる人がいます。最近よく聞くパニック障害なども、ストレスの結果、自律神経が乱れ、心臓がどきどきしたのをきっかけに、発病をしてしまった、というのはよくあります。

ストレスが直接、心臓病に至るかどうかは、確かではありませんが、すでに高血圧やコレステロールが高い人が、ストレスによって、心臓病になるリスクが更に上がると考えられています。また、ストレスのレベルが高い人に多い、いつも怒りやすい傾向や、敵意をしばしば出す人などは、心臓病になる確率が高いです。また、不倫、アル中、配偶者の病気などの結婚問題がある人は、心臓発作になってしまった後、回復が遅いですし、逆に、ストレスマネージメントのトレーニングなどを受けると、回復が早くなったりします。

ですから、ストレスマネージメントを習うことは、いろいろな意味で大切です。その一つに、ストレスの原因を突き止める、というのがあります。ただ、いらいらしたり、怒ったりする代わりに、いったい自分は何が気になっているのか、考えてみることがいいでしょう。ちょっとの工夫でストレス避けることができるかもしれません。

また、週に数回、抗ストレスタイムといって、ストレスに対抗するような時間を設けたらよいかもしれません。そのときには、瞑想をしてみたり、好きな本を読んで見たり、音楽を聴いたり、運動をしてみたりします。怒った時には、すぐ衝動的に反応をしない様にしましょう。その代わり、ちょっと待って、もう少しクールな考えが浮かぶまで待ちましょう。時間を置くことによって、心が事態をもっと客観的につかみ、自分にとってよい反応ができます。

自分のスケジュールを見直し、何から何までこなさないで、大切なところだけ、気を配りましょう。残りは、とりあえずそのままにしておいたり、他に時間があるときにしたり、できるものなら、他の人に頼みましょう。そして、最後ですが、自分や人に高い期待を持たず、やらなければと思う70%位でよしとしておきましょう。悪いストレスをなるべく避けて、心身共に健康に生活しましょう。

頭の中

「頭の中が真っ白」っていう言い方があります。これは何かの影響で、何も考えがないときのことをいいます。その逆に「頭がいっぱい」という言い方もあります。頭というのが、考えの入れ物のように思えます。

毎日の生活の中では、そんなに複雑なことはありませんから、頭の中にそれほどたくさんの考えは起こりませんし、外からいろいろ入れることもありません。放っておくと、頭の中が随分簡素化されていきます。

面白いもので、頭の方で、簡素化を嫌う面もあります。退屈になってきて、頭を刺激するようなことを探し出します。本を読んだり、ゲームをしたり、問題集をしてみたりして、頭の活発を保とうとします。

本を読んでいて気が付きますが、読みながら新しい考えに接し、それを習うことによって、自分の考えが一歩前に進むような感じがします。その逆に新しい考えが起きませんと、頭の中が徐々に乏しくなります。私たちの頭は、次から次えと新しく入ってくるものがないと、停滞してしまうのでしょうか。

一見、新しい考えは、自分の中からきりなくわきでるように思えますが、実はそうではなさそうです。中からわきでるような現象も、実は外からいろいろ入れていないとでてこないようです。

そして、外からくる考えというものは、他の人の頭から来たものですから、私の考えは誰かの考えに随分頼っているのでしょう。私のところへ来る誰かさんの考えは、その人が考えつく前に、他の人から来て、それがその人によって消化され、考えとなったものです。私は誰かさんの考えを頭に含み、自分なりに消化をし、そしてまた、他の人に移していきます。

私の頭に浮かぶ考えは、自分なりにユニークな貢献はあるようですが、他のところからやってきたという部分は、多分にあるようです。そして、この「自分なりにユニークな貢献」とは、何なのでしょう。これは、過去の自分の経験から考えだしたことや、これまでに学習した考え方が、自分の中である程度組織化された集合体となって存在し、それが外から来る考えとある形で結びついてできた結果とみることができます。

すなわち、自分なりにユニークな考えは、生まれるようでうすが、それは、私のところへ来る前の誰かさんの考えと関係があり、私の考えを次の誰かさんに伝えるとき、その誰かさんの考えと関係があるわけです。これってちょうど沢山のコンピューターがインターネットでつながっているかのように、私たちの考えは、コミューニケーションを通じて、複雑にそして限りなくつながっているようです。そして、個人が孤立してしまいますと、情報の出入りがなく、その人の頭の中は、乏しくなっていってしまいます。人間の頭って、人々の間で限りなく相互依存いているようです。

行き着くところ、私の考えは、私のものであり、そして私のものでもないことになります。それでは、「私の考えはこうだ。」などというとき、私たちはそれが、どんなにナルシスト的発言であることを忘れているのでしょう。自分の考えを自分が所有していると思い、それによって自分であることを主張し、自分の存在感を確認する動作の一連に対して、疑問がわいてきます。

それより、私の考えは人類全体が所有しており、その一部が今たまたま私のところで起こっている、といった感じでしょうか。あなたの意見は?と聞かれたとき、「現在、私のところでは、これこれの考えが起こっております。」というわけです。今月のトピックも、たまたま私のところで起こりました。

自分て何?

いつまで経っても、答えがないような質問なのですが、いったい「自分」て何なのでしょう。もう一度自分を振り返ってみて、考えてみようと思います。

以前(2005年1月)に、「無意識の自叙伝」と題しまして、自分というものの側面を書きました。そのとき、「私たちは、知らずのうちに、自分に関する記録を残しておき、それが重なって自分というものの歴史に成っている。」という考えを述べました。

この種の自分というのは、「振り返って見る自分」という意味で、いわば自分を客観視している状態です。自分がそこに住んだとか、自分が怒ったとか、自分がそれをやり遂げたとか、などの事実的なものから始まって、自分が幸せであるとか、罪人であるとか、仕事がうまいだとか、主観的なものを、もう一度振り返ってみたものも含まれています。

この種の自分は、よく考えてみますと、ただの概念であります。この自分は実際に存在しませんが、頭の中に考えとして存在するものです。自分についてのいろいろな記憶として存在する考えの集合物であります。実際に触ったり、扱ったりすることはできません。ですから、記憶喪失になった人が、自分のことを忘れて、それまでに存在していた自分が、消え去ってしまったということもありえます。

しかしながら、私たちは通常それが存在するかの様に、感じますし、扱っています。ですから、自分を大切にしたり、自分を嫌ったりすることができます。ある意味この架空の自分に価値を付けて、自尊心(セルフエスティーム)とよぶこともします。そしてある人は、ほどよい自尊心をもち、人間関係において、自信を持って活動しますし、また、この自尊心を守るために、喧嘩をしたり、殺人や自殺までする人もいます。

また、他の種類の自分も存在します。それは、ここまでお話してきた、「振り返って見る自分」の振り返りをしている自分です。これは主観である自分で、自分という意識はありますが、無形で見ることも触ることもできません。たとえてみますと、目は物を見る事ができますが、その目がそれ自体を見ることはできません。ですから、主観は物を意識することはできますが、主観自体を意識することはできません。主観を意識した瞬間、それは主観でなくなり、主観の中の意識されたものと化してしまいます。

主観は常に現在進行形です。主観は過去でなく、未来でなく、今存在します。寝てしまうと主観は消えてしまいますし、夢を見ているときには、主観を感じとることができます。また、主観は感情によって影響されますし、精神状態、薬、麻薬などによって左右されてしまいます。面白いことに、主観は人が生まれてから発生しますから、私たちは生まれることを経験できませんし、急にある日から、自分の存在が始まったかのように思えます。同じく、人の死が起こる前に主観は消えてしまいますから、死を主観によって経験することはできません。

また、主観があるために、「振り返って見る自分」を意識できますし、自分の過去や将来を考えることができます。そして主観があるために、もう一つの自分、すなわち「意志としての自分」を経験できるのです。

意志とは、自分が何かをしたい時に出る一種の力です。Will Powerといいまして、よく考えてみると、その力はどこから来るのか解らないのですが、ふとそういう気持ちや気力を感じます。それを感じて、自分の存在を感じるわけです。ある事が、意志によって起こると、自分がしたといいますし、ある事が意志とは関係なく起こると、自分でないといいます。

意志となって、そしてそれを自分として感じる前に、欲求や衝動というのが起こります。でも、欲求や衝動は自分として意識しないものもあります。例えば、残虐的衝動や同性愛的欲求などは、自らの自分の定義と異なるため、人によっては、自分としてとらえないこともあります。そのために、これらの衝動を抑圧し、意識にも含めない状態となることがあります。ですから、意志は自分となっても、欲求や衝動全体は自分とはなりえないということです。

私たちの身の回りの現象のなかで、あるものを自分としてとらえ、他は自分でないとしているわけですが、自分て、かなり曖昧ですね。

ユートピアの設計 

日本でもアメリカでも大体の人々は、食べ物に困っていないです。そして多くの人々は住居に困ってもいません。世界中を見渡せば、必ずしもそのような境遇にない人達がいることは確かです。

しかしながら、私達の社会は、食べ物が豊富です。そのうえ、作り方や、食べ方などをいろいろ工夫して、本当にアーティスティクになっています。

住居を見ても同じことがいえます。ただ屋根と壁があって住む空間を作っているだけでなく、住みやすさと便利さをたくさん盛り込んでいます。

食物と住居は、人間にとって、最も基本的な欲求であります。その最低限の条件を確保することによって、安全に存続していけるようになります。この部分だけに、焦点を置きますと、私たちの豊富な衣食住はユートピアに住んでいるかのようです。

