pwd FWG3X9gJNCgFY rc 547 date 2011/4/27(水)14:08 uname ゲンキの母 email host pool-72-66-10-178.washdc.fios.verizon.net subject 読みました:長い長い感想 size 8163 how -1 link 1 resp 2843.res tree 2832 psemail res 1 ブルンさんのおっしゃること、何となくわかるような気がします。 私も、心情的には原発反対でしたが、原発反対の人たちは、何となくヒステリックな言い方を感じることが多く、 事故後は、むしろ心情的には原発しょうがない、ぐらいに思うこともありました。 (原発反対派の人の、推進派へのつるし上げ的な非難の仕方、それみたことか的な(感情的な)物言いに 反発していたのだと思います) これは、原発容認派の人のある意見ですが、 今原発をやめたとしたら、日本人の大半の人はすぐに飢えてしまうだろう、というような話もどこかで読みました。 なぜなら、トヨタやソニーなど、外貨を稼ぐ(そして日本人の雇用を広く支えている)産業が壊滅的状況になるだろうし、 これらの企業がつぶれたら、そもそも外国から食料さえ買えなくなるのだから、というような論旨でした。 (もちろん、食料を生産する為のエネルギーも確保が難しくなる(石油だって買えなくなるわけですし)) 今の農業は自然にまかせているのではなく、 なるべく効率よく収穫できるようエネルギーをたくさん投入しているわけですからね。 そして、今すぐ原発をすっぱりやめたら、そうなる可能性は低くはないのでは、という話です。 一年後(一年後は大げさですが、2−3年後というのであればひょっとしたら起きそうですよね) に日本に住むかなりの人が飢えることがわかっていて、(いつ事故が起こるかわからない)原発を今すぐやめるのは 果たしてどうなのか、という話です。 この話を聞くまでは、原発をやめる=2、30年前の生活ぶりにもどる(あるいは50年ぐらい?)、 というようなイメージだったのですが、 超近未来にそもそも食べる分まで賄えなくなるのような事態勃発というのであれば、 原発廃止はそんな安易に叫べるものではないな、というのが率直な感想でした。 もちろん、上記の主張をしている人が真実を言っているとは限らないわけですが、 現状で日本は食料やエネルギーの大半を外国から購入しており、価値ある商品、サービスを売ることで 生計をたてているのは事実ですから、 価値ある商品、サービスを作るためのコストがあがりすぎたり、作ることができなくなってしまえば、 個人の節約とか停電とかそんなレベルとは全く違うところで、生活がしづらくなるのではないか? 限られた食料をめぐってものすごい弱肉強食が起きるのでは、などとも思いました。 (企業は今以上に海外に移転してしまうのでしょう。 そうすれば、雇用を確保することだって今以上に難しくなるわけでしょう。) 果たして、原発を廃止して得る結果がこれだとするならば、それは私たちの望む社会なのか? ここがどうにもひっかかって、気持ちよく原発反対と言うことができないでいました。 私はこの主張を読んだとき、そうだよなー、いづれにしろ時限爆弾を抱えているようなものなんだよな、 2、3年後(原発をすぐやめる)か、10年後(他の原発が事故)か、20年後(温暖化がいよいよ深刻になる?)か、 あるいは人類の英知で100年以上は危機を乗り切れる状態になるのか(でも、きっと何か他の問題が起きるはず)、 どのくらいかはわからないが、 とにかく必ず時限爆弾を抱えていて、爆発する(人が安心して暮らせなくなる)までの時間を 長くする方法を考えるだけなんだろうな、なんて思ったものでした。 そう考えたとき、とりあえず今は原発の安全性を高め、原発事故へ至るまでの時間を稼ぎつつ、 その間に代替エネルギーにシフトしていくのが、 経済的繁栄(といっても、普通に衣食住が安定的に求められるというレベル)と そこそこ安全な土地に住むことができる、という両課題を実現する道なのかな、という結論を出さざるを得ません。 ただ、代替エネルギーへのシフトができるのか、というのが私の大いなる疑問でした。 (というか、現実問題としてはかなり難しいのでは、というのが私の印象でした) 今でも、基本的なこの考えは変わらないのですが、冊子を読んで、 代替エネルギーへのシフト(そしてもちろん節電も必要ですね)はできるのではないか、と少し希望をもっています。 ここができそうであれば、原発に反対することはもちろんやぶさかではありませんから (というか、ここがクリアできれば、原発は自然と消滅するでしょうが) この冊子を読んだ今は、原発反対へもう少し積極的になれるだろう、と思っています。 とにかく代替エネルギーの実践をやれるだけやろうよ、それも今すぐ、 そうすれば、原発は何とか廃止にできるはず、(少なくとも減らしていく(=事故のリスクが少しは減る)) という感じでしょうか? ゴミ発電とか夢がありますよね。 