でも、それだけでは私たちは幸せになりません。回りを見渡せば、犯罪もあり、争い、虐待、ハラスメント、いじめ等、私たちを不幸にする事柄がたくさんあります。幸せになるには、私たちの次のレベルの欲求、すなわち社会的満足感がないと成り立ちません。

社会的満足感とは、人間関係において、安全に感じ、人から認められ、その中で自尊心を保てていき、さらに精神的成長の土台があるということです。そのような条件が存在する環境を作ることはできないのでしょうか。つまり、衣食住だけでなく、社会的に満足のできるユートピアとは、いかにして可能になるのでしょう。

このユートピアでは、人間関係が健康でなければなりません。すなわち、人々がお互いに尊敬をし、相手の立場を尊重しながらやり取りをし、お互いの話をよく聞き、自ら正直であることを、勤めていかなければなりません。

それと同時に、相手を故意に傷つけることを避け、罰を与えたり、仕返しをしたりすることを止めなければなりません。

そのような人間関係を、作っていくための出発点は、やはり子供の教育から始まると思います。でも、通常の学科を教えることではなくて、精神的成長を促す学校が、必要になるでしょう。

そこでは子供が、道徳や倫理を学んだり、人間関係の話を聞いたり、知能面の代わりに、感情面の発達の話を聞いたりします。その他に、結婚生活の科学とか、子育ての科学とか、仕事の倫理とか、老後生活の科学とかを学ぶのもよいでしょう。実際の体験をするために、子供が社会のいろいろな面に、実習生として出て行くのも、面白そうです。

知能をのばし、精神面ものばす教育システムを作りあげるには、それなりの法律の設定が必要になるでしょう。その法律は、現存する教育システムと同じように、精神面においての学習と実習の義務的年数を定めます。

それに加えて、将来の精神学の先生や、社会でその分野においてのリーダーや研究者を育成していくために、今の大学に匹敵するような教育の場が、必要になってくると思われます。人間関係や感情面の勉強をしていく教育の場ですから、単にその分野の知識を得るだけの教育でなく、実際の経験を重視しながら、自分の成長を研究していくプロセスを促す、教育体験の場となっていったらよいでしょう。

もう一つ関連する法律を設置することで大切なことは、日常の人間関係のやり取りの最低限の基準を作ることです。それによって、すでに違法行為である、傷害、虐待、ハラスメント等を抑制するだけでなく、人間関係のあり方の水準をやや上げ、私たちの安全感や自尊心を保ちやすい環境を作ることができるようにしたらよいと思います。

はたして、このようなユートピアを作ることはできるのでしょうか。それはもちろん不可能です。ユートピアという言葉自体、想像された理想の社会ということです。そして、それが私にとって心理的にいかに理屈が合うからといって、社会がそのように動くはずがありません。今までにも、いろいろな人がユートピアを考えだしましたが、それが実現したという歴史は一つもありません。

しかしながら、誰かの文句を言ったら、チケットをきられたなんていう社会を想像するだけで、面白いです。

ロマンスをもう一度

 最近ふとしたことから、ロマンスのことが頭に浮かび、いつものようにその複雑さに圧倒されてしむのですが、ロマンスを心理的に理解することは、確かに難しいです。でも、また見直してみようと思いました。

ロマンスといいますと、何か楽しい事を想像してしまうのですが、ロマンス中には、楽しい事だけではありません。何か私的には、日本語の恋愛と言ったほうが、ちょっとその難しさの感覚があるのですが、今回は恋愛の楽しい面でなくて、苦しい面のお話です。

その前にちょっとだけ楽しい面をまとめてみますと、人を好きになっているときは、心がハイになっています。心うきうき、夢のようっていうものですね。相手の人(女性ですと)が、きれいに見えますし、いっしょにいてうれしいですし、自分の自尊心も上がり、なんと幸せなことでしょう。

でも、これだけでしたら、恋愛にドラマがありません。すなわち、相手の人に会えないときの苦しさも述べなければなりません。何かのことで、恋愛相手に会えないとき、たとえそれが明日の話でも、心が落ち込みます。まるでうつになったかのようです。特にこの状態は、自分が未だ相手に気持ちを告白できてないときに多いように感じます。いわゆる「報われてない愛」ということでしょうか、非常に寂しくて、切ないと感じ、心が重く感じられます。心は刺激され興奮したいのですが、それができずにいるといった感じです。

では、報われたと思われた恋愛ではどうでしょう。相手を目の前にして、もっと近づきたい、溶け込みたいという気持ちの反面、何をしたらそうできるのか解らず、自分をどう表現したら、もっと接近できて満足するのか解らず、じれったくて悲しいです。

その上、相手が自分に近寄りたいことを知りたい。でも、それをなかなか確認できない。相手のそれなりのジェスチャーを待って、見守っているのですが、なかなかそれが見つからない。フラストでもあります。

もう一つ、恋愛について厳しい事実があります。それは、どんなに相手に近づきたくても、どんなに相手と溶け合いたくても、そのプロセスで知らされることは、自分と相手は別の個人なのであるということです。これは単に物理的に、人は自分の肌を超えて、相手に近づけないというだけでなく、二つの心が完全に解け合うことが不可能であるということでもあります。

私たちの心は、やはり自分の過去からの経験で出来上がっています。それゆえ、自分と違った経験をしてきた相手の心と、同じになれるはずがありません。すなわち、二人の愛人が、同じ感情を持って同じようなことを考えることなどないでしょう。でも、二人の心が一つと錯覚する人は、少ないとは思えません。その錯覚のために、ハネムーンの後、相手に対して失望する症候群があるわけですから。

そして多くの人は、この融合不可を認めたがりません。そのために、相手との時間が他の人に奪われたりすると、嫉妬心になってしまったり、相手を自分と融合させるために、無理なコントロールを相手に向けてしまったりします。また、ちょっと行き過ぎたところで、相手との融合を求め続ける症候群、すなわち恋愛中毒なども現れてきます。

相手との融合を求めながら、それが不可能な状態でいることがロマンスですから、ロマンスとはある意味、報われない恋と言うことができるでしょう。そして報われたときには、ロマンスが終わりをとげ、たとえば、結婚というような、違った人間関係に移り変わっていくのでしょう。

はじとわがままとプライドの子

子供の成長の過程で、ちょっとかたよった形になりますと、性格の中にしこりが残ります。そのしこりは、恥やわがままやプライドといった気持ちで感じ取られろことがあります。このような気持ちは誰にでもありますが、それが多いときに、性格的な問題になります。これらは、いったいどのような親子のやり取りから、成っていくのか考えてみましょう。

先ず、親からの子供のケアーが、十分になされているとき、つまり子供の方は、ある程度満足しているときには、その子なりの個性のある性格の形成があり、それ自体問題となりません。でも十分なケアーがないとき、子供は一生懸命に親のケアーを自ら得ようとします。

その方法の一つとして、「親の言うとおりにする」があります。親の言うとおりしていれば、よい子と思われ、親は注目をしてくれるだろうと考えます。でも、親の言うとおりにしていては、自分を試すことができず、自信のない子に育ってしまいます。

自信のない子は、恥が多く、恥ずかしがりやの子です。劣等感があり自発性がありません。先に立って何かをするより、他の子のあとに付いていくほうが、居心地がよさそうです。

やはり、恥の多い子っていうのは、その子の親も恥に関して敏感であると思われます。子供が何かをしたときに、親の方がその行為について恥に感じたり、そのままにしておいたら、後で恥になると予想されるときに、「そんなことしちゃ、だめ!」とか「みっともないわね。」とか言いながらとがめます。子供のほうとしては、やはり自信を失ってしまうでしょう。

親子のこのようなやり取りを避けるためには、親が自分の基準を使って子供のことを判断しないことが大切です。子供はまだ若いですから、親と同じにできないのは当然ですし、子供も一人一人違った個性や能力があります。子供は自分の観点に基づいて行動をしますから、必ずしも親の思うようにはしてくれません。逆に子供の見方をよく理解し、そこから出てくる行動を理解してあげる必要があるということです。

親のケアーに満足してない子が、親の注目を得るためのもう一つの方法は、自分の力を諦めて、もっと小さい子のように行動することです。すなわちわがままな子になることです。

わがままな子は自我が強いです。自分の主張を強くします。それで他の人の言うことを、簡単に受け入れてくれません。その上、自分でできることをしません。親に甘えて、してもらうことが多いです。ですから、年相応に行動しないで、もっと小さい子のように行動をします。

もちろん親の方もそれを促すような反応をしています。たとえば、子供の要求を簡単に受け入れてしまいます。子供ができることでもそれをしてあげます。そうしながら、子供のもっている向上心、能力、そして独立心を無視していまうのです。

やはり、子供のもっている能力や独立心を受け入れることは大事です。わがままな子には、その子のもっと上の行動を期待することは必要です。でも、たくさんの期待をしてしまったら、わがままな子はますますわがままになります。ほんの少し、しいて言うならば、今のレベルの5%上を目指すくらいがいいです。

最後に、親のケアーに満足していない子は、親と同じ様にすればよいと考えます。自分が親の様に立派な人であると思い込みます。そうすれば親も注目してくれると思うのです。でも、その結果子供はプライドの高い子になってしまいます。

プライドの高い子は、他の子との活動に参加しなかったり、協力をしません。自慢をしたり他の子をけなしたりしてしまいます。もちろんそのように自分も親から扱われたのでしょう。

親の方は、子供に対して絶対的な態度をとりながら、子供をののしったり、強い罰を与えたり、時には虐待などもあります。その上、人前では、自分の子を異常にほめたりします。子供のほうは親に対する怒りを抱えながら、同時に親と同一化をして自分を守ろうとします。

プライドの高い子を育てないように、子供を強くしかることは止めなければなりません。また、自尊心を育てるために、子供の実際の力、そしてその結果を認めてほめてやりましょう。

心配するのをやめるにあたって

私たちは、日常心配事が多いです。いろいろなことについて心配をします。でも、心配することは、決していい気分ではありません。不安だから心配をします。今後どうなるか判らないから心配をします。この未確定な気持ちは、いいものではありません。

どうして、心配をするのでしょう。赤ちゃんは心配をすることを最初から知りません。でも、小さい子に、心配をすることを教えるのは、簡単です。おいしそうなお菓子を用意し、子供のそばに置きます。そして、子供が手を伸ばして、お菓子を取ろうとする瞬間に、大きな爆発音を起こします。子供は脅えて、泣きながら逃げます。そして次回、同じように、子供のそばにお菓子を置きますと、それをほしい子供は、手を伸ばそうかどうか心配を始めます。お菓子を諦めれば、それで心配は終わるのですが、お菓子ほしさに、手を伸ばそうとすると、また、爆発音がするのではないかと、心配をします。

この風景は、想像だけにして、実際にお家でやらないでください。幼児虐待になります。心理学の実験では、ねずみを使ってやったことがあります。

このイラストから解るように、心配は欲求とそれがかなわないときに起きる罰の板ばさみの状態の時に発生します。そして、そのような状態は日常茶飯事ですから、心配も毎日起きて、不思議ではありません。その上、毎日起きますから、たいへんよく、練習を重ねてきている行動であるといえます。そのうちに心配をしないと、欲求がかなわないという理屈もでてきます。なぜか、心配を事前にすることによって、悪い事を防げるような気にもなります。

しかし、何かを欲しい時に、解決策があるのでしたら、それをすることによって物を得られ、心配はしません。解決策はなくて、未知の状態なので心配をします。未知なことについて、いくら心配しても、未知ですから、心配しても得になりません。すなわち、心配は必要でないことになります。物を欲しかったり、欲求をかなえるのに、心配は必要条件ではないのです。

本当にそうなのでしょうか。心配ですから、試しに実験をしてみようと思いました。

実験1:何が何であろうとも、心配をしないで暮らしてみる。

結果1:昼間、心配をしないでいたら、結構、楽に感じる。でも、夜、怖い夢を見て、それを分析すると、心配を夢の中でしていたことに気が付く。やはり心配を抑圧するのは、無理なのだろうか。

実験2:さらに続けて、何が何であろうとも、心配をしないで暮らしてみる。

結果2:次第に、怖い夢も止まり、普通の生活に戻る。しかし、心配をしないので、確かに生活が楽である。心配をしないからといって、悪い事が起こるわけでもなく、生活はいつもの通り進む。

実験3:さらに、心配をしないで続けてみる。

結果3:心配をしないことによって自分のエゴが減り、利己的な考えが縮小し、自分がかなり自由である。心配とは、自分のエゴを保つためにしていたのだと気付く。

実験4:心配をしないで続ける。

結果4:エゴが減るのが手伝ってか、怒りも減りだした。そして、多くの場合、人が怒るのは、心配を避けるため、またはそれを隠すためであると理解ができる。その上、怒りに限らず、罪悪感、恥、嫉妬など、いろいろな経験や感情を避けるために心配をするのだとも解ってくる。すなわち、怒りは、心配の防衛に使われるが、心配は他の感情の防衛行動として、捉えることもできると、解ってくる。

心配をしないでいると、確かに得るものは大きいと思います。自分のエネルギーを無駄にしないだけでなく、生活が楽にもなります。自分のエゴが完全になくなったら、心配も完全になくなるのでしょう。しかしながら、未だ、時折よく眠れない夜があります。そういうとき、何故かと自分の日々を分析してみますと、自分にとって気になる事柄の存在が確認できます。そのようなときに自分のエゴの存在を見せ付けられるわけですが、これは、修業不十分ということで、さらに心配をしないで続けなければなりません。

この世の幻覚

幻覚というものがあります。それは、明らかに現実にないものを、見たり聞いたりすることです。精神病の中で幻覚が多く経験されるのは、分裂病(統合失調症)です。分裂病の人は、そこにいない人の声を聞いたり、ないものを見たりします。そばにいる人には、何も聞こえないですし、何も見えませんから、分裂病患者に何もないことを説得しようとします。でも、分裂病患者は納得しません。

セラピーでも、分裂病患者にセラピストが幻覚が現実でないことを説得することはありますが、あまり効果はありません。私もセラピストとして説得した経験があります。やはり無理でした。

ある日、面白いことに気が付きました。分裂病患者は、実際に聞こえてないものを、聞くのですから、その聞くことは脳の中で起こっていても、耳の中の鼓膜は振動していないはずです。実際の音が鼓膜を振動させて、それが神経的メッセージとして脳に伝えられ、音を経験するのと違って、幻覚では、鼓膜の振動も、耳からの神経的伝達もないはずです。ただ脳の中で活動が起こっているだけです。

これを分裂病患者に説明して、実際に鼓膜が振動してないことを科学的に見せたら、説得できるかな、と思いました。その志を分裂病患者に説明してみましたが、やはり納得してくれませんでした。

しかしながら、鼓膜や網膜が刺激をされないにもかかわらず、物を聞いたり見たりするのが幻覚であるということは、私にとって、たいへん納得のいくものでした。つまり、感覚と幻覚の違いがそこにあると思ったのです。自分なりの納得で2,3年が過ぎました。

そしてある日、変なことに気が付いたのです。私たちの知覚は、外界を理解することですが、実際に鼓膜や網膜が刺激されてないものを感じとっているのです。例えば、時計を見て、今3時だと解ったとします。目から入った感覚的情報は、時計の形やら数字の形やら、色やら大きさやら、いろいろとありますが、今3時だという情報はどこにもありません。その代わり感覚的情報に基づいて3時だと、頭の中で意味をつけたのでした。これって、幻覚と同じなのでしょうか。私の脳の中で起こった情報は、分裂病患者が経験する幻覚と本質的に違いがありません。なぜなら、私は外にないものを見ているからです。

セラピーの分野での専門語で転移と言うのがあります。これは患者が、以前の人間関係で感じたことを、セラピー中にセラピストに対して経験することをいいます。例えば、過去に父親に対してたいへん怒りがあった人が、セラピストに対して同じような怒りを経験して、それを信じ込んでセラピストに怒りをぶつけます。患者が無意識のうちにそれをやっていることを理解させることが、セラピストのたいへん大切な役割になります。

この転移というものも、患者が実際にないものをセラピストの人に見てしまうわけですから、目や耳から入ってきた感覚的情報とは別に、脳の中である知覚をしていることになります。すなわち、これは幻覚と同じであるといって言い過ぎではないでしょう。

こうして考えてみますと、私たちは、幻覚の中で明け暮れしているのでしょうか。私たちが理解していたはずの現実とは、実は脳の中で作られた幻覚といっていいのでしょう。その上、私の幻覚とあなたの幻覚はよく似ています。私が今3時といいますと、あなたがそれを解ってくれて、3時であると感じます。私たちは皆で都合のよい幻覚を共有しているのです。ということは、人類が破滅したときに、私たちの知っている現実が消え去るということです。赤ちゃんが生まれてきたら、私たちは共有された幻覚を教え込まなければなりません。そうしないと子供は私たちが共有している幻覚の世界の中で、やり取りができなくなるからです。

分裂病患者が経験する幻覚とは、私たちと共有できない幻覚を経験しているといえます。私たちは自分の現実=幻覚を諦められないのと同じように、分裂病患者も彼らの幻覚を諦めないでしょう。

私が信じ込んでいた現実とは幻覚、すなわち夢みたいなものだったのです。あいにく私はこれまでいい夢を見てきました。それとも悪夢だったのかな。それとも、、、?