また、何よりも、自分が原発を含め、エネルギー問題への関心がとてもうすかったことに気づきましたし、 政府や東電、あるいは原発推進派の人たちにその無関心さにつけ入れられての現状ができあがっていったのだとしたら、 たとえ、政府や東電が積極的に情報を開示してこなかったとしても、 責任は結局のところ自分にもあるのだろう、と思います。 だから、今ここで政府や東電を非難するのはちょっと違う、と思ってしまうんですよね。 (ちなみに、原発反対の多くの人が、政府や東電をやみくもに非難するのも、原発反対派の人に同調できない一つの理由です) それよりも、どういう経過で今回の事故がこうなってしまったのか、 政府や東電が国民の不利益になることを隠蔽したのだとすれば、(隠蔽した事実を非難するよりも) なぜ、そのようなことをしたのか、どういう意図でそれをしたのか、というような ある種つきはなした客観的な分析こそが必要なのではないかと思います。 この辺りはブルンさんのおっしゃることと近いのかもしれません。 原発をどんどん作って今のような状況にしたのは、日本人全員の責任であると思っています。 文字どおり、推進派も反対派も政府も国民も、そして福島の人たちでさえもです。なぜなら、、、 福島の事故の際、防護服はなかったようですね。 (アメリカから200着ほど借りた(あるいはもらった)ましたよね) なぜか? 原発は絶対安全=何かあったときのための防護服など必要にはならない、という理屈からです。 同様に、原発地元の住民の避難訓練などはされてなかったそうです。 原発は絶対安全=事故のための訓練などナンセンス、という理屈からです。 なぜ、絶対安全と政府(東電)は言い続けたのか? 少しでも事故の危険がある、と言えば、原発を作ることができないからでしょう。 (これは広島、長崎の経験が影響しているので、しかたがなかったのかもしれません) 政府(東電)は絶対安全と国民を言いくるめ、国民はそれに乗った、というところでしょうか。 しかし、誰もが、絶対安全だとは思ってなかったはず。(それを信じるほど国民はばかではない) それなのに、政府が安全と言ったことを盾にして、 (事故は起きるかもしれないという)事実を見ようとしなかったのは私たちではないか、、、? と、思わざるを得ないのです。 事実をしっかりみようとしなかった(メリットとリスクをあらゆる方面から考察しようとしなかった、 それをしよう、という空気さえつくらなかった)という点で、 私たち国民は等しく責任を追っているのでは、と思うのです。 広島、長崎の不幸な出来事があったせいで、私たちは原発に関して冷静かつ客観的な見方を失ってしまい、 その結果、原発推進(容認)派と、反対派でまったく両極端な、かみあわない主張をがなり続けるというような 事態に陥ってしまったのではないでしょうか。 推進派は、事故のリスクを全く無視し、 反対派は他にどういう段取りでエネルギーを確保するかという視点には触れない、というような。 (どうも、節約とか一昔前の状況にすれば何とかなる、というような社会構造にはなっていないようです。) そこに政府(東電)が付け入りいつの間にかこんなに原発を作ってしまった、、、。 そしてまた、もしも、原発には(どんなに安全に努めても)事故が起きるリスクはある、という現実的認識があれば、 どんなリスクがあるのか、減らす為にはなにができるのか、万一起きた場合の事故マニュアルはあるのか、 どのくらい迅速に処理する必要があるのか、など、 講じる対策も事前に考えることができたのではないか、、、? 現実的認識があったなら、この規模の原発のこの程度のリスクはとれるが、それ以上は火力発電を稼働させるほうが、 ずっと良い、などといったもう少し建設的なエネルギー議論ができたような気がするのです。 (しかし、火力に頼りすぎるのも中東の情勢に翻弄されるので、マイナス要素大きいと思いますし。 環境負荷ももちろん大きいですしね) そういうふうにバランスよく考察することが求められていたはずなのに、 リスクゼロ(あり得ないのに)なら原発を建設してもよい、ということを押し付けすぎた為に、結果として政府(東電)は、マイナス要素を必死で 隠蔽せざるを得なくなったのではないか、、、? そういう体質にさせたのはわたしたちではないか、、、? そもそも絶対安全という出発点が間違っていたし、 そういうことを言わせてしまった(あえて言わせたという表現にします)私たちに責任があるのではないか、、、? もちろん、原発に賛成というわけでないですが、 (やみくもに)反対と声をあげ、総合的にエネルギー政策について考える視点をなくしてしまったことで、 結果として政府(東電)を今のような状態においやってしまったのではないか? そんなことも思った次第です。 話が横にそれてしまいましたが、 原発反対というのはきれいごとではすまない、ということにも気づきましたし、 しかしながら、今回、この冊子を読み、素直に原発を廃止する方向で動こうよ、と自分も思えましたし、 今回の事故はもちろん不幸なことですが、これを契機に新しい社会モデルを構築できないのかな、と思いました。