相互関係

一般的に、私達が誰かに何かよいことをしてあげますと、感謝やお礼が返ってきます。逆に何かをしてもらったら、それなりのお返しをしようという気持ちがあります。同じく、誰かに悪いことを故意にしたら、それなりの見返りがあるのではないかと心配をするでしょう。

このようなやり取りは、小さな子どもの時から少しずつ習いきます。小さい子が大人におもちゃを手渡し、そして大人がそれをすぐ手渡して戻しますと、喜んだりします。このようなやり取りが先立って、いずれ子どもが友達同士で、やったりやり返したりできるようになります。でも、それは簡単なことではないのもよく解ります。自分のおもちゃを友達に貸せるようになるには、結構大変な試練が付き添います。

私達は日常のやり取りで期待をしていたお返しが戻ってこなくて困惑したりすることがあります。特にそのやり取りの内容が約束事ですとか、してやったことが沢山あったりしますと、たいへんいやな気分になります。小さい時に習ったはずのルールなのにこれはいったいどうしたことでしょう。

たいていお返しのルールは誰でも理解できると思いますが、それを守らなくなる、すなわちしなくなることは、大人にしてもありえます。例えば、それまで互恵主義にのっとって行動してきた人が、立て続けにそうでない人のやり方にさらされた時、自分からがっかりして、自己防衛的にもうお返しをしなくなってしまいます。

他人には何をしてあげても戻ってこないから、それは止め、もらえるものはもらっておくが、それに対してお返しもしないといったような自己中心的な立場を取る人がいます。ある意味でサバイバルに適した人生の原理ではあります。「自分の勝ちは人の負け、人の勝ちは自分の負け。」といった具合です。

いつか天国と地獄の違いを明確にしていた漫画を見たことがあります。天国でも地獄でも器に食べ物が入っていて、食べるのは自由なのです。そして両方とも食べるためのスプーンもついています。でも、そのスプーンが6フィートもあるのです。そんなに長いスプーンを使って自分の目の前にある器から食べ物をすくって食べるのはたいへんです。地獄では人々が皆自分勝手なので、他の人にかまわず、一人でその長いスプーンで四苦八苦しながら食べています。一方、天国では、皆協力しあって、一人の人が、6フィート離れた隣の人に、スプーンを使って食べ物を口に入れてあげています。隣の人も、スプーンを使って食べ物をこちらの口に入れてくれます。お互いに助け合うので食事が簡単にできます。

先ほど述べました自己中心的な原理で生きることは可能なのでしょうが、地獄のイラストのように、苦労と限度がでてきそうです。自己中心の人は、人との協力がないので、結局、自分でできる範囲内のことで止まってしまいます。その自己中心の人が、相手に何かをしてあげることによって、その結果お返しをいただくことができ、それが自分のできる範囲内を超して自分の満足に達することなのだと解った時、相手との協力が大切になることでしょう。

「私が勝つにはあなたを勝たせ、あなたを勝たせると自分が勝つ。」このような人生の原理が生まれてきます。言い換えますと、自分は勝ちたいのですが、相手をどのように勝たせたら、自分の勝ちにもつながるのでしょう。この答えを生活のいろいろな場面で見つけていったら、自分の世界が天国になるのでしょうか。試してみる価値(勝ち?)くらいはありそうです。

性格不一致

これはいい言葉です。相手を責めるのでなく、自分を責めるわけでもなく、お互いに合ってないという意味です。また、性格不一致で離婚になってしまうこともありますから、悪い響きを持つ言葉でもあります。

2001年の12月に「結婚の10条+1」を書きましたが、その1条に「結婚相手の今嫌いな部分は、結婚前には気に入るところであった。」とあります。自分の性格と違う部分は、それで相手が自分を補ってくれると言う意味で、最初は大切にしていたものです。しかし、結婚してしばらく経ちますと、相手を自分と同じくなるように、変えようとしたりします。そんなに違うことが問題なのでしょうか。

先月の記事で、自分を表現していくことが、大切であると述べました。それは大切なだけでなく、自分の価値を誰かに認めてもらいたいという精神発達の段階から、一歩成長した自分の位置でもあります。でも、自分の表現や主張をしていくと、誰かと、そして結婚相手とぶつかってしまいます。すなわち不一致が起こってしまいます。成長が結婚の問題に発展しては困ります。

結婚は、夫婦二人各々を部分とした組織systemと考えることができます。子供ができたら、これが部分として組織に加わります。結婚の目的は、その部員、夫婦や子供の幸福の追求であると見ることができます。そのために、各々が仕事、結婚関係、娯楽などの活動をしていきます。ただ複数の人が参加するだけでなく、一人一人が違った貢献をしていくので組織の生存価値が上がります。違う性格の男女や子供が違う貢献をしながら、共通の目的の達成に向かって活動していくものが、結婚や家族であると考えることができます。

このような組織で、性格の違い自体は問題ではありません。むしろ違いがなければ、組織を作る、すなわち、結婚をする理由もありません。自分と相手との違いを尊重し、楽しんでいくことの方が、相手との違いを嘆くことより大切なことでしょう。

それでは、いったい性格不一致とは、どのような問題なのでしょう。やはり、結婚という組織の活動を妨げるような動きや力が働いているときに、組織は負担を感じます。組織の部員が貢献をするのではなく、目的を達するのを妨害したりすることでしょうか。例えば、何かの理由で貯金をしようとしているときに、誰かが沢山お金を浪費してしまうと、組織としては困ります。たまたま、その人はお金を使うのが楽しい性格であるかもしれません。でも、その人は組織全体の目的を見ることができません。その人が組織を考えながら、お金を使えるようになるためにチャレンジをしていかなければなりません。

また、よくある話ですが、夫婦の片方がセックスをするのを好みません。組織としては、セックスは娯楽や生存のために必要な活動なのですが。それが起こらないとなると、組織としては、何かの工夫をする動きが出てくると思います。

夫婦は組織を保つための工夫をいろいろとしていくと思いますが、それができなくなると諦めていくでしょう。貯金ができなくて、セックスができなくなると、組織としては生存価値が下がります。いろいろな負担が重なり、生存価値が著しく下がってしまった場合、その結婚を保つ理由がなくなってしまいます。そのようなときに、性格不一致で離婚をするというわけなのでしょう。けれど、実際には性格不一致そのものより、組織全体の目的に貢献できない「無秩序」の存在が、誰かにあるときに問題であるわけです。

人に認めてもらうことの矛盾

明らかに自分にとっていやなのに、人前ではそう言わない人がいます。誰かに何かを頼まれた時、その時はすすんでしてあげる気持ちがないのに、引き受けてしまう時があります。また、明らかに自分のためにならないと理解できることでも、それをしたがることがあります。例えば、ある学生が自分のためになる授業を休んでまでも、友達の世話をしたりします。その上、その友達はそれほど助けを必要としていないことが解っていても、世話をしたがるから不思議なものです。

このような行動をいかに理解したらよいのでしょう。この行動は、表面的にみますと、明らかに自分のことより相手の利益を考えています。この行動をする人に、なぜ自分にとって苦労なことを、自分のためでなく、相手のためにするのか聞いてみますと、「相手に嫌われるのが嫌だ」というような答えが返ってきます。相手に拒絶されたり、無視されたりするのが怖いのでしょう。もちろん、相手に嫌われるのは、通常よいことではありません。でも、自分の欲求、要求を通さないでいても、不満になります。

ここでちょっと思い出すのが、小さい子で自分の欲求が沢山あるのにかかわらず、母親にいい子であると思われたいがために、母親の言うことをよく聞いて、とてもいい子にしている子のことです。子供はほとんど100パーセント親に頼っていますから、親に見離されたらたいへんなことになります。それゆえ、親に認められることが、非常に大切になるわけです。もちろん、母親が子供にはっきりと愛情の確信を伝えられている親子では、子供はそんなことを気にしないことでしょう。ところが不安な子は、親に嫌われまいと頑張るわけです。こういう親子関係では、子供が自分の欲求や要求を満足されることより、親の満足の方が大切になってしまいます。

小さい時できた癖っていうのはなかなかとれないものです。この癖をそのまま大人になってからも使い続ければ、親の代わりに、現在、関係のある相手に同じような期待をします。そして、その人に見放されないように、自分の欲求や要求を飲み殺して、相手の要求に答えるようになってしまいます。

一方、母親から安心感を与えられ、自分に自信がつきながら育った子は、自分の欲求を正確に受け取れ、自分の満足のいけるように、成長の過程を歩んでいきます。人に認められたり、好かれたりすることは大切でしょうが、自分の欲求と相手の要求がぶつかってしまう時には、自分の欲求をいかに相手を最小限困らせないで、現実化するかを工夫していきます。

他人の拒絶や無視を気にする人、すなわち自分の欲求をこらえてしまう人でも、成長をしながらいつか自分の欲求が無視できなくなる日が来ることでしょう。その時には、自分の欲求と相手の要求が、ぶつかり合って心の葛藤になります。そしてこの葛藤はその人にさまざまな精神的痛みを感じさせます。ある人はそこで後退して、自分の欲求を押しやってしまいます。また、ある人は自分の欲求の大切さを自覚し、最初は無理しながらも、自分の主張を通すようになります。

人の精神の発達上、このような自己の発達の順序に必然的なものがあります。自分を確立した後は、相手の要求の心配や不安は少なくなります。そして、相手の要求の心配が減ってきたことじたい、自分の確立が進んでいる証拠です。自分の確立ができた時に、再び相手との調和を考えるようになるのですが、そのことについては、また次の機会に考えてみましょう。

人に認めてもらうことの矛盾

明らかに自分にとっていやなのに、人前ではそう言わない人がいます。誰かに何かを頼まれた時、その時はすすんでしてあげる気持ちがないのに、引き受けてしまう時があります。また、明らかに自分のためにならないと理解できることでも、それをしたがることがあります。例えば、ある学生が自分のためになる授業を休んでまでも、友達の世話をしたりします。その上、その友達はそれほど助けを必要としていないことが解っていても、世話をしたがるから不思議なものです。

このような行動をいかに理解したらよいのでしょう。この行動は、表面的にみますと、明らかに自分のことより相手の利益を考えています。この行動をする人に、なぜ自分にとって苦労なことを、自分のためでなく、相手のためにするのか聞いてみますと、「相手に嫌われるのが嫌だ」というような答えが返ってきます。相手に拒絶されたり、無視されたりするのが怖いのでしょう。もちろん、相手に嫌われるのは、通常よいことではありません。でも、自分の欲求、要求を通さないでいても、不満になります。

ここでちょっと思い出すのが、小さい子で自分の欲求が沢山あるのにかかわらず、母親にいい子であると思われたいがために、母親の言うことをよく聞いて、とてもいい子にしている子のことです。子供はほとんど100パーセント親に頼っていますから、親に見離されたらたいへんなことになります。それゆえ、親に認められることが、非常に大切になるわけです。もちろん、母親が子供にはっきりと愛情の確信を伝えられている親子では、子供はそんなことを気にしないことでしょう。ところが不安な子は、親に嫌われまいと頑張るわけです。こういう親子関係では、子供が自分の欲求や要求を満足されることより、親の満足の方が大切になってしまいます。

小さい時できた癖っていうのはなかなかとれないものです。この癖をそのまま大人になってからも使い続ければ、親の代わりに、現在、関係のある相手に同じような期待をします。そして、その人に見放されないように、自分の欲求や要求を飲み殺して、相手の要求に答えるようになってしまいます。

一方、母親から安心感を与えられ、自分に自信がつきながら育った子は、自分の欲求を正確に受け取れ、自分の満足のいけるように、成長の過程を歩んでいきます。人に認められたり、好かれたりすることは大切でしょうが、自分の欲求と相手の要求がぶつかってしまう時には、自分の欲求をいかに相手を最小限困らせないで、現実化するかを工夫していきます。

他人の拒絶や無視を気にする人、すなわち自分の欲求をこらえてしまう人でも、成長をしながらいつか自分の欲求が無視できなくなる日が来ることでしょう。その時には、自分の欲求と相手の要求が、ぶつかり合って心の葛藤になります。そしてこの葛藤はその人にさまざまな精神的痛みを感じさせます。ある人はそこで後退して、自分の欲求を押しやってしまいます。また、ある人は自分の欲求の大切さを自覚し、最初は無理しながらも、自分の主張を通すようになります。

人の精神の発達上、このような自己の発達の順序に必然的なものがあります。自分を確立した後は、相手の要求の心配や不安は少なくなります。そして、相手の要求の心配が減ってきたことじたい、自分の確立が進んでいる証拠です。自分の確立ができた時に、再び相手との調和を考えるようになるのですが、そのことについては、また次の機会に考えてみましょう。

自分の存在が邪魔な時

自分っていますよね。自分が存在します。なぜ自分が存在するのですか。デカルトDescartesが、「I think, so I exist.」すなわち「考えるから自分が存在するんだ。」と言ったのを思い出します。私もそうは思います。でも、心理学的にはどのように理解したらいいんでしょうか。

その前に、自己、自分が何であるか解らないとそれが存在しているのかどうか解りません。ですから自分が何であるか考えてみましょう。先ず、自分て他の人がいるから、自分の存在を感じる部分があります。相手を意識するので自分がいます。その相手が、その上、自分がどうだこうだと特徴を言ってくれます。それで自分がはっきりしてきます。これを対人関係の自分Interpersonal selfと言いますが、この自分は生まれてから今までの対人関係の歴史から成り立っています。いろいろな人がいろいろな反応を自分に対してしてきて、それによって自分が何であるか解ってきたわけです。解ってきたということは、自分について考えができたというわけで、自分が考えという形で存在していると言うことです。

その他に、相手がいなくても自分の存在が解ります。退屈の時に何か面白いことをしようと思ったりする自分がいます。コンピューターをよく使えるようにトレーニングしようとする自分がいます。英語を上達しようと頑張る自分がいます。このような自分を個人的な自分Personal selfと言って、人前でないところで、自分が自分の経験をして自分について考えができた結果存在します。他にも細かく見ると、いろいろな自分が存在するのですが、今回ここでは自分の種類の勉強ではないので、対人的と個人的な自分が出たところでよしとしましょう。

これらの自分が考えとして存在するわけですが、自分と言うのは概念Conceptの領域に入り、まさに考えを除くと存在が消えてしまうものなのです。これもふと考えると不思議なもんで、人前でひょっとした時に自意識が消えている時があります。何かに夢中でいて、自分のことも相手のことも忘れている時の感じです。そして次の瞬間自意識が起こり、同時に相手のことも意識をし始めます。でも、振り返ってみると、ちょっと前自分の存在自体を忘れていたことに気が付きます。自分も相手もいない存在の仕方ってあるんだなと知ることができます。

自分という物の存在なしの存在とは、追求してみますと結構面白いものです。どのようにして自分のいない存在の状態を経験できるでしょうか。日常の簡単な例は、寝付くことです。睡眠に入ることって、自分ですることではありません。ベッドに横になって「寝ようか」と言うまでは自分がすることなのですが、睡眠に陥る瞬間は自分でできません。何か自分以外のものがしてくれます。逆に、自分で寝付こうとすると、かえって寝ることはできません。自分が存在するうちは、寝付けないのです。この矛盾にはまってしまうと不眠症になることもあります。不眠症の人は寝よう、寝ようと頑張るので寝られなくなります。自分で寝ることを止めた時に寝られるようになります。このような時は自分が邪魔になります。

自分の存在しない存在の仕方を追及していきますと、案外私たちはそれにお世話になっていることに気付きます。例えば、寝るのがそうでしたら、目覚めることもそうです。目覚める瞬間は自分の意志でできません。いろいろな学習も私達は知らない間にしています。あるところへ行って、何かを覚えようとはしていませんが、その経験は知らない間に脳に記録されているではないですか。そういえば、忘れることも、自分でそう思ってできませんね。

ふと思うことは(これも自分がやっていません)、もし、そんなに肝心なことが自分なしで行われているのであれば、自分の存在って必要なのかな、ということです。案外自分なしの方が健全に生きられるかもしれません。例えば、私たちの経験するノイローゼ、精神病、人格障害は皆、自分が存在するために起こる自分の問題なのです。もし、自分の存在が必要でなければ、そして自分を無くしてしまえば、私たちの心の悩みはほとんど消えてしまうことでしょう。自分って結構、邪魔者かも知れません。

Kill yourself, and you will live better!

性格判断

今月は性格判断の仕方を一つ紹介したいと思います。性格を判断するのにいろいろな方法があるのですが、今回お話したいのは、比較的簡単で心理テストなど必要のないやり方です。

先ず、性格のある特色を程度を使って考えてみましょう。人はいろいろな特色を持っていますが、人によってその程度が違うという考えです。ある人は親切ですが、もう一人の人はもっと親切だとか、またある人は冷たいだとか、ある特色を使って人をいろいろと区別することができます。この場合、親切なことが人格の特色で、その程度を次元dimensionで表すということになります。

心理学でよく使われる次元で内向性-外向性があります。内向性の強い人は内気な人で他の人とあまり交わりたがりません。一人での活動が好きな人です。外向性が強いと他の人と関わるとこが楽しい人です。一人でいると退屈になり、人とのコンタクトを取りたくなります。

内向性と外向性の境を0として、外向性の程度を+1、+2、+3、+4、+5と判断するとしましょう。内向性の方は、−1、−2、−3、−4、−5とその程度を表します。+5は自分の知っている範囲内の人で最も外交的な人です。逆に、−5は最も内向的な人です。この次元をX軸としましょう。

今度は縦のY軸ですが、それにはもう一つの人の特色を選びます。ここでちょうどよいのが愛情―憎しみlove/hateの次元だと思います。Y軸の0を愛情と憎しみの境界線とし、+5が自分の知っている人達の中で一番愛情たっぷりで、−5が憎しみに満ちた性格の人としましょう。

さあ、自分の性格判断をしてみましょう。例えば、あなたは人と交わることが好きなのでX=+3とします。そして人好きで人に対する愛情も高いので、Y=+4としましょう。あなたの性格は、+3、+4でたいへん好かれるタイプということになります。今度は、あなたがちょっと内向的なのでX=-2とします。あなたはたいへん愛情深い人なので、Y=+4としましょう。あなたの性格は、−2、+4で静かながら魅力のありそうな性格です。

同じようにして、+4、−5の性格は、人に向かっていきますが相手を嫌っていますので反社会性の人になりますし、−2、−3位の人ですと、人を避けかつ人を嫌いなので、疑い深い閉じこもった人のように写ります。

自分の性格判断だけでなく、相手の性格も判断してみましょう。自分が −3、+2で内気気味の人は、+4、+2くらいの明るく外交的な人が好きであるかもしれません。また、同じく、−3、+2で内気気味なあなたは、+3、−2くらいの積極的、でもちょっと意地悪な相手が好きであるかもしれません。

また、+5、−3のすごく人当たりのよい、でも反社会的な男性が、−1、+3のちょっと引っ込み思案の依存性のある女性と一緒になって、虐待的な人間関係を結ぶことがあるかもしれません。男性の方は、Y=−3で、人に対する憎しみを相手の彼女に表現し、アビューシブabusiveな行動をします。女性の方は、Y=+3ですから、彼の意地悪を寛容し受け入れ気味です。彼女のX=−1は彼女を人から遠ざけるので、彼女は彼の虐待を他の人に告白しません。ですから、他人の介入なく虐待関係が続いてしまいます。

このようにして、簡単な性格判断法を使っても、人格の理解や人間関係を詳しく知ることができます。付け加えとして、ここに述べました性格判断法に第3の次元Zである自己防衛の発達度を加えたり、第4次元Aである年齢などを含めますと、ますます複雑でかつ正確な性格判断ができるようになります。しかしながら、そこまで追求しますと、人が頭で人格を想像するのが難しくなりコンピューターでのシミュレーションなどが必要になることでしょう。

トラフィックティケットの深い意味-第2段

 トラフィックティケットを切られてしまうことは、誰にとっても面白いお話してはなく、時にはさまざまな感情が伴うものです。

患者:「先生、もう心がへこんでしょうがないです。まだ4ヶ月もしないのにまたもやティケットももらってしまいました。」

私:「えー、またー!」

患者:「しかも、昨日は夫の誕生日で出かける予定もしてあったんです。ガレージセールへ行く途中に、スピーディングでつかまってしまいました。」

私:「うぅぅぅ。」

患者:「前回は友達の誕生日でその時もガレージセールへ行ったときでした。

私:「まーぁ。」

患者:「これは、何かあると思って先生の所へ電話をしようと思ったくらいでした。でも、朝、早かったから。」

私:「そうだね。」

患者:「今週の私の夢を聞いてください。私の夫が俳優の天海祐希とキスをしていたんです。」

私:「あのラストプレゼントに出ていた人ね。」

患者:「それで、私が夫の胸をナイフで刺して、穴に放り込んじゃったんです。」

私:「意味深そうだね。」

患者:「この間、先生が夫は仕事と結婚しているから私がやっぱり寂しかったり怒ったりしていると言っていたでしょう。やはり今の状況から見ると、夫は私の方を向いていてくれないと思うんです。やはり夢は夫に対する怒りかな。」

私:「私もそう思った。」

患者:「その次の夢はね、、私がバタンと前に倒れ落ちて怪我をし、お腹がどんどんはれ上がって、手術をしていたんです。

私:「妊娠の話かな。」

患者:「手術台の上で横になっていると、周りで皆が忙しそうにうるさくしていて、どういうわけか、私を救うある液体が作れなくって困っていました。そのうちに私の心臓の音がだんだん小さくなっていったんです。」

私:「死んじゃうの?」

患者:「その前に目がさめました。」

私:「やはり、これは私があなたをいまだ救ってないということかな。過去一ヶ月、あなたの旦那さんは忙しくて、あなたと有意義な時間を過ごしていない。そのために、あなたはお酒の量も増えてきたし、先週からはえたいも知れないかゆみで悩まされている。かゆみに関して私は、あなたがある感情を圧迫したからではないかと言っていたくらいだ。それで、私がある液体を作り出すことが出来て、あなたに与えられたら、あなたを救うことが出来たのだろうけれど、それがなかなか出来ない。そうこうしている内に、あなたの心臓、つまりハートは弱っていってしまったのだ。」

患者:「そうですかね。」

私:「私はまだあきらめてないけれど、、まだ、これからだ。」

患者:「ここにいると、少しはかゆみの我慢を出来てますけれど。」

私:「トラフィックティケットに関しては複雑な気持ちが込められているようだね。たとえ旦那さんが忙しいと言っても、彼に対しての殺気は、特に誕生日なんかは罪意識を増やすだろうね。でも面白いコントラストだね。誕生と死か。ティケットの罰則も公からの罰という意味でそれ自体意味がありそうだけれど、その結果彼にティケットを払わせながら、謝らなければならないのは、彼に対する殺気の衝動について申し訳ないという気持ちも入るわけかな。でも、それと同時に、彼にティケットを払わせることも、あなたの彼に対する怒りの気持ちが出ていそうだ。どっちが強いのかね。」

患者:「先生、いつティケットのことを夫にうちあければいいの?」

私:「旦那さんが生き返る夢を見てからかな。」

見つめる自分

今年の1月に「語られた自分」のことについて書きました。私たちは知らないうちに自分の歴史を書いているという話でした。今回はその歴史を書くにあたって、自分の行動や反応を「観察する自分」について考えてみようと思います。

私達が何かを夢中にしている時に、「ふと気が付くと」といって自分を見返すことがあります。そのふと気がつく人のことです。人というか、自分の中の一部です。自分の行動を反省するときもこの自分を使います。ですからこの自分というものは、「自分について見つめる自分」であると理解してよいでしょう。

考えてみればあたりまえで、私たちはよく自分のことを振り返ってみます。そうすることによって、自分の言動を見つめ、それが適当であったか改善の余地があったのか判断をします。こういう自分がいないと、私たちは自分を改善することが難しくなってしまいます。動物のように、ほとんど学ぶことが条件反射的になってしまうでしょう。

自分を改善するために行われるサイコセラピーでも、この見つめる自分をよく使います。患者さんがセションで自分について話します。最近あったこと、昔あったこと、家庭での出来事、職場での出来事、愛人との出来事、そして自分で苦しんでいること、といろいろお話をします。それは普通だったら見逃してしまう事柄でしょう。私たちは日常ふと自分を振り返ることはあっても、わざわざ時間を設けて誰かと自分の言動を振り返ることまではしません。

自分を見つめることによって、新しい発見があることでしょうが、もう一人の人、つまりセラピストが一緒になって自分の言動を振り返ると、またまた新しい発見があると思います。それは普段の自分を振り返ることに客観性与えるだけでなく、セラピストが患者さんの成長や健康を頭に置きながら、その人の言動を振り返るからなのでしょう。

もちろんセションでは自分について振り返ることだけをするわけではありません。多くの患者さんは、自分で悩んでいることを話します。自分の悩みを話すと、悩みについて話し出しますが、そのうちに悩みじたいをセション内で経験することもあります。悩みについてセラピストに話していたら、本気で悩み始めてしまったというわけですね。

悩んでいる人は、悩みに夢中でそれに入り込んでいますから、自分を見つめることを忘れています。悩む自分について新しい発見は難しいです。でも、そんな時にセラピストが自分を見つめていてくれます。そして悩む自分についてセラピストが発見したことを伝えてくれます。セラピストが患者さんの「見つめる自分」を代行してくれているんです。

患者さんももう少しうまくなると、悩みながら自分を見つめることが出来るようになりますし、悩みながらそれをある程度客観的にセラピストに伝えることが出来るようになります。そうすると興味深いことが起こりだすのです。先月の課題で自分の注意が問題から他の行動にそれることによって、問題が減ってくるという話をしましたが、正にそれが起こりだすのです。つまり、悩みを感じながら、セラピストに客観的にお話をする、注意が悩みからセラピストへ、そして悩みへ、そして客観的な言葉へ、そしてセラピストへと移動しているではないですか。その結果、悩みの力がだんだん減っていきます。面白いですね。

昔、私が学生だったころ、そのころ熟練セラピストであり私の先生が、セションで泣き出した患者さんへ言っていました。「泣きながら話なさい」と。なるほど

気が散ることの良さ

 もうすでに30年以上も使われている恐怖症を治すための心理セラピーのテクニックがあるんです。それは、恐怖症のある人にリラックスする方法を教えて、その状態を保ったまま恐怖の場面を頭に描くのです。最初は少しだけ怖い場面を想像し、それからだんだんと、もっと怖いことを想像していきます。これを何回か繰り返しているうちに、恐怖症が減っていきます。これは「リラックスしている間は不安を感じることがでにない」という原理を利用して不安を取り除こうとするテクニックなのです。

 ここで気が付いてほしい事は、私たちが二つの行動を同時に行う時、注意はそれぞれの行動に行ったり来たりし、各々の行動自体は、それに100 %集中している時に比べて、力が弱まります。エネルギーの分散もあることですから、それはしかたないでしょう。先に述べた恐怖症を治すテクニックもそのようなことが起こっているように思えます。リラックスをし、そして恐怖を感じ、そしてすぐまたリラックスをします。そうしていると、恐怖の強さも減るといったかたちです。

 同じく何十年も病院などで使われている作業療法というのがあります。精神病院での総合的治療の一部として用いられているわけですが、患者さんに工作をさせます。陶器を作らせたり、模型を作ってみたり、籠なども編んだりします。実際にやってみると、随分気が落ち着く作業だと思います。心の心配事が薄れていきます。こんなことでという印象が最初はあるのですが、結構効果があるので驚きます。

 この作業療法も二つの行動を同時にしていることが見えます。一つは悩みの心、すなわち思考や感情です。もう一つは手を主に使う作業です。でも、作業にある程度心が集中しないとよく出来ません。作業に気を配り、そして心で心配をし、また作業に気を配ります。そうしているうちに心の悩みの強さが減っていきます。私の患者さんの中にも、毛糸の編物をしながら心を落ち着けた人がいました。

 最近開発された心理セラピーテクニックで、さまざまなトラウマを治す方法があります。これは患者さんがトラウマの再体験をしている時、セラピストが患者さんの目の前で細い棒を、ちょうど自動車のウィンドウのワイパーのように右左、そして左右と行ったり来たり動かします。そうすることによってトラウマの痛みが減っていきます。いかにしてこんなことでトラウマが治るのか不思議に思いますが、これも考えて見れば、患者さんの注意がセラピストの棒からトラウマへ、そしてまたセラピストの棒へと移動していきます。そうしているうちにトラウマの力が減っていくのでしょうか。

 この他にも、これらに似たことでためになりそうなことが沢山あります。例えば、心が悩んでいる時に、それと同時に楽器を引くことや、そして悩みながらそのことについて作文や日記を書いてみること、または悩みながらもある本のテキストを自筆で写すことなどもいいです。悩み事について書くことは悩んでいるのと同じようには見えますが、実際に書く作業は随分悩み以外の心の注意が必要です。そうしているうちに心が休まっていきます。

  私の患者さんの一人で、悩み事があるとドライブに出かけてしまう人がいるんです。確かに心の注意が、ドライブから悩みへ、そしてドライブへと動きますから、効果があるのでしょう。でも、悩みながらの運転は危険でもありますから、皆さんは止めておいたほうがよでしょう。

結婚相手の誤用

そのために結婚をするわけではないのですが、知らないうちに結婚相手の誤用をしてしまいます。ここで言う誤用とは、自分の問題を相手を使って責めるということです。自分がいらいらしている時に、相手に当たり散らす。相手がのこのこしていると、自分がフラストを感じ、今度は相手がのろいことを責める。子供がうるさいと相手のしつけが悪いと相手を戒める。相手が人前で大声で話すと、自分が見られているような感じがして、相手をとがめる。自分が物にぶつかって痛い思いをしたら、相手が物をそこに置いたことを注意する。日常の中から例をあげればきりがないですね。

人というのは、自分の心を安定させるために、自分の中にある不純物を排除します。その不純物というものは、自分の怒りであったり、短所であったり、自分の醜い姿であったり、劣等感であったり、恥であったり、罪であったり、いろいろです。それらを自分の中に保っておくのは大変ですから、それを相手に投げかけて、自分はさっぱりとしたいわけです。ちょうど自分の悪い部分を相手の中に入れておいてもらっているようです。相手は自分の悪い面の貯金袋みたいです。沢山そのような貯金をして、相手が随分醜くなったら、それじたい自分のそばに置くのは耐えられなくなり、そんな相手を悪用したり虐待したり、そして離婚を考えたりします。

おかしなことに、自分が相手を責めている一方、相手も自分の心の安定を図るために夢中で、相手の悪いところやフラストをこちらに投げかけているではないですか。こちらも知らない間に相手の悪い面の貯金袋になっているのです。貯金袋の中身はこちらにとっても嫌なもので、我慢をするのは大変ですからそれも相手にまた投げかけます。お返しをします。そうこうしているうちに、お互いの貯金袋の中身が、いったいどっちから来たのか解らなくなってしまいます。私の怒りは最初は私のだったのか、それともあなたが最初に怒っていたのか。

セラピー

案の定、カップルのセラピーは必ずといっていいほど、相手の悪口から始まります。自分に何かが悪いために結婚問題が起こっていて、それを何とかしようとしてセラピーに来る人は、少数の例外でしょう。でも、そこまでいっていたら、問題の半分は解決したことにもなるでしょう。でも、現実はそう簡単ではありません。何回も何時間もお互いに相手を責め続ける悪循環が続きます。今まで相手が悪いと思って頑張ってきたのに、その悪い点が自分から来てるだなんて、そんなこと理解できません。そんなことを受け入れていいのでしょうか。自分の存在の問題にも至りかねません。セラピストが一生懸命になって相手を責めることをやめさせてもあまり効果がでません。

この時点で考え方の飛躍をしなければなりません。二人の人物がお互いに責め合ってるという考えから、一つの組織が悪い循環をしているのだと。もう誰が誰を責めているというのは、問題ではありません。非難が回転しています。誰が誰を悪用しているのではなく、悪用が回転しています。誰かの責任ではなく、同時に二人の責任ですし、誰の責任でもありません。この状態をカップルの一人の目から見ると、自分の怒りは相手から来て、相手の怒りは自分から来て、そしてまた自分のは、、となります。それと同時に、自分が責めるのをやめれば、相手がやめて、相手が責めるのをやめるのは自分が責めるのをやめるので、、となります。結婚問題の原因は相手にあり、その原因は自分にあり、そしてその原因は、、

原因の話

小さい子供にとって、周りの出来事は勝手に発生し、それに理由がある、すなわち、何かが起こる時にはそれに原因があるなんて知らないでしょう。原因があって事が起きるという概念は、精神発達上の達成であります。そしてこれは社会で生きていくうえで、かなり大切な概念であると思います。なぜなら、この原因の概念が人の責任というものに繋がっていくからです。誰かさんの意思によって事が起きる。そしてその事が他の人に影響を及ぼすとき、責任を問われることになります。原因の概念が人間関係の中では責任の概念になります。こう考えてみますと、原因の概念は物理的であると同時に、文化的社会的でもあるわけです。

しかしながら、原因の概念を見直してみますと随分いいかげんで不正確な考えです。といいますと、ある原因、例えば、木が倒れる原因は強い風が吹いたからだと考えましょう。でも、その強い風は何が原因だったんでしょう。強い風は近くに竜巻が起こったからだとしましょう。では、竜巻は何が原因で起こったのでしょう。近くで温度差の激しい空気の接触があったのでしょう。というようにきりなく原因をさかのぼることになり、いったい何が原因なのか解らなくなってしまいます。

それだけではありません。木が倒れるには、風だけでなく他の原因もあるでしょう。例えば、木が立っていた土が軟らかかったとか、虫が木の内部を食べてしまったとか、いろいろありそうです。こうして考えてみますと、何かが起こるには複数の原因があることが解ります。この多重原因の概念は、最初に述べた一次元的な原因の概念よりもっと洗練された考えです。もう少し正確な見方と考えることもできるでしょう。科学では、現象の説明をするのに多重原因の概念をよく使いますし、心理学では、人の行動をある一つの原因から起こるというより、さまざまの原因が関連してある行動が起こるという見方が当たり前のようです。

でも、もう少し原因と結果の行程を見直して見ますと、たとえある行動がさまざまな原因で起こったとしても、人の行動は起こって終わってしまうだけではありません。人が誰かさんを押したら、押された人は飛んでしまいますが、そこでその人は我慢をしておらず、押し返すこともあるでしょう。そうすると、最初に押した人が飛ばされてしまいます。今度はその人が2倍の力で再度押してきます。そもそも最初に押したのが原因だとしますと、その結果が原因の人に戻ってきて、原因に変化が起こりました。つまり2倍になりました。面白いことに結果が原因を変えてしまったのです。

このような循環的な原因の概念は人間関係のやり取りを心理学的に観察するのに便利です。例えば、Aさんが仕事でストレスを感じ、Bさんに怒りを出して八つ当たりをしました。BさんはAさんの怒りの態度を見て、Aさんの無謀さを非難しました。すると、AさんはBさんの理解のなさを取って、再びBさんに怒りを出しました。と言うように、原因が結果を起こし、結果が原因となって最初の原因を変化させ、それが結果となりました。その結果は再び原因となって次を起こします。ぐるぐる回って、そのうちに誰が何をしたの解らなくなってしまいます。

本当に原因と結果というものはあるのでしょうか。確かに、物事の現象を理解するのに便利ではあります。そしてその理解はいろいろな問題の解決に至るので、原因の概念は大切なものでしょう。でも、ここでも見ましたように、原因の種類がいくつもあるということは、原因の概念はいい道具ではあるものの、物事に本質的に存在するものではなさそうです。

自発性の開発

子供に何回もあれこれしろと言うのに、言うことを聞かないという、苦情を親からよく聞きます。言われたら直ぐに子供が動いてくれたら気分がよいですし、自分から進んで物事をやってくれたら、もっといいですね。自分から物事をしだすことを自発性と言いまが、それはいろいろな場面で大切なことは確かです。しかしながら、これはいったいどうしたら子供にうえつけられるのでしょう。親子のやり取りの中で、自発性を増やす方法はあるのでしょうか。

それよりも先に、親がわざわざ特別なことをしなくても、子供はよく自分から自発性を伸ばす行動に出ています。でも、それを親が無視していたら、子供もだんだんその行動をしなくなってしまいます。ここで肝心なことは、親の方が子供の自発的行為を見逃さないことです。

よく子供が親の目を引きながら、「見て!見て!こんなことできるよ。」と言います。これは子供の中に、自分を認めてほしい、自分の能力を見てほしい、自分は価値ある子であることを知ってほしいという気持ちがあるからです。まさにこの自然に起きる行為に反応してやることによって、子供の自発性が成長していくのです。親としてはそんなに難しいことではありません。子供の要求に「ほんとだ、なるほど、、面白いね、、よくできたね」などとたのもしく見ていれば、自然に自発性がついていくものです。

例えば、勉強が嫌いな子に、勉強を好きになってもらい、自発的に勉強をするようにしてもらうには、その子が「ほら、出来たよ、見て!」と言えるように状態をセットしてあげるとよいでしょう。そのためには、子供を勉強に誘い、その子が簡単に出来る勉強内容よりほんの少し難しい課題に挑戦させ、子供の「出来た。」という表情みて、微笑みなり声をかけて認めてやるといいわけです。これを次々と繰り返すことによって自発性がでてきます。もちろん、難しい問題をさせて、失敗を経験させるのはよくありません。

逆に自発性を殺すやり方はどんなふうに行われるでしょう。よくあることなので、それだとして気が付いているとためになるかもしれません。やりなさいを命令をすること、やらないと怒るよと脅すこと、子供が自発的に何かをしたときに怒って罰を与えることなどがあります。

命令などをして子供に無理やりに何かをさせますと、子供は確かにそれをしますが、その行動の理由が子供の心の中にあらず、親にあることになってしまいます。すなわち行動の動機が、自分の中でなく外になってしまうわけで、自発性は消えてしまいます。また、自発性を発揮したときに、その行動に罰を与えますと、自発性が弱まってしまうことも確かです。

このようなときに、自発性が失われるだけでなく、強制や罰は、それに対して防御行為も出てきます。強制や罰は、受ける側にとって決して居心地よいものではありません。子供の方は、不安や怒りを感じてしまいます。そしてこの経験は、悪い自分として定義された自分の分野に吸収、保管されていきます。そして、この部分の自分を何かの拍子、つまり再度強制されるような経験をしたときに、再び不安や怒りを感じてしまいます。この感情はいやなものですから、それを避けようとするために、2次的な行動にいたります。例えば、嘘をつく、言い訳をする、話題をずらしたり変えたりする、仮病になったり、実際に体の病気になったりする、強い反抗をする、

他動になる、酒や麻薬に走る、等があります。自発性を殺すだけでなく、それ以上にあまりよくないですね。

無意識の自叙伝

サイコセラピーでは患者さんがこれまでに起こったことをいろいろと述べることがあります。自分を振り返って、してきたこと、あった事なかった事をセラピストに語ります。また、セラピーに限らず、自分の歴史を誰かに語ることはあります。私たちには自分と言うものが存在するものの、それとは別に、私達は語って述べて、描く自分と言うものも存在します。

 この語られる自分とは、実際に自分が生きながらやってきた自分とは違うみたいです。自分の身にいろいろと起こった中から、良かれ悪かれ自分に意味があるものが記憶に残って、それが材料となって自分が語られます。実際に起こったことでも自分にあまり意味がなく、忘れられているものもあるでしょうし、虐待の経験のように、自分に対する意味は重大ですが、その記憶に痛みも伴うため、抑圧されて忘れられ、語られる自分に含まれていない事柄も少なくないでしょう。

 語られる自分の歴史内容を見てみますと、成功したことが誇りを持って描かれていることもありますし、失敗や嫌な経験が恥を含めて描かれている部分もあります。嫌な過去の内容が多いと思う人は、それを挽回するかのように、自分にとって良い経験を求めて、自分の歴史の展開などを試みます。また、よい経験が沢山入った自分の話を見られる人は、それを満足しながら振り返ることでしょう。

 このようにして見ますと、語られる自分とは、単に自分に起こった歴史を綴ったものではありません。それだけでなく、語られる自分を振り返りながら、この先どのような話の展開がよいか、積極的に描いていく作用もあるようです。子供の時に虐待を受けた人が、自分の子供には虐待をしまいと一生懸命頑張ることは、語られる自分が良い話として終われるように、精一杯頑張っているかのようです。

 それと同時に、語られる自分もこれからの生き方に作用をしていきます。語られる自分は、自分に起こった事柄の記憶であり記録であるのですが、それ自体自分の将来に影響を及ばす力があるということです。良い成績を挙げた学生が、自分は出来るんだと信じて、それまでの自分の歴史を守ろうとします。また、過去に失敗や拒絶を経験した人が、自分は敗者だと言い張って、次々の起こる挑戦に自分から負けていきます。ちょうど、それまでの自分の歴史を守るかのようです。

 私達は知らない間に語られる自分を描き続け、それを自分であるかのように大切にし、その展開に参加して影響を及ぼし、影響されて生きています。ところで、セラピーでセラピストに向かって語りながら描かれる自分は、自分を理解してもらおうとしているわけですが、人前で、語られる自分を理解してもらえるように細かく語る、おそらく初めての経験ではないでしょうか。その上、それまで自分の歴史内で意味のつけられないような出来事や理解できなかったことが明らかになっていくと言うことは、それ自体語られた自分を書き直す機会が出来るといってよいでしょう。ある大切な事項の語り方が変わることによって、それに関連する事柄の意味や語り方が変わっていきます。それまで自分の過去としか見られなかった歴史が変わっていきます。そしてそのような変化は、これから語っていく自分に影響を及ぼしていくことでしょう。

脳の衰え、発展?

 どこかで読んだか聞いたかしれませんけれど、目でずーっとある一点を見つづけますと、それが消えて見えなくなってしまいます。目がものを見るには、目が動いていないと見えません。実は私たちがものを見ている時に、目は速い振動のように動き続けているのです。ちょうど、目がある位置でものの写真を撮り、また位置を変えて写真を撮り、次から次へと画像を脳へ送って、視覚と認知の処理をします。脳では幾つもの画像を総合してあたかも一つのものであるかのように、私たちに見させて、または思わせてしまいます。

 この一こま一こまの脳内の画像の連続が、視覚だけに限らず、聴覚、嗅覚、味覚を含む他の感覚にあります。ちょうど、私たちは映画を見ているかのようです。映画の実際のフィルムは一こま一こまイメージをスクリーンに描き出します。でも、それを見ている私たちは、不動のイメージを一つ一つ見る代わりに、動画を見ます。脳が画像を処理する過程で動作を作ってしまったようです。主観しか解らない私達は、外の世界とは違ったものを見せられて、脳に嘘をつかれているかのようです。

 年をとるといろいろな体の機能が衰えてきます。脳の機能の働きが衰えるのも例外ではありません。それはIQテストをしても発見できます。特に、非言語性知能が年と共に低下していきます。非言語性知能とは、言語を使わないで、主に視覚と動作を使って問題を解決する力です。この分野のテストは時間を計り、時間制限もありますから、速く問題を解決しなければなりません。お年寄りでも同じ問題をじっくり考える時間があったら解けるかもしれませんが、短時間でするにはそれなりのスキルを要するわけです。

 そこで思うのですが、脳がスローになったということは、先ほど述べました脳内の画像の処理速度が減ったということで、同じ時間内に若い人と比べると小数の画像を処理しているのかもしれません。もしそうだとしたら、これは面白い結果を想像できます。

 例えば、車の運転のスピードが年をとるにつれて下がってきます。老人がゆっくり運転をしていて、その車の後は渋滞ができたりすることは、極端な例ですが関連していることだと思います。しかし若い時には、ゆっくりな運転はつまらなくてたまりません。高速道路で制限時速を超えるスピードで走ってちょうどよいように感じられます。若者は短時間にそれだけ多くの脳内画像を処理してしまうので、スピードを出してもっと刺激を増やさないと居心地がよくないことでしょう。逆に老人は画像処理が遅いですから、ゆっくり運転をしないと、情報処理をしきれず危ないことになってしまいます。

 また、年をとればとるほど一日が過ぎるのは速いと感じます。子供の時には早く大人にないたいと思うのですが、なかなか時間が過ぎてくれません。年寄りになりますと、早死にはしたくないですからもっとゆっくり時間が過ぎてほしいのに、どんどんと消えていってしまいます。これはひょっとして処理する脳内画像数と関係があるのでしょうか。例えば、若い時に一時間にX数の画像を処理できたのに、年をとってからそのX数の半分しか処理できなかったら、X数を全部処理するには2時間かかってしまいます。一時間と思っていたのに気が付いたら2時間ですよ。道理で時間の進行が速いわけです。

 しかし、画像処理数が少なくなったとして、悪いことばかりではなさそうです。画像数が少ないということは、ある意味刺激が少ないという意味で、興奮しずらくなるというわけです。この状態は瞑想などの心を落ち着ける行動に役立ちそうです。例えば、瞑想をしていて脳の騒がしさが減り、画像処理数が減っていきます。そしてそれがゼロになった時、禅で唱える「無」の世界に入れるのかもしれません。若くて多くの刺激を求める時代より、年を重ねて心が落ち着ける時に瞑想をし「無」の意味、すなわち「生死」の意味をつかんだほうが意味がありそうです。

本当の自分、仮の自分

 私達は、人前で自分が本当に思っていることと違うことを言うことがあります。「このケーキ、私が一生懸命作ったんです。美味しいですか。」「ええ、とても美味しいです。」本当は美味しいとは思っていなくても「いえ、まずいです。」とは言いません。まずいと言って、相手を傷つけるのはいやですし、また、そう言って相手に嫌われるのも怖いです。

 私達は人間関係の中で拒絶されることなく、安全性を保ちたいですし、自尊心も同じく保ちたいものです。この種の安全性や自尊心を保つ動機は人間として本性的なもので、幼児のころから母親との関係で身につけます。母親に拒絶されたり、無視されるのは、子供にとって生死にかかることですから、母親に気に入られること自体が、生きていくための基本的機能と言うわけです。

 母親に認められて、人間関係の安全性を図るのは大切ですが、それ自体自分の欲求と一致しないことは多分にあります。子供がお菓子を欲しい時に、母親は後で食べなさいと言い、それを待てない子は、叱られてしまいます。母親に対してよい子で入るには自分の欲求を抑えて、我慢しなければなりません。すなわち、母に好かれるために自分の本当の気持ちを言えないときが出てくるわけです。

 このようにして身に付き、自分の思っていることと違うことを言う自分を仮の自分と言います。簡単に言えば、自分の気持ちに嘘をつく自分のことです。人間関係の中で生きていく上で、ある程度の「仮の自分」の存在は必要でしょう。なぜなら、どこで誰とでも、自分の本心を言っていたら、とんでもないことになってしまうからです。「こんにちは。あなたは今日は醜いですね。」と言った結果を想像してみてください。

 仮の自分の必要性は認められるものの、その一方、使いすぎは問題になります。多分、過去の人間関係で拒絶の経験がひどかった人に起こるのでしょうけれど、他人に嫌われたくないという気持ちが強く、自分の言うことが全て相手を満足させることにだけになってしまいます。その代わり、自分の気持ちはこれっぽっちも出てきません。それどころか、自分の気持ちを使うことが